【翻訳】「インプロをすべての教室へ」が出版されました

私も翻訳の一部を担当した本が出版されました。

キャリー・ロブマン、マシュー・ルンドクゥイスト 著
ジャパン・オールスターズ 訳

インプロをすべての教室へ:学びを革新する即興ゲーム・ガイド 新曜社

演劇の一つのメソッドであるインプロ(即興)を通して,「学習と発達」の関係を見直しましょう,という本です。

お手にとっていただけましたら幸いです。

どこでも翻訳

ただいまJALのラウンジにいるんですが,ここでも翻訳中です。

ラウンジはビールが飲めるのでよいですね。

p.xii

ニューマンと私は,(「私たちのヴィゴツキー解釈」では遊びの一つの形態なのですが)パフォーマンスとは新しい存在論ontologyであることに気付きました。つまり,人間がパフォーマンスperformすること,発達をパフォーマンスすることを,私たちからすれば,心理学者たちは取り入れる必要があります。★4このことは私たちの後の研究や執筆のトピックとなったばかりでなく,同時に,私たちの実践の方向性を定めましたし,仲間たちはそれをセラピー,教育,文化的プロジェクトに取り入れました(Holzman ,1997, 2009; Holzman & Newman, 2012; Newman, 2008; Newman & Holzman, 1997, 2006/1996)。

 簡単な要約であるとともに,その後の拡張や最新情報でもあるこの文章によって,『変革の科学者』においてニューマンと私が作り出した用語法や,ときに濃密な文章へと読者を案内してみたいと思います。英語という言語は非常に静的で,時間と空間を表そうとしており,なにより「モノ化」thinifiedされています。ですから,物事の流れ,動き,一元論,統一体,同時性,弁証法的関係性を取り上げようとする人たちにとっては大きな障害となるのです。私たちには,書き言葉で遊ぶ自由,新しい表現法を作り出す自由があります。必ずしもすべてが理解できるわけではないかもしれません。その場合でもおそらく,言語が見方や考え方をどのように制約しているのか,あるいは拡張しているのか,ということについて少なくとも注意が向くでしょう。

★4 ヴィゴツキー自身は演劇に夢中になっていて,『芸術心理学』(1971★邦訳は○○年)という著作は非常に興味深いものです。しかし,(彼が書いたものから言いうる限り)ヴィゴツキーは遊びplayと舞台上の劇playsあるいはパフォーマンスとを結びつけてはいませんでした。

■席捲するヴィゴツキーVygotsky's expanding influence

 この20年間,急速に,しかも予想不可能な形で世界が変わる中で,心理学は自分自身を作り直そうと苦闘してきました。世界とのつながりを保とうとするために,心理学は競合しがちな二つの道筋を切り開いてきました。一つは自然科学との結びつきを保とうとする道です。このことは,脳科学や認知科学,健康科学と心理学との連携に明らかですし,数量化する方法論や「エビデンスに基づく」evidence-based方法論の希求と促進によっても分かります。もう一つの道は,心理学を文化という方向に向けています。このことは,芸術家と手を組んだり,共同研究をしたりすることや,創造性研究が現れたりしたことに明らかです。また,新しい質的方法論が開発されたことからも明らかで,ここには,客観性について心理学がこだわることに対する直接的な反動としてデザインされたものも含まれます。後者の方向性を採用する心理学者や教育者の中には,劇やパフォーマンス,集団過程もしくはアンサンブル過程,人間の発達や学習,クオリティ・オブ・ライフにこうした人間の活動が果たす役割に熱視線を送る者もいます。ヴィゴツキーに由来し,現代の社会文化的(そして,もしくは,文化歴史的)心理学に端を発する概念や方法は,これら二つの道筋に影響を与えてきました。

 心理学において起きた上述とは別の発展によっても,ヴィゴツキー派の考え方が受け入れられていきました。1990年代までの間に,哲学における「言語的転回」linguistic turnが心理学や他の社会科学にも取り入れられました。このような動きにより,言語が哲学的探求の主要な焦点となりました。現実性realityを反映したり,それに対応したりするものとしてではなく,言語は現実として受け止められるものを構成しconstitute,構築するconstructものとして今や見なされているからです。主流の心理学に対して批判的な多くの心理学者がこの考え方によって奮い立ち,自らの抱える不満について理解し,語れるようになりました。心理学が研究の対象を現実のものとして構築し,「現実のもの」として示すのは,その言語,言説discourse,そしてナラティヴを通してなのです。この言語的転回は,主流の心理学に対する主要な認識論的批判である,社会構築主義social constructionismとして今では知られるようなアプローチを生み出しました。

p.xiii

知識,認知,情動は,いずれも主流の心理学にしたがえば個人の内部に存在するものですが,今やそれらは社会的に構築されるものとして見なされますし,社会的実践としてのみ研究可能なものなのです。客観性という点について言えば,もはや相手にするようなものでもありません。なぜなら,それは不可能ですから。(研究者も含めて)人間は(科学的意味も含めて)意味を作るという主張が「意味する」ところは,人間の主観性が前提として存在するのであり,したがって,客観的科学objective scienceはありえないのです(K. J. Gergen, 1991, 1994)。

 社会構成主義者social constructionistsがただちにヴィゴツキーに気づいたわけではありませんでしたし,ヴィゴツキーを紹介された後で全員が一気にヴィゴツキーを取り入れたわけでもありませんでした。児童心理学者,教育心理学者としてヴィゴツキーが1970年代から90年代にかけて名声を博したにもかかわらず,彼の著作を読む理由はないと考えていたのでしょう。しかし,心理学が言語的転回を認め,それにしたがって探求する上で,ウィトゲンシュタインは重要な人物でしたので,ヴィゴツキーとウィトゲンシュタインとを統合するニューマンと私の試みは注目を集めました。二元論に対する批判や,弁証法的方法論,人間の思考や行為についての社会文化的存在論,(外的な現実,内的な現実を問わず)言語が現実を反映するという見方を排するための完成completionという独自の概念など,『変革の科学者』は社会構成主義者に対してヴィゴツキーのアイディアを紹介しました。★5

