「言語的社会化ハンドブック」を読む(1)

大学院の演習で,オックス,シフリン,デュランティの「言語的社会化ハンドブック」を輪読することにしました。その第1回目を先日行い,私が第1章を報告しました。

以下は,その際のレジュメです。なんかの参考になれば。


Ch.1 The theory of language socialization
Ochs, E. & Schieffelin, B. B.

… language socialization research examines the semiotically mediated affordances of novices' engagement with culture-building webs of meaning and repertoires of social practice throughout the life cycle. (p.17)

Researchers view communicative practices involving novices as deeply sociocultural, in that:
– novices are socially defined and positioned as certain kinds of members;
– conversation and other discourse genres and practices are embedded in and constitutive of larger social conditions;
– semiotic forms are complex social tools that are situationally and culturally implicative;
– codes are parts of repertoires and morally weighted;
– learning and development are influenced by local theories of how knowledge, maturity, and wellbeing are attained. (p.17)

・言語的社会化とは?「言語使用を通しての社会化であると同時に言語を使うようになるための社会化」(Ochs & Schieffelin, 1986)
・言語的社会化研究の課題は?社会的なつながりをうちたてる「意味の網の目webs of meaning」(Geertz, 1973)や「無意識的な行動パターン」(Sapir, 1929)を,子どもたちがいかにして創造するか。そのためには,ミクロな相互行為,マクロな社会,子どもの発達過程のすべてに注目しなければならない。
・1980年代から,言語学,心理学,人類学研究の領域では,子どものコミュニケーション実践がなされる社会文化的環境が見過ごされていたことに気付かれはじめた。音韻や統語構造の獲得とともに,子どもが誰に対して何をどのように話すのかということが重要視され始めた。現在ではこの言語的社会化研究は複数の領域にまたがる研究としていくつもの大学で教えられている。
・ここ10年では,子どもだけでなく,大人が新しい環境に入っていく場も検討の対象になっている。

・語用論的発達developmental pragmatics: さまざまな言語形式とそれらが用いられる「状況の文脈」(Malinowski, 1935)との対応関係に焦点を当ててきた。
・言語的社会化研究は,子どもが「文化という文脈」との関係で「状況の文脈」を理解し,それを実現することに注目する。言語形式,実践,イデオロギーの文化的な解釈と社会構造をとらえることが必要なので,談話とエスノグラフィーとを統合する方法を採る。
・言語獲得language acquisition研究: 母子間の会話を主要な観察の場としてきた。
・言語的社会化研究は,社会文化的に設定された場面の中に子どもが大人や他の子どものコミュニケーション相手として繰り返し関与する場面に観察の対象を広げた。
・子どもの人類学研究も見過ごしている点があり,言語的社会化研究はそこを埋めようとしている。それは,子どもが家族やコミュニティのメンバーとして育つ過程を統合する中心として言語が果たす役割である。

・言語的社会化が持続する期間は,そのメンバーが存在を認知され始めた時点から,社会的に死ぬまで。例えば,胎児に話しかける親やそれを促す育児関連企業にとって,胎児は社会のメンバーである一方で,ある社会では話し始める前の子どもに大人は話しかけない。

■言語的社会化と行為主体性(agency)
・パーソンズの「社会化」という概念は,大人というゴールへの単一方向的で決定論的な変化を指すものとして批判されてきた。ボアズの「文化化」(enculturation)は,子どもを大人の文化を受動的に受け取る存在とみなし,受け取った思考様式に基づいて子どもは自動的に行為すると捉える。ブルデューとパスロンもボアズとほぼ同様の図式で描くが,教育を恣意的な権力関係間に発生する象徴的暴力と捉えている点が異なる。

・言語的社会化における「社会化」は上記のいずれとも異なる。むしろ,サピアの「言語は社会化の強力な推進力」という考え方に基づく。彼によれば,個人は文化や社会に従属する存在ではなく,自身の創造性や情動的な衝動をじかに満たそうとするものである。こうして個人の内側から湧き出るものによって形成される文化をサピアは「真正な文化」(genuine culture)と呼んだ。

・言語的社会化の基本的な考え方の1つ目は,あるコミュニティの新参者は,古参者によってそこでの実践への参加をうながされるのであり,決して決定されるわけではないということである。実際に,現代では,古参者の方が新参者から教えられることもある。

・新参者が行為主体性をもつと捉えると,慣習が固定化される方向性とともに,流動化するという方向性についても考えねばならない。電話に出る際の決まり文句も協働的な「達成」であるし,逆に創造的活動はルーチンにもとにして可能になる。即興はパターン化された日常を背景にして初めて創造性を帯びる。反復は単なる反復ではなく,それまでのものを「ずらす」効果があるのだ。

・言語的な慣習の流動性は,ライフサイクルや世代間においても見られる。その際に,変化しない側面が何で,変化するのが何かを研究するのは言語的社会化の射程の範囲内。
・ただ,その場合でもやはり新参者は受け身なのではなく,相互に行為主体性を発揮して,価値のある言語的能力が何なのかということが相互行為の場において構成される。

・相互行為において普遍的な現象は,知識や権力の非対称性である。何かを知っていることそのものが権力関係を含意する場合が大いにある。ということは,子どもの知識が正統的でないものとして扱われる社会的な実践もある。
・学校のような教育場面は,まさに,新参者のコミュニケーション実践において権力が行使される場である。しかし同時に,子どもの行為主体性は支配的な道徳的文脈に対する抵抗と再創造として発揮される。例えばSterponiはテキストを読む場面で,教師の目を盗む「空間」を作ろうとする子どもたちの実践を取り上げる。

■文化の話し手になる
・言語的社会化の基本的な考え方の2つ目は,新参者が円滑にコミュニケーションできるようになることは,同時に,その者がコミュニティにおける熟達したメンバーになっていくことでもある,という点である。それぞれのコミュニティには,状況ごとにいかにして話すかについての変数が用意されており,新参者は状況に関与することを通してそれらの変数を理解するようになる。例えば病院の診察を受ける子どもは医者が保護者に言うことを間接的に聞いて,何が医療に関係する言葉なのかを理解する。
・なんらかの言葉の使い方を理解することとは,同時に,なんらかの社会的な活動を行うこと。例えば,謝るための言葉の使い方を覚えることは,謝るという社会的能力を養成すること。
・したがって,言語的社会化は局所的であり状況に埋め込まれている。新参者はそこで話される言葉の使い手になるだけでなく,そこの文化の話し手にもなる。

■生まれと育ちの二分法を超えて
・言語的社会化論は通常対立的に語られるもの(発達と学習,個人と社会など)の間の媒介項として機能する。
・言語的社会化では生物学的な成熟を前提としている。同時に,子どもが社会に参入してそこで社会的に用いられる行為などに気づくことも前提する。社会的な実践の中には,乳児の生物学的特徴から必然的に普遍性をもつものもあるが,それでも文化的な多様性はある(高田のボツワナのサンの研究,Brownの共同注意研究など参照)。

・育てる方の話しとして,言語的社会化研究では,養育者が子どもの生活環境をどのようにして整えているのかに注目する。それはまた,人々の間のコミュニケーションのやり方を左右する。例えば家のドアが村の中心に向かって開け放たれているならばマルチパーティ会話が起こりやすい。
・したがって,このような子育ての生態学的な環境の差異は,子どもの会話理解をも左右する可能性がある。たとえば,誰がどうすれば「聞き手」になれるのか,の理解。

■社会化のために用いられる記号的リソース
・(1)社会化するための主要な道具であると同時に目標でもあるさまざまな記号に注目すること。(2)それらの記号がリソースとしてさまざまな意味のある社会文化的な実践(道徳,情動,関係,制度など)を維持したり変えたりすることについて民族誌学者なみに敏感になりなさい。
・文法,語彙体系,音韻,言語行動,会話の連鎖,ジャンル,レジスター,チャンネル,コードなど,記号システムを構成する諸要素がいかにして社会化を促しているかが問いとなる。例えば親族を呼ぶ際の語彙の習得は家族関係の組織化と密につながっている。
・言語人類学的観点からは何がトピックとなるのか?
記号がいかにして社会的状況とインデキシカルにつながっているのか(パース,シルヴァステイン)。コミュニティにおける異種混交性とその階層性(ブルデューの文化的資本)にそって子どもがどのように社会化され,それら言語的変異をどのように使い分けるか。

・複雑な状況の多様な理解を広く捉るために,これらの記号システムを分析する際には,①体系的なドキュメンテーション,②関連する人工物の収集,③緻密なエスノグラフィーが必要。縦断研究も,異なる生活環境での調査も必要。

・言語的社会化研究では,上記のリソースが相互行為において用いられることを観察し,人々が歴史的に社会を持続させつつ変化させる過程を探究する。

■言語的社会化実践
・意図的に行われる社会化もあるだろうが,多くの言語的社会化は記号によって媒介された実践に繰り返し参加することを通して実現する。習得内容はそこでは暗黙的implicitであり,ブルデューとパスロンの言うように暗黙的な社会化過程の方がより一般的である。
・それは,実践の場に実際に自身の身を置き,観察をしながら学習する過程。その意味で,実践的知識が言語化された学校とは異なる。ブルデューらは前者をdiffuse education(冗長な教育),後者をpedagogic inculcation(教育的な説明)と呼ぶ。
・ただ,日常的実践の場面で養育者が子どもの注意をガイドするなど積極的に手助けをしていることもある。例えば日本の養育者は,子どもが適切にあいさつできるかどうか,常に目を光らせている。道徳的な違反が起きた場合には,台湾の養育者などは子どもがそのことを恥ずかしいと思うようにしむける。同年齢同士ではうわさ話をすることが自分たちの社会秩序形成につながる。
・要するに,新参者は制度的な場でも日常的実践の場でも,社会化する機能を持つ言語的なはたらきかけ(例えば,はずかしめ,からかい,賞賛,誤用訂正,うわさ,など)の受け手となる。

■言語的社会化とスピーチ・コミュニティ
・言語とコミュニティそれ自体が変化のただなかにあること,新参者の言語的社会化も当然その影響下にあること,そして,新参者自身もその変化をもたらしていること。したがって,結果的にあるコミュニティは言語的な異種混交性をもつ。
・ゆえに,コミュニティにはPratt(1991)の言う「接触のゾーン」(zones of contact)がある。それはときには安定的に見られるものの,時には流動的である。それは,文化,言語,社会,自己意識を構成する媒体となる。(伊藤コメント ★ある者が「他者」となると同時に,その「他者」に対する自己として自己が生成される。)

・例えばシフリンが70年代にパプアニューギニアに入ったとき,すでにそこではキリスト教伝道師が入っており,言語と文化に変化が起きていた。また,西インド諸島ではフランス語をもとにしたクレオールに対して英語を高く評価する価値観が養育者の間で育っている。こうした状況を背景とした日常的なコミュニケーションは,言語のシフトが起こる現場と考えられるので,そこでの親子間会話などを微視的に見ることが大局的な言語シフトを説明する。

・若者が移民として新しい言語コミュニティに入ることも接触のゾーンを形成する。そこにおいて,自身の連続性,アイデンティティ形成,断絶,脱アイデンティティが経験される。例えばスペインに移民してきたモロッコの子どもは,学校ではスペインの子どもによる身体的・言語的実践によって直接的・間接的に低く見られる。その一方で,その子どもの家族にとってはスペインの様々な制度にアクセスするための媒介者として子どもが機能する。
・ある言語の獲得は,その社会における立ち位置と結びついている(その言語を話すからには,これこれこのような人だろうという評価を得る)。第二言語獲得による社会化,あるいはかつて話されていた言葉の習得による社会化はこのことがはっきりする過程だ。

観察者を傍観者から当事者に変える実践

障害者イズム ~このままじゃ終われない~ Part1 [DVD]

先週に引き続き,「障害者イズム」から別の1シーンを使って,詳細な行為の分析をいかにすべきか,実習を行いました。以下は,人々のやりとりを細かく見るといろいろなことが浮かび上がってきますよ,ということを伝えるために,実習の最後に配布したお試しの分析レジュメの内容です。

私は会話分析・相互行為分析について誰かから系統立てて学んだことはありませんので,見る人が見たら多分におしかりを受ける内容ではあるでしょう。にもかかわらず掲載するのは,その見る人がもしもこれをご覧になったらいろいろと教えていただければなあと思ったからです。あつかましいですね。

見えない参加者—撮影者

N氏が県営住宅を借りる相談をしに,N氏とH氏は連れだって某県庁住宅課の職員(職員AとB)の元に訪れた。参加者による一連のやりとりが終わった直後の場面を見ると,2人の職員は立ち上がって,相談者N氏とH氏のいる場所とは逆の方向に顔を向けて背中をかがめていた。これは一連の相談が終わった後のあいさつと解釈されるが,果たして誰にあいさつをしているのだろうか。

それは,「撮影者」である。撮影者はカメラの後ろ側にいる限り決して画面に映り込まないが,参加者としてその場に共在する。

中立的立場の撮影者?

