文体としての教育

「ぼくは田舎教師でいるつもりです」

一日授業公開の振り返りの時間、おっしゃったこと。

「子どもたちは卒業後、このコミュニティで暮らしていきます。コミュニティで暮らす上で、仲間内で話し合う能力は絶対に必要です」

「自分たちの学校の図書館に必要なもの」をテーマにした子どもたちの議論を参観した先生の質問に対して、おっしゃったこと。

「オルタナティブな教育を求めて、自分でそういう場を作ってこられた方もいます。でもぼくは、公立の学校という制度の中でもう少しやっていきたい」

先日、上士幌中学校の石川晋先生が一日授業公開をされたので参加してきた。上の発言は正確ではないものの、記憶に頼って再現した石川先生の言葉。

公立学校は、公教育の理念を実体化する場である。これは多分にぼくの憶測を含むが、恐らく、先生は公教育の理念の「内容」ではなく、「方法」を方法において実体化しようとされているのではないだろうか。

内容はどうでもいい、という話ではない。内容にはそれに応じた方法がある、ということだ。そしてこの現在、目の前にいる子どもたちに応じた方法もあるだろう、ということだ。

文芸になぞらえるならば、言ってみれば文体としての教育である。文体とは、内容、読者、作者の三者による関係性のもとで生まれる何かである。内容と文体の関係はよく知られたものであるが、文体は誰が送り手で、誰が受け手かに応じても変わる。

石川先生は、この文体そのもののシフトに対して臆さない。授業における文体も柔らかい。硬直していない、と言った方がよいか。

自分の中では、まだあの一日のことを消化できていない。ただその印象を語るのに、これを書きながら「文体」という言葉がふと浮かんだ、というくらいである。

石川先生、参加者の皆様、上士幌中の先生方にはお世話になりました。子どもたちもすれ違うたびあいさつしてくれてありがとう。場違いなぼくが「ここにいていいんだ」という気持ちになりました。

2011年の抱負

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

年始にあたり、今年の抱負というか予定を月ごとに刻んでいきたいと思います。

1月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。月末に大学院の後輩の結婚式あり。

2月: 現在進行中の小学校調査、最後のビデオ撮りをします。3つの学年をそれぞれ2年間追っかけたことになります。データ分析をなんとしてでも終わらせて、担任の先生にお渡ししたい。

3月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。月末に発達心理学会あり。RTやります。

4月: 所属する大学院が2011年度から新しい体制となり、それにともない新しいゼミがスタートします。科研プロジェクトの最終年度なので、データ分析とアウトプットを徹底的に行います。それと、チベットと香港からの留学生との研究が始まるので、そちらにも注力しなければなりません。

5月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

6月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

7月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。月末に教育心理学会あり。この学会でもシンポを企画します。

8月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。36歳になります。年男なんですね。ちなみにさかなクンと同い年ということを昨年暮れに知りました。

9月: よっぽどのことがなければ、ローマでの国際学会に参加します。初めての国際学会参戦なので楽しみです。あと、日心にも参加予定。

10月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

11月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

12月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

こうしてみると、PCをずっと小脇に抱えて過ごす1年になりそうですね。あと、年間を通してですけど、2012年3月に新居に引っ越すので、それまでに内装のことや子どもの入学の手続きのことなどいろいろと考えなければならないことが増えそうではあります。

んで、昨年はtwitterがおもしろくてぶつぶつつぶやいていましたが、今年は原点回帰してこちらのブログをなるべく毎日更新していきたいと思います。方針としては、もう少し実質的なことを書きたいと。

というのも、ぼちぼち博論を書かねばという気持ちになってきたのです。昨年ちょっとがんばったので、実はあと2~3本審査を通れば博論執筆にゴーサインが出るのではという期待があるのですよ。なので、博論を構成する文章をこちらに毎日ちびちびと書くというプレッシャーを自分にかければ、年末には1本できているのではと。

まあ根がいいかげんなので淡い望みですが、やるだけやってみます。そんな年頭所感であります。

メディア芸術祭巡回企画展 札幌展

文化庁が毎年開催しているメディア芸術祭の企画展が札幌芸術の森を中心に行われている。関連していくつかのシンポジウムも企画されていた。

30日に「つながりの中のネットアート」と題されたシンポジウムがあったので出かけた。

シンポジストは、ナカムラマギコさんと中村将良さんによる夫婦ユニットWho-fu(ふうふ)、首都大学東京の渡邊英徳先生

まずは渡邊先生のプロジェクト紹介。先生の研究室では、Google Earthを使った一連のプロジェクトを展開。共通するのは、Google Earthという「神の視点」の代表のようなものに、具体的な個々人の声や記憶を遺していくというコンセプト。

