北教大釧路校集中講義第3日目レジュメ

ヴィゴツキーの心理学理論に含まれる概念に基づいて,現在ではさまざまな実証的研究やそれに基づく新たな理論が生まれています。

そうした,ヴィゴツキー心理学理論を源流にもつ研究の流れは「社会文化的アプローチ」とか,「文化歴史的活動理論」(Cultural Historical Activity Theory; CHAT)などと呼ばれています。

これらの研究のうち,今日は2つを紹介することを通じて,ヴィゴツキーのアイディアが現在どのように継承されているのかを明らかにしたいと思います。

1. 対話論との接続

いきなりですがTEDのスピーチを見てください。これからお話しすることと深く関係している内容です。

カービー・ファーガソン リミックスを受け入れよう

いかがでしたでしょうか。リミックスということについてちょっと考え方が改まったのではないでしょうか。

いまから私が言いたいのは,リミックスにかんするこの考え方は,人間の心理についてもあてはまるのではないか,ということです。極端に言うと,私という存在そのものがリミックスなのです。

「私」とは何でしょうか。心理学では,自己selfと呼ばれる,自分自身についての意識はいつから存在するのでしょうか。もしもそれが発達の後の段階で生まれたとすれば,どのようにして生まれたのでしょうか。

心理学や哲学には対話的自己dialogic selfという考え方があります。これは,自己とは人が他者と社会的にやりとりをすることを通して意識のなかに作り上げられるものだ,という発想です。この発想からすると,自己とはそもそも純粋に自分自身だけのものではなく,さまざまな人の考え方が複合的に入り交じったものだと言えます。注意しておきたいのは,誰かの考え方に影響を受けたとか,誰かの考え方を知っているといったレベルの話ではなく,そもそも他者がいなければ自己は成り立ち得ないという発想をこの考え方はとるのです。

対話的自己という考え方のもとのひとつは,ミハイル・バフチンというソヴィエトの文学者・言語哲学者の考え方でした。バフチンのいう「対話」とは,人間という存在のありようについての考え方です。この考え方によれば,自己とは孤立した個人のなかで変化することなく純粋な形で存在するものとみなすことはできません。むしろ,相容れない異質なものが並び立つことを通して現れてくるものとして理解されます。

バフチンは『ドストエフスキーの詩学の諸問題』(1963)において「在るとは対話的に交通することを意味する。… 生き、存在していくには、最低限二つの声が欠かせない」と書いています。彼は言語哲学者なので言葉をモチーフにして語っていますが,ここに言われているように,対話という概念が強調するのは,複数の言葉が並置されている状態です。これを多声性(ポリフォニー)と呼び、誰にも向けられていないモノローグ的発話と対立させられます。

この対話的な自己がどのようにして生まれたのかを説明してくれるのが,ヴィゴツキーの発達理論なのです。先取りして言えば,ヴィゴツキーによれば自己とは他者から手に入れた媒介手段を通して自覚できるようになった意識のことです。このときにもっとも重要な媒介手段が言葉です。

ヴィゴツキーの発達論によれば,学童期から思春期にかけて子どもに起こる重要な変化は,筋道の通った思考ができるようになることです。たとえばピアジェは形式的操作期になると論理的な思考ができるようになると述べています。たとえば三段論法を使って,前提が満たされれば演繹的にある帰結が導かれることを考えることができます。ピアジェは形式的操作期までの発達的変化を,子ども自身による,課題のなかの論理性の発見という観点から記述しました。あくまでも,子どもが自分自身で発見しなければならないという点がミソです。

一方でヴィゴツキーの場合,筋道の通った思考とは言語と思考が結びついた思考のことです。言語的思考と呼びます。彼によれば,言語と思考は発達の初期においてはつながりをあまりもたずにそれぞれ機能していました。動物を見ればわかると思いますが,たとえばケーラーによるチンパンジーの実験ではかれらは言葉を話さなくても状況を全体的に捉えて問題解決に至る筋道を探して実際に解決しています。ここから,思考そのものは動物にも見られる心理機能だとヴィゴツキーは考えます。言語,つまり口から規則的に音声を発することも,動物に見られます。鳥やイルカの鳴き声は仲間同士のコミュニケーションのために使われていることは知られています。言語も動物に見られるわけです。

これら2つの心理機能が結びついて新しい機能を果たすようになったのが言語的思考だとヴィゴツキーは考えています。思考の特徴は同時に全体を把握することです。チンパンジーは課題解決状況を全体的に捉えます。一方,言語の特徴は単語と単語を順番に並べていって作られることです。音楽と同じように,時間とともに展開していくのが言語です。同時的・全体的なものと,時間的なものとが結びつくとどうなるでしょう。そう,思考のなかに「順番に考える」という機能が生まれるわけです。これをヴィゴツキーは言語的思考と呼びました。順番に考えることとは言い換えれば筋道立てて考えるということです。

ではこの言語的思考はどのようにして生まれるのでしょうか。ヴィゴツキーが述べた心理学的な概念のうち,外言(external speech)と内言(inner speech)は著名でしょう。ヴィゴツキーはこれらを,子どもの言語的思考の発達過程を述べる際に導入しています。ヴィゴツキーによる結論を先に言えば,外言から内言へという方向性で発達は起こるわけです。

ヴィゴツキーによれば,言葉はまず,幼児の生活のなかでは,他者とのコミュニケーションのための機能を果たすものとして発生します。これは他者とのコミュニケーションのための機能を果たすのですが,次第に,自分自身に向けても使われるようになります。いわゆる「独り言」private speechです。子どもの遊ぶ姿を見ていますと,独り言をぶつぶつつぶやいていることがよくあります。次の段階として,音声化されることのない,頭なのなかでだけで響く言葉が使われるようになります。これを「内言」と言うわけです。そして,後になると思考と内言とが結びつき言語的思考が可能となります。こうした過程をヴィゴツキーは,「精神間機能から精神内機能へ」というフレーズで表現しています。

実際のところ,思考はさまざまなものと結びつきます。たとえば計算をするとき,小さな子どもは指を折って数えますが,指を折ることと思考とが結びついているわけです。後になると,頭の中の数のイメージと計算とが結びつくようになりますが,この発達過程は,思考がどのような道具を使うのか,その使われる道具の変化過程として考えることができます。

ここまで聞けばわかるように,私たち人間の思考はさまざまな道具と結びついて力を発揮するわけです。この道具のことを社会文化的アプローチやCHATでは媒介とか媒介手段と呼びます。

媒介ははじめ人間の内側ではなく,人間の外側で使われていたものです。それは,発達する子どもが初めて発明したものではなく,ほかの誰かがすでに使っていたり,作り出したり,置いていったりしたものです。子どもは,それを借りて使うなかで他者とのコミュニケーションを図ります。そして,そうして他者から借りた媒介が,最終的には自分自身のことを反省的に振り返るための内的な媒介手段として用いられるようになります。

以上をまとめてみますと次のように言えます。まず,人間は対外的にはたらきかける際に他者から借りた媒介を用いること,そして,その媒介は自分のなかで機能するようになることです。自己を自分自身についての思考だとすると,そこにははじめから他者から借りた媒介が欠かすことができないといえます。

では,この私が他者の寄せ集めのようなものだからと悲観すべきなのでしょうか。最初のTEDスピーチを思い出してみてください。クリエイティブであることと,オリジナルであることは同じことではないのです。クリエイティビティは外側からやってくる,と言っていました。ヴィゴツキーの考え方によれば,私は他者から盗んださまざまな媒介を通して行為しています。私が私として何かを行うことには,他者に由来する媒介が不可欠なのです。

ここから話は急展開します。この媒介は無味無臭のものではありません。媒介は他者から借りたものだと言いましたが,媒介にも固有の歴史があります。つまり,その媒介が生まれた具体的な経緯があるのです。つまり,誰が,どのような目的で,その媒介を作り出したのかという具体的な理由があるわけです。言ってみれば,媒介には生み出した過去の人の怨念のようなものが宿っていると言ってもいいでしょう。後の世代の私たちが,すでにこの社会のなかにある媒介を使うということは,そうした怨念も引き受ける,ということになります。

たとえば,この社会には「使ってはいけない言葉」がいくつもあります。いわゆる卑俗な言葉とか,差別的な言葉です。そうした言葉は,人間をあるカテゴリーで分類し,正常と異常の枠のなかに囲い込むという文化社会的な実践において使われていたわけです。言葉に厳しい人というのは,何もルールとして使ってはいけないから使わないのではなく,ある言葉が生まれた経緯やその背景を批判するという意味でそこで用いられた言葉も使わないようにしている,ということなのだと思います。

そうしますと,媒介というのは自己を構成するわけですから,自己は媒介に潜在する固有の歴史を通してなんらかの社会的な実践や文化,歴史に位置づけられると言うこともできます。いわゆる思春期のアイデンティティ形成というのはまさにこの過程のひとつでしょう。自己を学生として認識すること,つまり「学生」という言葉を媒介として自己を構成することには,「学生」という言葉にひそむ他者の怨念が含まれます。たとえば「勉学にいそしむ」というイメージや「暇な時間がある」といったイメージがこの学生には含まれるわけです。しかしそうした媒介のイメージと自分自身の実際の行動が矛盾するときには,アイデンティティが揺らいでしまうこともあるでしょう。たとえば他者から「学生は時間があっていいよな」と言われても実際にはバイトで忙しいとか。そういうときには腹が立つわけです。あるいは学生なのにこんなことをしていいのだろうかと言って自分で勝手に悩んだりするわけです。

他者から借りた媒介が自己を形成することから,以上のような問題も同時に起きてくるのです。こうした悩みは人間が人間である限りなくなることはないでしょう。

★講義ではもう1つの話題を出しましたが,その内容はすでに以下に書きましたのでリンクのみ紹介します。

野火的研究会でホルツマンを読む(2)

野火的研究会でホルツマンを読む(3)

ホルツマンについてはこちらのサイトを参考にしてください。

北教大釧路校集中講義第1日目レジュメ

0. いま,なぜ,ヴィゴツキーを読むのか

教育になんらかの「問題」を見出す言説があります(言説とは,人が言ったり書いたりしたことのうち,多くの人が採用する定型的なもの)のことです。たとえば,学校でいじめが起こるのは道徳心や規範意識の低下があるからだ,というようなものです。

では,問題を解決するための最善の教育手法があるのでしょうか?たとえば道徳を教科化すれば解決するのでしょうか。ある程度の効果はあるのかもしれません。しかし,トップダウンによる改善策の提案とその実施によって,問題が一瞬にして解決するとは思えません。

教育とは,人々の毎日の暮らしのほんの些細なことの積み重ねです。いじめをさせないことといった具体的な課題もほんの些細なことの積み重ねでしか解決されないでしょう。

では学校の教師は毎日の授業のなかで何をしているのでしょうか。実は,何もしていないのかもしれない,と考えさせる言葉を読みました。それは,1970年の夏に,国語教育で著名な大村はま先生が富山県の小学校新規採用教員研修会で講演したことにあります(以下引用は,大村はま (1996). 新編教えるということ 筑摩書房 より)。

「私は今日,「教えるということ」を題にしました。なぜかと申しますと,「教える」ということをしない教師がたくさんいて,困るからです。それでは,「教えない」というのはどういうことなのでしょうか。」(p.37)

教師というのは世間一般では「教えること」を職業の内容とする人たちのことです。その人たちが教えないのだと大村はま先生は言っています。どういうことでしょうか。大村先生は中学校の国語の先生だったこともあり,国語を例にして述べている。

「…速く読む力は,文字が一度に意味になって,どんどん頭の中へはいっていくことをいうのです。一度音声化されたら,「音読」は絶対に「黙読」より遅いに決まっています。ところが,黙読できない子どもは,「黙って読みなさい」と注意されても音声化してしまっています。
こうした子どもは,小学校一年のうちに絶対に直さないと,時機おくれになります。それで,そういうことを発見したり,直したりするには,「家で読んでくる」のではだめです。ですから,「読んできたか」と聞く教師は,何も教えないで,いちばんたいせつなことを家でやらしてしまっていることになります。ただ検査官として,どの子が読めるようになったかを音声化させて聞いている。ペラペラと上手に暗唱するように読むと,「よく読めました」という。しかし,ほんとうに「よく読めた」のかどうか。それからその子が読んでいる時,他の子どもはどうしていたのか。「黙って読め」といわれても,声帯が動いてしまう子どもに,その時教師はどのように手当てをしたのでしょうか。このように,学校でやるべきことをしないのを,「教えない」と私はいうのです。」(pp.40-41)

