続・読み聞かせについて考えるのココロだー

上士幌中の石川晋先生のブログ「すぽんじのこころ」にて、先生が拙文をご紹介くださいました。

日刊『中・高校教師用ニュースマガジン』(中高MM)☆第2979号☆「読み聞かせる教室づくり」(17)石川晋(北海道)

北海道の学校の先生方とお近づきになりたくて、石川先生たちの主催される研修会にたまたま参加させていただいたのがお会いした最初だったと思います。参加するたびにショックを受けて帰ってくるのですが、一番のショックは、「学校の先生のサークル活動ってこんなに楽しいのか!」というものでした。

中でもすごく楽しそうにお話をされているのが石川先生で、そのお話の中身もずっと聞いていたくなるようなものでした。あらゆることがつきぬけているんですね。それ以来、石川先生は、私にとって「心の師匠」であります(ちなみに、心の師匠は30人ほどいます)。

その先生にご紹介いただき、感激しました。ので、こうして綴っているのです。

石川先生の読み聞かせについての考え方は、その後、ぼくが読み聞かせをしたり、誰かが読み聞かせをしているのを見たりするときの、感じ方のひとつの基準となっています。

教育の目的は文化の継承にあります。教育にたずさわる教師は、継承する文化の体現者でなければなりません。この考え方は早稲田の宮崎清孝先生が斎藤喜博について考察している中で述べていることですが、ぼくもそう思います。

本が文化であることはもちろんですが、本を誰かに読んであげることそのものも文化でしょう。石川先生は、教室の中で、読み聞かせという文化を体現しておられるのだと思います。読み聞かせの内容を通じて文化を伝えるのではなく、読み聞かせという文化そのものを伝えること。

以前、石川先生の上士幌中での授業を実際に拝見したことがありますが、中学1年から3年生まで、すべてのクラスで授業中に先生は読み聞かせをされていました。生徒たちはそこでは内容を聞くと同時に、「本を読んで聞かせる大人」と出会っているのだと言えます。生徒たちは、ゆくゆくは、「なぜその大人が読み聞かせをしてくれたのか」「その大人の背後にはどんな文化がそびえていたのか」について気がつくときが来るのでしょうが、それは中学を卒業した後のことでしょう。すぐには結果の出ないことなのです。

保育環境のアンビエント・サウンド

日本の保育所や幼稚園はうるさい。もう慣れてしまった人間からすればなんてことはないのだが,初めて足を踏み入れた人間からすると相当うるさい環境である。入園したばかりの子どもはまずこの「うるささ」に慣れなければならないのだろう。

ということからすると,保育所や幼稚園を「音」という観点で記述すること,そこにおける子どもの行動を,特有の音環境に「ニッチ」を発見し利用する過程として記述することはおもしろいのではないか。

多数の人間が集まって音を出し合っている環境を,「社会知覚的エコロジー」という視点で見てみよう。英語で言うと"socio-perceptive ecology"。教育社会学者F.Ericksonが学校教室を「社会認知的エコロジー(socio-cognitive ecology)」と呼んだのにならってである。「認知」ではなく「知覚」という語を入れたのは,人と環境との接面において起こる出来事を生態学的アプローチに依拠して記述したいから。要するにギブソン流に行く,という宣言である。

音とは,とどのつまり空気の振動だ。人は空気という媒質の振動に囲まれている。ギブソンにならえば,「包囲音波」(ambient sound)とでも言おうか。たとえれば,音の波が常に全身に打ち寄せている。無生物と異なるのは,打ち寄せ方を人自身が決められる点である。

人にとっての包囲音波には人工的なものも含まれる。最も身近なのが人の出す言語音声だろう。それ以外にも人は多様な音をまき散らしている。まき散らされ方は環境の構造を特定する。たとえば,視覚障害者が地下通路を歩くときなど,音の反射の仕方などで壁との距離が知覚できるという(伊藤精英先生の研究による)。音のまき散らし方を人は伝承してきた。その意味で文化的なものでもある。マリー・シェーファーはそのあたりを汲んで,サウンドスケープと言ったのである。