そのうちのひとつ、「ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクト」は、太平洋の島国ツバルに住む1万人の国民ひとりひとりの顔を文字通りウェブ上で可視化するもの。見るだけでなく、閲覧者からツバルの方々へダイレクトにメッセージを送ることもできる。なんでもアメリカ西海岸にツバルから移住した人が多いようで、そこから知り合いに向けてたくさんのメッセージが送られているそうだ。「いつのまにかSNSとして使われていました」というのが面白い。

もうひとつ紹介していただいた「ナガサキアーカイブ」。かつての長崎の写真をたんねんに集めてこられた方がご高齢になりどのように未来に遺していくか問題になったときに、生まれたプロジェクト。記憶をテーマにしたプロジェクトとして、現在は広島版と沖縄版も進行中だそうだ。

続いてWho-fuのお二人に、昨年のメディア芸術祭エンターテインメント部門で大賞が授賞された作品「日々の音色」についてお話ししていただく。

昨年これを見ておおいに感動したので、制作の裏話についてうかがえたのがとてもよかった。制作には3ヶ月かかったとのこと。登場する84人(Who-fuの知り合いと、SOURのファン)にWebcamの前でやることについて具体的に指示を出して、撮影されたものをFinal Cut ProとAfter Effectsで編集。その作業にご苦労されたそうだ。84人全員の名前がクレジットされた貴重なデモムービーも見せていただく。

今回のお二人の作品はいずれもウェブによるつながりというのがコンセプトの一部になっている。シンポジウムのタイトルにあるように、実際の人々のつながりのなかでウェブというのが機能するというかたちになっていて、ウェブによるつながりだけで閉じて満足するという話にはなっていないのが確認できてよかった。

勘定心理学

 人数を数える、回数を数える、点数を数える。心理学に限らず、人間を対象とする科学の基本は、「数えること」つまりは勘定だ。

 数えることは単純なことだと思われるかもしれない。子どもも数えるし、サルだって数える。でも、心理学において数えることは難しい問題をはらんでいる。

 オレンジが5個あります。時計が3個あります。あわせて何個ですか。

 よくある無理難題である。オレンジと時計は種類が違うのだからあわせていくつと問うことは無意味だ。

 太郎君は1年生のときは5日、6年生のときは120日、学校を休みました。あわせて何日休みましたか。

 さて、あわせるものはどちらも欠席日数なのだから足しても問題はなさそうであるが、やはりこれも無意味な問いだというのはすぐに分かる。

 1年生のときの欠席は何か体調が一時的にすぐれないとかの理由によるものかもしれない。でも6年生の欠席は長期欠席と呼ばれるもので、その理由についてはよく考えてみる必要がある。したがって、同じ「休む」という行動であったとしても、あわせて勘定することには意味がない。

 傍目には同じ行動の集まりかもしれないが、よくよく見るとオレンジと時計が混在しているのかもしれない。心理学で勘定するときには、常にこのような精査する目を持ちながらでなければならない。

コミュニケーション教育推進会議?

 文科省では先月から「コミュニケーション教育推進会議」なるものを開催している。

 文部科学省- コミュニケーション教育推進会議

 謳い文句によれば、現代の青少年のコミュニケーション能力の向上が狙いだという。

 確かに、どうすれば向上するのだろう。コミュニケーションに関心を持つ者としては気になるところである。会議の主催者はどう考えているのだろう。

 検討事項を読む限り、現在のところ、劇やダンス、音楽など芸術表現の体験をすることがコミュニケーション能力の向上に資する具体的施策として挙げられているらしい。

 もちろん芸術表現を体験することは、しないよりはいいだろう。それを止める積極的理由はない。

 ひっかかるのは、芸術表現の体験が、向上を求められているコミュニケーション能力の改善につながるという理屈。演劇やダンスをすると、社交的になれるのだろうか。

 むしろ、子どもたちが日常的に学校で体験している授業や休み時間やその他さまざまな活動におけるコミュニケーションについて、もっと取り上げるべきだろうと思う。なぜならあまり具体的なところははっきりと明らかになっているわけではないから。(ちょうど今進めている研究はこのあたりのことを見ている)

 おそらく、子どもたちの日常のコミュニケーションを支える感覚的・美的(aesthetic)側面というのもあるはずだ。たとえば、きちんとあいさつをすることが善いことだという感覚。そういうのを地道に指導していくことの方がずっと将来役に立つのでは?