少し長く引用しましたが,大村はま先生の言う「教えない」の意味は分かったでしょう。教師が学校を単に確認の場にしているのではないかと言っているわけです。

大村はま先生が1970年において苦言を呈したような教師が現在いるのかどうかは分かりません。しかし,もしもそういう教師ばかりだったとしたら,その帰結がどうなるかははっきりしていると思います。

大村先生の言う意味で,学校で教師が「教えない」としたら,その子どもの学業成績は何に依存するかというと,それは子どもの底力に依存します。もう少し正確に言うと,子どものもって生まれた素質のようなものです。これは筋肉の具合とか見た目といったものと同じ水準で個人差があるものです。勉強ができる子どもとは,そうした多様性を持つ子どもたちのうち,たまたま,ものを覚えたり考えたりするのに適した知的能力を持つ子どものことだと言えます。

さらに言うと,子どもの暮らす生活環境も「底力」を規定します。ある子どもが,どんな文化の,どんな社会の,どんな家庭で暮らすのか。のびのび健やかに育とうと思っても,さまざまな障壁があって,とにかく日々を生き延びるだけでせいいっぱいで,勉強をしようにも非常に難しいという子どもがいることも事実です。

教師が「教えない」のだとしたら,子どもはどこかで学んでこなければならないわけです。学校以外で教える人がいなくても,覚える素質があれば勝手に覚えていくでしょう。覚える素質がなくても,教える人がそばにいれば学ぶこともできるでしょう。しかしどちらも不十分な子は,どうでしょう。

かつて,1990年代から2000年代にかけて,子どもの学力低下論がさかんになされました。これも「言説」のひとつだったのですが,この問題について1989年に実施された学力テストと2001年に実施された学力テストを比較した研究では,その言説が具体的な数値で示されました。

当時東京大学にいた苅谷剛彦と清水宏吉らのグループは,1989年に大阪で実施された学力調査に目をつけ,それとほぼ同レベルの問題を,およそ10年後の2001年に同じ地域の小中学校の児童生徒に対して実施しました。

その結果わかったことがいくつかあるのですが,小中学校に共通することとしては大まかに言うと以下の3点です。
 ①国語と算数・数学のパフォーマンスは全体的に下がっている。
 ②得点上位の層が減少し,かわって得点下位の層が増加。中学校ではふたこぶ化がはっきりとしてきた。
 ③通塾している子としていない子の比較からすると児童生徒の家庭環境による差が拡大。

学校で「教えない」となると,こうした家庭環境の差がそのまま学校でのパフォーマンスの差となってしまうのです。公立小中学校の役割は,極端に言えば,できる層の「確認」ではなく,できない層の「底上げ」をきちんとすることだと,大村はま先生は言っていたのではないかと思います。

そこで,ヴィゴツキーの主張の今日的な重要性がうかびあがってきます。

ヴィゴツキーは,20世紀初頭のソヴィエトにおいて実施されていた教育を改革しようとしてさまざまな提言をしていました。そのひとつが「発達の最近接領域」にもとづいた教育の重要性の指摘です。

 

1. 「発達の最近接領域」とは何か

教育と発達の関係についてヴィゴツキーが述べたことの中で非常に重要な概念を紹介したいと思います。その前に正月に放映していたテレビ番組を見てみたいと思います。

みなさんは「ヨコミネ式」という教育法について聞いたことがありますか?横峯吉文さんという方が鹿児島県の保育園を舞台に長い間かけて作り出してきたという保育の考え方です。この横峯さんはプロゴルファーの横峯さくらさんの叔父さんにあたる方です。

ヨコミネ式の保育については様々なテレビ番組で紹介されてきました。それを見た方からは賛同を得ることもあれば,激しい反発を呼ぶこともあるようです。今回見る番組はその保育の仕方をだいぶ長く丁寧に追いかけたものですから,これを見ると判断の根拠が得られるかもしれません。なんにせよ,実態を見ないうちに賛成も批判もないです。

私自身は,判断保留です。また,ヨコミネ式を広めようという意図はありません。当然横峯さんからお金なんかもらっていません。この番組をお見せする理由は,ここに映っていることを元にして,ヴィゴツキーの発達論を説明するためです。

映像の中で,ピアニカを吹いている場面があったと思います。そこでのやりとりを思い出してみてください。この保育園の5歳の子どもたちにとって,「こいのぼり」という童謡を演奏することは2日でマスターしてしまうものでした。つまり,今の能力水準で容易に達成できてしまう課題だったと言えます。

保育者は,そこで「こいのぼり」を延々演奏させることはしませんでした。そうではなく,「あずさ2号」という懐メロを演奏させることをしました。これには理由があったようです。せっかく絶対音感をもっているのなら,たとえばリストの超絶技巧練習曲のように難しい曲もチャレンジしても良かったのではないでしょうか。それを子どもに弾かせなかったのはなぜでしょう。保育士の言葉によれば,「歌謡曲のメロディーは,5歳のこの子たちが弾くにはちょうどいい」のだそうです。このは非常に重要な点です。保育者は,この5歳の子どもたちがチャレンジしてちょうどいい課題曲として歌謡曲を選んだということができます。

この保育者の考えを整理しましょう。
A ある5歳の子どもにとって 「こいのぼり」(童謡)は2日でマスターしてしまう。これは現在の能力で1人でできる課題内容です。
B ある5歳の子どもにとって リストの超絶技巧練習曲はどう転んでも無理!これは,現在の能力でも,大人の手助けがあってもできない課題内容です。

このA,Bどちらの課題も,子どもにとってはおそらく興味が持続しない課題でしょう。大人や年長者が手助けをしながら,子どもが興味を持続させつつ取り組み続けられる課題内容の範囲というものがあるのです。映像に出ていた保育士は子どもたちに「あずさ2号」を弾かせることを思いついたのには,訳があると思います。訳がなければ,そもそも子どもに「あずさ2号」を,などという発想が出てくることは考えにくいでしょう。おそらくこの保育士は,子どもにちょうどいい課題曲は何かと探して探して見つけ出したのがこの曲だったのでは,と私は勝手に推測します。

保育ではなく,学校場面で考えてみましょう。教師が子どもに何かを教えるには,いま,たろうくんがひとりでできる課題(A)は何かを明らかにする必要があります。次に,たろうくんにはまったくできそうもない課題(B)を想定して,教師は,たろうくんに対してAよりも難易度が高く,Bよりは低い課題Cを与えます。課題Cにつまづきながら取り組む姿に基づいた手助けをしつつ,課題を乗り越えるのを支えてあげることが教師の役割だ,というのがヴィゴツキーの発想です。上記のAとBの間にあるCの領域がヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」です。

さて,現在の学校を考えてみましょう。もしかすると,Aに基づいた教育をしていないでしょうか?つまり,子どもにとってできることを確認することを「教育」と称していることはないでしょうか。たとえば,学校を単に宿題の確認をおこなう場にすること,すでに子どもが知っている知識をクラスメイトに教える場にすること,これは教師が教えることを放棄しているとして,大村はま先生が指摘したのはすでに見た通りです。

ですが,発達の最近接領域にはたらきかけるような教育を行うことは,現在の日本の一般的な学校では難しいのもまた事実だと思います。なぜなら、30人いたら30個の発達の最近接領域があり,それぞれに応じた手だてが必要だからです。これは想像するだけで大変な仕事だ,と思います。そういう意味では,少人数教育の実施や教師を増やすことは妥当な方針なのではないでしょうか。

「ない」で「ある」を説明できるのか

ある出来事の不在によって,後続するある出来事の発生を説明できるのか。できるともできないとも言えない,というのが私の考えである。ある出来事は,先行して発生するある出来事に起因するというのなら分かる。しかし,ないことがあることの原因となるとはっきりは言えないだろう。

例えば,出生後の日本語聴取経験は,その後の日本語使用をもたらす。これはいい。また,出生後の英語聴取経験の不在は,その後の英語使用をもたらさない。これもいい。

では,出生後の英語聴取経験の不在はその後の日本語使用をもたらすか。もたらすとももたらさないとも言えない,というのがすぐに分かる。英語を聞かずにタガログ語を聞いたのなら日本語使用はもたらされない。日本語を聞いたのなら言わずもがな。

何かがあったからこそ,続く何かが起こるのであって,何かがないことは続く何かの発生を何も説明しないのである。

こんなことを考えたのは,「幼少期に思い切り遊ばなかったから,思春期になって対人関係のいろいろな問題が起こるのだ」という言い方を,私の身の回りでよく聞くからだ。

幼少期の遊び経験の不在によって,後の対人関係問題の発生を説明できるのか。さきほどの推論が正しければ,できるともできないとも言えないはずだ。

遊びの不在という表現は幼少期における具体的な経験を何も記述していない。現代の子どもが何をどのように経験しているのか,このことをこそ明らかにすべきである。

「ない」では「ある」を説明できない。だから,「ある」を説明する「ある」の探求にもっと力を注ぐべきだ。

付記
そもそも,「ない」という認識の仕方そのものが精神の働きによるものであるのだから,精神の働きを説明する心理学は「ない」という物言いに依存した説明はしてはならないと思うのである。結果で原因を説明するようなものだから。

53-26の筋道

53-26という式の答えはいくつだろうか。別になぞなぞではない。答えは素直に27である。

では,27という答えはどうやって出せるのだろうか。導き方は,いろいろありうる。

私は先日,小学3年生のとある算数の授業を拝見していて,ある子が発表した導き方にいたく感動してしまった。

その子は,まず,53を6と47に分けた。まずここで私は理解できなくなった。なぜそのような中途半端な分け方をするのか。

次にその子は,引く数26から6を引いた。20残る。

最後に,その20を,53を6と47に分けたうちの47から引いた。答えは27。

これを初めて見たとき,本当によく分からなかった。でたらめに計算して,たまたま答えが正答と一致してしまったのではないか,とも思った。恥ずかしながら。それでも3分間ほど考えて,合理的なやり方だということは納得した。

この子の思考の道筋は,おそらくこうだ。

まず,引く数を「ちょうど」にする。ここで言う「ちょうど」とは,十の位と一の位の数に分けることである。だから,本当に最初に行っている計算は,この子の言うような53=6+47ではなく,26-6だろう。これによって,引く数が「ちょうど」20になる。

その上で,引く数から6を引いたので,引かれる数からも同じ数を引く。最後に,引かれる数のうち残った47から「ちょうど」にしておいた20を引く。

私に理解できなかったのは,「ちょうど」を作るとき,私に関して言えば,引かれる数を「ちょうど」にすることが多いからだと思う。

先の式なら,53を50と3に分ける。そのうち,50から26を引く。残った24と,引かれる数から分けておいた3を足す。で,27。

この先入観がその子の思考の筋道を理解することをじゃましていたのだ。

先ほどの子は,「ちょうど」を作ることをしっかり実行していた。ただし,引かれる数ではなく,引く数を「ちょうど」にしたのである。

最初の方針が異なるのだから,過程が異なるのは当然と言えば当然。その上でよく見ると,その子の思考の筋道は,引く数を「ちょうど」にするという方針で出発したとすればよく考えられていると思う。

私が未熟なのは,その子が「引く数を『ちょうど』にする」という方針を最初に取ったのではないかと気づいたのは,この授業が行われた次の日になってからだという点である。

あらためて,子どもの発想の自由さに心を奪われる。

無為の意味の多様性

大学のFDの一環で,学生からの評価の高い先生の講義を参観させていただけることとなった。

あいにくその先生ではなくてゲストの方が担当の回であったが,とても面白かった。

ゲストがお話しされたのは「デートDV」。高校生カップルを主人公としたデートDVの実例再現ビデオやロールプレイなど盛りだくさんの内容で,初めて知ることも多く有意義だった。

その講義のはじめ,ゲストの先生が学生に対しておこなった発問に対する反応の仕方に関する指示について「よくできてるなあ」と感心したのでここに書き留めておきたい。

発問は「あなたは愛する人に対して暴力をふるってもいいと思いますか」といった内容であった(正確な再現かどうかは自信なし)。

感心したのは,その後。発問に対する反応の仕方について,その先生は,「『いい』と思った人は手のひらを私に見せるようにしてあげてください」「『だめだ』と思った人は手の甲を私に見せるようにしてあげてください」と言った。

学生が手をあげたあと,先生は「わかりました。でも,どちらでもいいんです。思うことは自由です」と。

「ただ,暴力をふるってもいいと表明するという選択をしたのはあなたです。選択をした責任は100%あなたにあります。なぜなら,ふるってはいけないと表明するという選択肢もあったのに,あなたはそれを選ばなかったからです」(正確には,先生が言ったことはこうではなかったが,ここでの文意をつながりやすくするためにちょっと脚色した)

「暴力をふるわれたことについて,被害者も悪い,と考える人たちもいます。しかし,暴力をふるわないという選択肢もあったのに,ふるうという選択をしたのは加害者です。したがってその責任は100%加害者にあります」