 ヴィゴツキーの名が知られ始めた心理学の領域には,他に,青少年young peopleの生活についての研究や,青少年育成youth developmentを促進するようデザインされた学校外での取り組みinterventionについての研究があります。研究と実践のフィールドとしての青少年育成(青少年の健全育成と呼ばれることもありますが)は,学際的でグローバルな現象として急速に広がっています。そこでは,創造性とリーダーシップを発揮する機会を提供するプログラムや組織を通して,青少年を生産的で積極的な活動に従事させています。こうした機会を学校が青少年に対して提供しそこなっていること,および,研究や取り組みの予防モデルprevention modelsに特徴的ですが,十代の妊娠や薬物使用といった問題に一つの視点から焦点を当てることに対する,社会的に組織された対応として見なすことができます。この領域にヴィゴツキーが果たす大きな貢献は,学習と発達の社会性についての理解の仕方,および,効果的なプログラムにおいて支援する大人や仲間との関係性が決定的に重要だという理解の仕方にあります。青少年育成にかかわる実践者は,『変革の科学者』でのヴィゴツキーを知ることによって,青少年が自身を越えたパフォーマンスをできるようにすることが実践者の仕事だと見なし,その方向で組織を作っていくことができます。そこでの青少年は,何者かであると同時にその者ではない存在as who they are and other than who they areであるのです。その仕事ぶりについては後述しますが(pp.xvii-xix),私の仲間たちがオールスターズプロジェクトAll Stars Projectにおいて,このような考え方をもったリーダーとして奮闘しています。サボ・フロレスSabo-Floresは,発達と遊びplayについてのヴィゴツキーの見方を(そしてパフォーマンスについてのニューマンと私の見方を),近年現れつつある新しいフィールドである,青少年の参加的評価youth participatory evaluation(Sabo-Flores, 2007)に導入した人ですが,こうした考え方をもって活動する人たちもいます。

 人間の発達と学習には創造性が結びついているという「新しいアイディア」はビジネスの業界(そこでは市場で成功するためには創造性が重要だと認識されていたわけですが)から現れ,教育と心理学に広がっていきました。ケン・ロビンソンKen Robinsonが簡潔に述べていますが,「学校が創造性をつぶしている」のです(この2006年のTEDトークは,1500万人近くが見ているのですが,2012年現在最も多くの人が視聴したものです★以下,URL)。遊びと幼児期の発達,想像,芸術の心理学に関するヴィゴツキーの著作を知る者にとって,このことはヴィゴツキーの多面性に新たに気づくきっかけとなりました。

p.xiv

およそ10年前から,ヴィゴツキーの影響を受けた,創造性や発達と学習に関する議論が,認知発達についての平凡な議論をよそにして起こってきました。これにより,新しいトピックや新しいパラダイムが教育心理学にもたらされ,パフォーマンスすることや芸術に注目が集まってきたのです。★6

■「私たちのヴィゴツキー解釈」を深めるDeepening 'Our Vygotsky'

★5 社会構成主義についてのガーゲンの浩瀚な著作(最も新しいのはK. J. Gergen, 2009; M. M. Gergen & Gergen, 2012)の他にも,理論的な嚆矢としてショッターShotterが人間の主観性や,人間の関係性一般,あるいはより最近ではサイコセラピーにおける「他者性otherness」を探求し続けています。そこには,ウィトゲンシュタインやヴィゴツキー,ヴォロシノフとバフチンが現れています(Shotter, 1997, 2003, 2008; Shotter & Billig, 1998)。この点で言えば,ロックとストロングLock, A and Strong, T.も多作です。二人の書いたSocial Constructionism: Sources and Stirrings in Theory and Practice(2010)ではヴィゴツキーにまるまる1章が割かれていることにも注目です。マクナミーとガーゲンMcNamee and Gergenが1992年にTherapy as Social Constructionという論文集☆5を出版してからこのかた,関係論的で,意味を形成するmeaning-making,非客観論的non-objectiveなカウンセリングやセラピー実践が行われていますが,それらは協働的collaborative(Anderson, 1997; Anderson & Gehart, 2007),言説的discoursive(Pare' & Larner, 2004; Strong & Lock, 2012; Strong & Pare', 2004),ナラティヴ(McLeod, 1997; Monk. Winslade, Crocket, & Epston ,1997; Rosen & Kuehlwein, 1996; White, 2007; White & Epston, 1990)という名でも知られるようになっています。

☆5 野口裕二と野村直樹による邦訳が『ナラティヴ・セラピー:社会構成主義の実践』(1998年,金剛出版)として出版されている。

★6 ヴィゴツキー派のジョン・シュタイナーJohn-Steinerはこの方向性での先駆者として研究を進めており,2つの本の共編者にもなっています。その2つの本とは,Creativity and Development (2003)とVygotsky and Creativity: A Cultural-Historical Approach to Play, Meaning Making and the Arts (2010)です。かつてはジャズミュージシャンだったソーヤーSawyerは,このところ,創造性と即興についての著作を幅広い読者に向けて書いています(R. K. Saywer, 2003, 2007, 2012)。最近ではニューマンと私の昔の学生たちが,遊びの一つの形式として演劇パフォーマンスと即興のもつ大きな可能性について強調しており,学校内での生活に創造性を持ち込もうとしています。マルチネスMartinezは教授学習のためのテクノロジーについて(2011),ロブマンとルンドクゥイストLobman and Lundquistは学校で行える即興の練習について(2007),ロブマンとオニールLobman and O'Neillおよびその仲間たちは様々な場面での遊びとパフォーマンスについて(2011),それぞれ発言しています。さらには,組織や国を超えて研究者たちが協働し,現在,研究や介入プロジェクトを進めています。これにより,教師や生徒,支援を必要とする人々vulnerable populationが創造性と遊びを知るところとなるでしょう(例えば,アメリカ合衆国や日本,フィンランド,スウェーデンでのプレイワールドプロジェクト★URL,ブラジルやセルビアやボスニアヘルチェゴビアのNGOZdravo da Steが行う,複数の世界Multiple Worldsと他の教育プロジェクトがあります★URL)。

ひたすら翻訳

今日も今日とて翻訳です。だんだん調子が出てきましたが,やはり遅い。

尊敬する柳瀬尚紀先生に負けないような「正確な」訳を目指しているのですが,いかんせん,日本語の知識がなく,移し替える先がないことに愕然とします。


 こうした世界規模での活動の渦を作り出している一人として,ニューマンと私による本,そこで示されたアイディア,それに影響された実践を再検討し,この2010年代に大きく変化した政治的背景への現在的な関連について推測する機会を得たことを嬉しく思います。

