協働の場において何を作り出すか(2)

研究者は、新しい概念や説明体系を構築する上で、「たとえ」に強く依存しています。例を挙げましょう。私が片足をつっこんでいる研究領域に、「学習」があります。ある研究者は、それまで行われてきた学習についての研究の背後には大きく分けて2つの「たとえ」があったと指摘しています。1つが「学習とは何かを獲得することである」というたとえ、もう1つが「学習とは何者かとしてどこかに参加することである」というたとえです。

第一のたとえ。多くの人は、「学習とは何かを獲得することである」というのはたとえではなく、学習そのものではないかと反論するかもしれません。しかし考えてみてください。学習とは実に複雑な出来事で、そこには、脳神経学的な変化もあれば、身体運動的な変化もあり、かつ、そうした微細な変化を目に見えるようにするいろいろな装置(その代表がテストです)が絡み合って、私たちはそれらをひっくるめて学習と呼んでいるようです。この個人の身の上に起こる「変化」という現象を、この第一のたとえは、「獲得」という用語の体系で説明しようとします。たとえば、「知識を手に入れる」とか「頭に入りきらない」といったようにです。

第二のたとえは、それに対して、「頭がよくなる」とか「スポーツの選手になる」といった言葉の使い方を学習の見方の典型的なものとします。このたとえの背後にあるのは、身の上に起こる変化がある社会集団の中でどのように位置づけられていくのかという、社会的な立場とか役割の変化過程が学習なのだという考え方です。「頭がよくなる」というのは、実際に脳の性能が上がることではなく、「頭がよい」という部類に含まれる人間として評価される、という意味なのです。

ある社会集団の中で何者かになっていく過程が学習だ、とする考え方はなじみのないものかもしれません。それもそのはずで、この考え方をはっきりと示す理論が提案され、広まっていったのは1980年代の後半のことだからです。そうした理論を提唱した研究者に、エティエンヌ・ウェンガーという人がいます。ウェンガーが提唱した概念に「実践共同体」(communities of practice)というものがあります。これは、私たちの社会的な有り様を捉える概念で、ある実践的な課題によって結びついた社会的なネットワークが複数あって、私たちは同時に複数の社会的ネットワークに所属していることを説明するのに役立ちます。たとえば、保育園に通う子がいる親は、夕方近くなると、子どもを迎えに行くタイミングと仕事の切り上げ方を考えながら過ごすかもしれません。この親のありようは非常に社会的で、「家庭」という社会的ネットワークと、「職場」というネットワークに同時に所属していることに由来するのだ、と説明がなされます。

この実践共同体という概念を使うと、学習とは、その共同体により深く参加して、その共同体において中心的な人物となることと説明されます。ある職場で「仕事ができる」ようになっていく過程とは、単にその人の仕事にまつわる行動が変化することではなく、文字通り、ある仕事をまかせてもらえるかどうかという評価や立場、役割が変化する過程なのです。

このように、たとえが異なると、学習という現象の見方も大きく変わってくるわけで、どのようなたとえを採用するかということの重要性が明らかになったかと思います。ここで話を戻して、「新しいたとえを作ること」について考えてみましょう。その際に、ちょっと工夫をして、新しいたとえを作りながら、新しいたとえの持つ意味についてお話ししたいと思います。

先ほどのウェンガーの実践共同体に基づいて学習を説明すると、下の図1のようになります。楕円は実践共同体を、矢印はある人の社会的変化の軌跡を表します。周辺部から次第に中心部に移動していく様子が描かれています。ウェンガーの著書にも同じような図が描かれているのですが、私は、この図は多分に誤解を招くものであったと考えています。あまりにも平面的に過ぎるのです。

中心に近づく、それは実践共同体で展開されている仕事全体を見通せるような立場に身を置くことです。そのような立場に立ったとき、その人の視界には何が見えているのか、その見え方を想像してみてください。さきほど、ある人は同時に複数の実践共同体に所属していると言いました。実践共同体は複数あるのです。ということは、ある実践共同体の中心に近づくということは、その人の所属していない他の実践共同体からはどんどん離れてしまうことを意味するのです。つまり、ある人がある実践共同体の中心に近づくにつれ、他の実践共同体で何が行われているのか、どんどん見えなくなっているとイメージすることができます。ウェンガーは、このような事態に触れて、「何かが見えるようになることは、何かが見えなくなることだ」と述べています。

図1(省略)
 
しかし図1は平面的であるため、その図を見る読者の目にはすべて(円の中も円の外も)一望できます。これですと、中心に近い人からは円の外が見えないことがイメージしにくいのではないかでしょうか。

そこで、この円を、中心に近づくにつれて深くなっていくすり鉢状の穴として捉えてみましょう。アリジゴクの巣のようなものと思ってください。
 
図2(省略)

このアリジゴクを上から見ると、先ほどのウェンガーのオリジナルの図と同じになります。ただし、喚起されるイメージは異なります。矢印は中心にも近づくのですが、穴の底にも近づきます。すると、穴の外のことはよく分からないだろうということは読者にとって容易にイメージできるのではないでしょうか。ウェンガーの実践共同体に「アリジゴク」というたとえを挿入することによって、ウェンガーが当初想定していたであろうひとつのポイントがよりくっきりと見えるようになりました。

このように、新しいたとえを作ることによって、これまで見えていなかったものごとが誰にとっても見えるようになることがよくあるのです。

ところで、図2は世界を理解する上でのたとえの重要性を説明するためのものでしたが、これは、発達支援やソーシャルワークにとっても重要なたとえではないかと考えられます。たとえば、支援を受ける当事者の中には、当然支援を受けるに値する生活状況であるにもかかわらず、まったく支援を要請しないというケースがあります。それはなぜかというと、図2を用いて説明すると、その人はある実践共同体における実践にどっぷりはまっていて、底の方にすでに移動してしまっているわけです。そうすると、他の生活のありようが見えなくなります。外を歩けばいろいろな人がいていろいろな生活をしているのが見えるわけですから、見えていないはずはない。しかし、見えないのです。

こうした場合、ソーシャルワーカーは当事者の所属する共同体の周辺にあえて入り込み、その上で、他の共同体の存在そのものやそこからの情報や物資を伝えたりするという役割を帯びます。このような人のことを、ウェンガーは「ブローカー」と呼んでいるのですが、まさに支援者はブローカー的な立場にあるのです。

とりとめなくお話ししてきましたが、ここでまとめたいと思います。

支援者と研究者はそもそももっている概念や説明体系が異なるので、世界を異なった視点から見ています。そうした人々が協働する場合には、どちらかがどちらかを一方的に理解しようとするのではなく、異なっていることを認めた上での協働を模索する必要があるでしょう。その際に重要なことのひとつとして、新しい「たとえ」を考え出すという協働活動の目標を立てました。新しいたとえを協働で考え出すことによって、少なくともそれについては支援者と研究者の間で共通了解が取られているわけですから、それを手がかりとして協働活動を進めていけるのではないかと思います。
これはプラットフォームの1つの機能となると思いますが、その名称として、「たとえを作る場」、略して「たとえ場」というものを提案したいと思います。これはオリジナルだろうと思ってインターネットを検索したらけっこう出てきました。まねをしたわけではありませんが、少なくとも商標登録はできなさそうです。残念です。

ですが、機能ははっきりすると思います。プラットフォームにおいて創造された見事なたとえは、きっと、支援の場や研究の場においても有効に使われていくことでしょう。

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