ひたすら翻訳

今日も今日とて翻訳です。だんだん調子が出てきましたが,やはり遅い。

尊敬する柳瀬尚紀先生に負けないような「正確な」訳を目指しているのですが,いかんせん,日本語の知識がなく,移し替える先がないことに愕然とします。


 こうした世界規模での活動の渦を作り出している一人として,ニューマンと私による本,そこで示されたアイディア,それに影響された実践を再検討し,この2010年代に大きく変化した政治的背景への現在的な関連について推測する機会を得たことを嬉しく思います。

『変革の科学者レフ・ヴィゴツキー』でのヴィゴツキーをめぐる議論には,最初に出版した当時には類例のない特色がありました。一つには,この本の中でヴィゴツキーをマルクス主義的方法を採用する者として示しました。彼をソヴィエト連邦成立当初の時代背景の中に位置づけると同時に,私たちの時代の新しい心理学に対して彼の人生や著作がどのように貢献するのかを描き出しました。このようにして,ニューマンと私は,ヴィゴツキーがマルクス主義者であったかどうかをめぐる論争に加わりませんでした。彼がそうであったという考え方も,彼の革命性をその科学的姿勢から切り離す考え方も,どちらも曲解だと私たちは確信していました。

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弁証法的活動としての方法(ヴィゴツキーは,「方法の探究searchは,同時に,研究の道具であり,結果でもある」(Vygotsky, 1978, p.65★Mind in Society)と述べています)を★イタリック/創造しようと/苦闘する,史的唯物論者としてのマルクスに方法論的に密接なつながりを有する人としてのヴィゴツキーa Vygotskyを紹介したかったのです。応用のための道具的なものとしての方法という慣習的な概念を,私たちは「結果のための道具tool for result」と揶揄しましたが,ヴィゴツキーはそれをなんとかしてやろうとしていたわけで,このような革新的な打開radical breakを強調するために私たちは「道具と結果」方法論('tool-and-result' methodology)という言葉を作り出しました。

 ヴィゴツキーは,その時代の心理学における革新的打開を行う中で,いかにして人間は学習し,発達するのかという実践的な問題に関するマルクスの洞察insightを持ち込みました。★3私たちはヴィゴツキーの心理学の中に,人間における,個人の発達,文化的発達,そして種の発達に固有な特徴とは,(個人中心的でparticularistic反復の結果として起こるcumulative行動behaviorの変化とは違って)質的であり,かつ変化をもたらすような人間の活動だということを見いだしました。人間は,刺激に対して単に反応するだけでなく,社会的に規定された有用なスキルを獲得したり,規定してくる環境に対して適応したりするのです。人間の社会生活の固有性とは,規定してくる環境を我々自身が変えることです。人間の発達は個人的に成し遂げられるものではなく,★イタリック/社会文化的な活動/なのです。『変革の科学者』(★LVRSをこう訳すか?)が提示したヴィゴツキーとは,後に私たちが「生成becomingに注目する新たな心理学」と呼んだものの先駆者です。それは,成長growthのための新しい道具を作る過程で,人間は自身の社会的本質や集合的創造活動collective creative activityの力を経験する,というものです(Holzman, 2009)。

 方法に関するヴィゴツキーの概念を,弁証法的な道具と結果としての方法と理解することにより,私たちは,あまり注目されていなかったヴィゴツキーの3つの洞察に行き着きました。

 一つ目は,どのように発達と学習とが関係し合っているかについての,慣習から外れた見方です。学習が発達に依存するとか,発達に後続するとかいった見方を排して,ヴィゴツキーは,学習と発達とが弁証法的な統一体unityであり,そこでは学習が発達に先行するか,あるいは発達を導くのだと構想conceptionしました。「指導が効果を持つのは,発達に先行するときだけである。そのとき,発達の最近接領域の内部で成熟しつつある一連の機能全体が目覚め,あるいは駆動する」(1987, p.212)。ニューマンと私は,「学習が導く発達」(あるいは「学習と発達」。どちらも,ヴィゴツキーの構想を短く要約したものです)を,マルクスの弁証法的活動に関する構想を心理学に持ち込む上での重要な貢献として理解するに至りました。そのように理解すると,ヴィゴツキーは,学習が文字通り最初に来ると言っているのでも,それが発達に時間的連鎖として先行すると言っているのでもありません。社会文化的,関係的な活動として,学習と発達は不可分であると言っているのです。つまり,一つの統一体として,学習は発達に対して,連鎖的にではなく弁証法的に結びついているということです。学習と発達は互いを同時に作り合っています。これは,私たちにとって,共に作り合うこのような関係を生み出し,支えるような環境とはどのようなもので,そして,いかにしてこうした環境がそうでない環境と異なるのかに注意を払わねばならないことを意味します。そうでない環境としては,ほとんどの学校がそうなのですが,発達から学習が切り離され,何かを獲得するという学習が目指されるようなものがあります(Holzman, 2007)。