『変革の科学者レフ・ヴィゴツキー』でのヴィゴツキーをめぐる議論には,最初に出版した当時には類例のない特色がありました。一つには,この本の中でヴィゴツキーをマルクス主義的方法を採用する者として示しました。彼をソヴィエト連邦成立当初の時代背景の中に位置づけると同時に,私たちの時代の新しい心理学に対して彼の人生や著作がどのように貢献するのかを描き出しました。このようにして,ニューマンと私は,ヴィゴツキーがマルクス主義者であったかどうかをめぐる論争に加わりませんでした。彼がそうであったという考え方も,彼の革命性をその科学的姿勢から切り離す考え方も,どちらも曲解だと私たちは確信していました。

p.x

弁証法的活動としての方法(ヴィゴツキーは,「方法の探究searchは,同時に,研究の道具であり,結果でもある」(Vygotsky, 1978, p.65★Mind in Society)と述べています)を★イタリック/創造しようと/苦闘する,史的唯物論者としてのマルクスに方法論的に密接なつながりを有する人としてのヴィゴツキーa Vygotskyを紹介したかったのです。応用のための道具的なものとしての方法という慣習的な概念を,私たちは「結果のための道具tool for result」と揶揄しましたが,ヴィゴツキーはそれをなんとかしてやろうとしていたわけで,このような革新的な打開radical breakを強調するために私たちは「道具と結果」方法論('tool-and-result' methodology)という言葉を作り出しました。

 ヴィゴツキーは,その時代の心理学における革新的打開を行う中で,いかにして人間は学習し,発達するのかという実践的な問題に関するマルクスの洞察insightを持ち込みました。★3私たちはヴィゴツキーの心理学の中に,人間における,個人の発達,文化的発達,そして種の発達に固有な特徴とは,(個人中心的でparticularistic反復の結果として起こるcumulative行動behaviorの変化とは違って)質的であり,かつ変化をもたらすような人間の活動だということを見いだしました。人間は,刺激に対して単に反応するだけでなく,社会的に規定された有用なスキルを獲得したり,規定してくる環境に対して適応したりするのです。人間の社会生活の固有性とは,規定してくる環境を我々自身が変えることです。人間の発達は個人的に成し遂げられるものではなく,★イタリック/社会文化的な活動/なのです。『変革の科学者』(★LVRSをこう訳すか?)が提示したヴィゴツキーとは,後に私たちが「生成becomingに注目する新たな心理学」と呼んだものの先駆者です。それは,成長growthのための新しい道具を作る過程で,人間は自身の社会的本質や集合的創造活動collective creative activityの力を経験する,というものです(Holzman, 2009)。

 方法に関するヴィゴツキーの概念を,弁証法的な道具と結果としての方法と理解することにより,私たちは,あまり注目されていなかったヴィゴツキーの3つの洞察に行き着きました。

 一つ目は,どのように発達と学習とが関係し合っているかについての,慣習から外れた見方です。学習が発達に依存するとか,発達に後続するとかいった見方を排して,ヴィゴツキーは,学習と発達とが弁証法的な統一体unityであり,そこでは学習が発達に先行するか,あるいは発達を導くのだと構想conceptionしました。「指導が効果を持つのは,発達に先行するときだけである。そのとき,発達の最近接領域の内部で成熟しつつある一連の機能全体が目覚め,あるいは駆動する」(1987, p.212)。ニューマンと私は,「学習が導く発達」(あるいは「学習と発達」。どちらも,ヴィゴツキーの構想を短く要約したものです)を,マルクスの弁証法的活動に関する構想を心理学に持ち込む上での重要な貢献として理解するに至りました。そのように理解すると,ヴィゴツキーは,学習が文字通り最初に来ると言っているのでも,それが発達に時間的連鎖として先行すると言っているのでもありません。社会文化的,関係的な活動として,学習と発達は不可分であると言っているのです。つまり,一つの統一体として,学習は発達に対して,連鎖的にではなく弁証法的に結びついているということです。学習と発達は互いを同時に作り合っています。これは,私たちにとって,共に作り合うこのような関係を生み出し,支えるような環境とはどのようなもので,そして,いかにしてこうした環境がそうでない環境と異なるのかに注意を払わねばならないことを意味します。そうでない環境としては,ほとんどの学校がそうなのですが,発達から学習が切り離され,何かを獲得するという学習が目指されるようなものがあります(Holzman, 2007)。

 小さな子どもが,ある言語の話者になる過程に関するヴィゴツキーの記述の中に,このような発達的環境を見いだすことができます。そこでは,赤ちゃんとその養育者は,言葉による遊びを通して,環境を創造する道具と結果の活動に,そして,学習と発達に,一度にかかわっています。


★3 何十年も前に,スクリブナーScribner, S.とコールCole, M.が同様の指摘をしています。その指摘によれば,ヴィゴツキーの社会文化的アプローチsocio-cultural approachは,「人間には固定された本質があるわけではなく,生産的活動を通して自己およびその意識を常に作り出しているという,マルクス理論における心理学的な部分を拡張する試みを示すもの」(Cole & Scribner, 1974, p.31☆4)です。しかしこれは,教育界の人々に知られるようになったヴィゴツキーの姿ではありません。

☆4 若井邦夫による邦訳が,『文化と思考:認知心理学的考察』(1982年,サイエンス社)として出版されている。

p.xi

在ること(being)と成ること(becoming)の弁証法的な過程がどのようなものか,そこに見て取ることができます。つまり,小さな子どもにおいて,現在の姿(例えば,バブバブ言う赤ちゃん)と,今のところはそうではない姿,あるいはそう成りつつある姿(例えば,話し手)とが,いかにして同時に関係づけられるのかが見えるのです。ニューマンと私は,これは革命的な発見だと確信しました。もしもこの発見が広く理解されたなら,人間の発達過程に対する心理学者の理解の仕方を変えることができるでしょうし,学習する子どもの人生the learning livesだけでなく,学習する大人の人生に対しても,心理学者や教育者の向き合い方が変わってくるでしょう。このようにして,『変革の科学者』ではヴィゴツキーを発達研究者として提示しました。当時におけるヴィゴツキー派の研究や発言がほとんどすべて学習(特に,学校内の学習)を強調していたのと対照的です。