この場面での職員たちの行動は,かれらが撮影者をどのような存在として理解していたのかを推測する手がかりになるように思われる。仮に職員たちが撮影者を「壁の虫」のように無視していたのだとしたら,あいさつと目されるような行動は取らなかったであろう。では,撮影者は職員たちにとって相談者の1人であったのであろうか。実は,そうでもなさそうである。まず,相談の一部分を書き起こししたものを見てみよう。

シークエンス 住宅を借りる相談をする(B:職員B H:H氏)

01 B あのー車イスで使えるような設備も整ってるんですよね
02 H はい
03 B ここが空いてるんですよ
04 B だけどなかなかねこんだ逆にこちらのほうが募集していても
05 B なかなか需要者がいないっちゅうね
06 B こうちょっとこうふうね
07 H 場所て場所的にはどこらへんになるんですか
08 B ほ

抜粋したシークエンスでは,主に職員Bが相談に対して返答していた。その内容は,住宅への居住が可能な条件に適した応募者がなかなかいない,というものであった。職員Bの発話に対して相づちを打ったり問いかけをしたりしているのはH氏であった。その他の職員AやN氏はこのシークエンスでは発話していなかった。

相談の当事者はN氏であった。N氏が希望していた県営住宅の部屋は自分の職場からも近く理想的であったのだが,そこは世帯用であり,家族がいなければ(N氏は独身であり,さらに親元から独立しようとしていた)借りることはできない。一方で,職員Bが勧めていたのは単身用の部屋であった。しかしN氏にとって問題だったのはそこが職場から遠く離れていたことであり,車でもないと通勤できない(N氏は脳性マヒ患者であったために自動車の運転は困難であった)。

職員Bがこのシークエンスで行いたかったことは,おそらく,「相談者を説得して単身用の部屋で妥協させること」であったと推測される(このことは直前のナレーションによって明らかとなる)。職員Bのねらいがこれであったという前提で議論を進めると,職員Bが相互行為を通して行いたかったことの1つは「味方を手に入れること」であったと推測される。

説得する相手である相談者以外で味方になる可能性をもつ参加者として,まず職員Aが想定できる。ただし,職員Aは職員Bと同じ制度的な役割をもつ。相談者と相談を受ける者との間で思惑が対立していた場合,議論は平行線をたどることとなろう。そこで,相談者(車イス利用者)と相談を受ける者(職員)という対立する2つの役割以外の参加者が職員Bにとっては必要であったのではないか。つまり,中立的な立場の存在である。中立的な立場の参加者を味方とすることに成功した場合,人数において相談者を上回ることとなり,説得に成功する可能性は高くなるであろう。このような判断を職員Bが実際に頭の中で行っていたかどうかはまったく不明である。しかし,非合理的な推論ではないだろう。

このシークエンスにおいて中立的な立場に立ちうる唯一の参加者は撮影者であった。撮影者を味方につけることができれば,職員Bのねらい(=相談者を説得して単身用の部屋で妥協させること)が達成される可能性は高まる。このような前提であらためてシークエンスを見てみよう。

視線の分析を通して何が分かるか?

このシークエンスの映像を見ていて気がつくことは,職員Bが発話をしながら視線をあちこちに向けていたことである。発話だけを見ると,H氏と職員Bとの対話のように見えるため,職員BはH氏だけに視線を向けていたように考えてしまうが,実際には,視線を向ける対象を頻繁に変えていた。

このシークエンスでは映像の画面に2名の職員しか映っていない。そのため職員Bが相談者の誰に視線を向けているのか,明確ではない。しかし,シークエンス終了間際に,2名の相談者と2名の職員の座っていた位置関係が俯瞰的に映っている。その映像に基づくと,図2のような身体配置によってシークエンスが展開されていたこととなる。

20130523fig2.gif

図2 住宅を借りる相談をするシークエンスにおける参加者の身体配置

図2で想定された身体配置を背景として,発話の書き起こしに職員Bの視線の動きを重ね合わせ,さらに発話をジェファーソン・システムで書き起こしし直したものを次に示す。

シークエンス 住宅を借りる相談をする(発話の書き起こしの下にある記号は,職員Bの視線の向き先にある人/物を示す)

視線の向き先にある人/物の凡例
H:H氏  N:N氏  O:撮影者 D:書類 —(ハイフン)は,視線の移動を示す。

01 B あの::くるまいすでつかえるような(.)せつびもととのってるんですよね:
      HH—-NNNNNNNN—-DDDDDDDDD—-HHHHHHHHHHHHHHHH
02 H (はい)
03 B ここが(2.0)あいてるんですよ=
      HHHHHHHHHHH—O-N—–
04 B =だけどなかなかね(.)こんだぎゃくに:(.)こちらのほうがぼしゅうしていても=
      –DDD—-H—-NNN—OOOOO——N—OOOOOOO——HHHHHHHHH——
05 B =なかなか(1.0)じゅようしゃがいないっちゅうね:
      OOOONN–H-NNNNNNNNNNNNNNNNNN—
06 B こうちょっとこう.h[ふうね::
      HH—NNNNN—D-NO–H—N–
07 H            [ばしょてばしょてきにはどこ[らへんになるんですか
08 B                              [ほ
                 HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

シークエンスにおいて,職員Bが撮影者を頻繁に見ていたのは,4行目と5行目の発話の最中であった。この発話は,「今度は逆にこちらの方が募集していてもなかなか需要者がいない」というものであった。ここにおいて職員Bは「こちら」という言葉を用いていた。これは,行政を担う職員という自分たちの制度的役割を指し示すものであったと言えるであろう。このような発話をしながら撮影者に視線を向けることにはどのような意味があると考えられるだろうか。

直前の発話が「単身用の部屋ならば空いている」ことを主としてH氏に視線を向けながらなされていたことと対比的にとらえるならば,4~5行目で職員Bはあたかも「行政の努力」を誰かに伝えようとしていたようにも見える。そして,視線が撮影者にも向き始めたことは,「行政の努力」を伝える相手としてH氏やN氏以外に撮影者が含められるようになったこととして解釈できるであろう。

参加の形式という観点からもう少し補強してみよう。

二者による会話(dyad interaction)を考えてみる。この場合,1人の参加者が話し手となった場合,他方が自動的に聞き手として扱われる。一方で三者以上の会話(multiparty interaction)の場合は,参加の形式に多様性が生まれる。1人の参加者が話し手となったとき,他の参加者の中で誰が聞き手なのかは自動的に決まらない。むしろ,誰が適切な聞き手となるのかはその相互行為を通して・その相互行為の中で即興的に決められていく。

会話中の参加者の視線の動きはこうした聞き手の決定過程と密接に関係していると考えられる。すなわち,話し手が視線を向けた対象は,優先的に聞き手として判断される傾向にあるのである。

撮影者に視線を向けることで,職員Bはその人を「聞き手」とすることができる。すなわち,相談という会話に臨場する単なる傍観者としてではなく,撮影者を相談に強制的に巻き込むことができるのである。撮影者は不可避的にカメラを通して職員を見ていたということも重要なポイントである。職員Bには撮影者が自分を見ていることが自明であり,だからこそ撮影者に視線を向けることで見つめあいを容易に達成することができた。

まとめると

職員Bは「相談をする者」でもなく「相談を受ける者」でもない参加者である撮影者を会話に巻き込むことに成功し,同時に,それを基盤として,撮影者に行政の努力を伝えていたと解釈できるであろう。

ともすると,ビデオ映像に基づくエスノグラフィーや会話分析・相互行為分析ではカメラの背後にいる撮影者の存在を無視して目の前で起きていることを分析してしまう。しかし,映像に映っている参加者が撮影者を参加者の1人として積極的に扱い,そのことが合理的な目的を持ちうる場合もありうるのである。

オンラインセミナー

Psychological Investigations: A Clinician's Guide to Social Therapy Schools for Growth: Radical Alternatives To Current Education Models

昨年の夏に来日したEast Side InstituteのLois Holzmanが,日本の研究者や学生向けにオンラインセミナーを開くことになり,それに参加することにしました。

いつも何かを教える立場なので,何かを「受講」するのは久しぶりです。

第1週目の今週は,まずは参加者同士の自己紹介。毎週英語で何かをアウトプットしていく作業は頭がしびれます。英文を校正してくれるサポートが欲しいです。

上に掲載しているのはセミナーで購入を指定された本。新年度の講義の準備と同時並行で読み進めて,果たしてパンクしないだろうかと今から戦々恐々であります。

フォルマリストのドミナント(3)

言語芸術・言語記号・言語の時間 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

「可動性は必然的に体系の存在を前提としています」

これは,クリスチーナ・ポモルスカとの「言語と文学における時間について」と題された対談においてヤーコブソンが語ったことです。あるものが動き,変化するためには,そのものが内部的に関係的構造をもつことが必要だ,と彼は述べたのです。ちょっと考えると,なにものとも関係しておらず自由であった方が運動は起こりやすいのではないかと思いますが,逆に,結合がなければ変化が起こらないというのです。どういうことでしょう。

先述のように,ヤーコブソンは文学作品の内的ダイナミクス,あるいは文学ジャンルにおける価値の相対的配置の歴史的変化を検討する上でのドミナント概念の有効性を指摘しました。その際に,ソシュール派言語学で言うところの言語の共時態と通時態が,説明の方便として用いられました。

ここには注意が必要です。「言語と文学における時間について」でヤーコブソンが明言しているのですが,共時態と通時態とは切り離すことができません。構造主義言語学は静的な体系としての言語を仮定し,そのダイナミクスを捨象したと批判されましたが,ヤーコブソンはそもそも変化のしくみを説明するものとして,体系,すなわち共時態という概念を採用したのです。

ヤーコブソンの言語機能論をもう一度想起しましょう。言語メッセージを構成する6つの要素は同時に存在しますし,それぞれに対応した言語機能も同時に生起します。ただ,ドミナントとなる要素に応じてある言語メッセージが強く関説的機能を果たすようにも,強く詩的機能を果たすようにもなるのです。

ここで,関説的機能を果たしていた言語メッセージが,いつのまにか詩的機能を果たすメッセージへと変化するという事態を考えてみましょう。さほど難しくないと思います。この変化はドミナントの交代として記述できます。すなわち,潜在的にはすでに存在していた詩的機能が前面にあらわれ,代わりにかつてドミナントであった関説的機能が副次的位置に後退するという変化です。同じことが文学ジャンルにおける価値の変化にも言えます。グレチュコ(2012)にしたがえば,これは単なる変化ではなく歴史的な発展です。「こうして文学はその構造的な予備資源,つまり文学システム内には潜在的には存在するが,ある時期まで積極的な役割を演じない諸要素によって発展することになる」(pp.103-104)。

時間的な変化という問題についてヤーコブソンの考えていたことが明らかになってきたのではないでしょうか。彼はこのようにも述べています。「詩的形式の進展という点から見れば,進化はある要素が消滅し他の要素が出現するという問題ではなく,むしろ,組織を構成する多種多様な要素の相互関係に位置の変化が生ずることを意味する」(ヤーコブソン,1988,pp.224-5)。ここで重要なのは,変化するものはいったい何なのか,という点です。共時的な構造を構成する諸要素そのものが形を変えるのではありません。ヤーコブソンによれば,変化とは,諸要素間の配置の相対的な交代として記述されるのです。

ヤーコブソンのこのような考えに接していくつかの疑問もわきます。今指摘しておきたいのは,ドミナント概念の適用範囲となる対象についてです。彼は,作品の中のドミナント,文学領域の中のドミナントといったように,ドミナント概念をいくつかの言語領域に広げることをしています。こうしたことが可能なのは,言語が必然的に時間の2つの相,すなわち同時性(=共時態)と継起性(=通時態)をもつからだということはすでに述べたとおりです。では,そのような時間的二重性のもとで理解するのが適切な現象であれば何にでも適用可能なのでしょうか。

文献

ヴァレリー・グレチュコ (2012). 回帰する周縁:ロシア・フォルマリズムと「ドミナント」の変容 貝澤哉・野中進・中村唯史(編著) 再考ロシア・フォルマリズム:言語・メディア・知覚 せりか書房 pp.97-109.

ロマン・ヤコブソン 浅川順子(訳) (1995/2012). 言語芸術・言語記号・言語の時間 法政大学出版局

ロマン・ヤーコブソン 岡田俊恵(訳) (1988). ドミナント 桑野隆・大石雅彦(編)  ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム:詩的言語論 国書刊行会 pp.222-227.