はじめに戻ろう。保育所や幼稚園は独特なサウンドスケープである。幼児はそうした環境に特定的な包囲音波においてどのように身を置き,自らそこで新たな音波を作り出すのだろうか。

保育所や幼稚園でよく見られる活動に,同じ言葉を複数人で一斉に言うものがある。かつて自分は「一斉発話」とか「同時発話」とか呼んだものである。例えば,朝の集会や食事前のごあいさつとして,あるいは合唱として,子どもたちは声を重ね合う。これによって,家庭などではあまり起こらない,独特な包囲音波が作られる。

どの辺が独特かというと,園で普通に会話しようとすると,うるさいなかで話さなければならないので,背景となる通奏音から自分の声を際だたせる行為が必要なのだが,一斉発話では反対に自分の声を他者の声に重ね合わせ,まぎれこませる必要がある。この点で一斉発話は独特なのである。

他者と声を重ねることを,協調的にタイミングを同期させた身体運動として見れば,それは発達初期から見られる人間の基礎的な能力である。一斉発話を単なるタイミング協調過程として記述してもダメだろう。子どもたちは自身のもつ基礎的な能力を用い,特定の環境で,どのような目標を目ざして,どのような行為を行うのかを記述することが重要である。というのも,能力そのものの発達を記述してもしょうがないから。能力とその環境はカップリングして発達しているはずだから。

これは日本の保育所・幼稚園に共通してみられるような環境であり,そこでの行為はあちこちで反復される可能性がある。だから1カ所の保育所・幼稚園を観察すれば,それで十分である。例えば,ある子どもの一斉発話における発声行為パターンはそうした環境であれば誰もが発見可能なニッチに基づいたものである可能性が高い。

という方向性で一斉発話研究を改めて見直し,書き直す。

保育と美学

無藤・堀越(2008)は,保育実践の質的な分析をおこなう上での視点として,美学の概念を導入した。イギリスの批評家テリー・イーグルトンの『美のイデオロギー』に依拠しながら,美的なもののもつ可能性を次のように整理する。

美的なものは人間に感覚的な方向づけをもたらす。その方向づけには2つの側面がある。一つは,自律的な行為者として内面的な統一感がもたらされる。もう一つは,他者との一体感が感覚的にもたらされる。

後者は重要で,これによって,言語など概念的な媒介をぬきにして他者との合意を形成することができる。これは,特殊な個人がそのまま普遍的な公共的存在に同化することを意味する。したがって,「~しなければならない」という法や「~であるはず」という法則は,強制によってではなく,むしろ喜びを通して内面に形成される。

言語的な媒介ぬきの一体感の感得というと,乳児期の自他関係を思い起こす。無藤・堀越の論は,幼児期におけるそうした出来事の分析を可能にする視座を与えてくれる点で,面白い。


無藤隆・堀越紀香 (2008). 保育を質的にとらえる 無藤隆・麻生武(編) 質的心理学講座1 育ちと学びの生成 東京大学出版会. pp.45-77.

複式学級の数は減っている

複式学級数.jpg

複式学級に興味が出てきて,とりあえず文科省の統計をごそごそと調べている。

平成15(2003)年からの学校基本調査がウェブから拾えたので,全国の小学校における学級数と複式学級のそれぞれの総計について,昨年度までの年次変化を視覚化してみた(ただし,公立校に限定)。

上に示したのがそのグラフ。左側の軸が単式,複式,特別支援ぜんぶ含む学級総数を,右側の軸がその中の複式学級数を示す。すでにこういうグラフは誰かが作っているかもしれないが,まあ自分の勉強のために。

パッと見て分かるのは,学級数は08年まで増加し,そこをピークにじわじわ減少してるのに対し,複式学級数は一貫して減少していること。

グラフには出していないが,学級数が増加しているのは特別支援学級の増加によるもの(03年:21,342→10年:30,329)で,単式学級数はほとんど横ばいか近年は微減。その中で複式学級が着実に減っているのはどういう意味があるのか。

こういう話って,自分が知らなかっただけで,教育学者の間では有名なのかな?日本で一番複式学級に詳しい人って誰なんだろう?