 ヴィゴツキー派の洞察から掘り出した別の領域は,考えることと話すことthinking and speechについてのものでした。ニューマンと私は,言語と意味に対して大きな関心を持っていました(彼は言語哲学を学んでいた頃から,私は言語学を学んでいた頃から)。言語が思考を表現するという受け入れられた知識に対するヴィゴツキーの挑戦は,私たちには聡明で,きわめて現代的なものとして見えました。「発話speechは発達した思考を単に表現するものではない。思考は発話に形を変える間に再構成される。思考は表現されるのではなく,言葉において完成するのである」(Vygotsky, 1987, p.251)。これは私たちにとって,ヴィゴツキーによる人間の活動についての弁証法的な理解の形を変えた例でした。私たちはこうした理解を,ニューマンが広く研究してきた哲学者ウィトゲンシュタインのそれと統合しました。「発話は思考を完成させる」というヴィゴツキーの言葉は,私たちにとって,ウィトゲンシュタイン派の言う「生活形式form of life」(Wittgenstein, 1958, pp.11, para.23)でした。「完成」という概念を他者へと拡張しました。つまり,あなたの言葉を「完成」させるのは他の人でもありうるのです。非常に小さな子どもが他者とともに,あるいは他者を通して,いかにして話し手になるのかという問題に戻るなら,養育者はバブバブ言う赤ちゃんを「完成させ」,完成させる養育者を赤ちゃんは創造的に模倣するものと仮定できます。診察室や会議室といった,ヴィゴツキー派の研究者がヴィゴツキーのアイディアを持ち込んでこなかった場所を含め,人生を通して学習と発達の起こる機会がいかにして創造されるのかという問題について,このようなヴィゴツキー派の洞察から私たちはヒントを得ました。

『変革の科学者』では,子どもの発達における遊びの役割についてのヴィゴツキーの理解に注目し,若者や成人の発達における遊びの重要性へと視野を広げました。ヴィゴツキーが遊びについてほとんど書いていないことはニューマンと私にはたいしたことではありませんでした。幼児期の想像遊びやごっこ遊びについてであろうが,あるいはもう少し大きくなってからしょっちゅう行われるようになる,より構造化された規則に従うゲーム遊びについてであろうが,彼が書いたことは私たちにとってものすごく重要だったのです。特に重要だったのは,次の文章です。「遊びの中で子どもはいつもその平均的な年齢や,日常的に行うことを越えた行動をする。遊びの中では,子どもは頭一つ分の背伸びa head taller than himselfをしているかのようだ」(Vygotsky, 1978, p.102)。私たちは彼の言う「頭一つ分の背伸び」が何を意味するのか格闘したのですが,人間の発達が在ることと成ることの弁証法であるということの喩えだ,という理解に落ち着きました。そのように理解したことで,同じような弁証法的な質をもつものとして演劇的パフォーマンスtheatrical performanceを検討することになりました。なぜなら俳優は,現在の姿と今はそうではない姿とを同時にもつからです。

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ニューマンと私は,(「私たちのヴィゴツキー解釈」での遊びの一つの形態である)パフォーマンスとは新しい存在論ontologyであることに気付きました。

翻訳を始めました

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Fred Newman Lois Holzman
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研究の方向を見定める

データなんていくらでも取ろうと思えば取れるわけで,大事なことはそれでもってどちらに行くか,だ。

方向を見定める作業に10年以上かかっているのだが,そろそろ1つの方向性がまとまってきた。キーワードは,「子どもによる環境作り」である。

一方で,「大人による大人のための環境作り」もまた同時並行で進めている。

その一つが,現在もっぱら携わっている研究で,コミュニケーションを可視化する装置を学校の先生向けにカスタマイズする作業である。

先日の研究会では政策提言に食い込むのかどうか,という問いかけがなされた。大事なのはキャッチフレーズではなかろうか,と思う。ぼくならばこのツールは「もう1本のペン,もう1冊のノート」とでも呼ぶだろう。

「新しいペン,新しいノート」と呼ばないのは,今もこれからも授業記録の基本はペンとノートだという発想に基づく。先生が自分の目で見たこと,耳で聞いたことを主観をたっぷりとまじえて書き続けることが大事だ。いまカスタマイズしている作業は,先生のそうした主観に分析の結果を近づけることが中心となる。だから先生は自信を持って主観を研ぎすましてほしいのである。

そうなってはいけないのは,機械の分析結果に引きずられて先生が主観を曇らせることである。いってみれば,検査の結果に悪いところがないため,痛い痛いと叫ぶ患者を放り出す医者のようなものだ。先生がそうなってはいけない。まず人としての関係性において患者の痛みの尊重があって,それを和らげる手段としての検査でなければならない。

2014年総括

2014年の最後の講義が本日終わり,気持ちとしては御用納めです。

研究関係
・「パフォーマンス」という概念によって学習と発達を捉え直すムーブメントにささやかながら貢献できたかと。
 茂呂先生からのお誘いに身を委ねて多くの人とお会いすることができました。また,11月にはHolzman先生を北海道にお連れして,べてるの家訪問と北大でのWSを実現させました。これは本当によかったと思っています。

・授業中のコミュニケーションを分析するシステムについて。
 昨年から引き続き,とある企業と連携してツール開発に取り組んでいます。学校の先生が自分の授業を振り返るときに有効なツールになればいいなあと思っています。教心,教育工学会,学校の公開研究会,台湾でのシンポで発表してきました。来年は,このツールに関する公開研究会を国内の他の大学から研究者をお呼びして開催する予定。また,授業以外のフィールドでの活用事例について,発心で発表します。

・論文を1本書きまして,来年にはなんかに載るのではないかと思いますが,微妙にレスポンスがにぶいのが気になります。

教育関係
・教育技術論
 中高の先生になるという学生を相手に何を論ぜよと言うのか分からないまま引き受けて,もがきながら始めました。これまでやったことのなかった試みを2つ入れています。
 1つは,学生同士で模擬授業の様子をタブレットPCで録画してもらい,その映像を私が後から見てレポートとともに評価を全員にフィードバックすること。
 もう1つは,自分の授業風景を撮影してその日のうちにyoutubeにアップロードすること。

・教育心理学
 非常勤で教育心理学を担当することになりました。実は教職の教育心理学を担当するのは初めてのこと。何も蓄積がないところから授業を構想して苦労していますが,学生が明るいので助かっています。

・最近,コーチングを勉強し始めています。ひょんなことからつながった絆を頼りに,少しずつネットワークを広げつつあります。

今年は多くの人に引き回していただいたという感があります。それに応えられるだけの中身をつけていかなければなりません。

来年もよい年になりますよう。みなさまにおかれましてもどうかご自愛下さい。

伊藤崇

「言語的社会化ハンドブック」を読む(1)

大学院の演習で,オックス,シフリン,デュランティの「言語的社会化ハンドブック」を輪読することにしました。その第1回目を先日行い,私が第1章を報告しました。

以下は,その際のレジュメです。なんかの参考になれば。


Ch.1 The theory of language socialization
Ochs, E. & Schieffelin, B. B.