授業のリズム

 いくつかの授業を見てきて思うことは、同じ単元であっても、先生によって授業の進め方はまるで違うということだ。

 特に、やりとりの進め方が異なる。具体的に言うと、顕著なのが、リズムだ。コミュニケーションのリズムに気を遣っているかどうかは先生によってだいぶ意識に差がある。

 リズムに気を遣う先生は、自身の話し方にメリハリをつけることはもちろんなのだが、それを子どもたちにも求める。というのも、いくら自分の話し方でリズムを整えようと思っても、受け答えをする相手がそれに乗ってこなければ、トータルとしてのリズムはいびつなものになるからである。

 餅つきにたとえれば、先生がテンポよく「こねどり」をすることによって、子どもたちの杵を上げ下げするテンポが先生のリズムに引き込まれていくような、そんな感じを目指しているように思えた。

 たとえばある先生は、発問に対する子どもの回答があまりにも長くなると、途中でも切ってしまうという。発言する内容が事前にまとまっていなければ、子どもたちは「あのー、それでー、だからー」と、だらだらとした話し方になってしまう。これでは、先生の発話のテンポがよかったとしても、コミュニケーション全体のリズムは整わない。そういうときには、「、(てん)」で終わるのではなく、「。(まる)」で終わりなさいと指導されるのだそうだ。当然、「短く言い切る」の言い換えである。

 発言を短く言い切ることができるようになれば、自ずと先生と子どもたちのやりとりのリズムは整然としてくる。それは、とりもなおさず、先生が自身の話すテンポに自覚的にならなければならないということでもある。

 いずれにせよ、コミュニケーションのリズムが教室全体で整っていくことにより、子どもたちの授業への集中の度合いは高まっていくように思われる。これはまだ観察者の直感的なものである。

 ただ、授業中の子どもたちのとある非言語的行動を時間軸に沿って見ていくと、コミュニケーションにリズムがあるなと感じた授業については、時系列グラフにそのリズムがはっきりと見て取れる。その点についてもう少し掘り下げていくと面白いのではないかと最近考えている。

政治と言葉

 このところの政局の動きにあわせて,さまざまな立場の人が百家争鳴の様相をなしている。

 個人的な仕事の立場からすれば,そのときどきの行政の方針にただ従うのみである。窮屈かもしれないが,人生の喜びはそんな状態からも生まれうると信じているので気は楽だ。

 なので政治とはなるべく距離を保っていたいのだが,喧しく囀る百家にはときおり首をかしげ,ややもすれば一言申し上げたくなる。

 それは言葉の使い方である。正確には,カテゴリーの運用だ。

 日本国民とはすべて日本という国に籍を置くすべての人間を指す。当然である。

 にもかかわらず,ある種の人は,たとえば「組合ではなく国民の声に耳を傾けよ」と言う。またある人は「国民を守るために基地は必要であり,県民の負担やむなし」と言う。

 定義上,国民とは日本という国に籍を置くすべての人であるから,「組合の主張を聞く」ことと「国民の声に耳を傾ける」ことは矛盾しない。「国民を守る」のであれば県民という国民も同時に守らねばならない。

 おそらくは「組合およびその身内ではなく,国民のうち非組合員の声に耳を傾け」「県民以外の国民を守るために基地は必要であり」と言いたかったのであろう。

 誤解されないようにしてほしいが,私自身は上記の言明に単純に首肯するものでも拒否するものでもない。関わりようによっては,賛成にも反対にも回るだろう。

 現在の私の希望は,言葉を正確に使っていただきたいということにつきる。

 政治とは利害が対立する立場同士で「手打ち」をする儀式だ。あちらを立てればこちらが立たないのが当然であり,そこを三方損(損するもう一人は調停者)という形に落として「手打ち」するのが政治である。そういう見方からすれば,意見の相違は当然であり,前提である。

 政治家とはある立場にある人々の意見を代弁する存在である。だから,そういう人の物言いには,必然的に「私たち○○の立場からすれば」という枕詞がついているはずだ。

 にもかかわらず,その枕詞をあえて無視するかのように「国民の皆さんを守るために」「市民の感覚からすれば」「みんなの生活をよくするために」などと宣う。あまつさえ,党の名前にさえしてしまう。

 ことが政治家だけであればまだいいのかもしれないが,マスコミや評論家も同様の言葉づかいに余念がない。

 以上の百家にお願いしたいことは,日本という国に在籍する人間すべてを包括するカテゴリーは適切に運用して欲しいということである。聞いてて気持ちが悪い。

学術出版の行方

 しばらく前から、たけくまメモがそのエントリーのいくつかを費やして、マンガをめぐる出版システムの将来を構想していました。たとえば、最新の話は電子出版をめぐってのものでした。

「輸出産業」などともてはやされるマンガも大変なようですが、ながらく「輸入産業」などと揶揄されてきた人文社会系研究の学術出版は、さてどうなんでしょう。

 個人的な体験ですが、生協書籍部をふらふらしていて、何気なく「月刊言語」を手に取りました。言語学の一般向け雑誌としてはメジャーかつ老舗であるこの雑誌ですが、最近は背表紙のタイトルを見て買うかどうか決めていました。