フォルマリストのドミナント(2)

再考 ロシア・フォルマリズム―言語・メディア・知覚

言語機能にかんするヤーコブソンの枠組みをさらに形式化してみましょう。「複数の部分から成る運動する構造体があったとき,それを構成する諸部分のうち主導的な役割を果たすものがその特性を決定する」。このように記述できます。

ヤーコブソンのこうした考え方は,彼の完全なオリジナルというわけではありませんでした。ある構造体の特性を方向付ける要素が構造体に内在するというアイディアは,彼を含むフォルマリストに共有されたものだったようです。構造体の特性を方向付ける要素のことをフォルマリストは「ドミナント」と呼びました。

フォルマリストたちは,ドミナントという概念を新カント派に属するドイツの哲学者ブローダー・クリスチアンセンから学びました(グレチュコ,2012)。クリスチアンセンはその著書『芸術の哲学』で,「美的客体の『前面に出て,主導的な役割を演じはじめる』一つの(あるいはいくつかの)要素」(グレチュコ,2012,p.98)のことをドミナントと呼びました。主導的な役割を演じるものがあれば,当然,背後で従属的な役割を果たす要素もあります。それらの諸要素をまとめあげるのが「ドミナント」という要素なのです。したがって,クリスチアンセンにとってドミナントとは「一つの芸術作品を『不可分な一体』と知覚することを可能にする統一的モメント」(グレチュコ,2012,p.102)のことでした。

例えばクリスチアンセンは肖像画の鑑賞について理論化しているようです(ヴィゴツキー,2006)。特定の人の姿を模した絵には「ある人らしさ」が見出されるようなんらかの特徴的な部分があるはずです。それがなければ,「その人」としてその肖像画が認識されないでしょう。このとき,肖像画を「ある人」として知覚させる「統一的モメント」がドミナントであったと思われます(思われます,と回りくどく書いているのは,筆者自身クリスチアンセンの著書を読んでいないからです)。このとき,ある人らしさの演出に貢献しない絵の諸要素は従属的要素となるわけです。

フォルマリストたちが論文中にこの概念を取り入れ始めたのは1921年以降のことでしたが,かれらはクリスチアンセンがおそらく思い描いていたであろうドミナントのニュアンスとは異なった意味合いをそこに見出していきました(グレチュコ,2012)。クリスチアンセンの言うドミナントとフォルマリストの用いたその概念の違いは少なくとも2つあるように思われます。1つはドミナントと他の要素の相対的な役割です。2つ目は作品におけるドミナントと他の要素の関係性の変化についてです。

まず第一の点について。グレチュコ(2012)によりますと,クリスチアンセンはドミナントと従属的要素が「調和して」機能することを念頭に置いていました。しかし,たとえばフォルマリストであるエイヘンバウムは,ドミナントが従属要素を「支配する」ととらえていたようです。イメージとしては,ドミナントが従属要素の上位にあって,従属要素のはたらき自体を左右する,と言えるでしょう。ドミナントについてはヤーコブソン(1988)でも取り上げられています。それによればドミナントとは「芸術作品の中核をなす構成要素」であり「作品の性格を決定する」ものです(ヤーコブソン,1988, p.222)。このように,フォルマリストらによってドミナント概念には作品固有の意味を左右するより強い役割が与えられることになりました。

さらにヤーコブソンはドミナント概念から第二の点を引き出しています。彼によればドミナントとは,「芸術作品の内的ダイナミズムの主導的要素であり,他の諸要素と相互作用をし,『それらに直接的影響を与え』,芸術的作用を及ぼす」もの(グレチュコ,2012,pp.102-103)です。作品に内的なダイナミズムを見出している点に注目しましょう。作品の内部の諸要素のうち何かがドミナントとして機能することでそれらの間の相対的な配置がダイナミックに形成されていく,というイメージだと思われます。ここには,作品を静的な構造体としてではなく,運動するものとしてとらえる視点が見て取れます。クリスチアンセンが絵画について議論したことを思い出しましょう。絵画はキャンバスに固定された諸要素から成り,鑑賞時にはそれらの関係性は変化しない,つまり静的な構造をもっています。それに対して文学作品は音楽と同様,語同士の連鎖という時間構造を前提としており,そこから変化の余地が生まれると考えられます。

言語機能についてのヤーコブソンのアイディアの背景に,言語的な構造体は時間とともに変化するというものがあったことを想起しましょう。彼はこの点を歴史的,あるいはソシュールにならって通時的側面と指摘しています(トゥイニャーノフ・ヤコブソン,1982)。ソシュールにしたがうなら,当然,ある時点での言語構造,すなわち共時的側面についてもヤーコブソンの念頭にありました。さきほどの作品の内的ダイナミクスとは,共時的には諸要素間の相対的配置に注目し,通時的にはその配置の変動するさまに注目する2つの視点を含むものだと言えます。

ヤーコブソンは,ドミナント概念が1個の作品や作品同士の関係だけでなく,芸術のジャンルの構造自体の変化にも適用しています(ヤーコブソン,1988)。例えばチェコにおける詩の変遷をたどりつつヤーコブソンが述べるのは,どの時代にも詩には韻律や音節構成,抑揚の統一性といった諸要素がありながらも,どの要素が「詩らしさ」の相対的な価値をもたらすのかは時代に応じて変化することを指摘しています。他にも,ルネッサンス期には絵画や彫刻など視覚的芸術がドミナントとなり,他の芸術ジャンルはそれとの関係によって価値の相対的配置が定められていたことも指摘されます。以上,クリスチアンセンとフォルマリスト,特にヤーコブソンによる,それぞれのドミナント概念の用い方の違いについて確認しておきました。

ヤーコブソンのドミナントについての議論は,すでに述べました,言語機能論の下敷きになるような議論だったと思われます(グレチュコ,2012)。ヤーコブソン(1988)はこう述べています。「詩的作品は,美的機能をドミナントとする言語伝達として定義されるのである」(p.224),さらに,「美的機能を詩的作品のドミナントであると定義すれば,詩的作品の中に存在するさまざまな言語機能の階層構造を決定することが可能になる」(p.224)。講演録「言語学と詩学」で提案されていることがすでに述べられていたことが分かります(ヤーコブソン(1988)は1935年の講義録,ヤーコブソン(1973)は1960年のSebeokの本に収録された講演録)。言語メッセージにおいて,前面に強く出てそのメッセージのはたらきを左右する機能は,ドミナントとして理解できるでしょう。

文献

ヴァレリー・グレチュコ (2012). 回帰する周縁:ロシア・フォルマリズムと「ドミナント」の変容 貝澤哉・野中進・中村唯史(編著)  再考ロシア・フォルマリズム:言語・メディア・知覚 せりか書房 pp.97-109.

ロマン・ヤーコブソン 岡田俊恵(訳) (1988). ドミナント 桑野隆・大石雅彦(編) ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム:詩的言語論 国書刊行会 pp.222-227.

ユーリー・トゥイニャーノフ ロマン・ヤコブソン 北岡誠司(訳) (1982). 文学研究・言語研究の諸問題(テー・ヤー・テーゼ) 水野忠夫(編) ロシア・フォルマリズム文学論集2 せりか書房 pp.343-347.

レフ・ヴィゴツキー 柴田義松(訳) (2006). 新訳版 芸術心理学 学文社

フォルマリストのドミナント(1)

一般言語学

フォルマリズムという芸術理論がありました。20世紀初頭,ロシアでのことでした。

この芸術理論は,はじめは主に文芸の分野を対象として出発しました。フォルマリズムを主張した人々はフォルマリストと呼ばれたりしましたが,かれらの始発の問いは,「文学作品を,日常的な言葉の使用から区別して,芸術たらしめるものはいったい何だろう」というものでした。

最初に現れたフォルマリストは作品を構成する言葉それ自体の内に,芸術に固有な「なにか」があるのだろうと考えました。かれらは,聞いたこともないような言葉を使ったり,言葉を独特なやり方で組み合わせたり並べたりすることが,芸術的な文学作品と日常的な言葉との違いだと主張したのです。

初期のフォルマリストの悪いところは,文学作品と日常的な言葉をいったん「別物」とした上で対照的にとらえていたことでした。これですと,日常的な言葉の内にも詩的(=芸術的)な響きがふとした瞬間に現れることを説明できません。

これに対して,フォルマリストのひとりであったローマン・ヤーコブソンは,「言語学と詩学」と題された講演録において,文学作品と日常的な言葉を区別せずに,「言語メッセージを芸術作品たらしめるもの」を説明しています。それによれば,芸術作品とは言語が果たす機能のうち「詩的機能」が前面に出た言語メッセージのことを指すのです。

彼によれば,言語とは時間とともに展開するダイナミックな構造体です。言語は自身のダイナミックな運動を通してさまざまなはたらき(=機能)を示します。ヤーコブソンにしたがえば,芸術作品はいくつもの機能のひとつ,詩的機能が強くはたらく言語的構造体のこととなります。

言語のダイナミックな運動を通して,その前面に出る機能は入れ替わります。例えば詩的機能がはたらいている瞬間から,別の機能が強くはたらく瞬間へと,連続的に変化します。ここで,「強くはたらく」という言い方は重要です。なぜなら,前面に出る機能の他にもたくさんの機能が背後にあって,諸機能は同時にはたらいているのです。すると,詩的言語と日常的な言葉とが連続していて,はっきりとした境界線が引けるわけではありません。ヤーコブソンのこうした考え方とそれまでのフォルマリストの考え方にはこうした違いがありました。

ちなみに,詩的機能以外の機能は5つあります。何かを指し示すための「関説的機能(referential function)」,話し手の言語に込めたニュアンスをあらわす「心情的機能(emotive function)」,命令文など聞き手にはたらきかける「動能的機能(conative function)」,メッセージの伝達と継続をするようはたらきかける「交話的機能(phatic function)」,そして言語の読み取り方自体に焦点を当てるための「メタ言語的機能(metalinguistic function)」です。これに詩的機能を含めた6つの機能をヤーコブソンは「言語学と詩学」で提案しました。

ちなみに,これらの6機能はやみくもに提案されたわけではありません。ヤーコブソンによれば,言語メッセージが発せられ,読み取られるという出来事は6つの構成要素で構成されていますが,上記6機能はその6つの構成要素をそれぞれ指向するはたらきだととらえられています。

言語メッセージが成立するには,まずは「発信者(addresser)」と「受信者(addressee)」がいて,なんらかのかたちで「接触(contact)」していなければなりません。二者の接触において発せられたなんらかの言語的あるいは非言語的な身振りは,その意味を限定する「コンテクスト(context)」と解読のための「コード(code)」を手がかりに「メッセージ(message)」として読み取られます。これらが6つの構成要素です。これらの要素は言語メッセージが成立するならばそこに同時に含まれています。

機能と構成要素の対応関係をヤーコブソンにならって整理すると以下のようになります。(私自身が英語の方が分かりやすいので英語で表記します)

context: referential function
addresser: emotive function
addressee: conative function
contact: phatic function
code: metalinguistic function
message: poetic function

詩的機能とは,メッセージそのものに指向する言語の機能ということになります。メッセージそのものに指向するとは,記号そのものの「触知性」を高めることだとヤーコブソンは述べます。

例えば,身近な例として「しゃれ」を思い出しましょう。ヤーコブソンによれば,しゃれは詩的機能が強く出ている言語メッセージの例です。われわれは文「ネコが寝ころんだ」を作るときに,まず等しい意味の単語のリストから語を選択します。「寝ころんだ」のこの文意においての同意語には「寝た」「横になった」「動かなくなった」などがあるでしょう。発信者がコンテクストに指向し関説的機能を強く出そうとすれば,同意語から目の前のネコのようすを最も適切に示す語を選べばよいはずです。一般的には,意味の「等しい」単語リストの中から相応しい語を文中のスロットにはめていくという作業を行いながら私たちは文を構成していきます。

他方,詩的機能は文を構成するメッセージの形そのものにてらして「等しい」単語を並べるよう要求します。上のしゃれの場合は直前に「ネコ」があり,それと音が「等しい」ので「寝ころんだ」が結合されるのです。ヤーコブソンは「詩的機能は等価の原理を選択の軸から結合の軸へ投影する」(p.194)と述べています。

「ネコが寝ころんだ」が聞き手になんらかのおもしろみを起こす(=詩的機能を果たす)としたら,やはり関説的機能などの他の機能も同時にはたらいていると考えるべきでしょう。目の前のコンテクストを記述する(=関説的機能)ように見えつつ,同時に,等しい音を持つ単語が連鎖する点に,われわれは言語的な非日常性を感じ取っているものと思われます。

ここで概説したヤーコブソンの言語論の重要な点をまとめますと,以下のようになります。
(1)言語は時間とともにダイナミックに展開する構造体である。
(2)言語の果たす機能には少なくとも6つあり,それらは言語メッセージの6つの構成要素と対応する。
(3)6つの機能と構成要素は,言語メッセージが成立する瞬間において,すべて同時に成立している。
(4)言語の時間的な展開を通して,前面に強く出る機能は交代しうる。