… language socialization research examines the semiotically mediated affordances of novices' engagement with culture-building webs of meaning and repertoires of social practice throughout the life cycle. (p.17)

Researchers view communicative practices involving novices as deeply sociocultural, in that:
– novices are socially defined and positioned as certain kinds of members;
– conversation and other discourse genres and practices are embedded in and constitutive of larger social conditions;
– semiotic forms are complex social tools that are situationally and culturally implicative;
– codes are parts of repertoires and morally weighted;
– learning and development are influenced by local theories of how knowledge, maturity, and wellbeing are attained. (p.17)

・言語的社会化とは?「言語使用を通しての社会化であると同時に言語を使うようになるための社会化」(Ochs & Schieffelin, 1986)
・言語的社会化研究の課題は?社会的なつながりをうちたてる「意味の網の目webs of meaning」(Geertz, 1973)や「無意識的な行動パターン」(Sapir, 1929)を,子どもたちがいかにして創造するか。そのためには,ミクロな相互行為,マクロな社会,子どもの発達過程のすべてに注目しなければならない。
・1980年代から,言語学,心理学,人類学研究の領域では,子どものコミュニケーション実践がなされる社会文化的環境が見過ごされていたことに気付かれはじめた。音韻や統語構造の獲得とともに,子どもが誰に対して何をどのように話すのかということが重要視され始めた。現在ではこの言語的社会化研究は複数の領域にまたがる研究としていくつもの大学で教えられている。
・ここ10年では,子どもだけでなく,大人が新しい環境に入っていく場も検討の対象になっている。

・語用論的発達developmental pragmatics: さまざまな言語形式とそれらが用いられる「状況の文脈」(Malinowski, 1935)との対応関係に焦点を当ててきた。
・言語的社会化研究は,子どもが「文化という文脈」との関係で「状況の文脈」を理解し,それを実現することに注目する。言語形式,実践,イデオロギーの文化的な解釈と社会構造をとらえることが必要なので,談話とエスノグラフィーとを統合する方法を採る。
・言語獲得language acquisition研究: 母子間の会話を主要な観察の場としてきた。
・言語的社会化研究は,社会文化的に設定された場面の中に子どもが大人や他の子どものコミュニケーション相手として繰り返し関与する場面に観察の対象を広げた。
・子どもの人類学研究も見過ごしている点があり,言語的社会化研究はそこを埋めようとしている。それは,子どもが家族やコミュニティのメンバーとして育つ過程を統合する中心として言語が果たす役割である。

・言語的社会化が持続する期間は,そのメンバーが存在を認知され始めた時点から,社会的に死ぬまで。例えば,胎児に話しかける親やそれを促す育児関連企業にとって,胎児は社会のメンバーである一方で,ある社会では話し始める前の子どもに大人は話しかけない。

■言語的社会化と行為主体性(agency)
・パーソンズの「社会化」という概念は,大人というゴールへの単一方向的で決定論的な変化を指すものとして批判されてきた。ボアズの「文化化」(enculturation)は,子どもを大人の文化を受動的に受け取る存在とみなし,受け取った思考様式に基づいて子どもは自動的に行為すると捉える。ブルデューとパスロンもボアズとほぼ同様の図式で描くが,教育を恣意的な権力関係間に発生する象徴的暴力と捉えている点が異なる。

・言語的社会化における「社会化」は上記のいずれとも異なる。むしろ,サピアの「言語は社会化の強力な推進力」という考え方に基づく。彼によれば,個人は文化や社会に従属する存在ではなく,自身の創造性や情動的な衝動をじかに満たそうとするものである。こうして個人の内側から湧き出るものによって形成される文化をサピアは「真正な文化」(genuine culture)と呼んだ。

・言語的社会化の基本的な考え方の1つ目は,あるコミュニティの新参者は,古参者によってそこでの実践への参加をうながされるのであり,決して決定されるわけではないということである。実際に,現代では,古参者の方が新参者から教えられることもある。

・新参者が行為主体性をもつと捉えると,慣習が固定化される方向性とともに,流動化するという方向性についても考えねばならない。電話に出る際の決まり文句も協働的な「達成」であるし,逆に創造的活動はルーチンにもとにして可能になる。即興はパターン化された日常を背景にして初めて創造性を帯びる。反復は単なる反復ではなく,それまでのものを「ずらす」効果があるのだ。

・言語的な慣習の流動性は,ライフサイクルや世代間においても見られる。その際に,変化しない側面が何で,変化するのが何かを研究するのは言語的社会化の射程の範囲内。
・ただ,その場合でもやはり新参者は受け身なのではなく,相互に行為主体性を発揮して,価値のある言語的能力が何なのかということが相互行為の場において構成される。

・相互行為において普遍的な現象は,知識や権力の非対称性である。何かを知っていることそのものが権力関係を含意する場合が大いにある。ということは,子どもの知識が正統的でないものとして扱われる社会的な実践もある。
・学校のような教育場面は,まさに,新参者のコミュニケーション実践において権力が行使される場である。しかし同時に,子どもの行為主体性は支配的な道徳的文脈に対する抵抗と再創造として発揮される。例えばSterponiはテキストを読む場面で,教師の目を盗む「空間」を作ろうとする子どもたちの実践を取り上げる。

■文化の話し手になる
・言語的社会化の基本的な考え方の2つ目は,新参者が円滑にコミュニケーションできるようになることは,同時に,その者がコミュニティにおける熟達したメンバーになっていくことでもある,という点である。それぞれのコミュニティには,状況ごとにいかにして話すかについての変数が用意されており,新参者は状況に関与することを通してそれらの変数を理解するようになる。例えば病院の診察を受ける子どもは医者が保護者に言うことを間接的に聞いて,何が医療に関係する言葉なのかを理解する。
・なんらかの言葉の使い方を理解することとは,同時に,なんらかの社会的な活動を行うこと。例えば,謝るための言葉の使い方を覚えることは,謝るという社会的能力を養成すること。
・したがって,言語的社会化は局所的であり状況に埋め込まれている。新参者はそこで話される言葉の使い手になるだけでなく,そこの文化の話し手にもなる。