なるほどな,と思った。主張の内容もさることながら,その内容を挙手行動という具体的な水準で体験してもらっていることについて感心したのである。

この方法では,学生は必ず手の平か甲のどちらかを前方に提示するという選択を実際にしなければならない。

これが例えば,「暴力をふるってもいいと思った人,手を挙げてください」「だめだと思った人,手を挙げてください」といったように,「手を挙げる-挙げない」で意思表示させるとどうなるか。大学生に教えたことがある人はすぐに想像できるが,けっこうな割合で「どちらにも挙手しない」という反応が出てくる。

このような指示では,「挙手しない」という反応を一意に解釈できないのである。ひとつは「『いい』(あるいは『だめだ』)と思っていない」ことの表明としての挙手しないこと。もうひとつは,そもそも先生の発問を無視するがゆえ,あるいは講義に参加しないがゆえの挙手しないこと,である。つまり,そもそも「選択しなさい」という指示にのらないという可能性があるのである。これでは,当初のメッセージであるところの,「暴力する・しないの選択」には結びつけられない。

それに対して,とにかく手を挙げさせて,手の平か甲かで選択肢を表明させる場合,手を挙げないことは即座に講義への不参加を表すこととなる(もちろん,腕が痛くて上がらないとか発問が聞こえなかったとかいった他の理由もあろうが,それはここでは考えない)。先生は「何もしない」という学生の反応の意味を解釈しやすいのである。

手の平か甲かを選択させる方法は,その他にもいろいろな面で有効だと思われる。

(1)学生自身の選択を,他の学生に悟られる可能性が減る。

これが,挙手させる-させないという反応の仕方だと,他の学生から自分の選択肢が視認しやすくなる。好きな食べ物とかどうでもいい質問ならともかく,答えづらいナイーブな質問の場合は他の学生に自分の選択を知られたくない場合もあるだろう。このとき,おそらく挙手しない反応が増加してしまうはずだ。

(2)前方に立つ教師にだけ選択肢を伝えられる。

(1)と関連するポイントである。教室の前に立つ先生だけが学生全体の反応の傾向を把握できればよいのであれば,手の平か甲かを前方に見せるやり方は非常に合理的である。

(3)講義時間の短縮につながる。

「いいと思った人,悪いと思った人」といったように2つの選択肢それぞれで挙手させる場合と,手の平か甲かで選択させる場合とでは,単純にかかる時間が2分の1になる。前者では2回別々に挙手させるが,後者では一度で済むからだ。学生に質問をたくさん投げかけるインタラクティブな講義はそれだけ時間がかかってしまう(学生の反応の時間的長さはあらかじめ読めないから)ことが多いが,規定の講義時間内に終わらせるためにはこういうところで時間短縮を図るのも重要である。

「いろいろな面で」と書いたが,3つしか思いつかなかった。たぶんまだ有効性はあるはず。おそらくは多くの先生方に知られた方法なのだろうが,恥ずかしながら初めて知った反応の仕方だったので,ここにメモした次第。

いずれにせよ,反応を求められる場面で「何もしない」という反応を返す学生は多くいる。その意味を把握する際に,「おまえはなぜ~」と後から問い詰めるのではなく,反応を返す時点で,反応の返してもらい方を工夫することにより,意味の解釈の幅をせばめておくのはとても大事なことであろう。何も為さないこと,すなわち無為にも多様な意味があるのだ。

相互行為分析の心得

Reading material
 Jordan, B., and Henderson, A. 1994 Interaction analysis: foundations and practice. IRL Report No.IRL94-0027. (http://lrs.ed.uiuc.edu/students/c-merkel/document4.HTMにフルテクストがある。)

0.0 はじめに

ひとびとの相互行為を分析するためには、テープレコーダーやビデオカメラなど、さまざまな機器を利用するのが有効だ。しかし、ただ漫然と使うべきではない。背後にあるパラダイムや機器使用によるメリット・デメリットをきちんとおさえておく必要があるだろう。

方法としての相互行為分析に特化した文献として、Jordan&Henderson(1994)がある。およそ20年前と、新しくはないものの、いまだにこの文献を読む意義は薄れていない。なぜなら、相互行為分析が一般化しつつある黎明期にあった一種の緊張感が感じられるうえ、なによりも、相互行為分析が可能な世界観というものをはっきりと自覚しているからである。以下、冒頭に挙げたJordan&Henderson(1994)の章立てにしたがい、途中筆者自身のコメントや現在の状況などについて交えながら解説をすすめていきたい。したがって、以下の内容はJordan&Henderson(1994)の要約ではない。なお文中特に断りのない限り引用はJordan&Henderson(1994)からのものである。


1.0 背景と前提

1.1 相互行為分析
相互行為を分析の対象とするというだけでは、素朴すぎる。相互行為という現象をどのように切り取るか、切り取ったものへどのようにアプローチするか、これらに特殊なやり方で答える方法論や態度(たとえば、西阪(1997)の言う「相互行為分析という視点」)を背景にもったひとつの手法が、いわば大文字の「相互行為分析」である。

手法としての相互行為分析が開発されたのはひとつの学問領域においてではないし、利用される領域も広い。学説史における大きな流れとしては、人類学、キネシクス、社会学が相互行為分析の源流とでも呼べそうだ(p.1,P1,2)。

手法の開発に潜在的な貢献をしたのはそうした領域の研究者ではなく、画像・映像や音声を記録する機器の開発と普及を果たした産業だろう。相互行為分析の歴史は、産業が先行して開発するさまざまな機器を、研究者が導入してきた歴史なのである。たとえば、グレゴリー・ベイトソンはバリ島調査に写真機を携行している(Bateson,1947;佐藤良明訳「精神の生態学」に所収)。すでにルポルタージュに採用されていた機器を、人類学的研究に応用したのである。これで撮影した連続写真を使い、彼はバリにおける母子間の相互行為を記述することに成功した。動画となると、分析を目的として撮影をおこなった先駆的研究として、たとえばCondon&Sander(1974)を挙げることができる。彼らは大人と新生児の行動(身体動作と発声のような)を16mmフィルムで撮影し、両者が緊密で同期的な相互行為をおこなっていることを明示した。

コンドンらがおこなったように、研究対象をフィルムに収めることは、いくつかの領域でそれまでもなされてきた。それは出来事の記録、および保存という性質を利用したものであった。しかし、相互行為分析において利用されたのは、動画がそもそも連続写真にほかならないという性質だったのである。フィルムで言うコマ、ビデオで言うフレームを分析の単位とすることは、写真の一枚を取り上げることと同じだ。これ以後の動画技術は、原理的にベイトソンが利用したような連続写真を高度に洗練したものだと言えよう。

ベイトソンやコンドンらが利用していた、高価で、専門性を要し、できることも限られていた初期の撮影技術しかなかったら、相互行為分析は研究の手法として定着しなかっただろう。安価でさまざまなニーズに対応した民生品の普及によって、多くの研究者の「やりたいこと」に応えられるようになったとき、はじめて体系的な手法となりえたのである。

こうしてビデオが普及するにいたり、J&Hが念頭に置く映像・音声記録の分析が可能となった。ビデオを用いる利点として、繰り返し再生できること、そして複数人で分析できることが挙げられている(3.0 なんでビデオなの?で詳説)。グループで作業が可能であるとは、すなわち、相互行為分析という手法を共有するサークル(学際的なので、学派とは呼ばないだろう)が形成されたことをも意味する。合衆国での中心のひとつは、パロ・アルトにあるゼロックスの研究所であった。かれらが対象としたフィールドや課題は多岐に渡り、そこでの研究をもとに世界的に著名な業績をあげたメンバーも大勢いる。

相互行為分析とはこのように、歴史的にも、環境的にも、特殊な背景において醸成された手法なのである。

1.2 枠組みと前提
すべての手法の背後には理論的な前提がある。J&Hは相互行為分析について大きく二点を挙げた。

 前提1 知識や行為は本質的に社会的である。
 前提2 相互行為の参与者にとっての世界は観察者からも見える世界である。

まず1について。知識と行為は起源、編成、使用といった面においてそもそも社会的なものであり、特に社会的・物質的生態環境social and material ecologyに状況づけられている。認知を個人の脳内に還元せず、社会や生態環境に分散するものとみなすので、実践コミュニティ(Lave&Wenger, 1991;Jordan,1992)のメンバーのあいだで日常的になされるごく普通の相互行為を理論化の対象とする。相互行為分析の目標は、複雑な社会的・物質的世界にあるさまざまなリソースを、操作し統合するやり方にある秩序regularityを同定することだ(p.2,P2)。

次に2について。「世界」の分析には検証可能な観察が基本中の基本となる。経験的な個別事例から知識と行為の理論を構築して一般化generalizeする。この態度の背後には、参与者が触れられる世界には、観察・分析者も同様に触れることができるという前提がある。ということは、分析するには、自分自身も実践コミュニティの有能なメンバーとして経験を積んでいなければならない、ということになる(p.3,P1)。

さて、以上の前提からどのような態度が帰結として導かれるか。

相互行為分析は、日常的状況の社会的秩序social orderがいかに達成されているかに関心を向ける。参与者はお互い他方の行為に意味づけをする。そうすることで、相互行為は協同的に達成されるものと見なされる。このときの秩序性や予測/計画可能性projectability(オリジナルは会話分析にある。次の反応が緩やかに決まるしかたを言う。訳語は串田(1997))を可能にするリソースは何か、そして参与者はそれらをどのように使っているのかを探求するのだ。学習という現象も同様である。ひとびとが学習なるものをし、そしてまた学習されたと認識される、そういう出来事が社会的に分散された過程として生起しているとみなされる(p.3,P2;p.4,P1)。

上記の態度は、ハロルド・ガーフィンケルの創始したエスノメソドロジーや、ハーヴェイ・サックス、イマニュエル・シェグロフ、ゲイル・ジェファーソンらの打ち立てた会話分析と共通するものだと言える。これらは、ひとびとの行為を研究者独自のカテゴリーで分類・記述・解釈する社会学者に対する批判として生まれた理論である。

1.3 概要
J&Hは以下の構成で筆を進める。次の2節では、典型的な作業手順が概略される。3節では、ビデオ記録をデータとして用いる際の長所と短所が述べられる。4、5節では、ビデオで撮影することにともなう制約が指摘される。もっとも大きく割かれた6節では、相互行為分析でのポイントが簡潔にまとめられている。

それでは、実際の分析作業に移ろう。

2.0 作業手順

2.1 エスノグラフィー
J&Hがビデオを持ち込むのは、エスノグラフィック・フィールドワークと呼ばれる作業においてである。フィールドワークは、参与観察、インタビュー、歴史の再構成、人工物やドキュメント、文脈を構成するネットワークの分析といった下位作業から成る。

フィールドワーク中の留意点について、J&Hは「ホットスポット」、つまりビデオを回すとおもしろそうな活動を探すことを挙げる。エスノグラフィは相互行為の微視的分析に際して、背景情報をもたらす。と同時に、相互行為分析で明らかになったことからエスノグラフィが見直されることもある。

2.2 目次作り
撮影が終わったらできるだけすぐ、観察者の記憶のあせないうちに映像を視聴し、打刻された時刻(あるいはテープカウンター)、見出し、出来事のおおまかな記述という構成で「目次ログcontent log」「目次リストcontent listing」を作る。この段階では細かいことを気にしないようにする。たとえばあらかじめ動作のカテゴリーを作るなどして一貫性をもたせることに気を遣うのではなく、出来事の直感的な記述にとどめるべきだ(p.5,P1)。実のところ、最初に見た印象の記述が、その出来事をもっともよく代表していることもある。その場にいる参与者もある行動を「最初に」見るのであるから、相互行為分析の前提2にしたがうなら、観察者が参与者にもっとも近い立場にある作業かもしれない。

なお、J&Hには付録Dに実例が示されている(p.55)。これは一例であり、いろいろな書き方があると思うので、各人ケースに応じて好きなように作成すればよい。最低限気をつけなければならないのは、後からその場面を映像の中から見つけ出しやすいマーキングをしておくこと、そしてあまりこだわらないことの二点である。

2.3 グループ作業
多くの場合、映像データを保管し、最初に視聴するのは、その現場に足を運んだ観察者本人であろう。当然その場で起きたことに関する情報の量は、そこにいなかった人間よりも多いはずだし、本人もそうだと思っているかもしれない。2.1で述べたように、こうした知識は相互行為を分析する際のリソースのひとつとなる。しかし同時に、バイアスとなることも念頭に置いておかねばならない。それを避けるためのひとつの方法が、グループでの分析作業である。

