幼児に対するバーチャル・マイキングについて(2)

 バーチャル・マイキングに注目するのは,会話の秩序を組織化する技能の発達過程を調べるうえでなんらかのヒントが得られるのではないかと思うからである。

 会話における秩序を社会的秩序のミニマムな単位と見なして研究する会話分析は,その基本的な秩序として「順番取り(turn-taking)」を見いだした。会話において参加者は一度に一人が話す。これは秩序だったやり方で参加者が発話する順番を取ったり与えたりと行為した結果起きた社会的現象である。行為における秩序は,ごく簡単に言うと,「現在話している者が話し終えたら,その人は自分で話し続けるか,ほかの誰かに発話権を与えられる」と体系的に記述できる。これは,社会学者のサックスらが見いだしたことである。

 このような秩序だったやり方は,実は,発達初期の子どもとその母親の間のやりとりにすでに見られるという指摘がある。たとえば赤ちゃんがごきげんで「ああ,ああ」と声を出す。その次に母親が「どうしたの,気持ちいいの」と話しかける。母親の発話の間,赤ちゃんは沈黙する。母親の発話がやむと,赤ちゃんがもぞもぞとしはじめてまた「ああ,ああ」と声を出す。このようにして,卓球のような発声のラリーが母子相互作用に見られることが知られている。

 発達初期の子どもの行動に見られるこうした相互行為上の秩序だったやり方は,大人の会話に見られるような順番取りの萌芽的基盤だとみなす研究者がいる。確かに発達のごく初期の場合,やりとりは秩序だって交互におこなわれるように見える。

 しかし,1歳を過ぎ,4歳に入る頃までの子どもを見ていると,交互になされていたコミュニケーションがなりを潜めていることもあると気付く。たとえば,親同士が会話をしているところに平気で「ねえねえ」と割り込む。あるいは,こちらが話しかけても返事をしない。などである。そうかと思えば,5分くらいしてから「○○だよ」と返事をすることもある。少なくともこの時期の子どもは,声をかけたら必ず返してくれるやまびこのようなものではない。

 あたかも,2~4歳頃の子どもには会話の秩序以上の何か「気がかりなこと」があって,それ以外のことにはかまってられないかのようである。気がかりがあるからこそ「ねえねえ」と割り込むし,他人の言うことをぼんやりと聞き流すのではないか。

 そう考えると,発達初期におけるやりとりに見られた秩序と,後に成長してからのやりとりに見られる秩序の間に単純な線形的関係を想定することはできない。そのあいだには2~4歳頃特有の何か熱っぽさのようなものが挟まっており,それを経由することにより会話の秩序には量的かつ質的な変化があってしかるべきだろう。その変化とは何なのかを明らかにする必要がある。そのためには,2~4歳頃から幼児期後期にいたるまでの子どもが会話の秩序をどのように組織化しているのか,発達的視点からながめなければならない。

 このテーマにはまだまだ分かっていないことがたくさんあり,あらゆることが検討の範囲の中に入ってくる。そこでバーチャル・マイキングである。

 もう一度確認すると,バーチャル・マイキングとは,保育の場などに見られる,話し手が片手を握り自分の口元に親指の方を向けながら発話し,それを終えるとその手を聞き手の口元に向けるという一連の動作を言う。そう呼んでいるのはおそらくぼくだけだろうと思うが,このような動作を見たことのある人は少なくないと思う。

 こうした動作は保育者と子どものやりとりにおいて,いわば「交通整理」(コミュニケーションを交通と訳すこともある)の機能を果たすのではないかと推測している。というのも,マイクを持っているかのように見える手は,発話権を現在誰がもっているのかを視覚的に示すと考えられるからである。握られた手の親指のある方が向けられている側に話す権利がある,というように。

 多くの場合,「質問-応答」というフォーマットと平行して用いられることも,この動作の機能を有効にしていると考えられる。誰かに質問されたら次に答えるのは自分であり,自分が質問したら次に答えるのは誰か他の人である。このように質問という言語形式は相互行為上の役割の交代と深くかかわっている。このような役割交代は,バーチャル・マイキングによって視覚的に明示されるだろう。