文献

ローマン・ヤーコブソン 川本茂雄(監修)・田村すゞ子ら(訳) (1973). 一般言語学 みすず書房

相互行為分析の心得

Reading material
 Jordan, B., and Henderson, A. 1994 Interaction analysis: foundations and practice. IRL Report No.IRL94-0027. (http://lrs.ed.uiuc.edu/students/c-merkel/document4.HTMにフルテクストがある。)

0.0 はじめに

ひとびとの相互行為を分析するためには、テープレコーダーやビデオカメラなど、さまざまな機器を利用するのが有効だ。しかし、ただ漫然と使うべきではない。背後にあるパラダイムや機器使用によるメリット・デメリットをきちんとおさえておく必要があるだろう。

方法としての相互行為分析に特化した文献として、Jordan&Henderson(1994)がある。およそ20年前と、新しくはないものの、いまだにこの文献を読む意義は薄れていない。なぜなら、相互行為分析が一般化しつつある黎明期にあった一種の緊張感が感じられるうえ、なによりも、相互行為分析が可能な世界観というものをはっきりと自覚しているからである。以下、冒頭に挙げたJordan&Henderson(1994)の章立てにしたがい、途中筆者自身のコメントや現在の状況などについて交えながら解説をすすめていきたい。したがって、以下の内容はJordan&Henderson(1994)の要約ではない。なお文中特に断りのない限り引用はJordan&Henderson(1994)からのものである。


1.0 背景と前提

1.1 相互行為分析
相互行為を分析の対象とするというだけでは、素朴すぎる。相互行為という現象をどのように切り取るか、切り取ったものへどのようにアプローチするか、これらに特殊なやり方で答える方法論や態度(たとえば、西阪(1997)の言う「相互行為分析という視点」)を背景にもったひとつの手法が、いわば大文字の「相互行為分析」である。

手法としての相互行為分析が開発されたのはひとつの学問領域においてではないし、利用される領域も広い。学説史における大きな流れとしては、人類学、キネシクス、社会学が相互行為分析の源流とでも呼べそうだ(p.1,P1,2)。

手法の開発に潜在的な貢献をしたのはそうした領域の研究者ではなく、画像・映像や音声を記録する機器の開発と普及を果たした産業だろう。相互行為分析の歴史は、産業が先行して開発するさまざまな機器を、研究者が導入してきた歴史なのである。たとえば、グレゴリー・ベイトソンはバリ島調査に写真機を携行している(Bateson,1947;佐藤良明訳「精神の生態学」に所収)。すでにルポルタージュに採用されていた機器を、人類学的研究に応用したのである。これで撮影した連続写真を使い、彼はバリにおける母子間の相互行為を記述することに成功した。動画となると、分析を目的として撮影をおこなった先駆的研究として、たとえばCondon&Sander(1974)を挙げることができる。彼らは大人と新生児の行動(身体動作と発声のような)を16mmフィルムで撮影し、両者が緊密で同期的な相互行為をおこなっていることを明示した。

コンドンらがおこなったように、研究対象をフィルムに収めることは、いくつかの領域でそれまでもなされてきた。それは出来事の記録、および保存という性質を利用したものであった。しかし、相互行為分析において利用されたのは、動画がそもそも連続写真にほかならないという性質だったのである。フィルムで言うコマ、ビデオで言うフレームを分析の単位とすることは、写真の一枚を取り上げることと同じだ。これ以後の動画技術は、原理的にベイトソンが利用したような連続写真を高度に洗練したものだと言えよう。

ベイトソンやコンドンらが利用していた、高価で、専門性を要し、できることも限られていた初期の撮影技術しかなかったら、相互行為分析は研究の手法として定着しなかっただろう。安価でさまざまなニーズに対応した民生品の普及によって、多くの研究者の「やりたいこと」に応えられるようになったとき、はじめて体系的な手法となりえたのである。

こうしてビデオが普及するにいたり、J&Hが念頭に置く映像・音声記録の分析が可能となった。ビデオを用いる利点として、繰り返し再生できること、そして複数人で分析できることが挙げられている(3.0 なんでビデオなの?で詳説)。グループで作業が可能であるとは、すなわち、相互行為分析という手法を共有するサークル(学際的なので、学派とは呼ばないだろう)が形成されたことをも意味する。合衆国での中心のひとつは、パロ・アルトにあるゼロックスの研究所であった。かれらが対象としたフィールドや課題は多岐に渡り、そこでの研究をもとに世界的に著名な業績をあげたメンバーも大勢いる。

相互行為分析とはこのように、歴史的にも、環境的にも、特殊な背景において醸成された手法なのである。

1.2 枠組みと前提
すべての手法の背後には理論的な前提がある。J&Hは相互行為分析について大きく二点を挙げた。

 前提1 知識や行為は本質的に社会的である。
 前提2 相互行為の参与者にとっての世界は観察者からも見える世界である。

まず1について。知識と行為は起源、編成、使用といった面においてそもそも社会的なものであり、特に社会的・物質的生態環境social and material ecologyに状況づけられている。認知を個人の脳内に還元せず、社会や生態環境に分散するものとみなすので、実践コミュニティ(Lave&Wenger, 1991;Jordan,1992)のメンバーのあいだで日常的になされるごく普通の相互行為を理論化の対象とする。相互行為分析の目標は、複雑な社会的・物質的世界にあるさまざまなリソースを、操作し統合するやり方にある秩序regularityを同定することだ(p.2,P2)。

次に2について。「世界」の分析には検証可能な観察が基本中の基本となる。経験的な個別事例から知識と行為の理論を構築して一般化generalizeする。この態度の背後には、参与者が触れられる世界には、観察・分析者も同様に触れることができるという前提がある。ということは、分析するには、自分自身も実践コミュニティの有能なメンバーとして経験を積んでいなければならない、ということになる(p.3,P1)。

さて、以上の前提からどのような態度が帰結として導かれるか。

相互行為分析は、日常的状況の社会的秩序social orderがいかに達成されているかに関心を向ける。参与者はお互い他方の行為に意味づけをする。そうすることで、相互行為は協同的に達成されるものと見なされる。このときの秩序性や予測/計画可能性projectability(オリジナルは会話分析にある。次の反応が緩やかに決まるしかたを言う。訳語は串田(1997))を可能にするリソースは何か、そして参与者はそれらをどのように使っているのかを探求するのだ。学習という現象も同様である。ひとびとが学習なるものをし、そしてまた学習されたと認識される、そういう出来事が社会的に分散された過程として生起しているとみなされる(p.3,P2;p.4,P1)。

上記の態度は、ハロルド・ガーフィンケルの創始したエスノメソドロジーや、ハーヴェイ・サックス、イマニュエル・シェグロフ、ゲイル・ジェファーソンらの打ち立てた会話分析と共通するものだと言える。これらは、ひとびとの行為を研究者独自のカテゴリーで分類・記述・解釈する社会学者に対する批判として生まれた理論である。

1.3 概要
J&Hは以下の構成で筆を進める。次の2節では、典型的な作業手順が概略される。3節では、ビデオ記録をデータとして用いる際の長所と短所が述べられる。4、5節では、ビデオで撮影することにともなう制約が指摘される。もっとも大きく割かれた6節では、相互行為分析でのポイントが簡潔にまとめられている。

それでは、実際の分析作業に移ろう。

2.0 作業手順

2.1 エスノグラフィー
J&Hがビデオを持ち込むのは、エスノグラフィック・フィールドワークと呼ばれる作業においてである。フィールドワークは、参与観察、インタビュー、歴史の再構成、人工物やドキュメント、文脈を構成するネットワークの分析といった下位作業から成る。

フィールドワーク中の留意点について、J&Hは「ホットスポット」、つまりビデオを回すとおもしろそうな活動を探すことを挙げる。エスノグラフィは相互行為の微視的分析に際して、背景情報をもたらす。と同時に、相互行為分析で明らかになったことからエスノグラフィが見直されることもある。

2.2 目次作り
撮影が終わったらできるだけすぐ、観察者の記憶のあせないうちに映像を視聴し、打刻された時刻(あるいはテープカウンター)、見出し、出来事のおおまかな記述という構成で「目次ログcontent log」「目次リストcontent listing」を作る。この段階では細かいことを気にしないようにする。たとえばあらかじめ動作のカテゴリーを作るなどして一貫性をもたせることに気を遣うのではなく、出来事の直感的な記述にとどめるべきだ(p.5,P1)。実のところ、最初に見た印象の記述が、その出来事をもっともよく代表していることもある。その場にいる参与者もある行動を「最初に」見るのであるから、相互行為分析の前提2にしたがうなら、観察者が参与者にもっとも近い立場にある作業かもしれない。

なお、J&Hには付録Dに実例が示されている(p.55)。これは一例であり、いろいろな書き方があると思うので、各人ケースに応じて好きなように作成すればよい。最低限気をつけなければならないのは、後からその場面を映像の中から見つけ出しやすいマーキングをしておくこと、そしてあまりこだわらないことの二点である。

2.3 グループ作業
多くの場合、映像データを保管し、最初に視聴するのは、その現場に足を運んだ観察者本人であろう。当然その場で起きたことに関する情報の量は、そこにいなかった人間よりも多いはずだし、本人もそうだと思っているかもしれない。2.1で述べたように、こうした知識は相互行為を分析する際のリソースのひとつとなる。しかし同時に、バイアスとなることも念頭に置いておかねばならない。それを避けるためのひとつの方法が、グループでの分析作業である。

紙と鉛筆のフィールドノーツに基づいたエスノグラフィは、ある出来事をなにものかとして「書く」時点ですでに、それ以外を「書かない」実践でもある。つまり、フィールドノーツを二次資料とする者にとっては、書かれたものがどのような状況に置かれていたかを知ることはできないのである。書きたいものしか見ないという「確信バイアスconfirmation bias(Hutchins,1991)」の危険性も指摘される(p.7,P1)。ビデオテープの何度でも再生できるという特徴によって、「生起していた」と記述されることの検証が可能となる。そしてそれができるのは記述した本人以外がビデオを視聴するグループ作業の場においてなのだ。

では、グループ作業の実際の手順はどのようであるか。基本的には映像データを視聴し、それについて参加者がコメントすることによって作業は進行する。J&Hが説明するやり方は以下のようである。

データの保管主がひとり、ビデオテープの走行(再生、早送り…)を操作し、他の参加者はコメントしたいことがあればそこで停止してもらう。次に、停止を申し出た人が映っていた相互行為について仮説を提案する(p.6,P1)。その仮説は映っている映像に基づいて妥当性を議論できるようなものでなければならない。ここでも、あくまでも参与者が相互行為するために利用したリソースは、まさにそれが行なわれている場において観察可能な形でディスプレイされているはずだという前提が適用される。なお、グループ作業をしているあいだにたくさんの仮説がでてくるので、それは後の分析のために録音しておくとよい。グループ作業の場で出されるたいていの疑問は、もう一度フィールドに戻ったり、さらなる調査をするなどしなければ答えられないものだから(p.6,P2)、その場では分からないと潔く認めるべきだ。憶測で答えることほど危険で無駄なものはない。

グループ作業の参加者は、あくまでも映像に基づいて、対象となる人たちの「心の状態」「心の出来事」を語る努力をしなければならない。J&Hが挙げる事例(p.7-8)は、最終的にはノートに同じ答えを書いた4人の学生の会話である。知識のあるなしを議論する際、「そもそもその学生が知識を所有していたか」という問いは無意味だ。この問いは、相互行為分析の前提にしたがえば、このように言い換えられなければならない。すなわち、学生は自分たちの「知識」を相互行為の中でいかにして提示し合っているか。事例では、ひとりが正答を言ったあと、なにもコメントせずにノートに書く作業を続ける者と、何と言ったのか聞き返す者とがいた。後者の行為は答えを「知らない」ものと、参与者にとっても観察者にとっても解釈できる。相互行為分析は動機や意図などを語れないというわけではなく、あくまでも映像に基づいて語るのである。

2.4 ひとりでの作業
グループ作業で録音した議論のなかから、自分の分析に有益な部分をつまみ食いする(p.8,P2)。ここまでの手順は一方向的なものではなく、グループ作業で出されたコメントを検証するために、もう一度フィールドに戻ったり、別の事例についてひとりで検討してみるといったように、行きつ戻りつの道筋をたどる。

さて、観察する過程は何を見たいかに左右されるわけだが、分析を進めていくにつれある程度見るべき場所が絞られてくる。この過程において、何が相互行為のパターンを形成し、何がランダムで、何が不明の原因によるものかを評価しなければならない。こうしてできた仮説は、同じデータにある他の事例にあてはめてみて一般化可能性を確認する必要がある。たいていの場合は、複数のデータをあたって頑健性を確認する(p.8,P3)。ゆえに、相互行為分析とは、複数の経験的観測から一般的なパターンについて述べる、帰納的過程だと言える(p.9,P2)。