紙と鉛筆のフィールドノーツに基づいたエスノグラフィは、ある出来事をなにものかとして「書く」時点ですでに、それ以外を「書かない」実践でもある。つまり、フィールドノーツを二次資料とする者にとっては、書かれたものがどのような状況に置かれていたかを知ることはできないのである。書きたいものしか見ないという「確信バイアスconfirmation bias(Hutchins,1991)」の危険性も指摘される(p.7,P1)。ビデオテープの何度でも再生できるという特徴によって、「生起していた」と記述されることの検証が可能となる。そしてそれができるのは記述した本人以外がビデオを視聴するグループ作業の場においてなのだ。

では、グループ作業の実際の手順はどのようであるか。基本的には映像データを視聴し、それについて参加者がコメントすることによって作業は進行する。J&Hが説明するやり方は以下のようである。

データの保管主がひとり、ビデオテープの走行(再生、早送り…)を操作し、他の参加者はコメントしたいことがあればそこで停止してもらう。次に、停止を申し出た人が映っていた相互行為について仮説を提案する(p.6,P1)。その仮説は映っている映像に基づいて妥当性を議論できるようなものでなければならない。ここでも、あくまでも参与者が相互行為するために利用したリソースは、まさにそれが行なわれている場において観察可能な形でディスプレイされているはずだという前提が適用される。なお、グループ作業をしているあいだにたくさんの仮説がでてくるので、それは後の分析のために録音しておくとよい。グループ作業の場で出されるたいていの疑問は、もう一度フィールドに戻ったり、さらなる調査をするなどしなければ答えられないものだから(p.6,P2)、その場では分からないと潔く認めるべきだ。憶測で答えることほど危険で無駄なものはない。

グループ作業の参加者は、あくまでも映像に基づいて、対象となる人たちの「心の状態」「心の出来事」を語る努力をしなければならない。J&Hが挙げる事例(p.7-8)は、最終的にはノートに同じ答えを書いた4人の学生の会話である。知識のあるなしを議論する際、「そもそもその学生が知識を所有していたか」という問いは無意味だ。この問いは、相互行為分析の前提にしたがえば、このように言い換えられなければならない。すなわち、学生は自分たちの「知識」を相互行為の中でいかにして提示し合っているか。事例では、ひとりが正答を言ったあと、なにもコメントせずにノートに書く作業を続ける者と、何と言ったのか聞き返す者とがいた。後者の行為は答えを「知らない」ものと、参与者にとっても観察者にとっても解釈できる。相互行為分析は動機や意図などを語れないというわけではなく、あくまでも映像に基づいて語るのである。

2.4 ひとりでの作業
グループ作業で録音した議論のなかから、自分の分析に有益な部分をつまみ食いする(p.8,P2)。ここまでの手順は一方向的なものではなく、グループ作業で出されたコメントを検証するために、もう一度フィールドに戻ったり、別の事例についてひとりで検討してみるといったように、行きつ戻りつの道筋をたどる。

さて、観察する過程は何を見たいかに左右されるわけだが、分析を進めていくにつれある程度見るべき場所が絞られてくる。この過程において、何が相互行為のパターンを形成し、何がランダムで、何が不明の原因によるものかを評価しなければならない。こうしてできた仮説は、同じデータにある他の事例にあてはめてみて一般化可能性を確認する必要がある。たいていの場合は、複数のデータをあたって頑健性を確認する(p.8,P3)。ゆえに、相互行為分析とは、複数の経験的観測から一般的なパターンについて述べる、帰納的過程だと言える(p.9,P2)。

J&Hが挙げた分娩室の事例では、そこに電子モニターがある場合、助産師は子宮収縮が起こるとモニターに目をやる、というパターンが一事例から導出できた。それは別の病院や、他の国の病院でも見られた、一貫した行動であったことが分かった。そうでない場合には、それなりの理由が見つけられる。次の段階として、電子モニターを使っていない現場を検討することがある。そこでは、子宮収縮が起こると女性に注意が移っていた。最終的に一般化すると、ハイテク機器がある場合には、参与者の注意は患者ではなく機械の方へ向くという仮説が出された。

2.5 書き起こし
仮説を例証する上で決定的なデータがいくつか集まったら、書き起こし作業の段階に入る。書き起こすべき要素は、例証したい仮説とデータの性質に大きく依存するが(音声だけのデータで動作を書き起こそうとしても無理な話だ)、最低限、参与者名とその発話は欠かせない。関心に応じて、非言語行動や道具の操作について注釈を加えてもよいし、コンピュータを介した相互行為を対象としたなら、コンソールとディスプレイも書き起こしておきたい(p.10,P1)。

ここでひとつ問題になるのは、何をどの程度まで書き起こせばよいのか、ということだ。何かを書くことは別の何かを書かないことだと述べたが、これに過剰に気を取られると、結局何も書けない、あるいは余計なことまで書きすぎるという最悪の事態になる。まず、どのような分析をしたいかをはっきりさせておく必要があるだろう。書き起こしは、出来事の再現などではなく(ビデオすら再現ではない)、仮説を例証するためのデータなのだ。どのような分析にも適用できる、標準化された書き起こし方法などはない。むしろ、目的に照らして、今目の前にある「この」書き起こしがどれほど適切であるかを問うべきである(p.10,P2)。

とは言え、多くの研究者が採用する書き起こしフォーマットがあるにはある。会話分析で多く用いられるのが、Jeffersonのシステムである。詳細は、西阪(1997;2001)を参考にしてほしい。だがこれとても十分なものとは言えないので、p.58からの付録を各自参照してほしい。

書き起こしは、やれば分かるが、大変な作業だ。講演やインタビューなどを専門に書き起こしてくれるトランスクライバーという職業があり、現在ではそうしたところへ下請けに出す研究者もいる。だが、書き起こしをしているうちに新たな仮説や洞察が得られると場合も往々にしてある。せめて学生のうちは、すべて自分で書き起こすようにすることを薦める。しかしやはり大変な作業であることには変わりない。J&Hは、必要な部分はとにかく細かく、その他は必要な分だけ書き起こすことにしたという(p.11,P1)。

現在では、コンピュータの高速大容量化にともない、ビデオ編集から書き起こしに至るすべての作業をコンピュータ上で行うことが当たり前になってきた。10分程度の映像なら、速度の遅いノートブック型コンピュータでもそれほど支障なく再生できる。音声のみならば30分程度は記録できるだろう。後の処理を考えると、はじめから電子テクストで起こした方がよい。現在、書き起こしを補助してくれるソフトウェアとして「SndPlay」、「おこしやす」などがある。これらを有効に活用すれば、多少は作業の負担を低減できるだろう。

2.6 ビデオ・レビュー
撮影した映像を、そこに映っている参与者自身に見せるという方法が、ビデオレビューである。ビューイング・セッションなどとも呼ばれ(Erickson&Schultz,1997)、固定した名称はないと思われる。

そのときの視点や意識していることを参与者に発話させる方法が、ヴントらによって内観法として初期の心理学研究に用いられたことは有名である。行動主義から新行動主義(現在の認知心理学もここに含まれてしまう)にかけて、内観法は廃れてしまったわけだが、それは研究の対象を第三者が客観的に観察できるものに制限したからだ。その後、認知心理学にもいわゆるプロトコル分析(被験者に作業をさせながら注意の移り変わりなどをその都度報告してもらい、その発話を分析対象とする分析手法、海保・原田(1993)に詳しい)が導入された。ビデオ・レビューの場合は、かつてその人が行ったことについて説明してもらう点が、内観法やプロトコル分析と異なるところでもある。

グループや個人での作業においては、特に動作の分析には顕著であるが、出来事に対してエティックeticな見方がなされる。たとえば、相互行為の最中に右腕を挙げたとき、観察者の記述は「右腕を上に持ち上げる」というレベルにとどまる。一方、行為の当事者は右腕を挙げた場面を見て、「ああ、このときは右脇がかゆかったから、掻くのに腕を上げたんだ」と説明するかもしれない。この記述には、腕を上げたことになんらかの意味を付与しようという態度があるようだ。こちらは人類学的に言えばイーミックemicな見方である。ちなみに、eticとはphon"etic"、emicとはphon"emic"に由来することばである(p.11,fn.16)。

重要なのは、当事者による説明が事実だとは考えてはいけないということだ。過去の出来事について、そのときの意図を忘れているからとかそういうことではない。そもそも、内観法やプロトコル分析にも言えることだが、その発話はあくまでも研究者に向けた「説明」として、その場その場で構成されているのである。

ビデオを用いない単純なインタビュー形式によって、対象としたい出来事を想起してもらうということもあろう。当事者の発話は、ビデオを用いようが用いまいが、基本的に研究者が仮説を例証するためのひとつのリソースに過ぎないのである。ただ、ビデオを視聴することが、当事者と観察者の両者にとって、「過去の出来事を語る」という活動を進める上で効果的なリソースとなりえており、そういうものとしてビューイング・セッションを理解するべきである。

具体的な作業であるが、研究チームに当事者を呼び視聴セッションに参加してもらうか、あるいはフィールドに赴いてインタビューをしながらビデオを見てもらう。当事者が重要だと思うところでテープ走行を止めさせる方法をとる研究者もいる。この方法だと、当事者が出来事の何に意味を見ているのか追うことができる。さらに、分析する人間には分からない、当事者が何をリソースとしたかを知ることもできる。たとえば、医者と患者とが診察している場面をそれぞれに見せると、テープを止めた箇所は同じだったにもかかわらず「なぜ」止めたのかという理由の説明は異なっていたという例をJ&Hは出している(p.12,P1)。


3.0 なんでビデオなの?

どういうとき、ビデオを用いた相互行為分析を採用すればよいのか?厳格な基準があるわけではないが、J&Hは自分たちの経験から3つを挙げている。

3.1 出来事の再構成
出来事の参与者が行う、自分たちの行為についての説明と、実際の行為とがずれているようなときに、相互行為分析を採用すると効果的だ。ひとびとの語ることはあくまでも行為についての「説明」である(2.6の議論を参照)。実際に起きていたことに関心がある者にとっては、映像がなによりのデータである。

われわれは何かを見るとき、必ずそこになんらかの「物語」を見ている。他者の行為についても、バラバラの動作の連続ではなく、意味(あるいは、意図)を背後に含む行為として解釈しながら見ている。したがって、フィールドノーツとして直接観察した出来事のデータを作ったとしても、そこには「物語」が混入するのである。もちろん、映像を見てそこから解釈するときにもそうした物語の混入はあるはずだ。しかし、より現象に近いものを解釈の対象としたい、そうした研究者にとってビデオを用いた相互行為分析はふさわしい(p.13,P1)。

3.2 一次データの保存
一次データを何度でも見られることも、ビデオの有利な点である。複数の研究者で共有したり、協同作業したりできるほか、早送り・コマ送りも可能である。これによって、分析を修正できるし、より深い分析も可能になる(p.14,P1)。

3.3 相互行為の複雑さ
ビデオの威力がもっとも発揮されるのは、大勢の人間が同時に立ち働く場面を分析するときである。たとえば、職場や教室など、さまざまな社会・制度的場面には、たいていの場合二人以上の参与者がいる。ビデオを使わずに、かれらの行動を追うことはほぼ不可能であろう(p.14,P2)。

また、動作そのものが複雑であること、それを記述する言語を持たないことも、ビデオが必要な理由である(p.15,P1)。


4.0 ビデオと現実

ここまで、ビデオを用いることの利点を述べてきた。しかし、ビデオを採用したことによる制約があることにも自覚的でなければならない。紙と鉛筆によるフィールドノーツに出来事のすべてを書ききる能力がないと言うならば、ビデオカメラも現象のすべてを映し撮る能力はないのだ。あくまでも相対的な違いに過ぎない。むしろ、ビデオカメラというテクノロジーだからこその制約もまたある。

4.0および5.0ではこうしたビデオカメラ使用の欠点あるいは制約について述べる。利点と同時に欠点をおさえておくことが、テクノロジー使用には肝要なことだと思う。

4.1 人的制約
カメラをある方向に向ける、という作業は、別の方向には向けないということを意味する。これは、フィールドノーツによる記述で指摘したことと本質的に同じことだ。見ようとしていることが現象の記録に決定的な影響を及ぼすのである。重要なことは、現象の「すべて」を記録しようなどと、はじめから気負わないことだ。われわれにできることは(ビデオというテクノロジーをもってしても!)、とりあえず得られたデータから何が言えるか、これに焦点を合わせることのみなのである。

とは言え、そうした仮説を例証するための証拠は多い方がよいことは確かだ。カメラを操作する人間のバイアスを抑えるためにJ&Hが提案するのは、たとえば、フィールドノートをつける、固定カメラにする、カメラを2台にする、同時にテレコで録音するなどして、情報を落とさない工夫である(p.15-6)。