 たとえば,複数の子どもと1人の保育者がいる場を想像してみる。そこには話したがりの子もいれば,無口な子もいるだろう。保育者がバーチャル・マイキングを行うことにより,話したがりの子を牽制しつつ,無口の子から発話を引き出すということが可能となる。それでも,保育者にマイキングされても固まったまましゃべらない,という子も何人も見ているのだが。

 いずれにせよ,バーチャル・マイキングは複数の参加者がいるような状況において,発話権の配分を円滑に行うための手段となりうるだろう。

 ただ,ことはそう単純ではないとも思う。保育者と子どもとのやりとりにおいて,握った手を口元に向けることにより,「今,手が向けられた人が話す番ですよ」という文脈が公的なものとなる。そこで実際に話そうと話すまいと,「話す番だったこと」を文脈としてその人の行為が解釈されていく。無口な子どもは「話さなかった」のではなく「話せなかった」ものとして解釈されていく。このように文脈をつくるものとしてバーチャル・マイキングは機能する。

 バーチャル・マイキングとともに現れる言語形式をもう少し検討すると,それが「学校的な語り口」の特徴を備えていることも分かる。学校的な語り口の特徴を網羅したリストがあるわけではないのだが,丁寧体,語末音の上昇調,そして分かりきっていることについての質問がそこには含まれる。

 バーチャル・マイキングは,「学校的な語り口」にある特徴をもうひとつ教えてくれる。それは,「誰かが話しているときは,残りの人はそれを黙って聞く」というコミュニケーションのやりかたである。日本の小学校ではこうしたやり方は低学年の頃から教師によって徹底的に仕込まれる。クラスメイトが発表しているときに隣の子と話していると「今,誰が話してるの?」と怒られた経験のある人は多いだろう。バーチャル・マイキングは,保育においてこれを暗黙的に行っているものとも考えられる。

 もう少し体系的に調べてみたいものである。

幼児に対するバーチャル・マイキングについて(1)

 仕事柄,保育の場におじゃますることがたびたびあるのだが,保育者のみなさんが子どもに対するときに行なう行動で気になるものがある。それが,掲題の「バーチャル・マイキング」である。

 マイキング(miking)は,普及版の英和辞書などには載っていないが,りっぱな英語である。最新版のOEDによれば,

The action, process, or technique of arranging microphones for a recording or performance; the manner or fact of using microphones. Also miking-up.

 とある。用例として,「近づけてmikingすれば部屋の音響をほぼ無視することができる」(1973年Studio Sound誌)などがある。「マイキング」と検索すれば,たとえばこんなページがひっかかる。要するに,マイクを向けるふるまいのことをマイキングと呼ぶようだ。

 保育園や幼稚園にうかがい,自由遊びやお集まり場面に参加すると,たまにこの「マイキング」のような出来事を目にすることができる。たとえば,こんな感じだ。保育者が「あなたのお名前はー?」などと子どもに尋ねる。そのとき保育者は手をにぎり,グーの形にして,親指のある側を自分の口元に近づける。尋ね終わると,その手を握ったまま,今度は子どもの口元に近づけるのである。あたかも,インタビュアーがマイクを持ち,それを自分とインタビュイーに交互に向けているかのようである。 

miking_image2.gif

 これまで,茨城,山形,北海道,愛知の保育園・幼稚園で確認している。ちなみに愛知の事例は,名古屋の友人Mさんのご息女がこの行動をしているのを見て,おそらく同様のことを保育園で経験しているものと間接的に推測した。

 保育者は手を握るだけで実際にマイクを持っているわけではない。なので,「バーチャル」をつけて,バーチャル・マイキングと呼びたい。当初は「エアギター」になぞらえて「エア・マイキング」と呼ぼうかと思ったが,それはスタジオ用語で別のことを指すらしく,無用の混乱を避けるために「バーチャル」(嫌いなことばであるが)とした。

 さてこのバーチャル・マイキング(以下VM)であるが,なぜこの行動に注目したのか。

 それについては以下次号。

会話の進化論

 ISCARでのダメダメな発表から立ち直れずにいます。気持ちを切り替えねばなりませんね。

 はてさて、来週日心での発表準備をしなければならないのですが、
某学会の事務作業がこのところ毎日続いていてどうにもこうにもなりません。今日はようやく学会誌の発送作業を終えました。
300人程度の規模の学会で、類似した学会と比べると小さい方だと思うのですが、
会員への案内を手作業で発送するとなるとやたら多く感じます。