 最新号は昨年の12月号。目次を読むとすべての連載が最終回を迎えており、特集もなんかしんみりしている。最終ページをめくると、「休刊」の2文字が。だいぶ前から報道はあったようですが、寡聞にして知りませんでした。残念なことです。

 版元である大修館も厳しいのでしょうが、そういう中でも「学びの認知科学事典」といった好企画も生まれている。

 一般的に言って、ナイスな企画を実現させるには、相当のノウハウ、人脈、そして知識と知恵もつ編集者という基盤が必要でしょう。学術出版社の社会的な役目にはそういう人材を育てることもあるのではと思います。このような基盤は大切な財産ですから、絶対にしっかりと残していただきたいし、私もおよばずながらそのお手伝いをしたいと思っています。(だから、「事典」は買いますよ)

学問と社会

 自分の子どもに、大学に入ってほしいかどうかを(だいぶ先取りして)考えたときに、正直なところ「どちらでもいい」と思う。

 それよりも、社会のなかで義理人情しがらみ云々を抱えながらきちんと本分を果たしてほしいと思う。

 よくよく考えると、大学という場所は社会とそりが合わないところである。「学問の自由」を本当にとことんまでつきつめれば、どうしても反社会的にならざるを得ないこともあるからだ。

 実際、ある時代まで大学はそうとう反社会的な場所だった。今では助成金をめぐってだいぶ牙を抜かれてはいるが、その「ウリ」である学問にはそもそも反社会性が内在しているのだからその牙はまだどこかで眠っているはずである。

 ついでながら言えば、ある時代までは小学校だってそうとうに反社会的な場所だったはずだ。家業の一番忙しい時期に働き手を閉じこめておくことは、共同体の運営にとっては痛手だったはずである。

 では、だからと言って大学が学問という手段で現在の社会に背くことなく奉仕すればよいかと言うとそれもまたまずいのではないかと思う。社会を対象化、目的化することには全体主義という危険性がつきまとうからだ。ちょっとばかり自分が賢いと思っている人が社会に影響力を与えるような実権をにぎるとろくなことにならないというのは歴史をひもとけば分かる。

 何を書いているのか分からなくなってきたが、要は、地に足をつけて自分のできることを精一杯やってほしい、その上で周りの人を少しずつ幸せにしてあげてほしい、ということである。

 そのために学問や大学が必要となるならそれでもいい。そうでなければ行かなくていい。それだけのことである。

研究者自身で何ができるか

 研究に対する事業仕分けについてもう少し考えてみましょう。

 ちょうど、自分の入っている学会から、学会として意見を申し述べた方がよろしいのではという旨の会長名義メールが届いたところです。研究費の削減は、研究者の自由なアイディアに基づく研究を不可能にするがゆえに、この国の科学技術の発展を妨げるという趣旨のメールでした。

 その通りだなと思います。思いますが、もう少し立ち止まって考えてみましょう。

 実際のところ、他の事業も含めた予算総額は限られています。その中でのパイの奪い合いが起こっているわけで、いくら研究が大事だと言ったところで、現在以上に使える予算が回ってくることはないでしょう。

 だとすれば、余力のあるうちに、税金を効率よく使うシステム、税金に頼らずに研究を推進するシステムを部分的にでも作っておく必要があるのではないでしょうか。恒久的な研究基盤づくりをする上で、今後再びの政権交代もあり得る政府はアテにならないことははっきりしたわけですから。

 じゃなきゃ、そんなシステムすら自前で考案できないような(人文社会科学も含めた)研究者には、やはり予算を渡すわけにはいかないよね、と言われてしまいます。では、何がシステムとして可能でしょうか。私には思いつくことはわずかです。

 (1)単年度予算をやめること。年度末になると、予算が余ってるからという理由でどうでもいいものを買っていたりあちこち出張していたりする研究室を私は知っています(ちなみに私は年度途中でほぼ使い切ってしまいます)。現実としてこうした「ムダ」な執行はあるわけですから、それをいかに「ムダ」にしないかが求められる。そこで、複数年度に渡る予算執行をさっさと認めて欲しいわけです。ただ、これは財務省の協力が確実に必要ですね。

 (2)研究成果による儲けを研究費にまわすこと。あまりにも単純といえば単純ですが、一番健全な姿なのかもしれません。儲けを産み出しにくい研究領域ももちろんあるわけで、そのような場合には、たとえば一般書などを執筆した場合の印税をプールするための仕組みを作っておくことも有効では。微々たる印税も積もり積もれば億の単位になるかもしれません。

 あまり鋭いアイディアは出ませんね。これが私の限界ということでしょう。

 ともかく、これからの研究者が税金に頼り続けることはもうできないと認識しておくべきでしょう。うまいシステムはないもんでしょうかね。