カメラをどこに向けるかが操作者のバイアスを示すひとつの証拠だと、ポジティブに考えてもよい、J&Hはそう述べる。彼女らが挙げる分娩室の事例では、出産の際に生まれてくる赤ちゃんをカメラで映していたために、母親と看護婦のやりとりは映せなかったという。しかしこれは、どうしても赤ちゃんを見てしまうという文化的バイアスの存在を示すひとつの証拠となるのではないか。同様なことは発達研究にも応用できそうだ。たとえば、子どもにカメラ(スチール、ムービーいずれも)を渡し、遊び場面を撮らせるといった方法が可能かもしれない。遊び場の風景を子どもがどのように見ているのか、かれらなりの世界の切り取り方が映像に反映されているかもしれないのだ。

4.2 技術的制約
通常のビデオ機器は、あくまでも映像と音声を記録するために作られた道具である。そのため、状況を構成するいくつかの要素、たとえばその場の匂いや温度、物の肌触り、人の気配を記録することはできない。温度を測定したい場合はサーモトレーサーで撮影されたサーモグラフィを見ればよい。だが、何より高価であるし動き回る対象には適用しづらい面があるので現実的ではない。結局、視覚・聴覚以外の情報については、フィールドノーツなど補助的手段で記録しておくのが、現在もっとも妥当な方法だろう。どんなにいい機材を使っても、すべてを満足させることはできない、このことを自覚すべきである。

もう一点の注意として、逆説的だが、ビデオはすべてを映してしまい過ぎる、ということがある。相互行為分析において知りたいことは、あくまでもある参与者の振る舞いを明らかにすることだ。具体的には、参与者がその場の何をリソースとして用いつつ行為したかが分かればよいのだが、ビデオにはそうしたリソース候補がふんだんに映りこむ。たとえば、夢中になって仕事をしている参与者や、パーティションを挟んで座る参与者など、その場で起きていたことのすべてをリソースにはできない場合が考えられる。しかしビデオは、パーティションを挟む二人の参与者を同時に映すことができる。観察者はこのようにしてある状況を特権的に俯瞰することができるが、その視点を参与者の視点と混同することはあってはならない(p.16,P3)。


5.0 カメラ効果

多くのフィールドワーカーが抱える問題が、このカメラ効果である。参与者にしてみれば、見張られている、悪く言えば監視されているという感想をもらしてもおかしくはない。デリケートな制度的状況、たとえば病院や障害者施設にカメラを持ち込むときにはしばしば現場にいる人たちからの拒否の態度がともなうし、法廷や取調室などはじめから撮影が許されていない場もある。

本当に参与者はカメラを意識しているのか?確かに、撮影開始時にはカメラから背を向けて動く、あるいは逆にカメラの方に頻繁に視線を向けるといった行動が観察される場合がある。これはカメラ効果のひとつだろう(p.17,P1)。

しかし、時間が経過するにつれ、カメラの存在に慣れることもある。このことは、カメラを固定させた場合、最低でもファインダーの後ろに撮影者がいない場合にはだいたいあてはまる。カメラが参与者にとってインテリアの一部となってしまえば、それほど特別に意識されることはないのだろう。その意味で、もしも参与者が限られた空間のなかで活動するなら、三脚や壁にカメラを据え付けた撮影は非常に有効である。広角レンズなどを用いてなるべく参与者の動きそうな空間全体がファインダーに収まるようにしておく。活動時はずっと録画状態にしておいて、観察者はその間、フィールドノーツで記録したり、もう一台カメラを用意し、固定カメラではフォローできない細かな作業などを録画したりするのがよい。

カメラが与える影響は、結局、研究者が研究の目的に照らして臨機応変に考慮すべき問題である。無視してもいけないし、慎重になりすぎても意味がない。結局、どのような記録方法でも、その場に研究者が赴いてデータを収集する以上、それはすでに場の相互行為の中に組み入れられているのだから、出来事に与える影響を避けることは不可能である。重要なのは、こうしたことをふまえた上で分析や解釈をすすめることなのだ(p.19,P2)。


6.0 分析の焦点

本節のタイトルに、なぜ「焦点」という単語が用いられているのかを説明しておく。J&Hは、たとえば分析の「カテゴリー」という単語を用いてもよかった。しかしそうしなかったのは、この単語(カテゴリー)には、次のような含意が読み取られるからである。

たとえば、心理学の実験においては、被験者の行動は実験者の観察によって、あらかじめ設定されたいくつかのカテゴリー(正解・エラーなど)に落とされた後、分析がなされる。これにしたがえば、被験者の行動について、その意味を決定するのは、(いかに分析カテゴリーの妥当性が保証されようとも)実験者である。このように、J&Hはカテゴリーということばに、相互行為する当の本人の意味世界を無視した、研究者による(ことばは悪いが、勝手な)意味づけ作業を見て取ったのだろう。

しかし、ウィトゲンシュタインを援用しながら、ハロルド・ガーフィンケル(1964/89)が述べたように、実験の被験者が用いる記号の用法は、かれ自身がしたがう「言語ゲーム」内において合理的なのである。したがって、実験者と被験者の各言語ゲームが共通している保証がない以上、実験者が用意する分析のカテゴリーに被験者がいかにしてしたがっていたのか、は問題として立ち得ない。あくまでも被験者自身の用いるカテゴリーは何か、がエスノメソドロジーの問題である。

J&Hが用いている「焦点」ということばは、まずもって、相互行為する人びとが行為の手がかりとして用いていることがらを指している。つまり、人びとが世界を見る焦点のことだ。そして、この焦点は相互行為に参加する人びとに観察可能である限りにおいて、観察者にも観察可能となる。ゆえに、観察者にとっても分析の焦点となりうるのである。

以下、この意味における「焦点」として、「出来事の構造」「活動の時間的組織化」「ターンテイキング」「参加構造」「トラブルと修復」「活動の空間的組織化」「アーティファクトとドキュメント」の7項目について概観していく。もちろん焦点はここで挙げられたものに限られるわけではない。ぜひとも自分自身の焦点を今後の分析を通して発見してほしい。

6.1 出来事の構造
人間の運動は連続していて切れ目などない。しかしわれわれは動作に対して文脈に応じたなんらかの名付けをすることによって、未分化な連続を秩序立てられた非連続に変えている。それがわれわれの持つ、時間という感覚であろう。

相互行為を枠付ける時間感覚について、Erickson&Shultz(1982)はカイロスとクロノスの二種類を区別している(pp.72-3)。カイロスとは「さっきでも、次でもなく、まさに今」のように指示される時間感覚であり、相互行為の時系列的な順序性を説明するのに適した語である。一方クロノスとは時計で計られるような時間のことを指すが、これは相互行為に潜むリズムや周期性を示すのに用いられる。このようにErickson&Shultz(1982)は、どちらの道具立ても相互行為分析には必要だと述べた。

J&Hが本節と次節で述べるのは、Erickson&Shultz(1982)が指摘したような相互行為における時間的な順序性と周期性についてなのだが、これらふたつの時間感覚が検知する非連続なまとまりには、相対的に大きなものと小さなものとがありそうだ。相対的に大きなものうち、この6章1節では「出来事event」と呼ばれる単位に焦点が合わせられる。

相互行為する者が意味ある単位と見なし、またそれが意味ある単位として流通する相互行為のまとまり、それが出来事である。食事ということ、食卓をしつらえるということ、食べ物を口に入れるということ…、いずれも出来事であるが、これらの間には連鎖的な関係や階層的な関係、入れ子の関係などさまざまある。重要なことは、本章冒頭で述べたように、出来事は相互行為の参与者にとって意味ある単位だということだ。J&Hによれば、参与者が容易に同定できる行動の単位は「エスノグラフィック・チャンク」と呼ばれる。これを同定する作業が分析への最初の段階であり、実際われわれはすでに映像データから目次ログを作る際にこの作業を通過しているのだ。

さて、具体的な手順としてJ&HはBamberger&Schon(1991 ※oにはウムラウト有)の議論を引用する。かれらはまず、書き起こしに基づいて「なにか新しいこと」が起きた時点にしるしをつけていったのだが、この段階では区切る基準を考えない。つまり直感にたよる。分節の基準をはっきりとした形で書きつけるのは次の段階での作業となるという。あくまでも参与者にとって意味ある単位を出来事と呼ぶので、エスノグラフィック・チャンクを同定するには、その文化の知識が当然ながら必要となる。そのためには、入念にフィールドワークするか、グループ作業するのがよいだろう。

6.1.1 開始と終了
観察者が単位を同定する上でもっとも有力な基準となるのは開始点と終了点の確定であり、それらに挟まれた間になんらかの名付けをすれば出来事となる。たとえば食事という出来事を開始するには、公式的には「いただきます」といった挨拶が、非公式的には最初の一口を成立させる箸の把持が必要である。同様に、「ごちそうさま」や食器の片づけが終了点をわれわれに示す。

ここで、公式的な開始や終了を宣言することと、相互行為のなかである出来事が始まったり終わったりしたと見なされることとは、一致する必然はない。「いただきます」と言った後で、実際に食べなくてもよいのである。ただし、その場に居合わせた者からすれば、これは奇妙であるだろう。また、「いただきます」ということばには他者からの「はい、どうぞ」という応答や、あるいは他者も同時に宣言するといった、それが開始の宣言であることの認証が伴われることもある。このとき、もしも「はい、どうぞ」という応答がなければ、食べ始めにくくなるかもしれない。

つまり、「いただきます」と宣言したとしても、それによって食事という出来事が自動的に動き出すわけではないのだ。

6.1.2 分節化
連続する時間の流れをあるまとまりに分節化することsegmentationは、相互行為の参与者が実際にしていることだという見方は、くどいけれども相互行為分析の前提から導かれる必然である。もちろんそうした分節化作業も相互交渉されなければならない。この交渉過程で用いられる、分節化を知らせ合うための手続きやリソースを明示化することが、観察者の実際の作業目標となる。

食事場面の例を続けよう。食事という出来事は、(料理を作る)、お膳を揃える、開始宣言、摂食、終了宣言、(片づけ)という下位の出来事に分節化できそうだ。しかし参与者はこの手順にしたがっているのではなく、これをひとつの図式として用いている。これが相互行為分析の採用する見方だ。同様に、身体動作やその空間的配置(たとえば、視線など)や、さまざまなアーティファクト(物を片づけるなど)も、出来事の区切りを交渉する際のリソースとなりうる。また、これらは観察者が分析に用いる焦点でもあるのだ。

もちろん、分節化の交渉がうまく達成されない場合もあるだろう。しかし、それを「トラブル」と見なすためには、同時に、出来事としての全体性を修復するためには、やはりさきほどのようなリソースが用いられるのである。そして、分節化の失敗あるいは成功によって、リソースを共有する実践コミュニティのメンバーシップであることもお互いに可視化される。

6.2 活動の時間的組織化
6.2.1 マクロレベルでの構造
ここで言うマクロレベルでの時間構造には、たとえば1年を単位とする周期(季節、移住など)から、カレンダーに書き込まれたスケジュール、学校や職場の1日の構成するプログラムなどが含まれる。

マクロレベルでの時間構造に研究の焦点を当ててきたのは、従来は社会学者だったという。かれらがあくまでもマクロをマクロとして扱うのに対し、相互行為分析におけるマクロとは、瞬間瞬間において達成されるものとしてのマクロ、あるいは行為を秩序づける際のリソースとしてのマクロである。たとえば学校での時間割を考えてみよう。当然ながら時間割という概念それ自体に、時間を割る能力はない。しかしわれわれは、時間割を目に見える形に表し(紙に書かれた表やチャイムにより)、そこに行為の体系づけに用いるべきリソースとしての正統性を見いだす。もちろんこの正統性も社会的な交渉において確認されるものである。通常の社会学がマクロのマクロ性を前提として議論を進めるとすれば、相互行為分析においてはそれが成立するための要件を微視的な行為のうちに発見しようとするのだ。俗に言うマクロ-ミクロの接合は、相互行為分析においては以上のようにしてなされる。

マクロレベルでの時間の秩序は、ある特定の出来事が特定の時刻に起こるように調整する参与者の振る舞いとして観察される。こうした調整を参与者自身がどう経験し、どう可視化しているのかが具体的な問題となるのだ。

6.2.2 リズムと周期性
人間活動におけるリズムと周期性には多様なレベルが見られるし、また多様なリソースによって構成されている。物理的、生理的なレベルでも、制度的なレベルにおいても、周期性は構成されている。

