035-役割語とは何か

金水敏 2003 ヴァーチャル日本語 役割語の謎 岩波書店

金水敏(編) 2007 役割語研究の地平 くろしお出版

 久々に、言語学関係の本をぱらぱらと読んだ。

 役割語とは何か?金水(2003)は次のように定義する。

ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・
風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、
その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。(p.205)

 上記2冊は、現代日本語における役割語として、以下のようなものを挙げる。ひげを生やした高齢の博士がしゃべる「博士語」(ex. わしが親代わりになっとるわい)、男性特に少年がしゃべる「男性語」(ex. 君、ぼく、~したまえ)、お嬢様が話す「てよだわ言葉」(ex. ~よろしくってよ、滑稽だわ)、中国人が話す「アルヨことば」(ex.
そうある、~するよろし)、軍隊言葉(ex. 自分は、~であります)、美男美女が演劇的に話す西洋人語(ex. おお、ロミオ!)などなど。標準語ですら、役割語でありうる。物語のヒーローは、標準語しかしゃべらない。

 私たちは、こうした形式の変異を手がかりに、話者の人物像を特定することができる。たとえば、現代の日本語話者の大半は、以下の問いに難なく答えられるだろう。これも、金水(2003)からの引用である。

問題 次のa~hとア~クを結びつけなさい。




































a そうよ、あたしが知ってるわ(  ) ア お武家様
b そうじゃ、わしが知っておる(  ) イ (ニセ)中国人
c そや、わてが知っとるでえ(  ) ウ 老博士
d そうじゃ、拙者が存じておる(  ) エ 女の子
e そうですわよ、わたくしが存じておりますわ(  ) オ 田舎者
f そうあるよ、わたしが知ってるあるよ(  ) カ 男の子
g そうだよ、ぼくが知ってるのさ(  ) キ お嬢様
h んだ、おら知ってるだ(  ) ク 関西人

 a~hが役割語、ア~クが対応する人物像である。人物「像」というのは、それが観念的な存在、つまり私たちの頭のなかにだけ存在する人物だから。実際のところ、上に挙げた言葉を実際に話す人にお目にかかることはめったにないだろう。たとえば、仕事柄、私の周りには学位をもつ「博士」がゴロゴロしている。だが、その人たちは、たとえ年を取っていたとしても、「わしが知っておる」とは言わない。中国の方ともおつきあいしたことがあるが、「知ってるあるよ」と言う人はいなかった。さらに、現代に生きる私たちはお武家様が実際にどう話してたか知らないはずだ。この点が、役割語が「ヴァーチャル日本語」と呼ばれるゆえんである。


 したがって、私たちが役割語と接するのは、現実の、日常的な会話の場ではない。金水らが役割語渉猟の場としているのは、もっぱら小説やマンガといったフィクションの世界である。特にマンガなど子ども向けの読み物にはこれら役割語がふんだんに用いられている。


 私たちは、役割語をどのようにして知るにいたったのか。このことを説明するのに金水(2003)は幼少期の環境、特に子ども向けにつくられた読み物やアニメなどが決定的な影響を及ぼしているのではないかと述べる。そうしたものを通して、子どもには人を判断する際のカテゴリーが形成され、それが社会心理学者デヴァインの言うところの「文化的ステレオタイプ」の一部を構成する、という仮説である。管見では、今のところ、この仮説に直接アプローチする研究はないようである。ごくごく素朴に、幼稚園から小学生くらいにかけての日本の子どもたちに、上に挙げたような質問をするとどのような解答が返ってくるか確認するだけでもおもしろいかもしれない。


 さて、こうした役割語はどのように形成されたのか?現代の日本における通常の会話には見られないのに、フィクションの世界には豊かに存在するのはなぜか?この点については、金水(2003)が歴史的な跡付けを試みており、おもしろい。


 たとえば博士語の特徴である「~じゃ」「知らん」「知っとる」といった形式は、現代の西日本方言の特徴と似ている。このことから、金水は江戸時代における上方方言と江戸方言の対立に、博士語の起源を見ている。かつての江戸は、さまざまな地域から住人が流入した方言雑居地域であった。1760年代以降、東国の言葉をベースにした江戸語が若い町人階層に形成されたが、それにともない、上方から移り住んだ移民第一世代の言葉が武家の言葉、あるいは年寄りの言葉として標識化された。つまり、方言間の差異が、階層間の差異へとスライドしたわけである。 


 また、てよだわ言葉は、現代ではお蝶夫人のようなお嬢様を指標するのに用いられるが、もとは下町の階層の低い女性の使う言葉だった。これが若い女性の間での話し言葉となったのは、明治期以降、女学校が普及したためである。


近年女学の勃興するに従ひ比較的下流社会の子女が極めて多数に各女学校に入学するに至りしより所謂お店の娘小児が用ゆる言語が女学生間に用ひらるゝに至れること左に掲ぐる例の如し

○なくなつちやつた○おーやーだ○行つてゝよ○見てゝよ○行くことよ○よくッてよ

(1905(明治38)年3月16日『讀賣新聞』 金水(2003) p.149)


 博士語にせよ、てよだわ言葉にせよ、これらは当時においては実際に話されていたものであった。実際に話されていたからこそ、小説などフィクションの世界に入り込めたのである。ところが後に、現実における使用は消滅した。一方でフィクションには根強く残った。これが、役割語がフィクションにしか見られない理由として考えられることである。


 では、現代の日常会話で役割語的な言語運用がなされないかというとそうでもない。たとえば、職業カテゴリーと結びついた役割語であれば、普段耳にしているものも多いのではないか。思いつくのは、「~でよろしかったですか」「~円からのお返しとなります」など、いわゆる「ファミコン言葉」は、ぼんやりとではあるが、ある人物像と結びついていないだろうか。


 現代の日本語運用において役割語的なものが見られるのかどうか、それはどのような役割と結びついているのか、いったいどのような場面で使用されるのか、こうした社会言語学的な観点から役割語という問題にアプローチしていくのもおもしろいだろう。


 あるいは、バフチンのいう「メタ言語学」とのからみで考えていくと、もう少し深みのある問いを出していくことができるかもしれない。心理学的にもおもしろい題材となるだろうと思う。

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