J&Hが挙げた分娩室の事例では、そこに電子モニターがある場合、助産師は子宮収縮が起こるとモニターに目をやる、というパターンが一事例から導出できた。それは別の病院や、他の国の病院でも見られた、一貫した行動であったことが分かった。そうでない場合には、それなりの理由が見つけられる。次の段階として、電子モニターを使っていない現場を検討することがある。そこでは、子宮収縮が起こると女性に注意が移っていた。最終的に一般化すると、ハイテク機器がある場合には、参与者の注意は患者ではなく機械の方へ向くという仮説が出された。

2.5 書き起こし
仮説を例証する上で決定的なデータがいくつか集まったら、書き起こし作業の段階に入る。書き起こすべき要素は、例証したい仮説とデータの性質に大きく依存するが(音声だけのデータで動作を書き起こそうとしても無理な話だ)、最低限、参与者名とその発話は欠かせない。関心に応じて、非言語行動や道具の操作について注釈を加えてもよいし、コンピュータを介した相互行為を対象としたなら、コンソールとディスプレイも書き起こしておきたい(p.10,P1)。

ここでひとつ問題になるのは、何をどの程度まで書き起こせばよいのか、ということだ。何かを書くことは別の何かを書かないことだと述べたが、これに過剰に気を取られると、結局何も書けない、あるいは余計なことまで書きすぎるという最悪の事態になる。まず、どのような分析をしたいかをはっきりさせておく必要があるだろう。書き起こしは、出来事の再現などではなく(ビデオすら再現ではない)、仮説を例証するためのデータなのだ。どのような分析にも適用できる、標準化された書き起こし方法などはない。むしろ、目的に照らして、今目の前にある「この」書き起こしがどれほど適切であるかを問うべきである(p.10,P2)。

とは言え、多くの研究者が採用する書き起こしフォーマットがあるにはある。会話分析で多く用いられるのが、Jeffersonのシステムである。詳細は、西阪(1997;2001)を参考にしてほしい。だがこれとても十分なものとは言えないので、p.58からの付録を各自参照してほしい。

書き起こしは、やれば分かるが、大変な作業だ。講演やインタビューなどを専門に書き起こしてくれるトランスクライバーという職業があり、現在ではそうしたところへ下請けに出す研究者もいる。だが、書き起こしをしているうちに新たな仮説や洞察が得られると場合も往々にしてある。せめて学生のうちは、すべて自分で書き起こすようにすることを薦める。しかしやはり大変な作業であることには変わりない。J&Hは、必要な部分はとにかく細かく、その他は必要な分だけ書き起こすことにしたという(p.11,P1)。

現在では、コンピュータの高速大容量化にともない、ビデオ編集から書き起こしに至るすべての作業をコンピュータ上で行うことが当たり前になってきた。10分程度の映像なら、速度の遅いノートブック型コンピュータでもそれほど支障なく再生できる。音声のみならば30分程度は記録できるだろう。後の処理を考えると、はじめから電子テクストで起こした方がよい。現在、書き起こしを補助してくれるソフトウェアとして「SndPlay」、「おこしやす」などがある。これらを有効に活用すれば、多少は作業の負担を低減できるだろう。

2.6 ビデオ・レビュー
撮影した映像を、そこに映っている参与者自身に見せるという方法が、ビデオレビューである。ビューイング・セッションなどとも呼ばれ(Erickson&Schultz,1997)、固定した名称はないと思われる。

そのときの視点や意識していることを参与者に発話させる方法が、ヴントらによって内観法として初期の心理学研究に用いられたことは有名である。行動主義から新行動主義(現在の認知心理学もここに含まれてしまう)にかけて、内観法は廃れてしまったわけだが、それは研究の対象を第三者が客観的に観察できるものに制限したからだ。その後、認知心理学にもいわゆるプロトコル分析(被験者に作業をさせながら注意の移り変わりなどをその都度報告してもらい、その発話を分析対象とする分析手法、海保・原田(1993)に詳しい)が導入された。ビデオ・レビューの場合は、かつてその人が行ったことについて説明してもらう点が、内観法やプロトコル分析と異なるところでもある。

グループや個人での作業においては、特に動作の分析には顕著であるが、出来事に対してエティックeticな見方がなされる。たとえば、相互行為の最中に右腕を挙げたとき、観察者の記述は「右腕を上に持ち上げる」というレベルにとどまる。一方、行為の当事者は右腕を挙げた場面を見て、「ああ、このときは右脇がかゆかったから、掻くのに腕を上げたんだ」と説明するかもしれない。この記述には、腕を上げたことになんらかの意味を付与しようという態度があるようだ。こちらは人類学的に言えばイーミックemicな見方である。ちなみに、eticとはphon"etic"、emicとはphon"emic"に由来することばである(p.11,fn.16)。

重要なのは、当事者による説明が事実だとは考えてはいけないということだ。過去の出来事について、そのときの意図を忘れているからとかそういうことではない。そもそも、内観法やプロトコル分析にも言えることだが、その発話はあくまでも研究者に向けた「説明」として、その場その場で構成されているのである。

ビデオを用いない単純なインタビュー形式によって、対象としたい出来事を想起してもらうということもあろう。当事者の発話は、ビデオを用いようが用いまいが、基本的に研究者が仮説を例証するためのひとつのリソースに過ぎないのである。ただ、ビデオを視聴することが、当事者と観察者の両者にとって、「過去の出来事を語る」という活動を進める上で効果的なリソースとなりえており、そういうものとしてビューイング・セッションを理解するべきである。

具体的な作業であるが、研究チームに当事者を呼び視聴セッションに参加してもらうか、あるいはフィールドに赴いてインタビューをしながらビデオを見てもらう。当事者が重要だと思うところでテープ走行を止めさせる方法をとる研究者もいる。この方法だと、当事者が出来事の何に意味を見ているのか追うことができる。さらに、分析する人間には分からない、当事者が何をリソースとしたかを知ることもできる。たとえば、医者と患者とが診察している場面をそれぞれに見せると、テープを止めた箇所は同じだったにもかかわらず「なぜ」止めたのかという理由の説明は異なっていたという例をJ&Hは出している(p.12,P1)。


3.0 なんでビデオなの?

どういうとき、ビデオを用いた相互行為分析を採用すればよいのか?厳格な基準があるわけではないが、J&Hは自分たちの経験から3つを挙げている。

3.1 出来事の再構成
出来事の参与者が行う、自分たちの行為についての説明と、実際の行為とがずれているようなときに、相互行為分析を採用すると効果的だ。ひとびとの語ることはあくまでも行為についての「説明」である(2.6の議論を参照)。実際に起きていたことに関心がある者にとっては、映像がなによりのデータである。

われわれは何かを見るとき、必ずそこになんらかの「物語」を見ている。他者の行為についても、バラバラの動作の連続ではなく、意味(あるいは、意図)を背後に含む行為として解釈しながら見ている。したがって、フィールドノーツとして直接観察した出来事のデータを作ったとしても、そこには「物語」が混入するのである。もちろん、映像を見てそこから解釈するときにもそうした物語の混入はあるはずだ。しかし、より現象に近いものを解釈の対象としたい、そうした研究者にとってビデオを用いた相互行為分析はふさわしい(p.13,P1)。

3.2 一次データの保存
一次データを何度でも見られることも、ビデオの有利な点である。複数の研究者で共有したり、協同作業したりできるほか、早送り・コマ送りも可能である。これによって、分析を修正できるし、より深い分析も可能になる(p.14,P1)。

3.3 相互行為の複雑さ
ビデオの威力がもっとも発揮されるのは、大勢の人間が同時に立ち働く場面を分析するときである。たとえば、職場や教室など、さまざまな社会・制度的場面には、たいていの場合二人以上の参与者がいる。ビデオを使わずに、かれらの行動を追うことはほぼ不可能であろう(p.14,P2)。

また、動作そのものが複雑であること、それを記述する言語を持たないことも、ビデオが必要な理由である(p.15,P1)。


4.0 ビデオと現実

ここまで、ビデオを用いることの利点を述べてきた。しかし、ビデオを採用したことによる制約があることにも自覚的でなければならない。紙と鉛筆によるフィールドノーツに出来事のすべてを書ききる能力がないと言うならば、ビデオカメラも現象のすべてを映し撮る能力はないのだ。あくまでも相対的な違いに過ぎない。むしろ、ビデオカメラというテクノロジーだからこその制約もまたある。

4.0および5.0ではこうしたビデオカメラ使用の欠点あるいは制約について述べる。利点と同時に欠点をおさえておくことが、テクノロジー使用には肝要なことだと思う。

4.1 人的制約
カメラをある方向に向ける、という作業は、別の方向には向けないということを意味する。これは、フィールドノーツによる記述で指摘したことと本質的に同じことだ。見ようとしていることが現象の記録に決定的な影響を及ぼすのである。重要なことは、現象の「すべて」を記録しようなどと、はじめから気負わないことだ。われわれにできることは(ビデオというテクノロジーをもってしても!)、とりあえず得られたデータから何が言えるか、これに焦点を合わせることのみなのである。

とは言え、そうした仮説を例証するための証拠は多い方がよいことは確かだ。カメラを操作する人間のバイアスを抑えるためにJ&Hが提案するのは、たとえば、フィールドノートをつける、固定カメラにする、カメラを2台にする、同時にテレコで録音するなどして、情報を落とさない工夫である(p.15-6)。

カメラをどこに向けるかが操作者のバイアスを示すひとつの証拠だと、ポジティブに考えてもよい、J&Hはそう述べる。彼女らが挙げる分娩室の事例では、出産の際に生まれてくる赤ちゃんをカメラで映していたために、母親と看護婦のやりとりは映せなかったという。しかしこれは、どうしても赤ちゃんを見てしまうという文化的バイアスの存在を示すひとつの証拠となるのではないか。同様なことは発達研究にも応用できそうだ。たとえば、子どもにカメラ(スチール、ムービーいずれも)を渡し、遊び場面を撮らせるといった方法が可能かもしれない。遊び場の風景を子どもがどのように見ているのか、かれらなりの世界の切り取り方が映像に反映されているかもしれないのだ。

4.2 技術的制約
通常のビデオ機器は、あくまでも映像と音声を記録するために作られた道具である。そのため、状況を構成するいくつかの要素、たとえばその場の匂いや温度、物の肌触り、人の気配を記録することはできない。温度を測定したい場合はサーモトレーサーで撮影されたサーモグラフィを見ればよい。だが、何より高価であるし動き回る対象には適用しづらい面があるので現実的ではない。結局、視覚・聴覚以外の情報については、フィールドノーツなど補助的手段で記録しておくのが、現在もっとも妥当な方法だろう。どんなにいい機材を使っても、すべてを満足させることはできない、このことを自覚すべきである。

もう一点の注意として、逆説的だが、ビデオはすべてを映してしまい過ぎる、ということがある。相互行為分析において知りたいことは、あくまでもある参与者の振る舞いを明らかにすることだ。具体的には、参与者がその場の何をリソースとして用いつつ行為したかが分かればよいのだが、ビデオにはそうしたリソース候補がふんだんに映りこむ。たとえば、夢中になって仕事をしている参与者や、パーティションを挟んで座る参与者など、その場で起きていたことのすべてをリソースにはできない場合が考えられる。しかしビデオは、パーティションを挟む二人の参与者を同時に映すことができる。観察者はこのようにしてある状況を特権的に俯瞰することができるが、その視点を参与者の視点と混同することはあってはならない(p.16,P3)。


5.0 カメラ効果

多くのフィールドワーカーが抱える問題が、このカメラ効果である。参与者にしてみれば、見張られている、悪く言えば監視されているという感想をもらしてもおかしくはない。デリケートな制度的状況、たとえば病院や障害者施設にカメラを持ち込むときにはしばしば現場にいる人たちからの拒否の態度がともなうし、法廷や取調室などはじめから撮影が許されていない場もある。

本当に参与者はカメラを意識しているのか?確かに、撮影開始時にはカメラから背を向けて動く、あるいは逆にカメラの方に頻繁に視線を向けるといった行動が観察される場合がある。これはカメラ効果のひとつだろう(p.17,P1)。

しかし、時間が経過するにつれ、カメラの存在に慣れることもある。このことは、カメラを固定させた場合、最低でもファインダーの後ろに撮影者がいない場合にはだいたいあてはまる。カメラが参与者にとってインテリアの一部となってしまえば、それほど特別に意識されることはないのだろう。その意味で、もしも参与者が限られた空間のなかで活動するなら、三脚や壁にカメラを据え付けた撮影は非常に有効である。広角レンズなどを用いてなるべく参与者の動きそうな空間全体がファインダーに収まるようにしておく。活動時はずっと録画状態にしておいて、観察者はその間、フィールドノーツで記録したり、もう一台カメラを用意し、固定カメラではフォローできない細かな作業などを録画したりするのがよい。