 これが終わると大学院の某作業で拘束されます。1日みっちりと拘束されるわけではないところがまた気持ち悪い。

 話を日心で話す内容に戻しますと、家族の家庭における自然な会話を分析したものを出します。

 コミュニケーションを開始するために、話し手は聞き手の注意を獲得するためのいろいろな方法を駆使しなければなりません。この
「呼びかけ」の手段は、家族間会話でどのように用いられているのかという問題について調べました。

 話を言語的な「呼びかけ」に絞ります。「呼びかけ」にはいくつか種類があります。たとえば「お父さん」「太郎ちゃん」
といったように相手の名前あるいは続柄を呼ぶ。あるいは「ねー」や「ちょっと」などの間投詞を用いる。さらには「見て」
など注意を要求する言葉を用いる、などが考えられます。

 簡単に発見を述べますと、第一に、呼びかけに用いられる単語の種類は、それを用いる話し手と聞き手の関係によって異なっていました。
たとえば、「太郎ちゃん」など相手の名前を呼ぶのは圧倒的に両親が子どもに話しかけるときでした。子どもが両親を呼ぶ際に名前(お父さん、
お母さん)を用いるのはそれと比べれば少ないようです。逆に、子どもが親を呼ぶときに「ねー」「見て」といった言葉が用いられるのですが、
これらを両親が用いることはまったくありませんでした。

 第二に、今回分析した家族の会話では、言語的な呼びかけの手段がほとんど見られない関係がありました。
それは両親の間でのやりとりでした。たとえば、同じ室内に、父、母、子どもがいたとして、それぞれ自分の作業(父は新聞を読むこと、
母はスーパーのチラシを読むこと、子どもは人形で遊ぶこと)に没頭していたとします。このとき、父親が突然、「明日は晴れるんだって」
と新聞を読みながら発話したとします。これに対して、母親が「ふーん」と答えていました。父親の発話に対して返答する義務は、
母と子どもの両方に等しくあるはずなのです。宛先が明示的には指定されていないのですから。しかし、父親による「呼びかけ」
のない発話に対して答えていたのは、ほとんどが母親でした。これはどうしてなのか。

 とりあえずの答えは、二人は夫婦なのだ、というものです。馬鹿にするなと言われそうですが。

 考えてみると、話は核家族の場合に限りますが、子どもが生まれる以前、夫婦は二人きりで暮らしていたわけです。この場合、
「呼びかけ」がなくとも、話し出せばその相手はおのずと決まります。このようなコミュニケーション・
パターンが形成されていた二人と突然同居することとなったのが、子どもです。そのうち、「呼びかけ」
のない夫婦間コミュニケーションと区別するために、「呼びかけ」のある親子間コミュニケーションパターンが選択され、
両方のパターンが併存することとなった、というのが読み筋です。言い換えると、「呼びかけあう」というコミュニケーションは、
「呼びかけあわない」というコミュニケーションと区別できるがゆえに有効に機能するということです。

 会話で使用される言語形式の多様性を進化論的に見ているわけですね。

 これが正しいとするなら、いくつか言語発達研究に対するインプリケーションを挙げられると思います。ひとつは、
子どもが日常を密に暮らす社会的環境全体を一度に見ないと、子どもがなぜある特定の言葉を利用するのかを理解できないということです。
もうひとつは、子どもが使用する言語形式や文法構造はかれがその社会文化的状況において「何者であるか」ということに依存するという、
OchsとSchieffelinの言語的社会化理論への貢献が考えられます。

 以上のようなことを、先日北海道に来たヴァルシナー教授に話そうとしたらうまく説明できませんでした。説明できないのは、間違っているからでしょうね。

力業の力強さ

 Yahooのニュースなんかでも紹介されたのでご存じの方も多いと思いますが、Scienceにこんな論文が載ったそうです。

  「女性の方がおしゃべり」はウソ?-米大学研究

 紹介されている論文の書誌情報はこちら。

 Mehl, M. R., Vazire, S., Ramírez-Esparza, N., Slatcher, R. B., and Pennebaker, J. W. (2007). Are women really more talkative than men? Science, 5834, p.82.

