日心にて(2)

 札幌は寒いです。最高気温が20度を下回っています。あの暑い東京が懐かしく思われてしまう。

 さて、その東京で開かれていた日本心理学会もすでに会期を終えました。その感想。

 3日目の「ヴィゴツキー・シンポ」のテーマは、「ヴィゴツキーと解釈学」。東工大の岩男征樹先生の問題提起に対して、
神戸大の森岡正芳先生、学芸大の高木光太郎先生がコメントするという内容。

 以下、岩男先生のお話を私が理解できた範囲でなぞると。

 ここで解釈学と呼ばれるのは主にシュライエルマッハーからガダマーにいたる流れ。そこで強調されるのは、
解釈という作業が解釈者抜きには立ちいかないということ。言い換えると、何を見いだそうとするかという解釈者の構えが、
対象から見いだされるものを枠づけるということ。科学論の文脈では、観察の理論負荷性という概念で指示される問題。

 こうした立場からすると、私たちの認識がどのように枠づけられているのか、その枠はどのように「構築」されているのかが問題となる。
この枠は歴史的に形成されてきたものであるだろうし、言語的に「共有」されているものでもあろう。

 ヴィゴツキーにも解釈学的な志向性は見られるが、そうした流れとは一線を画すポイントがある。それは、岩男先生の言葉を借りれば
「異質性」への志向性。互いに相容れない特異性を基底にもつ存在から出発する立場もあるのではないか、
というのが岩男先生の今回の主張だったが、最後の方は時間がなくなってしまってゆっくり理解する間もなく終わってしまった。

 個人的には「共有」にかわる「分有」(partage)という概念について知りたいところ。教えてください、岩男さん。

日心にて(1)

 日心2日目。さすがに疲れてきた。

 午前中はポスター発表。子どもの言語行動レパートリーは家庭内会話の歴史的な形成過程の一部として見なきゃだめだという主張の研究を掲示。5名くらいの方が来てくださり、コメントをくださった。たまたま隣に掲示していた島根大学の先生とむりやりお知り合いになる。

 午後からはシンポ、ワークショップめぐり。

「心と発話・動作の間:質的データの検討」というワークショップはここ数年継続して行われているもの。松沢哲郎先生はご自身のご研究のコツのようなものをお話しされた。曰く、大事なことは、全体を捉えること、(研究の)ニッチを探すこと、対象を見続けること。また、研究としてまとめる際に、「実験的逸話」と「逸話の映像記録」を併用すると深みが出るのではないかとのこと。

 中座して裏番組「マンガ心理学の方向性」へ。ちょうど夏目房之介先生がお話しされていた。間に合った。マンガ学の立場からのご発言と理解したのだが、先生によれば、マンガ学は「学」として閉じるつもりはない。閉じないからこそ他の学問領域との多くの接触面が生まれ、おもしろくなるとのこと。そのあたりには同意。

 その上で、どうも読み手側の研究ばかりであることが気になった。読み手がマンガをどう解釈するか、キャラクターと自分との関係をどうとるか、あるいは日常生活のなかでどのように消費するか、これらはみな読み手側の問題。「作り手」側の事情がどうもまだ不透明なのではないか。

 もちろん手塚治虫など個々の作家論はいまでもあるが、そうではなく、編集や出版社など業界と呼ばれる出版経済圏のなかにいる「肉体労働者」としての漫画家についてはまだはっきりした全体像を提出することができていないのではないか。手塚先生にせよ藤本弘先生にせよ、最期は机の上だったわけでしょう。過酷な商売なわけですよ。稿料安いらしいし。漫画家のライフコース研究とか代アニで講義したらどうかしらん。学生さんは絶望するかしら。

 続いて「社会関係とスピーチアクトの心理学」。「贈り物」を用いた謝罪行動の起源について、コストリー・シグナリングという概念を用いて説明した神戸大学の大坪庸介先生のお話がおもしろかった。「何かに使えそう」という感じ。