カメラが与える影響は、結局、研究者が研究の目的に照らして臨機応変に考慮すべき問題である。無視してもいけないし、慎重になりすぎても意味がない。結局、どのような記録方法でも、その場に研究者が赴いてデータを収集する以上、それはすでに場の相互行為の中に組み入れられているのだから、出来事に与える影響を避けることは不可能である。重要なのは、こうしたことをふまえた上で分析や解釈をすすめることなのだ(p.19,P2)。


6.0 分析の焦点

本節のタイトルに、なぜ「焦点」という単語が用いられているのかを説明しておく。J&Hは、たとえば分析の「カテゴリー」という単語を用いてもよかった。しかしそうしなかったのは、この単語(カテゴリー)には、次のような含意が読み取られるからである。

たとえば、心理学の実験においては、被験者の行動は実験者の観察によって、あらかじめ設定されたいくつかのカテゴリー(正解・エラーなど)に落とされた後、分析がなされる。これにしたがえば、被験者の行動について、その意味を決定するのは、(いかに分析カテゴリーの妥当性が保証されようとも)実験者である。このように、J&Hはカテゴリーということばに、相互行為する当の本人の意味世界を無視した、研究者による(ことばは悪いが、勝手な)意味づけ作業を見て取ったのだろう。

しかし、ウィトゲンシュタインを援用しながら、ハロルド・ガーフィンケル(1964/89)が述べたように、実験の被験者が用いる記号の用法は、かれ自身がしたがう「言語ゲーム」内において合理的なのである。したがって、実験者と被験者の各言語ゲームが共通している保証がない以上、実験者が用意する分析のカテゴリーに被験者がいかにしてしたがっていたのか、は問題として立ち得ない。あくまでも被験者自身の用いるカテゴリーは何か、がエスノメソドロジーの問題である。

J&Hが用いている「焦点」ということばは、まずもって、相互行為する人びとが行為の手がかりとして用いていることがらを指している。つまり、人びとが世界を見る焦点のことだ。そして、この焦点は相互行為に参加する人びとに観察可能である限りにおいて、観察者にも観察可能となる。ゆえに、観察者にとっても分析の焦点となりうるのである。

以下、この意味における「焦点」として、「出来事の構造」「活動の時間的組織化」「ターンテイキング」「参加構造」「トラブルと修復」「活動の空間的組織化」「アーティファクトとドキュメント」の7項目について概観していく。もちろん焦点はここで挙げられたものに限られるわけではない。ぜひとも自分自身の焦点を今後の分析を通して発見してほしい。

6.1 出来事の構造
人間の運動は連続していて切れ目などない。しかしわれわれは動作に対して文脈に応じたなんらかの名付けをすることによって、未分化な連続を秩序立てられた非連続に変えている。それがわれわれの持つ、時間という感覚であろう。

相互行為を枠付ける時間感覚について、Erickson&Shultz(1982)はカイロスとクロノスの二種類を区別している(pp.72-3)。カイロスとは「さっきでも、次でもなく、まさに今」のように指示される時間感覚であり、相互行為の時系列的な順序性を説明するのに適した語である。一方クロノスとは時計で計られるような時間のことを指すが、これは相互行為に潜むリズムや周期性を示すのに用いられる。このようにErickson&Shultz(1982)は、どちらの道具立ても相互行為分析には必要だと述べた。

J&Hが本節と次節で述べるのは、Erickson&Shultz(1982)が指摘したような相互行為における時間的な順序性と周期性についてなのだが、これらふたつの時間感覚が検知する非連続なまとまりには、相対的に大きなものと小さなものとがありそうだ。相対的に大きなものうち、この6章1節では「出来事event」と呼ばれる単位に焦点が合わせられる。

相互行為する者が意味ある単位と見なし、またそれが意味ある単位として流通する相互行為のまとまり、それが出来事である。食事ということ、食卓をしつらえるということ、食べ物を口に入れるということ…、いずれも出来事であるが、これらの間には連鎖的な関係や階層的な関係、入れ子の関係などさまざまある。重要なことは、本章冒頭で述べたように、出来事は相互行為の参与者にとって意味ある単位だということだ。J&Hによれば、参与者が容易に同定できる行動の単位は「エスノグラフィック・チャンク」と呼ばれる。これを同定する作業が分析への最初の段階であり、実際われわれはすでに映像データから目次ログを作る際にこの作業を通過しているのだ。

さて、具体的な手順としてJ&HはBamberger&Schon(1991 ※oにはウムラウト有)の議論を引用する。かれらはまず、書き起こしに基づいて「なにか新しいこと」が起きた時点にしるしをつけていったのだが、この段階では区切る基準を考えない。つまり直感にたよる。分節の基準をはっきりとした形で書きつけるのは次の段階での作業となるという。あくまでも参与者にとって意味ある単位を出来事と呼ぶので、エスノグラフィック・チャンクを同定するには、その文化の知識が当然ながら必要となる。そのためには、入念にフィールドワークするか、グループ作業するのがよいだろう。

6.1.1 開始と終了
観察者が単位を同定する上でもっとも有力な基準となるのは開始点と終了点の確定であり、それらに挟まれた間になんらかの名付けをすれば出来事となる。たとえば食事という出来事を開始するには、公式的には「いただきます」といった挨拶が、非公式的には最初の一口を成立させる箸の把持が必要である。同様に、「ごちそうさま」や食器の片づけが終了点をわれわれに示す。

ここで、公式的な開始や終了を宣言することと、相互行為のなかである出来事が始まったり終わったりしたと見なされることとは、一致する必然はない。「いただきます」と言った後で、実際に食べなくてもよいのである。ただし、その場に居合わせた者からすれば、これは奇妙であるだろう。また、「いただきます」ということばには他者からの「はい、どうぞ」という応答や、あるいは他者も同時に宣言するといった、それが開始の宣言であることの認証が伴われることもある。このとき、もしも「はい、どうぞ」という応答がなければ、食べ始めにくくなるかもしれない。

つまり、「いただきます」と宣言したとしても、それによって食事という出来事が自動的に動き出すわけではないのだ。

6.1.2 分節化
連続する時間の流れをあるまとまりに分節化することsegmentationは、相互行為の参与者が実際にしていることだという見方は、くどいけれども相互行為分析の前提から導かれる必然である。もちろんそうした分節化作業も相互交渉されなければならない。この交渉過程で用いられる、分節化を知らせ合うための手続きやリソースを明示化することが、観察者の実際の作業目標となる。

食事場面の例を続けよう。食事という出来事は、(料理を作る)、お膳を揃える、開始宣言、摂食、終了宣言、(片づけ)という下位の出来事に分節化できそうだ。しかし参与者はこの手順にしたがっているのではなく、これをひとつの図式として用いている。これが相互行為分析の採用する見方だ。同様に、身体動作やその空間的配置(たとえば、視線など)や、さまざまなアーティファクト(物を片づけるなど)も、出来事の区切りを交渉する際のリソースとなりうる。また、これらは観察者が分析に用いる焦点でもあるのだ。

もちろん、分節化の交渉がうまく達成されない場合もあるだろう。しかし、それを「トラブル」と見なすためには、同時に、出来事としての全体性を修復するためには、やはりさきほどのようなリソースが用いられるのである。そして、分節化の失敗あるいは成功によって、リソースを共有する実践コミュニティのメンバーシップであることもお互いに可視化される。

6.2 活動の時間的組織化
6.2.1 マクロレベルでの構造
ここで言うマクロレベルでの時間構造には、たとえば1年を単位とする周期(季節、移住など)から、カレンダーに書き込まれたスケジュール、学校や職場の1日の構成するプログラムなどが含まれる。

マクロレベルでの時間構造に研究の焦点を当ててきたのは、従来は社会学者だったという。かれらがあくまでもマクロをマクロとして扱うのに対し、相互行為分析におけるマクロとは、瞬間瞬間において達成されるものとしてのマクロ、あるいは行為を秩序づける際のリソースとしてのマクロである。たとえば学校での時間割を考えてみよう。当然ながら時間割という概念それ自体に、時間を割る能力はない。しかしわれわれは、時間割を目に見える形に表し(紙に書かれた表やチャイムにより)、そこに行為の体系づけに用いるべきリソースとしての正統性を見いだす。もちろんこの正統性も社会的な交渉において確認されるものである。通常の社会学がマクロのマクロ性を前提として議論を進めるとすれば、相互行為分析においてはそれが成立するための要件を微視的な行為のうちに発見しようとするのだ。俗に言うマクロ-ミクロの接合は、相互行為分析においては以上のようにしてなされる。

マクロレベルでの時間の秩序は、ある特定の出来事が特定の時刻に起こるように調整する参与者の振る舞いとして観察される。こうした調整を参与者自身がどう経験し、どう可視化しているのかが具体的な問題となるのだ。

6.2.2 リズムと周期性
人間活動におけるリズムと周期性には多様なレベルが見られるし、また多様なリソースによって構成されている。物理的、生理的なレベルでも、制度的なレベルにおいても、周期性は構成されている。

もちろん、周期性の同定には連続する時間に区切りを入れる、すなわち分節化(6.1.2を参照)というわれわれの実践が前提とされる。周期性を問題とする場合には、実践上の前提がもうひとつ必要となる。二度と同じことは起こらないはずなのに「同じこと」が反復すると見なす、そういう実践である。たとえばJ&Hが挙げる例では、赤ちゃんがスプーンを口に運ぶ動作にたいして、「食べる」ことの反復か、それとも「(スプーンを)もてあそぶ」動作へ切り替わったのか、両親が評価していた。このように、本節で挙げる他の焦点と同様、物理・生理的レベルであったとしても、周期性には意味の社会的な交渉過程が分かちがたく含まれているのだと言える。

周期性の事実とは、確認したように、交渉されなければならない。交渉過程は、反復される「同じこと」の同定と、ある具体的な行為をその「同じこと」のカテゴリーに含めるかどうかの判断から成るだろう。同定と判断から成るこの過程から、次に何が「同じこと」として出現するかの予期が生じる。すなわち、反復される「同じこと」とは、交渉を通じて構成されるはずの何かであると同時に、それを用いて自らの行為を導くリソースでもあるだろう。

周期性として概念化することにより、出来事と出来事の「あいだ」という一種の出来事に焦点をあてることができる。忙しい時間帯に対する暇な時間帯、授業中に対する休み時間などは典型的な「あいだ」である。しかし一方で、この出来事とあいだの関係はそれほど明瞭でもなく、あいだを構成すると一般には考えられる行為が出来事のなかに侵入しつつも、さもその出来事が進行中であるかのように振る舞うといった事態がありうる、このようにJ&Hは指摘している。たとえば、授業中に机の下で漫画を読みふける生徒の事例がそれである。このことも、周期性が社会的に構成されていることから理解することができよう。

活動の周期性は実践への参加過程へも密接に関与している。J&Hが指摘するように、新参者が実践についてかれらなりの意味を形成する際に、周期性は知らねばならない対象でもあるし、自らを実践のメンバーとしてディスプレイするための有効なリソースでもある。また、先述した「あいだ」は、実践への直接的な関与から離れて、熟練者が新参者に指導することを可能にする。

以上見てきたように、活動の時間的な組織化過程は相互行為分析の重要な焦点となりうる。Erickson&Shultz(1977)が指摘したように、時間とはひとつの文脈(When is context)である。つまり、行為の適切さは、今がどのような時間なのか、およびいつそれを行うべきかという、ふたつの意味で時間に依存する。この点で、われわれの行為において構成されつつそれを枠づける時間は相互行為分析の焦点である。

6.3 ターン・テイキング(順番取り)
1978年、雑誌Languageに1本の論文が載った。A simplest systematics for the organization of turn taking for conversationというタイトル、著者はハーヴェイ・サックス、イマニュエル・シェグロフ、ゲイル・ジェファーソンの三人である。この論文を皮切りに、一見無秩序に流れるだけのような日常会話に、科学の対象としての地位が与えられた。ここでターンとは、会話の場において発話する番を指す。Aさんが話し、次にBさんが話す。この意味での「番」である。サックスらが提起した問いは、会話において発話の順番はいかにして決められていくのか、というものであった。通常の日常会話では、こうした発話順があらかじめ決まっていることはない。また、たとえば式次第のような形式であらかじめ「決まっていた」としても、ここまでの議論をふまえれば分かるように、式次第自体は相互行為を導く上でのリソースに過ぎず、いかにして式次第を実行するかという問題はまた別に立てられなくてはならない。

さてサックスらが提起した、発話の順番取りが可能になるためのシステムとは以下のような要件から構成される(以下は、高原・林・林(2002)pp.136-7からの引用)。