最後まであきらめない

雨上がりの日曜、近所の公園にアマネと散歩に出る。

一通り遊んだ後、ふと、山桜の木につぼみがついているのを見つけた。植えられて間がないのか、さほど高い木ではない。

大人の胸ほどの高さのところで木の幹が二股に別れている。それを見たアマネがそこに登ろうとし始めた。彼にとっては頭の高さよりもほんの少し高く、手を伸ばせば届く。幹を両手でかかえ、足をばたつかせる。雨上がりでなくとも山桜の幹はつるつるとして登りづらい。足をかける場所もそれほど多くない。

二股のところにアゴがかかるも、その瞬間足が滑り、歯で唇を盛大に切ってしまった。口の中が赤く染まり、涙がぼろぼろとこぼれる。ちょうど雨が降ってきたこともあり、「帰るか?」と聞くと、「最後まであきらめない!」と言って首を横に振り、もう一度登ろうとする。

もう服は泥だらけ、顔に血が上って真っ赤になり、鼻水だか涙だか分からないものが鼻提灯を作っていた。

何度も足をかけているうちに、手と足を踏ん張ってそのまま体を浮かび上がらせることを覚えたようだ。あと少し体をずらせば幹の二股に体を引っかけることができる。落ちてしまっては大けがのもとなので、ここで大人が手を貸してやる。それまでは、手伝おうとすると大声で「一人でやる!」と手をはねのけていたのである。

そうこうして、二股のところに腰をかけ、幹にしがみつく体勢を取ることができた。そこから降りてからも泣いている。最後の最後で大人の手を借りて一人で登れなかったのが相当くやしかったようだ。家までおんぶして帰ることにした。背中で道中ずっとひくひく言っていたのを聞きながら、成長を頼もしく思う。

ちなみに、「最後まであきらめない」という台詞は、一代前のスーパー戦隊、ゴセイジャーに出て来るゴセイレッド・アラタのものである。幼児期のパーソナリティ形成にスーパー戦隊が及ぼす影響というのも、このご時世にあって無視できないのではないか、とちょっと思ったりもした。

赤ちゃん人形が来た

来週月曜の非常勤で乳幼児心理学が始まる。その一発目でお出まし願いたいと思い、赤ちゃん人形を探していた。

赤ちゃん人形とは、看護学校や母親教室などで使う、沐浴や抱っこの練習用の人形のことである。

適当に検索すると簡単に見つかる。ただ、買うとなると非常にお高い。

さらに検索すると、何日かだけレンタルしてくれる業者を見つけた。今回は初日だけ使えればよいかと思い、早速発注した。「クリエイティブ九州」という、鹿児島にある、教材を取り扱う会社である。

クリエイティブ九州

沐浴人形2体ペア(新太郎くんと桃子ちゃん)を3泊4日でレンタル。火曜日に発注して、金曜日には届いた。早いなあ。

こうした人形は、今の息子が生まれる前、区の保健センターで開催された両親教室で沐浴の練習をしたときに初めて触れた。そのとき一緒に、妊婦体験なるものもした。子ども騙しだなとそのときは思ったのだが、今では、重要な経験だと思っている。

乳幼児の心理学を学ぶに当たって、やはり実際の赤ちゃんに触れているかどうかでは学び方が違うのではないか、そう思ったのである。ただ、授業でそれをするのは実際にはかなり難しい。それでもアマネが小さい頃、一度非常勤に連れて行ったことがある。机の上にごろんと横たえて学生に代わる代わる抱っこしてもらった。

それに代わるものとして、人形をもっていくことにしたのである。大事なのは、重たさ、大きさではないかな、と思っている。沐浴人形は実際の新生児ほどの重さ、大きさである。触った質感も、何というのだろう、「しとっ」とした肌触りである。それを自分の感覚で確かめておくことは、けして無駄ではあるまい。