 まだ読んでいないので詳細は不明なのですが、方法としてはどうやら大学生に録音装置をつけて、その音声から発話語数を単純にカウントした模様です。6年間で396人の発話が採集されたとのこと。

 得られた結果から、男女ともに毎日およそ1万6千語を話しているものと考えられるそうです。著者たちの関心は発話語数の男女差にあったわけですが、統計的に有意な差はなかったらしい。

 つっこもうと思えばつっこみどころは多々あるのでしょうが、私としてはこの研究に素朴に驚嘆してしまいました。

 人は1日にどれくらいの単語数を話しているのか、疑問に思うのは簡単ですが、これを実際に数えるとなるとそうとう苦労するのは目に見えています。いや、実は数えることそれ自体はそれほど手間ではない。形態素分析ソフトのようなものもありますし。

 この手の研究で一番手間がかかる問題は、コンピュータでカウント可能な形に発話を文字化することでしょう。この作業をやったことがある人なら実感として分かりますが、書き起こしはとにかく時間がかかる。ぼくの場合、1時間の会話を書き起こすのに6時間くらいかかります。それを1日分、しかも396人!1人について1日の発話を書き起こすとして、1日のうち起きている時間(録音された時間)を16時間とすると、396(人)×16(時間)×6(時間)=38016時間! 24時間ぶっとおしで書き起こしをしまくるとして、ぼく一人ではまるまる4年以上かかる計算となります。

 繰り返しますが、まだ元を読んでいないので詳細は分かりませんが、仮に396人分の1日の発話を「すべて」書き起こし、文字化した上で、1日に使用された単語数をカウントしたのでしたら、ぼくは素直に拍手を送りたい。

 「ぼくら、1日でどんだけしゃべってんだろうねー」って、なんだか「トリビアの種」のように素朴な疑問です。これに対して回答する術としては、サンプルとなる時間帯を取り出してそこで用いられた単語数から1日の単語数を推計するか、あるいは実際に1日の単語数を数え上げるかしかないわけです。

 こざかしい計量言語学者ならば前者を採用するのでしょうが、あえて後者というイバラの道を選ぶ。言ってみれば、「力業」ですよ。しかし、得られた数は、異論をはさむ余地のないものであります。この力強さ。

 「数え終わりました!1万6千語でした!」

 うつろな目、髪はぼさぼさ、肩はがちがちになったスタッフが、窓から差し込む朝焼けに照らされながら、集計の終わったメモを読み上げる。同じく目やに混じりの眼をしたまわりのスタッフはパチパチと力強く拍手、そしてかれらはそのままばったりと机に倒れ伏し、安らかな寝息をたてはじめるのでありましょう。なんかそんな情景が頭に浮かびますよ。

 理論もない、技術もない、あるのはただひたすら疑問に素朴に答えようとする執念のみ。いいですなあ。

ケータイ非使用時のケータイ使用について

 人目につくようなかたちでケータイを持つことが可能となるためには、2つの条件が満たされていることが必要だろう、という話をした。

 持つことが可能であるとして、では実際にどうやって持っているのか。このことについて街の中の人々の行動を眺めてみよう。

 そのつもりで眺めていると、人々はケータイを実にさまざまな仕方で「持って」いることが分かる。

「ケータイの持ち方」に注目したのは、JRの駅にいたある若い女性の振る舞いを見たせいである。
彼女は折りたたみ式ケータイを右手に持ち、画面が見えるようそれを広げたまま、画面のある側の縁を自分のあごの先につけて立っていた。

 彼女はケータイの主な機能を使ってはいなかった。メールも電話もしていなかった。ただ、ケータイにあごを「載せて」
視線を遠くに投げかけていただけだった。

 しかし、まぎれもなく彼女はケータイを使っていた。手に持つことが可能なモノとして使っていた。
われわれが傘やステッキに体ごともたれかかるように、ケータイにあごがもたれかかっていたのである。