■生まれと育ちの二分法を超えて
・言語的社会化論は通常対立的に語られるもの(発達と学習,個人と社会など)の間の媒介項として機能する。
・言語的社会化では生物学的な成熟を前提としている。同時に,子どもが社会に参入してそこで社会的に用いられる行為などに気づくことも前提する。社会的な実践の中には,乳児の生物学的特徴から必然的に普遍性をもつものもあるが,それでも文化的な多様性はある(高田のボツワナのサンの研究,Brownの共同注意研究など参照)。

・育てる方の話しとして,言語的社会化研究では,養育者が子どもの生活環境をどのようにして整えているのかに注目する。それはまた,人々の間のコミュニケーションのやり方を左右する。例えば家のドアが村の中心に向かって開け放たれているならばマルチパーティ会話が起こりやすい。
・したがって,このような子育ての生態学的な環境の差異は,子どもの会話理解をも左右する可能性がある。たとえば,誰がどうすれば「聞き手」になれるのか,の理解。

■社会化のために用いられる記号的リソース
・(1)社会化するための主要な道具であると同時に目標でもあるさまざまな記号に注目すること。(2)それらの記号がリソースとしてさまざまな意味のある社会文化的な実践(道徳,情動,関係,制度など)を維持したり変えたりすることについて民族誌学者なみに敏感になりなさい。
・文法,語彙体系,音韻,言語行動,会話の連鎖,ジャンル,レジスター,チャンネル,コードなど,記号システムを構成する諸要素がいかにして社会化を促しているかが問いとなる。例えば親族を呼ぶ際の語彙の習得は家族関係の組織化と密につながっている。
・言語人類学的観点からは何がトピックとなるのか?
記号がいかにして社会的状況とインデキシカルにつながっているのか(パース,シルヴァステイン)。コミュニティにおける異種混交性とその階層性(ブルデューの文化的資本)にそって子どもがどのように社会化され,それら言語的変異をどのように使い分けるか。

・複雑な状況の多様な理解を広く捉るために,これらの記号システムを分析する際には,①体系的なドキュメンテーション,②関連する人工物の収集,③緻密なエスノグラフィーが必要。縦断研究も,異なる生活環境での調査も必要。

・言語的社会化研究では,上記のリソースが相互行為において用いられることを観察し,人々が歴史的に社会を持続させつつ変化させる過程を探究する。

■言語的社会化実践
・意図的に行われる社会化もあるだろうが,多くの言語的社会化は記号によって媒介された実践に繰り返し参加することを通して実現する。習得内容はそこでは暗黙的implicitであり,ブルデューとパスロンの言うように暗黙的な社会化過程の方がより一般的である。
・それは,実践の場に実際に自身の身を置き,観察をしながら学習する過程。その意味で,実践的知識が言語化された学校とは異なる。ブルデューらは前者をdiffuse education(冗長な教育),後者をpedagogic inculcation(教育的な説明)と呼ぶ。
・ただ,日常的実践の場面で養育者が子どもの注意をガイドするなど積極的に手助けをしていることもある。例えば日本の養育者は,子どもが適切にあいさつできるかどうか,常に目を光らせている。道徳的な違反が起きた場合には,台湾の養育者などは子どもがそのことを恥ずかしいと思うようにしむける。同年齢同士ではうわさ話をすることが自分たちの社会秩序形成につながる。
・要するに,新参者は制度的な場でも日常的実践の場でも,社会化する機能を持つ言語的なはたらきかけ(例えば,はずかしめ,からかい,賞賛,誤用訂正,うわさ,など)の受け手となる。

■言語的社会化とスピーチ・コミュニティ
・言語とコミュニティそれ自体が変化のただなかにあること,新参者の言語的社会化も当然その影響下にあること,そして,新参者自身もその変化をもたらしていること。したがって,結果的にあるコミュニティは言語的な異種混交性をもつ。
・ゆえに,コミュニティにはPratt(1991)の言う「接触のゾーン」(zones of contact)がある。それはときには安定的に見られるものの,時には流動的である。それは,文化,言語,社会,自己意識を構成する媒体となる。(伊藤コメント ★ある者が「他者」となると同時に,その「他者」に対する自己として自己が生成される。)

・例えばシフリンが70年代にパプアニューギニアに入ったとき,すでにそこではキリスト教伝道師が入っており,言語と文化に変化が起きていた。また,西インド諸島ではフランス語をもとにしたクレオールに対して英語を高く評価する価値観が養育者の間で育っている。こうした状況を背景とした日常的なコミュニケーションは,言語のシフトが起こる現場と考えられるので,そこでの親子間会話などを微視的に見ることが大局的な言語シフトを説明する。

・若者が移民として新しい言語コミュニティに入ることも接触のゾーンを形成する。そこにおいて,自身の連続性,アイデンティティ形成,断絶,脱アイデンティティが経験される。例えばスペインに移民してきたモロッコの子どもは,学校ではスペインの子どもによる身体的・言語的実践によって直接的・間接的に低く見られる。その一方で,その子どもの家族にとってはスペインの様々な制度にアクセスするための媒介者として子どもが機能する。
・ある言語の獲得は,その社会における立ち位置と結びついている(その言語を話すからには,これこれこのような人だろうという評価を得る)。第二言語獲得による社会化,あるいはかつて話されていた言葉の習得による社会化はこのことがはっきりする過程だ。

観察者を傍観者から当事者に変える実践

障害者イズム ~このままじゃ終われない~ Part1 [DVD]

先週に引き続き,「障害者イズム」から別の1シーンを使って,詳細な行為の分析をいかにすべきか,実習を行いました。以下は,人々のやりとりを細かく見るといろいろなことが浮かび上がってきますよ,ということを伝えるために,実習の最後に配布したお試しの分析レジュメの内容です。

私は会話分析・相互行為分析について誰かから系統立てて学んだことはありませんので,見る人が見たら多分におしかりを受ける内容ではあるでしょう。にもかかわらず掲載するのは,その見る人がもしもこれをご覧になったらいろいろと教えていただければなあと思ったからです。あつかましいですね。

見えない参加者—撮影者

N氏が県営住宅を借りる相談をしに,N氏とH氏は連れだって某県庁住宅課の職員(職員AとB)の元に訪れた。参加者による一連のやりとりが終わった直後の場面を見ると,2人の職員は立ち上がって,相談者N氏とH氏のいる場所とは逆の方向に顔を向けて背中をかがめていた。これは一連の相談が終わった後のあいさつと解釈されるが,果たして誰にあいさつをしているのだろうか。

それは,「撮影者」である。撮影者はカメラの後ろ側にいる限り決して画面に映り込まないが,参加者としてその場に共在する。

中立的立場の撮影者?

