ISCARでのダメダメな発表から立ち直れずにいます。気持ちを切り替えねばなりませんね。
はてさて、来週日心での発表準備をしなければならないのですが、
某学会の事務作業がこのところ毎日続いていてどうにもこうにもなりません。今日はようやく学会誌の発送作業を終えました。
300人程度の規模の学会で、類似した学会と比べると小さい方だと思うのですが、
会員への案内を手作業で発送するとなるとやたら多く感じます。
これが終わると大学院の某作業で拘束されます。1日みっちりと拘束されるわけではないところがまた気持ち悪い。
話を日心で話す内容に戻しますと、家族の家庭における自然な会話を分析したものを出します。
コミュニケーションを開始するために、話し手は聞き手の注意を獲得するためのいろいろな方法を駆使しなければなりません。この
「呼びかけ」の手段は、家族間会話でどのように用いられているのかという問題について調べました。
話を言語的な「呼びかけ」に絞ります。「呼びかけ」にはいくつか種類があります。たとえば「お父さん」「太郎ちゃん」
といったように相手の名前あるいは続柄を呼ぶ。あるいは「ねー」や「ちょっと」などの間投詞を用いる。さらには「見て」
など注意を要求する言葉を用いる、などが考えられます。
簡単に発見を述べますと、第一に、呼びかけに用いられる単語の種類は、それを用いる話し手と聞き手の関係によって異なっていました。
たとえば、「太郎ちゃん」など相手の名前を呼ぶのは圧倒的に両親が子どもに話しかけるときでした。子どもが両親を呼ぶ際に名前(お父さん、
お母さん)を用いるのはそれと比べれば少ないようです。逆に、子どもが親を呼ぶときに「ねー」「見て」といった言葉が用いられるのですが、
これらを両親が用いることはまったくありませんでした。
第二に、今回分析した家族の会話では、言語的な呼びかけの手段がほとんど見られない関係がありました。
それは両親の間でのやりとりでした。たとえば、同じ室内に、父、母、子どもがいたとして、それぞれ自分の作業(父は新聞を読むこと、
母はスーパーのチラシを読むこと、子どもは人形で遊ぶこと)に没頭していたとします。このとき、父親が突然、「明日は晴れるんだって」
と新聞を読みながら発話したとします。これに対して、母親が「ふーん」と答えていました。父親の発話に対して返答する義務は、
母と子どもの両方に等しくあるはずなのです。宛先が明示的には指定されていないのですから。しかし、父親による「呼びかけ」
のない発話に対して答えていたのは、ほとんどが母親でした。これはどうしてなのか。
とりあえずの答えは、二人は夫婦なのだ、というものです。馬鹿にするなと言われそうですが。
考えてみると、話は核家族の場合に限りますが、子どもが生まれる以前、夫婦は二人きりで暮らしていたわけです。この場合、
「呼びかけ」がなくとも、話し出せばその相手はおのずと決まります。このようなコミュニケーション・
パターンが形成されていた二人と突然同居することとなったのが、子どもです。そのうち、「呼びかけ」
のない夫婦間コミュニケーションと区別するために、「呼びかけ」のある親子間コミュニケーションパターンが選択され、
両方のパターンが併存することとなった、というのが読み筋です。言い換えると、「呼びかけあう」というコミュニケーションは、
「呼びかけあわない」というコミュニケーションと区別できるがゆえに有効に機能するということです。
会話で使用される言語形式の多様性を進化論的に見ているわけですね。
これが正しいとするなら、いくつか言語発達研究に対するインプリケーションを挙げられると思います。ひとつは、
子どもが日常を密に暮らす社会的環境全体を一度に見ないと、子どもがなぜある特定の言葉を利用するのかを理解できないということです。
もうひとつは、子どもが使用する言語形式や文法構造はかれがその社会文化的状況において「何者であるか」ということに依存するという、
OchsとSchieffelinの言語的社会化理論への貢献が考えられます。
以上のようなことを、先日北海道に来たヴァルシナー教授に話そうとしたらうまく説明できませんでした。説明できないのは、間違っているからでしょうね。