 タイトルの、「非使用時の使用」とはこのことを指す。確かに主機能は使われていない。しかし「あご載せ台」
として使われていたのである。

 「あご載せ台」としての使用法の他に、どのようなものがありうるのか。同じく駅にいた男子高校生の10分間の観察から、
以下のような行動レパートリーが得られた。ちなみに彼が持っていたのは折りたたみ式ケータイであった。

 ・ 頻繁な開閉。
 ・ 開閉の一バージョンとして、ケータイを開いたまま、持った手の肘を支点にして勢いよく上に上げ、その勢いで画面側を閉じる。
「ケン玉型開閉」。
 ・ 閉じたケータイの両横を、手の親指と中指を使ってはさみ、
別の手の指でケータイのアンテナ側とその反対側の端をはじいてくるくると回す。
 ・ 開いた状態で画面側を体の一部にこすりつける。観察された動作としては、ケータイを持っていない側の膝頭が服の上からこすられていた。

 ・ 同様に、開いた状態で、画面側で体の一部をぽんぽんとたたく。同様に膝頭をポンポンとたたいていた。
 ・ アンテナを延ばし、手の指ではじく。アンテナはびよんびよんとしなる。

 彼は待合所のベンチに腰を下ろしており、そのことが多様な行動を可能にした側面もあろう。
たとえばケータイの画面でこすられたりたたかれたりしていた体の部位が膝頭だったのは、座っていたからだと言えそうだ。
もしも立位であったら、他の場所(腿の脇とか)が選ばれていたはずである。

 いずれにせよ、ケータイとは使っていないときにも使われるモノなのである。「もてあそび」という用途を満たすモノとして。

 前のエントリからの話をまとめると、ケータイとは「もちはこび」と「もてあそび」を可能にするモノだということが言える。ここで、
人が人前でケータイを「もてあそぶ」ことが可能となるための条件に、「もちはこび」
が可能となるための諸条件が含まれていることは言うまでもない。

 蛇足だが、ケータイのもてあそび行動を見て取りやすいのは、乳幼児においてである。わが子は1歳前後の頃、
親の使うケータイをしきりに持ちたがった。持っては、パタパタ開いたり閉じたりしてみたり、アンテナを延ばしたり、
キーをプチプチと押したりしていた。

 もてあそび行動のレパートリーとして他に何があるのか、もう少し観察を続けてみようと思う。
今和次郎の考現学のような感じになるだろうか。

持ち運び可能なモノとしてのケータイ

 ケータイを使った行動について興味をもっている。ケータイとは、携帯電話やPHSを含む移動通信機器をここではまとめてそう呼ぶ。

 ケータイにかんする研究というと、電話やメールなど、それを使ったコミュニケーション行動に焦点があてられている。その一方で、
ケータイのケータイたる所以、すなわち、持ち運ぶことのできるモノという性質にはあまり焦点があてられていないように思われる。

 カバンや衣服のポケットに収納した持ち運びはもちろんのこと、文字通り手にケータイを持ちながら街を歩く人のなんと多いことだろう。
ケータイはコミュニケーション・ツールである以前に、我々が人々のいる社会的環境の中を持ち運ぶことの可能なモノなのである。

 社会的環境の中を持ち運ぶことが可能、とは2つのことを意味する。一つは、
人間が持ち運びできるくらいの形状や重さだという意味である。30kgもあるケータイは物理的に持ち運ぶことが不可能である。

 もう一つは、ある個人が他の人々を前にしている際に、持ち運んでいてもかまわない、おかしくない、という意味である。
これはたとえば、衆人の中を鶏もも肉の塊やむきだしのナイフを手に持って歩いている姿を想像してもらえればよい。
獣の肉の塊を手に持ち歩く人が駅の構内を歩いていたら「変」であるし(「変」とならないための工夫としては、食肉業者的な格好をする、
という手がある)、ナイフをむきだしで持って歩いていると、「変」である以前に銃刀法違反で捕まる。

 面白いことに、紙幣をむきだしのまま手に持って歩くのも「変」である(これはぼくだけの感想か?)。ところが、
びらびら広げた状態だと変なのだが、折りたたんで手の中に入れておくと「変」でない。というか「変」かどうかという判断が、
第三者にはできない。隠れて見えないのだから。だが、容易に想像がつくように、
街を歩く多くの大人は紙幣を身体のどこかに持ち運んでいるはずである。