1 話し手はターンを交替でとり、その交替は繰り返される。そして少なくともターンの交替は発生する。
2 一方の話し手だけが圧倒的な頻度で話すことがある。
3 2人以上の話し手が同時に話すこともあるが、そのような同時発話は長く続かない。
4 1つのターンから次のターンに移動するときは普通ギャップやオーバーラップが伴わない。たとえ、わずかなギャップやオーバーラップがあっても大抵は問題なくターンが移行する。
5 ターンをとる順番は多様で決まっていない。
6 ターンを持つ長さは多様で決まっていない。
7 ターンにおける発話の長さは前もって決められていない。
8 会話者が話すことは前もって決められていない。
9 ターンの割り当ては前もって決められていない。
10 会話への参加者数は変化する。
11 ターンにおけるトークは切れ目なく続くこともあれば、中断することもある。
12 ターンの割り当てには、決まったテクニックが使われる。
13 「ターン構成ユニット」の長さは1語の場合もあれば、文の場合もあり、その長さは多様である。

このうち、12に登場するターンを割り当てるテクニックとは以下のようなものである。

(1)最初のターン構成ユニットのターン交替には次のシステムが働く。
 a ターンを持っている話し手が次の話者を選ぶ場合は、選ばれたその話者だけがターンを取る義務と権利を持つ。
 b ターンを持っている話し手が次の話者を選ばない場合には、その話し手以外の会話の参加者全員が自分から次の話しのターンを取る権利をもち、最初に話し始めた者がターンを保持する権利がある。
 c ターンを持っている話し手が次の話し手を選ばず、かつ、会話の参加者のなかに次のターンを取る者がいない場合には、現在ターンを持っている話し手がターンを持続することができる。
(2)最初のターン構成ユニットのターン交替においてcが作動する場合には、その次のターン交替に再びa~cが適用され、それ以降もターン交替にはその適用が繰り返される。

注意したいのは、上記前半の12項目は現象の観察から得られた一般的な結論である一方で、後半の2項目は「一度にひとりが話し、話者は交替しうる」という現象が成立するための条件だという違いである。実は後者は現象だけをいくら見ていても、帰納的作業によっては抽出し得ない。現象から得られるのは、前半12項目のように、会話の多様性だけだ。多様を作り出しうる原理的なものを見つけようとしたのが、サックスらのこの論文の主眼なのである。

さてJ&Hの議論に入ろう。相互行為分析の場合、順番取りは発話のみならず、非言語的な行為の交替としても観察される。ジョーダンは、発話、非言語行為、道具使用などすべてを順番取りを構成する要素ととらえた上で、相互行為を活動を媒介するものの別によってふたつのカテゴリーに分けている。ひとつは、言語が主要な媒介物となる相互行為で、「会話型相互行為talk-driven interaction」と呼ばれる。たとえば、インタビューや会議などがそれである。もうひとつは、道具を主要な媒介物として達成されるもので「道具型相互行為instrumental interaction」と呼ばれる。外科手術や宿題などがそれだ。むろん、あらゆる相互行為には発話、動作、道具のすべてが用いられているのだが、何が中心的な媒介物かによって分けているのである。

この区別、特に道具型相互行為というカテゴリーは、多様なテクノロジーを媒介として成立する仕事場などの分析には有効だろう。たとえばJ&Hはこうした場合における順番取りの特徴として次のような現象を指摘する。発話によるターンの次に非言語的行為によるターンが伴われることが多い(Aさん「スイッチを押してください」→Bさん、無言でスイッチを押す、など。行為→発話の順もある)。相互行為のトピックが会話型よりも長く維持される。沈黙の時間帯が長くなる。進行中の相互行為が道具によって中断させられる(電話、故障など)、など。

ある特定の役割を担う参与者が順番を管理する状況もある。会議における司会、授業における教師などがそうした役割に含まれる。特に、生徒の話す順番を決定する、すなわちフロア(発言権)を配分する教師の役割について多くの文献で指摘されている。注意したいのはフロア配分はあくまでも分配者とそれに従う者との相互的な達成だという点である。フロア分配者としての役割を、そもそもある具体的な人物が担っているわけではない。「教師」という役割が「生徒」との関係のなかで相対的に規定され、そうした実践に共同で参与する状況が成立して初めて、「教師」になった人物がフロアを配分することが適切となるのだ。教職員の会議など、授業ではフロアを管理していた同じ人物が、今度は司会者-参加者という新たな役割関係の下に自らを置くことによって、勝手にフロア配分者という役を獲得することはできない、こうした事態を想像すればよい。

6.4 参加構造
本節でJ&Hは参加構造participation structureに触れている。参加構造とは、「相互行為の場で動的に展開する、参与者の関与のしかたの全体的な配置」のことである。たとえば、教室を考えてみればよいだろう。授業という実践においては、ある者に話す権利が与えられる、このことはすでに前節で触れた。同時にこのとき、話者以外にはそれを聞く義務がある。ここで義務とは、実際には聞いていなくても、少なくとも聞く態度をディスプレイしていなければならない、ということを指す。話す権利を有する者と、聞く義務を負う者とは、同時に、しかも相対的に決定される。「全体的な配置」が指すところはここである。

J&Hによれば、参加構造にはある活動に関与するかしないかという問題も含まれる。「全体的な配置」がどこまで広がりを持つのかという問題である。かれらが提示した事例では、分娩室というひとつの部屋に、ふたつの参加構造が観察された。ひとつは出産を控えた女性とその夫、もうひとつは医者や看護婦などのスタッフである。構造間の境界は、会話の相手に誰が選択されるか、少し広く言えば相互行為の相手として誰が志向されるかとして可視化される。この境界は互いに入り込んだ関係にもある。医者たちの参加構造のなかに妊婦が位置づいているのは確かだが、相互行為の相手としてではなく、あくまでも医者たちが相互行為によって解決すべき課題としての位置にあるのだ。

このように、観察した範囲で、同時に複数の参加構造が生起することは往々にしてある。このとき、参与者がいずれにも相互行為の相手として参加できる場合もあれば、そうでない場合もある。また、人間同士が空間的に近接していなくても参加構造が成立する場合もある。たとえば電話を介したコミュニケーションが典型的な事態だろう。

相互行為分析の関心は、以上のような参加構造の形成と維持、あるいはそれらの横断を、参与者がいかにしておこなっているのか、という点である。

6.5 トラブルと修復
実践の円滑な遂行が妨げられる経験がトラブルである。だが行為自体はトラブルのあいだも途切れなく進行している。あくまでもトラブルとは参与者がある現象をそれとして意味づけることで可視化される出来事である。トラブルが相互行為分析の焦点となるのは、それを修復repairする過程から、ひとびとが行為を組織化する際の暗黙のルールや用いられていたリソースが見えるからだ。

現象としてのトラブルはさまざまな形態を取る。参与者がしばらく沈黙してしまったり、似た行為を繰り返したり、物理的にコンピュータが操作不能になったりと、いずれもトラブルと目される出来事である。このように相互行為分析では言語的なトラブルのみならず、非言語的な側面でのそれも対象となる。そこには、すぐに修復されるために多くの場合気づかれないものも、なかなか修復されずに強く自覚されるものもある。

一般にはトラブルとは見なされないが、同様に、行為を組織化するのに日常用いられるルールとリソースを明らかにする出来事として、新参者の参入事態がある。たとえば新入園児が園のさまざまな慣習と出会ったとき、何にとまどい、何にとまどわないかは、園独自の慣習が何かを明らかにするだろう。

6.6 活動の空間的組織化
時間を組織化していたように(6.1~6.2を参照)、われわれは活動のなかで空間も組織化していると言える。ここで組織化されるものには、たとえば身体間の距離や(いわゆるパーソナル・スペース)姿勢といったことがある。

J&Hはいくつかの論点を挙げている。たとえば、航空管制室ではワークステーションという不動のアーティファクトを中心に身体的配置が規定されている(逆に、動かすことのできるアーティファクトなら、そちらを移動させて人間の配置は変えないということがあり得るだろう)。また、空間そのものに相互行為する上でリソースとなりやすい場所とそうでもない場所があるようだ。上座-下座やお誕生日席として指示される空間がそれである。これら空間的リソースが制度的な構造や権力関係と密接に関係することも指摘されている。仕事場において監督的な立場にいる者は、その場全体を見渡せるような空間を占めることが多いのもその現れである。こうした空間的な位置取りが慣習化し、無標化されているとき、通常はその位置に立つことの期待されていない人間がその場所を占めると、有標化された行為としてきわめて目立つこととなる。やや散漫に羅列してきたが、いずれの空間的側面も相互行為を導くリソースであるとともに、相互行為のなかで調整されるべき対象なのだ。

人間同士の身体的配置が相互行為分析においていかに取り上げられてきたかもう少し見てみよう。二人の人間が同じ活動に関与するとき、姿勢の向きが行為を方向付けることがある。横に並行して並んだり、正面から向かいあったり、一方の後ろに回り込んだりするだろう。こうした配置が、食事、カウンセリング、教育的指導といったさまざまな活動に応じて使い分けられ、調整されているのだ。

自由に動くことのできる領域は不動のアーティファクトによっても決まるが(ふたつの物体が同時に同じ場所を占めることはできないという制約による)、その出来事がどのようなものかによっても規定されている。熱心に議論する会議室に堂々と入っていくことができるだろうか?授業中に生徒が各自の机を離れて歩けるだろうか?もちろん、原理としては可能であろうが、出来事を構成しつつ確認する相互行為の過程においては、すぐさま逸脱行為として顕在化するはずである。これを逆に捉えると、何が人間の活動を阻害しているのかという問題が立ちうる。たとえば、教室に置かれた机の配置が、実は活発な議論の生起を抑制しているのかもしれない。

相互行為分析は空間的な物理的配置がどの程度固定的で、どの程度参与者の自由になるのかを検討する。また、このような制約がいかにして参与者の行為に影響し、どのように実際の行為で交渉されているのかを検討する。J&Hはこのように述べた。

6.7 アーティファクトとドキュメント
ここまでの議論でもたびたび指摘されていたが、われわれの環境にはわれわれ自身が作り出したアーティファクトが満ちあふれている。これらモノそれ自体を、活動に関与する一種の行為者としてとらえるのも相互行為分析のひとつの特徴であろう。また、相互行為分析とは関係がないが、同じ発想を共有するフランスの科学社会学者であるラトゥールやカロンが提起するアクター・ネット理論は、顕微鏡や細菌といったモノも人間と同様のアクターとしてとらえ、意味の社会的ネットワークにそれらが入り込む過程を明らかにしようとしている。

アーティファクトと活動との関係は相互行為分析の焦点のひとつだが、われわれの環境には実に多様なアーティファクトが同時に存在するため、まず何が活動と関連しているのかを同定する作業が必要となってくる。机とイスがあるからといって、それが授業中のある相互行為に関連したアーティファクトだということにはならない。同定するためにJ&Hが提起するひとつのポイントは、新しいアーティファクトが活動に導入される事態に注目することである。その上で、活動がどのような変遷をたどるか、どのような場面でアーティファクトが用いられるか、誰が使うか、どのように配分されるか、いかにして相互行為が構築されるか、といったことを問いとすればよい。

気をつけたい点は、アーティファクトの機能はひととおりではない、ということである。たとえば会議に持ち込まれた書類の主要な機能は情報を提示することであろうが、それ以外にも多様な機能を果たす。暑ければそれで顔を扇ぐことができるし、紙を揃える動作は会議の終了を合図する。また、アーティファクトの象徴的な機能にも注意しておくべきだろう。J&Hが例示するように、聴診器の機能は第一に心音を聞くことだが、それを首にかけていることが医者という役割の象徴となる場合がある。

相互行為を規定するアーティファクトの機能に関してJ&Hが特に注目を促すのは、所有と配分の問題である。ある道具を所有すると見なされる役割、ある道具を使ってよいと見なされる役割、ある道具の改変をしてよいと見なされる役割など、アーティファクトをめぐる社会的関係性は相互行為を規定する。また、黒板やモニターなど、パブリックな位置にあるアーティファクトは、複数の参与者が同時に参照することをアフォードするが、ここからいかにして参与者間で注意の焦点を交渉し共有するかという相互行為上の問題が生まれる。

アーティファクトはあらゆる相互行為に関与する。それ抜きの分析は不可能であろう。このことを常に念頭に置かねばならない。


7.0 結論

J&Hが論文を出版した1994年から20年が経とうとしている。その間、このアプローチにどのような進展があっただろうか?実はなにも変わっていないようにも思われるのだ。もちろん、ビデオを担いでフィールドに赴く研究者やひとびとの相互行為に関心を持つ研究者の数は着実に増えている。日本でもいくつかの自主的な研究会が開催されるようになった。

最後に、もう一度確認しておきたいが、ビデオを活用した相互行為分析には、精神や行為や世界に向けられた独特の観点がまとわりついている。これを無視した研究をしても無駄である。認識論と方法論は密接に結びついているのだ。


文献

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Garfinkel, H. 1964 Studies in the routine grounds of everyday activities. Social Problems, 11, 225-250.(北澤裕・西阪仰訳 1989 日常活動の基盤:当たり前を見る 日常性の解剖学:知と会話 マルジュ社 pp.31-92.)
海保博之・原田悦子(編) 1993 プロトコル分析入門:発話データから何を読むか 新曜社
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高原脩・林宅男・林礼子 2002 プラグマティックスの展開 勁草書房