 小さな子どもが,ある言語の話者になる過程に関するヴィゴツキーの記述の中に,このような発達的環境を見いだすことができます。そこでは,赤ちゃんとその養育者は,言葉による遊びを通して,環境を創造する道具と結果の活動に,そして,学習と発達に,一度にかかわっています。


★3 何十年も前に,スクリブナーScribner, S.とコールCole, M.が同様の指摘をしています。その指摘によれば,ヴィゴツキーの社会文化的アプローチsocio-cultural approachは,「人間には固定された本質があるわけではなく,生産的活動を通して自己およびその意識を常に作り出しているという,マルクス理論における心理学的な部分を拡張する試みを示すもの」(Cole & Scribner, 1974, p.31☆4)です。しかしこれは,教育界の人々に知られるようになったヴィゴツキーの姿ではありません。

☆4 若井邦夫による邦訳が,『文化と思考:認知心理学的考察』(1982年,サイエンス社)として出版されている。

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在ること(being)と成ること(becoming)の弁証法的な過程がどのようなものか,そこに見て取ることができます。つまり,小さな子どもにおいて,現在の姿(例えば,バブバブ言う赤ちゃん)と,今のところはそうではない姿,あるいはそう成りつつある姿(例えば,話し手)とが,いかにして同時に関係づけられるのかが見えるのです。ニューマンと私は,これは革命的な発見だと確信しました。もしもこの発見が広く理解されたなら,人間の発達過程に対する心理学者の理解の仕方を変えることができるでしょうし,学習する子どもの人生the learning livesだけでなく,学習する大人の人生に対しても,心理学者や教育者の向き合い方が変わってくるでしょう。このようにして,『変革の科学者』ではヴィゴツキーを発達研究者として提示しました。当時におけるヴィゴツキー派の研究や発言がほとんどすべて学習(特に,学校内の学習)を強調していたのと対照的です。

 ヴィゴツキー派の洞察から掘り出した別の領域は,考えることと話すことthinking and speechについてのものでした。ニューマンと私は,言語と意味に対して大きな関心を持っていました(彼は言語哲学を学んでいた頃から,私は言語学を学んでいた頃から)。言語が思考を表現するという受け入れられた知識に対するヴィゴツキーの挑戦は,私たちには聡明で,きわめて現代的なものとして見えました。「発話speechは発達した思考を単に表現するものではない。思考は発話に形を変える間に再構成される。思考は表現されるのではなく,言葉において完成するのである」(Vygotsky, 1987, p.251)。これは私たちにとって,ヴィゴツキーによる人間の活動についての弁証法的な理解の形を変えた例でした。私たちはこうした理解を,ニューマンが広く研究してきた哲学者ウィトゲンシュタインのそれと統合しました。「発話は思考を完成させる」というヴィゴツキーの言葉は,私たちにとって,ウィトゲンシュタイン派の言う「生活形式form of life」(Wittgenstein, 1958, pp.11, para.23)でした。「完成」という概念を他者へと拡張しました。つまり,あなたの言葉を「完成」させるのは他の人でもありうるのです。非常に小さな子どもが他者とともに,あるいは他者を通して,いかにして話し手になるのかという問題に戻るなら,養育者はバブバブ言う赤ちゃんを「完成させ」,完成させる養育者を赤ちゃんは創造的に模倣するものと仮定できます。診察室や会議室といった,ヴィゴツキー派の研究者がヴィゴツキーのアイディアを持ち込んでこなかった場所を含め,人生を通して学習と発達の起こる機会がいかにして創造されるのかという問題について,このようなヴィゴツキー派の洞察から私たちはヒントを得ました。

『変革の科学者』では,子どもの発達における遊びの役割についてのヴィゴツキーの理解に注目し,若者や成人の発達における遊びの重要性へと視野を広げました。ヴィゴツキーが遊びについてほとんど書いていないことはニューマンと私にはたいしたことではありませんでした。幼児期の想像遊びやごっこ遊びについてであろうが,あるいはもう少し大きくなってからしょっちゅう行われるようになる,より構造化された規則に従うゲーム遊びについてであろうが,彼が書いたことは私たちにとってものすごく重要だったのです。特に重要だったのは,次の文章です。「遊びの中で子どもはいつもその平均的な年齢や,日常的に行うことを越えた行動をする。遊びの中では,子どもは頭一つ分の背伸びa head taller than himselfをしているかのようだ」(Vygotsky, 1978, p.102)。私たちは彼の言う「頭一つ分の背伸び」が何を意味するのか格闘したのですが,人間の発達が在ることと成ることの弁証法であるということの喩えだ,という理解に落ち着きました。そのように理解したことで,同じような弁証法的な質をもつものとして演劇的パフォーマンスtheatrical performanceを検討することになりました。なぜなら俳優は,現在の姿と今はそうではない姿とを同時にもつからです。

p.xii

ニューマンと私は,(「私たちのヴィゴツキー解釈」での遊びの一つの形態である)パフォーマンスとは新しい存在論ontologyであることに気付きました。

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