 このように、他者から見て持ち運びが許されているモノは、実はそんなに多くない。日本のこれまでの歴史の中では、
思いつくままにたとえば傘、ステッキ、うちわ、タバコ、ペット、財布(紙幣は変なのに財布は許される)、
カメラなどが持ち運び可能なモノの一覧に入れられてきた。

 繰り返すが、人間にとって身につけた状態での自力移動が可能な程度の物理的な大きさや重さである、という条件(条件1としよう)
とともに、人目につくようなかたちで所持したまま社会的環境の中を移動することが適切だと考えられている、という条件(条件2とする)
がそろってはじめて、手にそれを持って歩くことが可能になる。

 ケータイに話を戻すと、1990年代初頭までのケータイは、条件1も満たされていなかったが、
条件2もまた満たされていなかったのである。

 いわゆる自動車電話と呼ばれていた時代は、確かに鈍重な形をしており、手に持ったまま長時間歩くことは至難の業だったろう。
NTTドコモによれば、1985年に世に出たショルダーホンは3㎏近くあったようである。
1987年のケータイ専用機TZ-802型ですら、
900gあった。

 これまでのケータイの歴史の語られ方では、この条件1がいかに満たされていくかという観点が中心になっていたように思われる。
軽薄短小を理想のゴールとする歴史観である。

 ところがその陰で、いかにして条件2が満たされるようになっていったかという歴史観はほとんど語られてこなかった。

 面白いことに、初期のケータイは、人目につくような形で持ち運ぶことが快く思われていなかったのである。たとえば松田・伊藤・
岡部編(2006)「ケータイのある風景
所収の松田論文には、金持ちの鼻持ちならなさを象徴するものとして、ケータイをこれ見よがしに持っている人への嫌悪感を語った、
1990年代初頭の文章が引用されていた。条件2が満たされていなかったのである。

 ところが、いつの間にか、条件2は満たされていた。こちらの歴史をきちんと解かない限り、
移動通信機器と人間とのかかわりを理解することは難しいだろう。

 なぜこんなことをつらつらと書いているかというと、ひとつには学部の心理学実習でケータイをテーマに取り上げていることがある。
先日も駅でケータイを使う人の行動を観察しに出かけた。もうひとつは、それとの関連なのだが、ぼく自身、
高校生や大学生のケータイ使用をよく観察するようになったことがある。観察していて気付いたのだが、
ケータイをカバンや衣服のポケットにしまうという時間がほとんどないのである。

 たとえば、駅構内のベンチに座っていたある男子高校生の場合、メールを打ったあと服の胸ポケットにケータイを入れた。
20秒ほどたって取り出し、ふたたび画面に見入った。折りたたみ式ケータイの場合、たたむことはあってもどこかにしまうことはほとんどない。
人目につくところに出しっぱなしなのである。

 こういう光景を見て、世の中には人前で出しっぱなしにできるモノとできないモノがあって、
ケータイは前者の範疇に入るのだなあと考えた次第。

 (もうちょっと続く)

iRiver S10

 自然な状況において起こる発話を録音する方法に悩みはじめてかれこれ5年。自分のニーズにあった録音機材ならば自分で作るのが早道なのだが、こればっかりは電子回路の技術が要るので、自作というのはなかなかハードルが高い。というわけで、出来合いの民生品に頼るばかりである。

 子どもに装着することを考えると、小さく、軽く、丈夫であることが必須の要件となる。そうしたニーズを満たす民生品として、まずICレコーダは大きすぎて除外される。最近では、音声録音も可能なデジタルオーディオプレイヤーが出ていて、こちらなら先の条件を満たす。

 昨年まで集中的に行なっていた録音では、iRiverのN11を使っていた。Nシリーズには先代のN10からお世話になっている。

 久しぶりに札幌駅前のヨドバシカメラに行った。行くと必ずデジタルオーディオプレイヤーのコーナーに寄ることにしている。

 iRiverから新しくS10なる商品が出ていた。スペックを見ると、 N11よりも4.5g軽い(N11:22g、S10:17.5g)。たかが4.5gと侮ることなかれ。