たぶん、大事なのは想像力である。その一助となればと思う。

なぜ卒業式で泣くのだろう

今日は、調査でお世話になっている小学校で卒業式があり、参加してきた。

体育館に整然と座る子どもたちの間を縫って来賓席(!)にたどり着くと目の前に卒業生のための席が並ぶ。

在校生の演奏するエルガーの「威風堂々」をBGMに、卒業生が入場。みな「よそゆき」の格好をして、すたすたと着席する。

校長先生の式辞には、やはり震災のことがもりこまれた。

よびかけ。在校生と卒業生との間の、練習された対話。そこで交わされる内容は、けして「心から」のものではないだろう。用意されたスクリプトにしたがって子どもたちが叫んでいるだけだが、叫ぶことによっていつの間にか「心」ができあがってくる。

次第に卒業生がしくしく泣き始めた。見ると、在校生にも泣いている子がいる。この涙は、今日、この式に身を置き、一つ一つの所作を完遂し続けることによって起きた現象だろう。たぶん、悲しいのではない。今生の別れではないのだから。おそらくは、「式」を構成する所作の体系とその集団的な組織化の過程に自分の身を沈めることによるものではないかと思う。

けして、彼ら、彼女らの涙がまやかしだとか言っているのではない。むしろそうした涙を美しいとも思う。

卒業生は、いきものがかり「ありがとう」にのって体育館をあとにした。

おめでとう。

文体としての教育

「ぼくは田舎教師でいるつもりです」

一日授業公開の振り返りの時間、おっしゃったこと。

「子どもたちは卒業後、このコミュニティで暮らしていきます。コミュニティで暮らす上で、仲間内で話し合う能力は絶対に必要です」

「自分たちの学校の図書館に必要なもの」をテーマにした子どもたちの議論を参観した先生の質問に対して、おっしゃったこと。

「オルタナティブな教育を求めて、自分でそういう場を作ってこられた方もいます。でもぼくは、公立の学校という制度の中でもう少しやっていきたい」

先日、上士幌中学校の石川晋先生が一日授業公開をされたので参加してきた。上の発言は正確ではないものの、記憶に頼って再現した石川先生の言葉。

公立学校は、公教育の理念を実体化する場である。これは多分にぼくの憶測を含むが、恐らく、先生は公教育の理念の「内容」ではなく、「方法」を方法において実体化しようとされているのではないだろうか。

内容はどうでもいい、という話ではない。内容にはそれに応じた方法がある、ということだ。そしてこの現在、目の前にいる子どもたちに応じた方法もあるだろう、ということだ。

文芸になぞらえるならば、言ってみれば文体としての教育である。文体とは、内容、読者、作者の三者による関係性のもとで生まれる何かである。内容と文体の関係はよく知られたものであるが、文体は誰が送り手で、誰が受け手かに応じても変わる。

石川先生は、この文体そのもののシフトに対して臆さない。授業における文体も柔らかい。硬直していない、と言った方がよいか。

自分の中では、まだあの一日のことを消化できていない。ただその印象を語るのに、これを書きながら「文体」という言葉がふと浮かんだ、というくらいである。

石川先生、参加者の皆様、上士幌中の先生方にはお世話になりました。子どもたちもすれ違うたびあいさつしてくれてありがとう。場違いなぼくが「ここにいていいんだ」という気持ちになりました。

2011年の抱負

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

年始にあたり、今年の抱負というか予定を月ごとに刻んでいきたいと思います。

1月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。月末に大学院の後輩の結婚式あり。

2月: 現在進行中の小学校調査、最後のビデオ撮りをします。3つの学年をそれぞれ2年間追っかけたことになります。データ分析をなんとしてでも終わらせて、担任の先生にお渡ししたい。

3月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。月末に発達心理学会あり。RTやります。

4月: 所属する大学院が2011年度から新しい体制となり、それにともない新しいゼミがスタートします。科研プロジェクトの最終年度なので、データ分析とアウトプットを徹底的に行います。それと、チベットと香港からの留学生との研究が始まるので、そちらにも注力しなければなりません。