この場面での職員たちの行動は,かれらが撮影者をどのような存在として理解していたのかを推測する手がかりになるように思われる。仮に職員たちが撮影者を「壁の虫」のように無視していたのだとしたら,あいさつと目されるような行動は取らなかったであろう。では,撮影者は職員たちにとって相談者の1人であったのであろうか。実は,そうでもなさそうである。まず,相談の一部分を書き起こししたものを見てみよう。

シークエンス 住宅を借りる相談をする(B:職員B H:H氏)

01 B あのー車イスで使えるような設備も整ってるんですよね
02 H はい
03 B ここが空いてるんですよ
04 B だけどなかなかねこんだ逆にこちらのほうが募集していても
05 B なかなか需要者がいないっちゅうね
06 B こうちょっとこうふうね
07 H 場所て場所的にはどこらへんになるんですか
08 B ほ

抜粋したシークエンスでは,主に職員Bが相談に対して返答していた。その内容は,住宅への居住が可能な条件に適した応募者がなかなかいない,というものであった。職員Bの発話に対して相づちを打ったり問いかけをしたりしているのはH氏であった。その他の職員AやN氏はこのシークエンスでは発話していなかった。

相談の当事者はN氏であった。N氏が希望していた県営住宅の部屋は自分の職場からも近く理想的であったのだが,そこは世帯用であり,家族がいなければ(N氏は独身であり,さらに親元から独立しようとしていた)借りることはできない。一方で,職員Bが勧めていたのは単身用の部屋であった。しかしN氏にとって問題だったのはそこが職場から遠く離れていたことであり,車でもないと通勤できない(N氏は脳性マヒ患者であったために自動車の運転は困難であった)。

職員Bがこのシークエンスで行いたかったことは,おそらく,「相談者を説得して単身用の部屋で妥協させること」であったと推測される(このことは直前のナレーションによって明らかとなる)。職員Bのねらいがこれであったという前提で議論を進めると,職員Bが相互行為を通して行いたかったことの1つは「味方を手に入れること」であったと推測される。

説得する相手である相談者以外で味方になる可能性をもつ参加者として,まず職員Aが想定できる。ただし,職員Aは職員Bと同じ制度的な役割をもつ。相談者と相談を受ける者との間で思惑が対立していた場合,議論は平行線をたどることとなろう。そこで,相談者(車イス利用者)と相談を受ける者(職員)という対立する2つの役割以外の参加者が職員Bにとっては必要であったのではないか。つまり,中立的な立場の存在である。中立的な立場の参加者を味方とすることに成功した場合,人数において相談者を上回ることとなり,説得に成功する可能性は高くなるであろう。このような判断を職員Bが実際に頭の中で行っていたかどうかはまったく不明である。しかし,非合理的な推論ではないだろう。

このシークエンスにおいて中立的な立場に立ちうる唯一の参加者は撮影者であった。撮影者を味方につけることができれば,職員Bのねらい(=相談者を説得して単身用の部屋で妥協させること)が達成される可能性は高まる。このような前提であらためてシークエンスを見てみよう。

視線の分析を通して何が分かるか?

このシークエンスの映像を見ていて気がつくことは,職員Bが発話をしながら視線をあちこちに向けていたことである。発話だけを見ると,H氏と職員Bとの対話のように見えるため,職員BはH氏だけに視線を向けていたように考えてしまうが,実際には,視線を向ける対象を頻繁に変えていた。

このシークエンスでは映像の画面に2名の職員しか映っていない。そのため職員Bが相談者の誰に視線を向けているのか,明確ではない。しかし,シークエンス終了間際に,2名の相談者と2名の職員の座っていた位置関係が俯瞰的に映っている。その映像に基づくと,図2のような身体配置によってシークエンスが展開されていたこととなる。

20130523fig2.gif

図2 住宅を借りる相談をするシークエンスにおける参加者の身体配置

図2で想定された身体配置を背景として,発話の書き起こしに職員Bの視線の動きを重ね合わせ,さらに発話をジェファーソン・システムで書き起こしし直したものを次に示す。

シークエンス 住宅を借りる相談をする(発話の書き起こしの下にある記号は,職員Bの視線の向き先にある人/物を示す)

視線の向き先にある人/物の凡例
H:H氏  N:N氏  O:撮影者 D:書類 —(ハイフン)は,視線の移動を示す。

01 B あの::くるまいすでつかえるような(.)せつびもととのってるんですよね:
      HH—-NNNNNNNN—-DDDDDDDDD—-HHHHHHHHHHHHHHHH
02 H (はい)
03 B ここが(2.0)あいてるんですよ=
      HHHHHHHHHHH—O-N—–
04 B =だけどなかなかね(.)こんだぎゃくに:(.)こちらのほうがぼしゅうしていても=
      –DDD—-H—-NNN—OOOOO——N—OOOOOOO——HHHHHHHHH——
05 B =なかなか(1.0)じゅようしゃがいないっちゅうね:
      OOOONN–H-NNNNNNNNNNNNNNNNNN—
06 B こうちょっとこう.h[ふうね::
      HH—NNNNN—D-NO–H—N–
07 H            [ばしょてばしょてきにはどこ[らへんになるんですか
08 B                              [ほ
                 HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

シークエンスにおいて,職員Bが撮影者を頻繁に見ていたのは,4行目と5行目の発話の最中であった。この発話は,「今度は逆にこちらの方が募集していてもなかなか需要者がいない」というものであった。ここにおいて職員Bは「こちら」という言葉を用いていた。これは,行政を担う職員という自分たちの制度的役割を指し示すものであったと言えるであろう。このような発話をしながら撮影者に視線を向けることにはどのような意味があると考えられるだろうか。

直前の発話が「単身用の部屋ならば空いている」ことを主としてH氏に視線を向けながらなされていたことと対比的にとらえるならば,4~5行目で職員Bはあたかも「行政の努力」を誰かに伝えようとしていたようにも見える。そして,視線が撮影者にも向き始めたことは,「行政の努力」を伝える相手としてH氏やN氏以外に撮影者が含められるようになったこととして解釈できるであろう。