 大きさはどうか?写真に撮ってみたので比べてみよう。

P1010271.JPG

 ね。ぜんぜん違う。

P1010274.JPG

 見たとおり、S10は、ディスプレイがカラーである。あまり欲しいポイントではないのだが、綺麗なら綺麗がよい。しかも。ディスプレイが本体からほんのわずか浮いていて、上下左右にクリックできるようになっている。これが操作メニューを選択するキーとなっているのだ。したがって、本体側面にあるスイッチは、電源とボリューム上げ下げの3つだけとなっている。

 なかなかそそられるガジェットではある。しばらく使用してみて、使い物になるのかどうか確認してみよう。

ケテスタだって

 私の現在のサブテーマは、幼児期における音韻意識の発達過程に関する研究である。

 このテーマを扱った先行研究には、幼児に対して介入プログラムを実施するものが少なくない。そういうのを読むと、たまあに、
がちっと組んだ実験がしたくなるわけで、そのへんは母校の”意”伝子のなせるワザであろうか。

 そんなわけで、身近な子どもたちに協力してもらって、いま、ちょっとした実験を繰り返している。結果発表は9月になる予定だが、
うーん、思うような結果が出てこない。そういう悩みもまた楽しさなのであるが。

 で、今日も今日とて実験を終えて研究室に戻ったのだが、そのときにふと思い出したのが掲題のセリフ。ご存じ、『ドラえもん』
にてジャイアンがのたまわったものである。

 ドラえもんの出した秘密道具に「コエカタマリン」という薬がある。この薬を飲むと、出す声が大きな文字となって固まるというもの。
マンガのお約束である、いわゆる書き文字を「声が固まったもの」と見なすという、考えてみればむちゃくちゃな秘密道具である。

 小さくなれる潜水艦で金魚鉢の水の中にもぐったまま大きく戻れなくなったのび太とドラえもんが、コエカタマリンを飲んで叫んだ
「助けて」が、「タ」「ス」「ケ」「テ」という文字の塊となって水中を漂う。それを見た剛田先生が「ケテスタだって」と言う。

 大昔に読んだマンガなのに、なんか俺、いやに覚えてるなあ。

自転車操業此処に極まる

 日曜から名古屋のhouさんが来ていた。月曜に音韻意識の実験を行なうためである。3歳の子に協力してもらって、
単語の分節の仕方を見るというもの。

 実験の結果については近々、というよりも週末に発表される。なんという自転車操業!仕方がない、
こうでもしないと時間が取れないほどお互い抱えているものが多いのである。

 「最近顔が痛いんだよー」。それは顔面神経痛というヤツですか、houさん。仕事は抑えましょう。

 実験中に撮った映像を見返してデータに起こし、大急ぎでポスターを仕上げて名古屋に送る。

 一仕事終えてもまだ積み残しはある。27日から伊東で身振り研究会の合宿。強面の中堅処がぞろりと来られることが判明しており、
いまから戦々恐々。そのための資料がまだできておらず、今更ながら文献を読み返し、発表の内容を検討する。

 29日からのハンナおばさん読書会のレジメはまだできてない。明日から茨城の実家に帰るが、そこで仕上げる予定。

 かように月末はあちこち飛び回る。先々でお会いする方、どうぞよろしく。

打ち合わせ

 名古屋からhouさんが来札。研究の打ち合わせのためです。

 もう2年くらい、ああでもないこうでもないと二人で頭をひねってきました。今回も、ホテルのラウンジ、カレー屋、そして研究室と場所を変えながら理論的な骨子をえんえんと相談。いいかげん、とりあえずシンプルなところからやってみようとふんぎりをつけることにしました。最終的に、実験の細部にいたるまでつめることができました。来週、慌ただしく実験を行ないます。

 mouさんとトモちゃんもいっしょにいらしていたので、夕食はうちの家族とともに食事。子ども2人は向かい合って座っていたのでお互いをどうも気にしていた様子。トモちゃんはニコニコと上機嫌で、まわりの大人に愛想を振りまいてました。

 ところでぼくはどうでもいいことに躍起になるタチなのですが、この共同研究のマスコットキャラクターを作ってはどうかと勝手に提案し、勝手に作ってみました。いかがでやんしょ?

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