5月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

6月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

7月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。月末に教育心理学会あり。この学会でもシンポを企画します。

8月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。36歳になります。年男なんですね。ちなみにさかなクンと同い年ということを昨年暮れに知りました。

9月: よっぽどのことがなければ、ローマでの国際学会に参加します。初めての国際学会参戦なので楽しみです。あと、日心にも参加予定。

10月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

11月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

12月: データの分析、それに論文と原稿執筆に明け暮れることでしょう。

こうしてみると、PCをずっと小脇に抱えて過ごす1年になりそうですね。あと、年間を通してですけど、2012年3月に新居に引っ越すので、それまでに内装のことや子どもの入学の手続きのことなどいろいろと考えなければならないことが増えそうではあります。

んで、昨年はtwitterがおもしろくてぶつぶつつぶやいていましたが、今年は原点回帰してこちらのブログをなるべく毎日更新していきたいと思います。方針としては、もう少し実質的なことを書きたいと。

というのも、ぼちぼち博論を書かねばという気持ちになってきたのです。昨年ちょっとがんばったので、実はあと2~3本審査を通れば博論執筆にゴーサインが出るのではという期待があるのですよ。なので、博論を構成する文章をこちらに毎日ちびちびと書くというプレッシャーを自分にかければ、年末には1本できているのではと。

まあ根がいいかげんなので淡い望みですが、やるだけやってみます。そんな年頭所感であります。

メディア芸術祭巡回企画展 札幌展

文化庁が毎年開催しているメディア芸術祭の企画展が札幌芸術の森を中心に行われている。関連していくつかのシンポジウムも企画されていた。

30日に「つながりの中のネットアート」と題されたシンポジウムがあったので出かけた。

シンポジストは、ナカムラマギコさんと中村将良さんによる夫婦ユニットWho-fu(ふうふ)、首都大学東京の渡邊英徳先生

まずは渡邊先生のプロジェクト紹介。先生の研究室では、Google Earthを使った一連のプロジェクトを展開。共通するのは、Google Earthという「神の視点」の代表のようなものに、具体的な個々人の声や記憶を遺していくというコンセプト。

そのうちのひとつ、「ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクト」は、太平洋の島国ツバルに住む1万人の国民ひとりひとりの顔を文字通りウェブ上で可視化するもの。見るだけでなく、閲覧者からツバルの方々へダイレクトにメッセージを送ることもできる。なんでもアメリカ西海岸にツバルから移住した人が多いようで、そこから知り合いに向けてたくさんのメッセージが送られているそうだ。「いつのまにかSNSとして使われていました」というのが面白い。

もうひとつ紹介していただいた「ナガサキアーカイブ」。かつての長崎の写真をたんねんに集めてこられた方がご高齢になりどのように未来に遺していくか問題になったときに、生まれたプロジェクト。記憶をテーマにしたプロジェクトとして、現在は広島版と沖縄版も進行中だそうだ。

続いてWho-fuのお二人に、昨年のメディア芸術祭エンターテインメント部門で大賞が授賞された作品「日々の音色」についてお話ししていただく。

昨年これを見ておおいに感動したので、制作の裏話についてうかがえたのがとてもよかった。制作には3ヶ月かかったとのこと。登場する84人(Who-fuの知り合いと、SOURのファン)にWebcamの前でやることについて具体的に指示を出して、撮影されたものをFinal Cut ProとAfter Effectsで編集。その作業にご苦労されたそうだ。84人全員の名前がクレジットされた貴重なデモムービーも見せていただく。

今回のお二人の作品はいずれもウェブによるつながりというのがコンセプトの一部になっている。シンポジウムのタイトルにあるように、実際の人々のつながりのなかでウェブというのが機能するというかたちになっていて、ウェブによるつながりだけで閉じて満足するという話にはなっていないのが確認できてよかった。