学問と社会

 自分の子どもに、大学に入ってほしいかどうかを(だいぶ先取りして)考えたときに、正直なところ「どちらでもいい」と思う。

 それよりも、社会のなかで義理人情しがらみ云々を抱えながらきちんと本分を果たしてほしいと思う。

 よくよく考えると、大学という場所は社会とそりが合わないところである。「学問の自由」を本当にとことんまでつきつめれば、どうしても反社会的にならざるを得ないこともあるからだ。

 実際、ある時代まで大学はそうとう反社会的な場所だった。今では助成金をめぐってだいぶ牙を抜かれてはいるが、その「ウリ」である学問にはそもそも反社会性が内在しているのだからその牙はまだどこかで眠っているはずである。

 ついでながら言えば、ある時代までは小学校だってそうとうに反社会的な場所だったはずだ。家業の一番忙しい時期に働き手を閉じこめておくことは、共同体の運営にとっては痛手だったはずである。

 では、だからと言って大学が学問という手段で現在の社会に背くことなく奉仕すればよいかと言うとそれもまたまずいのではないかと思う。社会を対象化、目的化することには全体主義という危険性がつきまとうからだ。ちょっとばかり自分が賢いと思っている人が社会に影響力を与えるような実権をにぎるとろくなことにならないというのは歴史をひもとけば分かる。

 何を書いているのか分からなくなってきたが、要は、地に足をつけて自分のできることを精一杯やってほしい、その上で周りの人を少しずつ幸せにしてあげてほしい、ということである。

 そのために学問や大学が必要となるならそれでもいい。そうでなければ行かなくていい。それだけのことである。

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