 中座して「どうすれば新たな知は創発されるのか?」。会場に入ったら池田清彦先生が流暢にお話しされていた。現象は一つ、切り方はたくさんある、とのこと。甲野善紀先生が和装で座っていらした。後で人から聞いたら先生は洋服のボタンがお嫌いなのだそうで、納得。

ああ浅草の夜は更けて

 15日の夜は竹ノ塚に投宿。駅前のロータリーを若いのが占拠しており恐々とホテルへ。

 あけて16日、朝から教育心理学会の会場である文教大へ。北越谷の駅を降りると駅前こそさすがに繁華街の体をなしているがちょっと歩けば武蔵野ののどかな風景が広がる。大学のそばを流れる川、その土手には桜の木が。春だったらさぞや見事だろうな。

 受付で手渡された紙袋には小さな団扇が入っていた。これはいい。9月ももう半ばというのにまだ暑いのである。

 Mさんといっしょに行っている研究のポスター発表。会場の体育館は立っているだけで汗がしみ出てくる。今回はMさんが第一著者ということで説明をお任せしてあちこちふらふら。そうこうしているうちにあっという間に在籍時間が過ぎる。
 
 お昼はMさんはもちろん、Kさん、Oさん、Sさん、Tくんとともに。K、O、Tさんは今年の学会賞をそろって受賞されたとのこと!すげえなあ。受賞式がこれからあるというので、Mさんと会場にもぐり込む。後輩のKくんも受賞とのこと、知り合いばかりだ。
 
 代表してTくんがスピーチをしていた。落ち着き払っているなあ。

 授賞式を途中で抜け出し、Mさんと今後の打ち合わせ。10月に札幌で検討を行うことにした。

 5時にM先生、Sさんらと待ち合わせ。浅草に繰り出して懇親会である。S社のSさん、T大のS先生とははじめてお目にかかる。ごとごとと東武伊勢崎線に揺られ揺られて浅草の川沿いに到着。

 本日1軒目は、どぜう飯田屋。どじょうをくたっとそのまんまの姿で煮た鍋、柳川、唐揚げなど、どじょう三昧。「最後はこのネギだけを煮て食うんですよ」とM先生。遅れてHちゃん、Iくんが合流。酒に切り替えてぐいぐいと飲み、食う。

 さて次はと向かったのは、伝法院通りを曲がったところにひしめく飲み屋街。通りの両脇を赤提灯が列をなす。その1軒の軒先に出されたテーブルを占拠。学会帰りのKくんも合流し、ふたたび乾杯。こういう店に来たらまずは煮込みとホッピーである。お、黒ホッピーがあるではないか。調子に乗って下町ハイボールもぐいぐいと、もうこのあたりから記憶が断片的である。

 シャッターを閉めすっかり人通りの絶えた仲見世を抜け、地下鉄の方へ。まだ体力の続く者だけ残り3次会へ。適当に入ったのでどんな店だか忘れてしまったが、黒糖なんたらを飲んでやたら甘かったのは覚えている。

 11時も過ぎたので終電のこともあり解散。筑波から来ている人たちは、TXの恩恵にあずかっているなあ。

 宿は浅草千束の東横イン。荷物を置いてちょっと小腹が空いたのでラーメンを食いにふたたび街へ。ビルの間を吹き抜ける夜風がほほを撫でていくのであった。

ISCARに行ってきた

 9月6、7日と2日間かけて、横浜の武蔵工業大学にてISCAR第1回国際アジア大会が開催され、それに参加してきました。心理学における社会文化的アプローチ、状況論、活動理論などバックボーンとなる理論を共有する研究者が集まった、日本で最初の学際的研究集会なのです。

 学会が開かれている関東地方をちょうど台風が襲うというアクシデント付き。地方から横浜にたどりつくまでに新幹線が止まってしまって難儀したという人も出たという、因縁の学会となってしまいました。私にしても同様で、千歳から飛行機が飛ぶかどうか、さらには帰りの便を7日の夜7時半の羽田発で予約していたのですが、それが飛ぶのかどうか、あやぶまれました。幸いにして予定通りのフライトで帰り着くことができました。