もちろん、周期性の同定には連続する時間に区切りを入れる、すなわち分節化(6.1.2を参照)というわれわれの実践が前提とされる。周期性を問題とする場合には、実践上の前提がもうひとつ必要となる。二度と同じことは起こらないはずなのに「同じこと」が反復すると見なす、そういう実践である。たとえばJ&Hが挙げる例では、赤ちゃんがスプーンを口に運ぶ動作にたいして、「食べる」ことの反復か、それとも「(スプーンを)もてあそぶ」動作へ切り替わったのか、両親が評価していた。このように、本節で挙げる他の焦点と同様、物理・生理的レベルであったとしても、周期性には意味の社会的な交渉過程が分かちがたく含まれているのだと言える。

周期性の事実とは、確認したように、交渉されなければならない。交渉過程は、反復される「同じこと」の同定と、ある具体的な行為をその「同じこと」のカテゴリーに含めるかどうかの判断から成るだろう。同定と判断から成るこの過程から、次に何が「同じこと」として出現するかの予期が生じる。すなわち、反復される「同じこと」とは、交渉を通じて構成されるはずの何かであると同時に、それを用いて自らの行為を導くリソースでもあるだろう。

周期性として概念化することにより、出来事と出来事の「あいだ」という一種の出来事に焦点をあてることができる。忙しい時間帯に対する暇な時間帯、授業中に対する休み時間などは典型的な「あいだ」である。しかし一方で、この出来事とあいだの関係はそれほど明瞭でもなく、あいだを構成すると一般には考えられる行為が出来事のなかに侵入しつつも、さもその出来事が進行中であるかのように振る舞うといった事態がありうる、このようにJ&Hは指摘している。たとえば、授業中に机の下で漫画を読みふける生徒の事例がそれである。このことも、周期性が社会的に構成されていることから理解することができよう。

活動の周期性は実践への参加過程へも密接に関与している。J&Hが指摘するように、新参者が実践についてかれらなりの意味を形成する際に、周期性は知らねばならない対象でもあるし、自らを実践のメンバーとしてディスプレイするための有効なリソースでもある。また、先述した「あいだ」は、実践への直接的な関与から離れて、熟練者が新参者に指導することを可能にする。

以上見てきたように、活動の時間的な組織化過程は相互行為分析の重要な焦点となりうる。Erickson&Shultz(1977)が指摘したように、時間とはひとつの文脈(When is context)である。つまり、行為の適切さは、今がどのような時間なのか、およびいつそれを行うべきかという、ふたつの意味で時間に依存する。この点で、われわれの行為において構成されつつそれを枠づける時間は相互行為分析の焦点である。

6.3 ターン・テイキング(順番取り)
1978年、雑誌Languageに1本の論文が載った。A simplest systematics for the organization of turn taking for conversationというタイトル、著者はハーヴェイ・サックス、イマニュエル・シェグロフ、ゲイル・ジェファーソンの三人である。この論文を皮切りに、一見無秩序に流れるだけのような日常会話に、科学の対象としての地位が与えられた。ここでターンとは、会話の場において発話する番を指す。Aさんが話し、次にBさんが話す。この意味での「番」である。サックスらが提起した問いは、会話において発話の順番はいかにして決められていくのか、というものであった。通常の日常会話では、こうした発話順があらかじめ決まっていることはない。また、たとえば式次第のような形式であらかじめ「決まっていた」としても、ここまでの議論をふまえれば分かるように、式次第自体は相互行為を導く上でのリソースに過ぎず、いかにして式次第を実行するかという問題はまた別に立てられなくてはならない。

さてサックスらが提起した、発話の順番取りが可能になるためのシステムとは以下のような要件から構成される(以下は、高原・林・林(2002)pp.136-7からの引用)。

1 話し手はターンを交替でとり、その交替は繰り返される。そして少なくともターンの交替は発生する。
2 一方の話し手だけが圧倒的な頻度で話すことがある。
3 2人以上の話し手が同時に話すこともあるが、そのような同時発話は長く続かない。
4 1つのターンから次のターンに移動するときは普通ギャップやオーバーラップが伴わない。たとえ、わずかなギャップやオーバーラップがあっても大抵は問題なくターンが移行する。
5 ターンをとる順番は多様で決まっていない。
6 ターンを持つ長さは多様で決まっていない。
7 ターンにおける発話の長さは前もって決められていない。
8 会話者が話すことは前もって決められていない。
9 ターンの割り当ては前もって決められていない。
10 会話への参加者数は変化する。
11 ターンにおけるトークは切れ目なく続くこともあれば、中断することもある。
12 ターンの割り当てには、決まったテクニックが使われる。
13 「ターン構成ユニット」の長さは1語の場合もあれば、文の場合もあり、その長さは多様である。

このうち、12に登場するターンを割り当てるテクニックとは以下のようなものである。

(1)最初のターン構成ユニットのターン交替には次のシステムが働く。
 a ターンを持っている話し手が次の話者を選ぶ場合は、選ばれたその話者だけがターンを取る義務と権利を持つ。
 b ターンを持っている話し手が次の話者を選ばない場合には、その話し手以外の会話の参加者全員が自分から次の話しのターンを取る権利をもち、最初に話し始めた者がターンを保持する権利がある。
 c ターンを持っている話し手が次の話し手を選ばず、かつ、会話の参加者のなかに次のターンを取る者がいない場合には、現在ターンを持っている話し手がターンを持続することができる。
(2)最初のターン構成ユニットのターン交替においてcが作動する場合には、その次のターン交替に再びa~cが適用され、それ以降もターン交替にはその適用が繰り返される。

注意したいのは、上記前半の12項目は現象の観察から得られた一般的な結論である一方で、後半の2項目は「一度にひとりが話し、話者は交替しうる」という現象が成立するための条件だという違いである。実は後者は現象だけをいくら見ていても、帰納的作業によっては抽出し得ない。現象から得られるのは、前半12項目のように、会話の多様性だけだ。多様を作り出しうる原理的なものを見つけようとしたのが、サックスらのこの論文の主眼なのである。

さてJ&Hの議論に入ろう。相互行為分析の場合、順番取りは発話のみならず、非言語的な行為の交替としても観察される。ジョーダンは、発話、非言語行為、道具使用などすべてを順番取りを構成する要素ととらえた上で、相互行為を活動を媒介するものの別によってふたつのカテゴリーに分けている。ひとつは、言語が主要な媒介物となる相互行為で、「会話型相互行為talk-driven interaction」と呼ばれる。たとえば、インタビューや会議などがそれである。もうひとつは、道具を主要な媒介物として達成されるもので「道具型相互行為instrumental interaction」と呼ばれる。外科手術や宿題などがそれだ。むろん、あらゆる相互行為には発話、動作、道具のすべてが用いられているのだが、何が中心的な媒介物かによって分けているのである。

この区別、特に道具型相互行為というカテゴリーは、多様なテクノロジーを媒介として成立する仕事場などの分析には有効だろう。たとえばJ&Hはこうした場合における順番取りの特徴として次のような現象を指摘する。発話によるターンの次に非言語的行為によるターンが伴われることが多い(Aさん「スイッチを押してください」→Bさん、無言でスイッチを押す、など。行為→発話の順もある)。相互行為のトピックが会話型よりも長く維持される。沈黙の時間帯が長くなる。進行中の相互行為が道具によって中断させられる(電話、故障など)、など。

ある特定の役割を担う参与者が順番を管理する状況もある。会議における司会、授業における教師などがそうした役割に含まれる。特に、生徒の話す順番を決定する、すなわちフロア(発言権)を配分する教師の役割について多くの文献で指摘されている。注意したいのはフロア配分はあくまでも分配者とそれに従う者との相互的な達成だという点である。フロア分配者としての役割を、そもそもある具体的な人物が担っているわけではない。「教師」という役割が「生徒」との関係のなかで相対的に規定され、そうした実践に共同で参与する状況が成立して初めて、「教師」になった人物がフロアを配分することが適切となるのだ。教職員の会議など、授業ではフロアを管理していた同じ人物が、今度は司会者-参加者という新たな役割関係の下に自らを置くことによって、勝手にフロア配分者という役を獲得することはできない、こうした事態を想像すればよい。

6.4 参加構造
本節でJ&Hは参加構造participation structureに触れている。参加構造とは、「相互行為の場で動的に展開する、参与者の関与のしかたの全体的な配置」のことである。たとえば、教室を考えてみればよいだろう。授業という実践においては、ある者に話す権利が与えられる、このことはすでに前節で触れた。同時にこのとき、話者以外にはそれを聞く義務がある。ここで義務とは、実際には聞いていなくても、少なくとも聞く態度をディスプレイしていなければならない、ということを指す。話す権利を有する者と、聞く義務を負う者とは、同時に、しかも相対的に決定される。「全体的な配置」が指すところはここである。

J&Hによれば、参加構造にはある活動に関与するかしないかという問題も含まれる。「全体的な配置」がどこまで広がりを持つのかという問題である。かれらが提示した事例では、分娩室というひとつの部屋に、ふたつの参加構造が観察された。ひとつは出産を控えた女性とその夫、もうひとつは医者や看護婦などのスタッフである。構造間の境界は、会話の相手に誰が選択されるか、少し広く言えば相互行為の相手として誰が志向されるかとして可視化される。この境界は互いに入り込んだ関係にもある。医者たちの参加構造のなかに妊婦が位置づいているのは確かだが、相互行為の相手としてではなく、あくまでも医者たちが相互行為によって解決すべき課題としての位置にあるのだ。

このように、観察した範囲で、同時に複数の参加構造が生起することは往々にしてある。このとき、参与者がいずれにも相互行為の相手として参加できる場合もあれば、そうでない場合もある。また、人間同士が空間的に近接していなくても参加構造が成立する場合もある。たとえば電話を介したコミュニケーションが典型的な事態だろう。

相互行為分析の関心は、以上のような参加構造の形成と維持、あるいはそれらの横断を、参与者がいかにしておこなっているのか、という点である。

6.5 トラブルと修復
実践の円滑な遂行が妨げられる経験がトラブルである。だが行為自体はトラブルのあいだも途切れなく進行している。あくまでもトラブルとは参与者がある現象をそれとして意味づけることで可視化される出来事である。トラブルが相互行為分析の焦点となるのは、それを修復repairする過程から、ひとびとが行為を組織化する際の暗黙のルールや用いられていたリソースが見えるからだ。

現象としてのトラブルはさまざまな形態を取る。参与者がしばらく沈黙してしまったり、似た行為を繰り返したり、物理的にコンピュータが操作不能になったりと、いずれもトラブルと目される出来事である。このように相互行為分析では言語的なトラブルのみならず、非言語的な側面でのそれも対象となる。そこには、すぐに修復されるために多くの場合気づかれないものも、なかなか修復されずに強く自覚されるものもある。

一般にはトラブルとは見なされないが、同様に、行為を組織化するのに日常用いられるルールとリソースを明らかにする出来事として、新参者の参入事態がある。たとえば新入園児が園のさまざまな慣習と出会ったとき、何にとまどい、何にとまどわないかは、園独自の慣習が何かを明らかにするだろう。

6.6 活動の空間的組織化
時間を組織化していたように(6.1~6.2を参照)、われわれは活動のなかで空間も組織化していると言える。ここで組織化されるものには、たとえば身体間の距離や(いわゆるパーソナル・スペース)姿勢といったことがある。

J&Hはいくつかの論点を挙げている。たとえば、航空管制室ではワークステーションという不動のアーティファクトを中心に身体的配置が規定されている(逆に、動かすことのできるアーティファクトなら、そちらを移動させて人間の配置は変えないということがあり得るだろう)。また、空間そのものに相互行為する上でリソースとなりやすい場所とそうでもない場所があるようだ。上座-下座やお誕生日席として指示される空間がそれである。これら空間的リソースが制度的な構造や権力関係と密接に関係することも指摘されている。仕事場において監督的な立場にいる者は、その場全体を見渡せるような空間を占めることが多いのもその現れである。こうした空間的な位置取りが慣習化し、無標化されているとき、通常はその位置に立つことの期待されていない人間がその場所を占めると、有標化された行為としてきわめて目立つこととなる。やや散漫に羅列してきたが、いずれの空間的側面も相互行為を導くリソースであるとともに、相互行為のなかで調整されるべき対象なのだ。

人間同士の身体的配置が相互行為分析においていかに取り上げられてきたかもう少し見てみよう。二人の人間が同じ活動に関与するとき、姿勢の向きが行為を方向付けることがある。横に並行して並んだり、正面から向かいあったり、一方の後ろに回り込んだりするだろう。こうした配置が、食事、カウンセリング、教育的指導といったさまざまな活動に応じて使い分けられ、調整されているのだ。