参加の形式という観点からもう少し補強してみよう。

二者による会話(dyad interaction)を考えてみる。この場合,1人の参加者が話し手となった場合,他方が自動的に聞き手として扱われる。一方で三者以上の会話(multiparty interaction)の場合は,参加の形式に多様性が生まれる。1人の参加者が話し手となったとき,他の参加者の中で誰が聞き手なのかは自動的に決まらない。むしろ,誰が適切な聞き手となるのかはその相互行為を通して・その相互行為の中で即興的に決められていく。

会話中の参加者の視線の動きはこうした聞き手の決定過程と密接に関係していると考えられる。すなわち,話し手が視線を向けた対象は,優先的に聞き手として判断される傾向にあるのである。

撮影者に視線を向けることで,職員Bはその人を「聞き手」とすることができる。すなわち,相談という会話に臨場する単なる傍観者としてではなく,撮影者を相談に強制的に巻き込むことができるのである。撮影者は不可避的にカメラを通して職員を見ていたということも重要なポイントである。職員Bには撮影者が自分を見ていることが自明であり,だからこそ撮影者に視線を向けることで見つめあいを容易に達成することができた。

まとめると

職員Bは「相談をする者」でもなく「相談を受ける者」でもない参加者である撮影者を会話に巻き込むことに成功し,同時に,それを基盤として,撮影者に行政の努力を伝えていたと解釈できるであろう。

ともすると,ビデオ映像に基づくエスノグラフィーや会話分析・相互行為分析ではカメラの背後にいる撮影者の存在を無視して目の前で起きていることを分析してしまう。しかし,映像に映っている参加者が撮影者を参加者の1人として積極的に扱い,そのことが合理的な目的を持ちうる場合もありうるのである。

オンラインセミナー

Psychological Investigations: A Clinician's Guide to Social Therapy Schools for Growth: Radical Alternatives To Current Education Models

昨年の夏に来日したEast Side InstituteのLois Holzmanが,日本の研究者や学生向けにオンラインセミナーを開くことになり,それに参加することにしました。

いつも何かを教える立場なので,何かを「受講」するのは久しぶりです。

第1週目の今週は,まずは参加者同士の自己紹介。毎週英語で何かをアウトプットしていく作業は頭がしびれます。英文を校正してくれるサポートが欲しいです。

上に掲載しているのはセミナーで購入を指定された本。新年度の講義の準備と同時並行で読み進めて,果たしてパンクしないだろうかと今から戦々恐々であります。

フォルマリストのドミナント(3)

言語芸術・言語記号・言語の時間 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

「可動性は必然的に体系の存在を前提としています」

これは,クリスチーナ・ポモルスカとの「言語と文学における時間について」と題された対談においてヤーコブソンが語ったことです。あるものが動き,変化するためには,そのものが内部的に関係的構造をもつことが必要だ,と彼は述べたのです。ちょっと考えると,なにものとも関係しておらず自由であった方が運動は起こりやすいのではないかと思いますが,逆に,結合がなければ変化が起こらないというのです。どういうことでしょう。

先述のように,ヤーコブソンは文学作品の内的ダイナミクス,あるいは文学ジャンルにおける価値の相対的配置の歴史的変化を検討する上でのドミナント概念の有効性を指摘しました。その際に,ソシュール派言語学で言うところの言語の共時態と通時態が,説明の方便として用いられました。

ここには注意が必要です。「言語と文学における時間について」でヤーコブソンが明言しているのですが,共時態と通時態とは切り離すことができません。構造主義言語学は静的な体系としての言語を仮定し,そのダイナミクスを捨象したと批判されましたが,ヤーコブソンはそもそも変化のしくみを説明するものとして,体系,すなわち共時態という概念を採用したのです。

ヤーコブソンの言語機能論をもう一度想起しましょう。言語メッセージを構成する6つの要素は同時に存在しますし,それぞれに対応した言語機能も同時に生起します。ただ,ドミナントとなる要素に応じてある言語メッセージが強く関説的機能を果たすようにも,強く詩的機能を果たすようにもなるのです。

ここで,関説的機能を果たしていた言語メッセージが,いつのまにか詩的機能を果たすメッセージへと変化するという事態を考えてみましょう。さほど難しくないと思います。この変化はドミナントの交代として記述できます。すなわち,潜在的にはすでに存在していた詩的機能が前面にあらわれ,代わりにかつてドミナントであった関説的機能が副次的位置に後退するという変化です。同じことが文学ジャンルにおける価値の変化にも言えます。グレチュコ(2012)にしたがえば,これは単なる変化ではなく歴史的な発展です。「こうして文学はその構造的な予備資源,つまり文学システム内には潜在的には存在するが,ある時期まで積極的な役割を演じない諸要素によって発展することになる」(pp.103-104)。

時間的な変化という問題についてヤーコブソンの考えていたことが明らかになってきたのではないでしょうか。彼はこのようにも述べています。「詩的形式の進展という点から見れば,進化はある要素が消滅し他の要素が出現するという問題ではなく,むしろ,組織を構成する多種多様な要素の相互関係に位置の変化が生ずることを意味する」(ヤーコブソン,1988,pp.224-5)。ここで重要なのは,変化するものはいったい何なのか,という点です。共時的な構造を構成する諸要素そのものが形を変えるのではありません。ヤーコブソンによれば,変化とは,諸要素間の配置の相対的な交代として記述されるのです。

ヤーコブソンのこのような考えに接していくつかの疑問もわきます。今指摘しておきたいのは,ドミナント概念の適用範囲となる対象についてです。彼は,作品の中のドミナント,文学領域の中のドミナントといったように,ドミナント概念をいくつかの言語領域に広げることをしています。こうしたことが可能なのは,言語が必然的に時間の2つの相,すなわち同時性(=共時態)と継起性(=通時態)をもつからだということはすでに述べたとおりです。では,そのような時間的二重性のもとで理解するのが適切な現象であれば何にでも適用可能なのでしょうか。

文献

ヴァレリー・グレチュコ (2012). 回帰する周縁:ロシア・フォルマリズムと「ドミナント」の変容 貝澤哉・野中進・中村唯史(編著) 再考ロシア・フォルマリズム:言語・メディア・知覚 せりか書房 pp.97-109.

ロマン・ヤコブソン 浅川順子(訳) (1995/2012). 言語芸術・言語記号・言語の時間 法政大学出版局

ロマン・ヤーコブソン 岡田俊恵(訳) (1988). ドミナント 桑野隆・大石雅彦(編)  ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム:詩的言語論 国書刊行会 pp.222-227.