調査ひとくぎり

今日は全道的に学校の修了式・離任式だった。

それが終わった頃を見計らって,調査でご協力をいただいていた小学校へ。3年計画の最終年度が終わるので,これまでのお礼と今後のことを校長先生にお伝えする。調査については,とても好意的に受け止めていただいていて,過分なお言葉を頂戴し,かえって恐縮する。

個人的報告をすると,いたく喜んでいただいた。まったく身が引き締まる思い。

お世話になった先生の中には,この3月でよその学校に異動される方もいる。調査の初期から関わってくださったお二人の先生には丁重にお礼をお伝えした。

これで調査はひとくぎり。残ったデータの分析に取りかかるとともに,4月から今度は学校の研究にもう少し深くくいこんでいく。がんばろう。

協働の場において何を作り出すか(2)

研究者は、新しい概念や説明体系を構築する上で、「たとえ」に強く依存しています。例を挙げましょう。私が片足をつっこんでいる研究領域に、「学習」があります。ある研究者は、それまで行われてきた学習についての研究の背後には大きく分けて2つの「たとえ」があったと指摘しています。1つが「学習とは何かを獲得することである」というたとえ、もう1つが「学習とは何者かとしてどこかに参加することである」というたとえです。

第一のたとえ。多くの人は、「学習とは何かを獲得することである」というのはたとえではなく、学習そのものではないかと反論するかもしれません。しかし考えてみてください。学習とは実に複雑な出来事で、そこには、脳神経学的な変化もあれば、身体運動的な変化もあり、かつ、そうした微細な変化を目に見えるようにするいろいろな装置(その代表がテストです)が絡み合って、私たちはそれらをひっくるめて学習と呼んでいるようです。この個人の身の上に起こる「変化」という現象を、この第一のたとえは、「獲得」という用語の体系で説明しようとします。たとえば、「知識を手に入れる」とか「頭に入りきらない」といったようにです。

第二のたとえは、それに対して、「頭がよくなる」とか「スポーツの選手になる」といった言葉の使い方を学習の見方の典型的なものとします。このたとえの背後にあるのは、身の上に起こる変化がある社会集団の中でどのように位置づけられていくのかという、社会的な立場とか役割の変化過程が学習なのだという考え方です。「頭がよくなる」というのは、実際に脳の性能が上がることではなく、「頭がよい」という部類に含まれる人間として評価される、という意味なのです。

ある社会集団の中で何者かになっていく過程が学習だ、とする考え方はなじみのないものかもしれません。それもそのはずで、この考え方をはっきりと示す理論が提案され、広まっていったのは1980年代の後半のことだからです。そうした理論を提唱した研究者に、エティエンヌ・ウェンガーという人がいます。ウェンガーが提唱した概念に「実践共同体」(communities of practice)というものがあります。これは、私たちの社会的な有り様を捉える概念で、ある実践的な課題によって結びついた社会的なネットワークが複数あって、私たちは同時に複数の社会的ネットワークに所属していることを説明するのに役立ちます。たとえば、保育園に通う子がいる親は、夕方近くなると、子どもを迎えに行くタイミングと仕事の切り上げ方を考えながら過ごすかもしれません。この親のありようは非常に社会的で、「家庭」という社会的ネットワークと、「職場」というネットワークに同時に所属していることに由来するのだ、と説明がなされます。

この実践共同体という概念を使うと、学習とは、その共同体により深く参加して、その共同体において中心的な人物となることと説明されます。ある職場で「仕事ができる」ようになっていく過程とは、単にその人の仕事にまつわる行動が変化することではなく、文字通り、ある仕事をまかせてもらえるかどうかという評価や立場、役割が変化する過程なのです。

このように、たとえが異なると、学習という現象の見方も大きく変わってくるわけで、どのようなたとえを採用するかということの重要性が明らかになったかと思います。ここで話を戻して、「新しいたとえを作ること」について考えてみましょう。その際に、ちょっと工夫をして、新しいたとえを作りながら、新しいたとえの持つ意味についてお話ししたいと思います。

先ほどのウェンガーの実践共同体に基づいて学習を説明すると、下の図1のようになります。楕円は実践共同体を、矢印はある人の社会的変化の軌跡を表します。周辺部から次第に中心部に移動していく様子が描かれています。ウェンガーの著書にも同じような図が描かれているのですが、私は、この図は多分に誤解を招くものであったと考えています。あまりにも平面的に過ぎるのです。

中心に近づく、それは実践共同体で展開されている仕事全体を見通せるような立場に身を置くことです。そのような立場に立ったとき、その人の視界には何が見えているのか、その見え方を想像してみてください。さきほど、ある人は同時に複数の実践共同体に所属していると言いました。実践共同体は複数あるのです。ということは、ある実践共同体の中心に近づくということは、その人の所属していない他の実践共同体からはどんどん離れてしまうことを意味するのです。つまり、ある人がある実践共同体の中心に近づくにつれ、他の実践共同体で何が行われているのか、どんどん見えなくなっているとイメージすることができます。ウェンガーは、このような事態に触れて、「何かが見えるようになることは、何かが見えなくなることだ」と述べています。

図1(省略)
 
しかし図1は平面的であるため、その図を見る読者の目にはすべて(円の中も円の外も)一望できます。これですと、中心に近い人からは円の外が見えないことがイメージしにくいのではないかでしょうか。

そこで、この円を、中心に近づくにつれて深くなっていくすり鉢状の穴として捉えてみましょう。アリジゴクの巣のようなものと思ってください。
 
図2(省略)

このアリジゴクを上から見ると、先ほどのウェンガーのオリジナルの図と同じになります。ただし、喚起されるイメージは異なります。矢印は中心にも近づくのですが、穴の底にも近づきます。すると、穴の外のことはよく分からないだろうということは読者にとって容易にイメージできるのではないでしょうか。ウェンガーの実践共同体に「アリジゴク」というたとえを挿入することによって、ウェンガーが当初想定していたであろうひとつのポイントがよりくっきりと見えるようになりました。

このように、新しいたとえを作ることによって、これまで見えていなかったものごとが誰にとっても見えるようになることがよくあるのです。

ところで、図2は世界を理解する上でのたとえの重要性を説明するためのものでしたが、これは、発達支援やソーシャルワークにとっても重要なたとえではないかと考えられます。たとえば、支援を受ける当事者の中には、当然支援を受けるに値する生活状況であるにもかかわらず、まったく支援を要請しないというケースがあります。それはなぜかというと、図2を用いて説明すると、その人はある実践共同体における実践にどっぷりはまっていて、底の方にすでに移動してしまっているわけです。そうすると、他の生活のありようが見えなくなります。外を歩けばいろいろな人がいていろいろな生活をしているのが見えるわけですから、見えていないはずはない。しかし、見えないのです。

こうした場合、ソーシャルワーカーは当事者の所属する共同体の周辺にあえて入り込み、その上で、他の共同体の存在そのものやそこからの情報や物資を伝えたりするという役割を帯びます。このような人のことを、ウェンガーは「ブローカー」と呼んでいるのですが、まさに支援者はブローカー的な立場にあるのです。

とりとめなくお話ししてきましたが、ここでまとめたいと思います。

支援者と研究者はそもそももっている概念や説明体系が異なるので、世界を異なった視点から見ています。そうした人々が協働する場合には、どちらかがどちらかを一方的に理解しようとするのではなく、異なっていることを認めた上での協働を模索する必要があるでしょう。その際に重要なことのひとつとして、新しい「たとえ」を考え出すという協働活動の目標を立てました。新しいたとえを協働で考え出すことによって、少なくともそれについては支援者と研究者の間で共通了解が取られているわけですから、それを手がかりとして協働活動を進めていけるのではないかと思います。
これはプラットフォームの1つの機能となると思いますが、その名称として、「たとえを作る場」、略して「たとえ場」というものを提案したいと思います。これはオリジナルだろうと思ってインターネットを検索したらけっこう出てきました。まねをしたわけではありませんが、少なくとも商標登録はできなさそうです。残念です。

ですが、機能ははっきりすると思います。プラットフォームにおいて創造された見事なたとえは、きっと、支援の場や研究の場においても有効に使われていくことでしょう。

協働の場において何を作り出すか(1)

これまでに参加させていただいたシンポジウムやワークショップを通して、発達支援という活動に、当事者・支援者・実践者のみなさまとともにどのように参加していけばよいのか、おぼろげながら見えてきたように思います。この場をお借りして、お知恵をお借りできましたことに感謝申し上げます。

私は研究者という立場からこのプラットフォームに参加するのですが、正直に言いまして、何をすればいいのかよく分かりませんでした。支援者の「困りごと」を話し合うワークショップが3回開かれ、3回とも出席しました。参加者のみなさまの口から困っていることがたくさん出てきて、なぜ困りごとが起こるのか、それを解消するにはどうしたらいいかといったアイディアもかなり話し合われたと思います。うかがっていて、私が今まで気づかなかった問題など発見も多々ありました。ですが、やはり研究者としてすべきことがまだぼんやりしています。

ひとつはっきりしているのは、このプラットフォームは支援者と研究者の協働の場となることを目指しているということです。これは、言うほどにはたやすくない道だろうと思います。

その大きな理由のひとつが、「見ているものの違い」です。注意したいのは「見てきたものの違い」ではなく、今現在見ているものの違いです。象牙の塔の中で本とにらめっこしてきた研究者と違い、支援者の方は現実と向かい合ってその矛盾を解決しようとしてきたと思うのですが、そういう意味では両者は「見てきたものが違う」わけです。しかし私がここで指摘したいのはそういうことではありません。

支援者と研究者という2つの職種の間で、そもそもものごとの見え方が異なると思うのです。と言って、何も、こちらの人にとっては赤いリンゴがあちらの人には黄色く見える、ということではありません。世界を理解する枠組みが異なるのです。

固い言葉を使うと、「概念」が異なるのです。ここで概念というのは、世界を分けるためのラベルとでも理解しておいていただければよいかと思います。たとえば「ほ乳類」という概念がありますが、これは、多様な生物を分類するためのラベルのひとつです。ほ乳類という概念を枠組みとして世界を理解する人もいれば、そうでない人もいます。そうでない人の代表は、子どもです。子どもは、日常生活で出会うさまざまな生物の間の類似点や相違点を独自に発見し、独自の分け方で生物界というものをとらえるわけです。それに対して、大人は、より体系化された分類の規則や生物多様性の生じるメカニズムなどを背景とした概念化を行っています。

ある動物をほ乳類と見ようがどうしようが、たいした問題ではないのかもしれません。確かに個々の概念のずれは小さなものでしょう。しかし、たくさんの概念を集め、それらの間の関係をひとまとまりの体系にしたとき、2人の間の世界の見方のずれは決定的になります。例えば、地面と天体を別のものと見るのか、それとも、地面も天体のひとつだと見るのかでは、概念も説明の体系もまったく異なるものとなり、かつ、異なる説明体系を持つ者同士の間では話が通じないことでしょう。言うまでもなく天動説と地動説の違いですが、こうした対立は過去のものではなく、現在でも、例えば進化論と創造説の対立がくすぶる国もあります。

さて、支援者と研究者は、同じように、異なる概念と説明体系のセットに基づいて世界を見ているのでしょうか。もしそうだとしたら、同じ対象、例えば支援を受ける当事者についてすら、見え方、理解の仕方が両者の間で異なるわけですし、そうした二者が同じ対象をめぐって協働することは難しいかもしれません。

両者の概念や説明体系が異なるという可能性は次の事実によって妥当なものになります。

支援者の経験や信念、ライフコースに関する研究は多くあります。こうしたことが研究の対象となるのは、そもそも、支援者の考えていることが研究者には分からないということ、それらは支援者に固有の何かであっていまだ言語化されていないということが前提されているからだと思います。
支援者の概念や説明体系を研究者が知ることは大切なことでしょう。ですが、そもそも、お互いについてよく理解することが大切なのでしょうか。よく理解した上で、概念のセットをどちらか一方のそれに統一することも可能かもしれません。しかし、それは難しいし、なにより、異職種協働ということの良さが失われてしまいます。ミイラ取りがミイラに、ではありませんが、1人の支援者が2人になったところで、困りごとが2倍になるだけです。これでは共倒れです。

大切なことは、協働のための、これまで両者のどちらも持ったことのない新しい概念と説明体系を構築し、両者がそれらを共有し、それを枠組みとして世界を共に見ることが必要だと思います。重要なことは、一方に合わせるのではなく、新しく作ること、そして、作っていく過程そのものが協働の場において行われる中心的な活動だということです。

ただ、概念を作ると一言で言っても難しい。そこで、ここでは「たとえを作ること」を提案したいと思います。 ((2)に続く)