自由に動くことのできる領域は不動のアーティファクトによっても決まるが(ふたつの物体が同時に同じ場所を占めることはできないという制約による)、その出来事がどのようなものかによっても規定されている。熱心に議論する会議室に堂々と入っていくことができるだろうか?授業中に生徒が各自の机を離れて歩けるだろうか?もちろん、原理としては可能であろうが、出来事を構成しつつ確認する相互行為の過程においては、すぐさま逸脱行為として顕在化するはずである。これを逆に捉えると、何が人間の活動を阻害しているのかという問題が立ちうる。たとえば、教室に置かれた机の配置が、実は活発な議論の生起を抑制しているのかもしれない。

相互行為分析は空間的な物理的配置がどの程度固定的で、どの程度参与者の自由になるのかを検討する。また、このような制約がいかにして参与者の行為に影響し、どのように実際の行為で交渉されているのかを検討する。J&Hはこのように述べた。

6.7 アーティファクトとドキュメント
ここまでの議論でもたびたび指摘されていたが、われわれの環境にはわれわれ自身が作り出したアーティファクトが満ちあふれている。これらモノそれ自体を、活動に関与する一種の行為者としてとらえるのも相互行為分析のひとつの特徴であろう。また、相互行為分析とは関係がないが、同じ発想を共有するフランスの科学社会学者であるラトゥールやカロンが提起するアクター・ネット理論は、顕微鏡や細菌といったモノも人間と同様のアクターとしてとらえ、意味の社会的ネットワークにそれらが入り込む過程を明らかにしようとしている。

アーティファクトと活動との関係は相互行為分析の焦点のひとつだが、われわれの環境には実に多様なアーティファクトが同時に存在するため、まず何が活動と関連しているのかを同定する作業が必要となってくる。机とイスがあるからといって、それが授業中のある相互行為に関連したアーティファクトだということにはならない。同定するためにJ&Hが提起するひとつのポイントは、新しいアーティファクトが活動に導入される事態に注目することである。その上で、活動がどのような変遷をたどるか、どのような場面でアーティファクトが用いられるか、誰が使うか、どのように配分されるか、いかにして相互行為が構築されるか、といったことを問いとすればよい。

気をつけたい点は、アーティファクトの機能はひととおりではない、ということである。たとえば会議に持ち込まれた書類の主要な機能は情報を提示することであろうが、それ以外にも多様な機能を果たす。暑ければそれで顔を扇ぐことができるし、紙を揃える動作は会議の終了を合図する。また、アーティファクトの象徴的な機能にも注意しておくべきだろう。J&Hが例示するように、聴診器の機能は第一に心音を聞くことだが、それを首にかけていることが医者という役割の象徴となる場合がある。

相互行為を規定するアーティファクトの機能に関してJ&Hが特に注目を促すのは、所有と配分の問題である。ある道具を所有すると見なされる役割、ある道具を使ってよいと見なされる役割、ある道具の改変をしてよいと見なされる役割など、アーティファクトをめぐる社会的関係性は相互行為を規定する。また、黒板やモニターなど、パブリックな位置にあるアーティファクトは、複数の参与者が同時に参照することをアフォードするが、ここからいかにして参与者間で注意の焦点を交渉し共有するかという相互行為上の問題が生まれる。

アーティファクトはあらゆる相互行為に関与する。それ抜きの分析は不可能であろう。このことを常に念頭に置かねばならない。


7.0 結論

J&Hが論文を出版した1994年から20年が経とうとしている。その間、このアプローチにどのような進展があっただろうか?実はなにも変わっていないようにも思われるのだ。もちろん、ビデオを担いでフィールドに赴く研究者やひとびとの相互行為に関心を持つ研究者の数は着実に増えている。日本でもいくつかの自主的な研究会が開催されるようになった。

最後に、もう一度確認しておきたいが、ビデオを活用した相互行為分析には、精神や行為や世界に向けられた独特の観点がまとわりついている。これを無視した研究をしても無駄である。認識論と方法論は密接に結びついているのだ。


文献

Condon, W. S., and Sander, L 1974 Synchrony Demonstrated between Movements of the Neonate and Adult Speech. Child Development, 45, 456-462.
Erickson, F., and Schultz, J. 1977 When is a context?:Some issues and methods in the analysis of social competence. Quarterly Newsletters of the Institute for Comparative Human Development, 1(2), 5-10.
Erickson, F. and Shultz, J. 1982 The counselor as gatekeeper: social interaction in interviews.New York : Academic Press.
Garfinkel, H. 1964 Studies in the routine grounds of everyday activities. Social Problems, 11, 225-250.(北澤裕・西阪仰訳 1989 日常活動の基盤:当たり前を見る 日常性の解剖学:知と会話 マルジュ社 pp.31-92.)
海保博之・原田悦子(編) 1993 プロトコル分析入門:発話データから何を読むか 新曜社
串田秀也 1997 ユニゾンにおける伝達と交感:会話における「著作権」の記述をめざして 谷 泰(編) コミュニケーションの自然誌 新曜社 Pp.249-294.
西阪仰 1997 相互行為分析という視点:文化と心の社会学的記述 金子書房
西阪仰 2001 心と行為:エスノメソドロジーの視点 岩波書店
Psathas, G. 1990 Appendix: transcription symbols. In G. Psathas (Ed.), Interaction competence. Washington D. C. : University Press of America. pp.297-307.
Sacks, H., Schegloff, E. A., and Jefferson, G. 1974 A simplest systematics for the organization of turn-taking for conversation. Language, 50, 696-735.
高原脩・林宅男・林礼子 2002 プラグマティックスの展開 勁草書房

英語の文献を翻訳してみよう(1)

大学の演習で,William JamesのThe Principles of Psychologyを読んでいる。

この本はちょうど19世紀から20世紀にかけての曲がり角に書かれていて,いかにして心理学を自立した学問として立ち上げるかが宣言された古典的名著とされる。

ちょっとずつ翻訳していってみよう。翻訳しながら,ぼくなりの翻訳のコツをメモしていってみる。ぼくは翻訳の専門家でも何でもないし,むしろ英語に不自由している者だが,それでも18年以上アカデミックな英語につきあってきた中で編み出してきた自分なりのコツというのはある。それを開陳する。

なお以下の原文は,Christopher D. Greenによる,Classics in the History of Psychologyに基づく。


Psychology is the Science of Mental Life, both of its phenomena and of their conditions.
心理学とは,生きるということの精神的側面に関する科学である。精神において起こる現象,および,それがどういう条件で起こるのかを研究する科学である。

The phenomena are such things as we call feelings, desires, cognitions, reasonings, decisions, and the like; and, superficially considered, their variety and complexity is such as to leave a chaotic impression on the observer.
その現象を私たちは,感じる,欲する,認める,考える,決める,などといったふうに呼ぶ。ちょっと考えると,精神現象のこうした多様性と複雑さは,観察する者にごちゃごちゃした印象を与えるような類のものである。

The most natural and consequently the earliest way of unifying the material was, first, to classify it as well as might be, and, secondly, to affiliate the diverse mental modes thus found, upon a simple entity, the personal Soul, of which they are taken to be so many facultative manifestations.
これらの素材を統一する最も自然で,それがゆえに最も古くからあった方法は,まず,そうあるはずだという通りに分類し,次に,そのようにして発見された様々な精神のモードを,個人の「魂」という独立した単一の存在のもとに互いに関係づけるというものである。この魂なるものは,非常に多くの機能として発現するものと考えられている。

Now, for instance, the Soul manifests its faculty of Memory, now of Reasoning, now of Volition, or again its Imagination or its Appetite.
例えば,この魂は,あるときには記憶,あるときには推論,あるときには決断,またあるときには想像とか欲求といったように,多くの機能を発現させる。

This is the orthodox 'spiritualistic' theory of scholasticism and of common-sense.
これがオーソドックスなスコラ哲学や我々の常識における「唯心論」である。

Another and a less obvious way of unifying the chaos is to seek common elements in the divers mental facts rather than a common agent behind them, and to explain them constructively by the various forms of arrangement of these elements, as one explains houses by stones and bricks.
精神現象のごちゃごちゃを統一する,これとは別の,ちょっとひねった方法として,精神に起こる様々な出来事の背後に共通の主体を探すのではなく,共通の要素を探すというものがある。その上で,ちょうど石材やレンガで家を造るように,それらの要素をさまざまに組み替えて精神現象を構成的に説明するのである。

 The 'associationist' schools of Herbart in Germany, and of Hume, the Mills and Bain in Britain, have thus constructed a psychology without a soul by taking discrete 'ideas,' faint or vivid, and showing how, by their cohesions, repulsions, and forms [p.2] of succession, such things as reminiscences, perceptions, emotions, volitions, passions, theories, and all the other furnishings of an individual's mind may be engendered.
ドイツのヘルバルト,イギリスのヒューム,ミル,ベインといった「連合主義」派はこのようにして,魂抜きの心理学を構築した。彼らは,ぼんやりしていたり鮮明であったりする「観念」を区分けし,その結束や排斥,連続の形式によって,回想,知覚,情動,意思決定,情念,観照といった,個々人の精神を構成するものが発生するであろう仕方を示している。

 The very Self or ego of the individual comes in this way to be viewed no longer as the pre-existing source of the representations, but rather as their last and most complicated fruit.
個人の自己とか自我はこのようにして,あらかじめ存在する表象のみなもととしてはもはやみなされず,その代わりに,結果として現れる,最も複雑な果実としてみなされるのである。


以下,上のような訳を作るにあたって,ぼくが気をつけていること。

1 筆者の思考の構造を想像してみよう。
 それこそsuperficiallyに字面をなぞっていても,Jamesが何を言おうとしていたのか分からない。ある単語が使われたとき,それがいったいどのような思考の構造のもとで出てきたのかを「想像」してみるといい。
 たとえば1行目でthe Science of Mental Lifeとあるが,これは,science of physical life,すなわち生きることの物質的側面(Jamesが医者であったことを想起しよう)との対比が背後にあるのでは,とか。physiologyやbiologyに還元されない学問としてpsychologyの独自性を構想していたのだ,と想像する。無根拠な想像は危険だが,根拠のある想像は豊かな読みをもたらす。

2 無理につなげてはいけない。分けて訳そう。
 文章を接続詞や関係詞,あるいはセミコロンでつなげていくのはネイティブの悪い癖である。そんなのにつきあう必要はない。
 たとえば3行目。to affiliate the diverse mental modes thus found, upon a simple entity, the personal Soul, of which they are taken to be so many facultative manifestationsとあるが,これを1文で訳すとthe personal Soulにかかる説明が重たくなる。そういうときは,2つの文に分けてしまう。結果的にthe personal soulが文中に二度出てきてしまうが,その方がずっと読みやすくなるならそうした方がよい。ネイティブジャパニーズの学生もレポートを書くときにだらだらとつなげて書く癖があるので気をつけるべし。

3 直訳は言い足りないのでどんどん補ってしまおう。
 辞書をひきながら訳すしかないのだが,そこに書かれた語釈はあくまでも簡便なもの。その単語が置かれた文脈に沿って,自分なりに補いながら,たまには大胆に,訳してしまった方が分かりやすい場合がある。ぼくの感覚では「やりすぎ」くらいの方が分かりやすい。
 たとえば,先ほども出たthe Science of Mental Life。これをどう訳すかは難しい。「精神生活の科学」?なんだか新興宗教みたい。Jamesの言」わんとすることをふまえると,「生きることの精神的側面に関する科学」と言ってしまった方が分かりやすいのではと思ったのでそうした。こういう工夫は,どんどんしていった方がよい。

4 冠詞(theとa(n))の使い分けに着目すると,一段と読みが深くなる。
 冠詞は日本人にとって最もわかりにくい英語文法要素のひとつ。これを感覚的に捉えられるようになると,英語の見え方や読みの深さが断然変わってくる。
 たとえば3行目。a simple entity, the personal Soulという箇所で,不定冠詞と定冠詞が並置されているけど,Jamesがどういう発想で使い分けたかを考えてみる。simple entityというのは,いくつもそういうものがある中でのひとつなのだ,とか,personal Soulは,1人にひとつしかないからtheを使っているのだとか,考えるポイントはいくつもある。

5 最後にものを言うのは英語力ではない。日本語力の方が翻訳では大事。
 どういう日本語に置き換えるかは,どのような日本語を知っているかに依存する。日本語をたくさん知らなければならない。

協働の場において何を作り出すか(2)

研究者は、新しい概念や説明体系を構築する上で、「たとえ」に強く依存しています。例を挙げましょう。私が片足をつっこんでいる研究領域に、「学習」があります。ある研究者は、それまで行われてきた学習についての研究の背後には大きく分けて2つの「たとえ」があったと指摘しています。1つが「学習とは何かを獲得することである」というたとえ、もう1つが「学習とは何者かとしてどこかに参加することである」というたとえです。

第一のたとえ。多くの人は、「学習とは何かを獲得することである」というのはたとえではなく、学習そのものではないかと反論するかもしれません。しかし考えてみてください。学習とは実に複雑な出来事で、そこには、脳神経学的な変化もあれば、身体運動的な変化もあり、かつ、そうした微細な変化を目に見えるようにするいろいろな装置(その代表がテストです)が絡み合って、私たちはそれらをひっくるめて学習と呼んでいるようです。この個人の身の上に起こる「変化」という現象を、この第一のたとえは、「獲得」という用語の体系で説明しようとします。たとえば、「知識を手に入れる」とか「頭に入りきらない」といったようにです。

第二のたとえは、それに対して、「頭がよくなる」とか「スポーツの選手になる」といった言葉の使い方を学習の見方の典型的なものとします。このたとえの背後にあるのは、身の上に起こる変化がある社会集団の中でどのように位置づけられていくのかという、社会的な立場とか役割の変化過程が学習なのだという考え方です。「頭がよくなる」というのは、実際に脳の性能が上がることではなく、「頭がよい」という部類に含まれる人間として評価される、という意味なのです。

ある社会集団の中で何者かになっていく過程が学習だ、とする考え方はなじみのないものかもしれません。それもそのはずで、この考え方をはっきりと示す理論が提案され、広まっていったのは1980年代の後半のことだからです。そうした理論を提唱した研究者に、エティエンヌ・ウェンガーという人がいます。ウェンガーが提唱した概念に「実践共同体」(communities of practice)というものがあります。これは、私たちの社会的な有り様を捉える概念で、ある実践的な課題によって結びついた社会的なネットワークが複数あって、私たちは同時に複数の社会的ネットワークに所属していることを説明するのに役立ちます。たとえば、保育園に通う子がいる親は、夕方近くなると、子どもを迎えに行くタイミングと仕事の切り上げ方を考えながら過ごすかもしれません。この親のありようは非常に社会的で、「家庭」という社会的ネットワークと、「職場」というネットワークに同時に所属していることに由来するのだ、と説明がなされます。

この実践共同体という概念を使うと、学習とは、その共同体により深く参加して、その共同体において中心的な人物となることと説明されます。ある職場で「仕事ができる」ようになっていく過程とは、単にその人の仕事にまつわる行動が変化することではなく、文字通り、ある仕事をまかせてもらえるかどうかという評価や立場、役割が変化する過程なのです。

このように、たとえが異なると、学習という現象の見方も大きく変わってくるわけで、どのようなたとえを採用するかということの重要性が明らかになったかと思います。ここで話を戻して、「新しいたとえを作ること」について考えてみましょう。その際に、ちょっと工夫をして、新しいたとえを作りながら、新しいたとえの持つ意味についてお話ししたいと思います。

先ほどのウェンガーの実践共同体に基づいて学習を説明すると、下の図1のようになります。楕円は実践共同体を、矢印はある人の社会的変化の軌跡を表します。周辺部から次第に中心部に移動していく様子が描かれています。ウェンガーの著書にも同じような図が描かれているのですが、私は、この図は多分に誤解を招くものであったと考えています。あまりにも平面的に過ぎるのです。

中心に近づく、それは実践共同体で展開されている仕事全体を見通せるような立場に身を置くことです。そのような立場に立ったとき、その人の視界には何が見えているのか、その見え方を想像してみてください。さきほど、ある人は同時に複数の実践共同体に所属していると言いました。実践共同体は複数あるのです。ということは、ある実践共同体の中心に近づくということは、その人の所属していない他の実践共同体からはどんどん離れてしまうことを意味するのです。つまり、ある人がある実践共同体の中心に近づくにつれ、他の実践共同体で何が行われているのか、どんどん見えなくなっているとイメージすることができます。ウェンガーは、このような事態に触れて、「何かが見えるようになることは、何かが見えなくなることだ」と述べています。

図1(省略)
 
しかし図1は平面的であるため、その図を見る読者の目にはすべて(円の中も円の外も)一望できます。これですと、中心に近い人からは円の外が見えないことがイメージしにくいのではないかでしょうか。

そこで、この円を、中心に近づくにつれて深くなっていくすり鉢状の穴として捉えてみましょう。アリジゴクの巣のようなものと思ってください。
 
図2(省略)

このアリジゴクを上から見ると、先ほどのウェンガーのオリジナルの図と同じになります。ただし、喚起されるイメージは異なります。矢印は中心にも近づくのですが、穴の底にも近づきます。すると、穴の外のことはよく分からないだろうということは読者にとって容易にイメージできるのではないでしょうか。ウェンガーの実践共同体に「アリジゴク」というたとえを挿入することによって、ウェンガーが当初想定していたであろうひとつのポイントがよりくっきりと見えるようになりました。

このように、新しいたとえを作ることによって、これまで見えていなかったものごとが誰にとっても見えるようになることがよくあるのです。

ところで、図2は世界を理解する上でのたとえの重要性を説明するためのものでしたが、これは、発達支援やソーシャルワークにとっても重要なたとえではないかと考えられます。たとえば、支援を受ける当事者の中には、当然支援を受けるに値する生活状況であるにもかかわらず、まったく支援を要請しないというケースがあります。それはなぜかというと、図2を用いて説明すると、その人はある実践共同体における実践にどっぷりはまっていて、底の方にすでに移動してしまっているわけです。そうすると、他の生活のありようが見えなくなります。外を歩けばいろいろな人がいていろいろな生活をしているのが見えるわけですから、見えていないはずはない。しかし、見えないのです。

こうした場合、ソーシャルワーカーは当事者の所属する共同体の周辺にあえて入り込み、その上で、他の共同体の存在そのものやそこからの情報や物資を伝えたりするという役割を帯びます。このような人のことを、ウェンガーは「ブローカー」と呼んでいるのですが、まさに支援者はブローカー的な立場にあるのです。

とりとめなくお話ししてきましたが、ここでまとめたいと思います。

支援者と研究者はそもそももっている概念や説明体系が異なるので、世界を異なった視点から見ています。そうした人々が協働する場合には、どちらかがどちらかを一方的に理解しようとするのではなく、異なっていることを認めた上での協働を模索する必要があるでしょう。その際に重要なことのひとつとして、新しい「たとえ」を考え出すという協働活動の目標を立てました。新しいたとえを協働で考え出すことによって、少なくともそれについては支援者と研究者の間で共通了解が取られているわけですから、それを手がかりとして協働活動を進めていけるのではないかと思います。
これはプラットフォームの1つの機能となると思いますが、その名称として、「たとえを作る場」、略して「たとえ場」というものを提案したいと思います。これはオリジナルだろうと思ってインターネットを検索したらけっこう出てきました。まねをしたわけではありませんが、少なくとも商標登録はできなさそうです。残念です。

ですが、機能ははっきりすると思います。プラットフォームにおいて創造された見事なたとえは、きっと、支援の場や研究の場においても有効に使われていくことでしょう。

協働の場において何を作り出すか(1)

これまでに参加させていただいたシンポジウムやワークショップを通して、発達支援という活動に、当事者・支援者・実践者のみなさまとともにどのように参加していけばよいのか、おぼろげながら見えてきたように思います。この場をお借りして、お知恵をお借りできましたことに感謝申し上げます。

私は研究者という立場からこのプラットフォームに参加するのですが、正直に言いまして、何をすればいいのかよく分かりませんでした。支援者の「困りごと」を話し合うワークショップが3回開かれ、3回とも出席しました。参加者のみなさまの口から困っていることがたくさん出てきて、なぜ困りごとが起こるのか、それを解消するにはどうしたらいいかといったアイディアもかなり話し合われたと思います。うかがっていて、私が今まで気づかなかった問題など発見も多々ありました。ですが、やはり研究者としてすべきことがまだぼんやりしています。

ひとつはっきりしているのは、このプラットフォームは支援者と研究者の協働の場となることを目指しているということです。これは、言うほどにはたやすくない道だろうと思います。

その大きな理由のひとつが、「見ているものの違い」です。注意したいのは「見てきたものの違い」ではなく、今現在見ているものの違いです。象牙の塔の中で本とにらめっこしてきた研究者と違い、支援者の方は現実と向かい合ってその矛盾を解決しようとしてきたと思うのですが、そういう意味では両者は「見てきたものが違う」わけです。しかし私がここで指摘したいのはそういうことではありません。

支援者と研究者という2つの職種の間で、そもそもものごとの見え方が異なると思うのです。と言って、何も、こちらの人にとっては赤いリンゴがあちらの人には黄色く見える、ということではありません。世界を理解する枠組みが異なるのです。

固い言葉を使うと、「概念」が異なるのです。ここで概念というのは、世界を分けるためのラベルとでも理解しておいていただければよいかと思います。たとえば「ほ乳類」という概念がありますが、これは、多様な生物を分類するためのラベルのひとつです。ほ乳類という概念を枠組みとして世界を理解する人もいれば、そうでない人もいます。そうでない人の代表は、子どもです。子どもは、日常生活で出会うさまざまな生物の間の類似点や相違点を独自に発見し、独自の分け方で生物界というものをとらえるわけです。それに対して、大人は、より体系化された分類の規則や生物多様性の生じるメカニズムなどを背景とした概念化を行っています。

ある動物をほ乳類と見ようがどうしようが、たいした問題ではないのかもしれません。確かに個々の概念のずれは小さなものでしょう。しかし、たくさんの概念を集め、それらの間の関係をひとまとまりの体系にしたとき、2人の間の世界の見方のずれは決定的になります。例えば、地面と天体を別のものと見るのか、それとも、地面も天体のひとつだと見るのかでは、概念も説明の体系もまったく異なるものとなり、かつ、異なる説明体系を持つ者同士の間では話が通じないことでしょう。言うまでもなく天動説と地動説の違いですが、こうした対立は過去のものではなく、現在でも、例えば進化論と創造説の対立がくすぶる国もあります。

さて、支援者と研究者は、同じように、異なる概念と説明体系のセットに基づいて世界を見ているのでしょうか。もしそうだとしたら、同じ対象、例えば支援を受ける当事者についてすら、見え方、理解の仕方が両者の間で異なるわけですし、そうした二者が同じ対象をめぐって協働することは難しいかもしれません。

両者の概念や説明体系が異なるという可能性は次の事実によって妥当なものになります。

支援者の経験や信念、ライフコースに関する研究は多くあります。こうしたことが研究の対象となるのは、そもそも、支援者の考えていることが研究者には分からないということ、それらは支援者に固有の何かであっていまだ言語化されていないということが前提されているからだと思います。
支援者の概念や説明体系を研究者が知ることは大切なことでしょう。ですが、そもそも、お互いについてよく理解することが大切なのでしょうか。よく理解した上で、概念のセットをどちらか一方のそれに統一することも可能かもしれません。しかし、それは難しいし、なにより、異職種協働ということの良さが失われてしまいます。ミイラ取りがミイラに、ではありませんが、1人の支援者が2人になったところで、困りごとが2倍になるだけです。これでは共倒れです。

大切なことは、協働のための、これまで両者のどちらも持ったことのない新しい概念と説明体系を構築し、両者がそれらを共有し、それを枠組みとして世界を共に見ることが必要だと思います。重要なことは、一方に合わせるのではなく、新しく作ること、そして、作っていく過程そのものが協働の場において行われる中心的な活動だということです。

ただ、概念を作ると一言で言っても難しい。そこで、ここでは「たとえを作ること」を提案したいと思います。 ((2)に続く)

家族とはなにか

 

家族とはどのような社会集団であろうか。

それは、一般的には、構成員が徐々に増加した歴史を持つ集団である。核家族を例に取ろう。はじめに、一組のカップルが成立したところから家族の歴史が始まる。この時点での家族の構成員は二人である。時間をおいて、カップルの間に子どもが誕生すると、構成員は三人に増える。以降、子どもが生まれるごとに構成員は増えていく。

無論、双子で誕生した子どもや、ステップファミリーなど、上記のモデルに当てはまらない家族は現実に多くある。しかしそうした多様性はここでは重要ではない。ここでは、時間の経過とともに人数が増加する集団という観点で考えてみたい。これは、多様性を越えた、家族の歴史の一般的特徴といっていいだろう。

時間の経過とともに人数が増加する集団においては、構成員の間で「一緒に過ごした時間」が異なるという事実がある。

家族においては、カップルは、第一子よりも、長い時間をともに過ごしている。第一子は、第二子よりも長い時間を家族三人で過ごす。言い方を変えると、二人で過ごした時間の上に三人で過ごす時間が重なり、三人で過ごした時間の上に四人で過ごす時間が重なっていく。このように、家族の場合は、一緒に過ごした時間が単に異なるのではなく、人数の増加とともにずれながら積み重ねられていくのが特徴である。