 そうそう、行きの空港で、なぎら健壱を見ましたよ。なぜ分かったかというと、もっていたカメラに「なぎら健壱」と書かれた千社札が貼ってあったからです。けっこう大柄な人で、どこで買ったんだろうというアロハを着ておりました。

 閑話休題。

 初日についてはすでに直前のエントリーに書いたので補足的に。「実習型の授業のヴィデオ・エスノグラフィー」と題されたセッションにて、発表者のみさなんが使っていた映像に目が引かれた。ある授業で撮影された動画なのだが、そこに映された人物や物の輪郭だけが強調されたモノトーンの映像だったのである。なおかつ誰がどの方向を向いていて、ということははっきりと分かるのだ。

 発表者の五十嵐素子さんに尋ねたところ、UleadのVideoStudioを使ったとのこと。このソフトにデフォルトで附属する「エンボス」というビデオフィルタをかけているのだそうだ。早速宿に帰って、 VideoStudio11の体験版をダウンロード。手持ちの映像で試してみると。おお、すばらしい。これはプレゼンテーションに使えますなあ。

 さて二日目。今日は大学院で同じ研究室だった朴さんが企画したセッションにて発表。ゆうべ徹夜で作ったプレゼンテーションをたらたらと流す。たくさんの方に聞きに来ていただいたのだが、みなさんの頭の上にはてなマークが浮かんでいるのが見えた。このデータ、なんとかしたいんだよなあ。コメントの田島信元先生の言うように内言の話としてまとめるのが一番いいのかなあ。

 夜の飛行機に間に合わせるため、自分の出番だけでそそくさと帰った。

 羽田も新千歳も、台風の影響で飛行機の離発着予定がガタガタになってしまったようで、出発ロビーには夜だというのにたくさんの人が。おつかれさんです。

発表準備と台風

おとといから横浜に来ています。状況論や社会文化的アプローチ、活動理論といった理論的バックグラウンドを共有する研究者の集まりであるISCARにて発表をするためです。

昨日はその初日だったのですが、オープニングセッションと、高木光太郎先生たちの想起・供述セッション、それに樫田先生たちによるビデオエスノグラフィ・セッションに出てきました。

高木先生たちの想起研究は基本的な線は変わらず、供述データの分析に少し新展開が加わったもよう。

樫田先生たちの研究は、医療系大学でおこなわれるPBL(problem based learning)チュートリアルのようすをビデオに撮影し、エスノメソドロジーの視点から分析したもの。議論を黒板に記録するだけと思われていた書記係が、ときどき議論の進行に決定的な役割を果たしていたことが示されたのがおもしろかった。

次の日の発表に向けてまだ準備が終わっていなかったので、残りのセッションを見ることなくホテルへ戻って部屋にひきこもりました。さっきようやく終わりましたよ。眠い~。

それにしてもよりによって台風とぶつかるとは。気になって、NHKをつけっぱなしにしながら作業をしていました。

ホテルの部屋が二重窓だったため、さいわい外の風や雨の音がほとんど気にならなかったのですが、ながめてみると街路樹がけっこうしなっています。

さあ、帰りの飛行機は飛ぶのか?ヒヤヒヤドキンチョであります。

いろいろやっておりますよ

 1日から3週間、カミさんとアマネは長崎の実家に滞在。というのも今月はぼくがほとんど出張で家を空けるからだ。

 出張が入っていることもあり、いろいろなことを短い間にぱぱっとやらなければ間に合わない状況に。

 このところ気をもんでいた比較的大きな出来事が終わったので一安心。北海道心理学会というこじんまりとした会の事務局をおおせつかっているのだが、会の常任理事会が4日夜に無事開催された。このところその資料作りやらなんやらでパタパタしていたので肩の荷が下りた。

 2日から3日にかけては名古屋にいた。houさんとの研究の一環で、3歳の子を対象に実験をするため。某保育園におじゃまする。園庭を囲むように各年齢の子どもたちの部屋があり、部屋と庭の境に幅の広い縁側がついていた。このデザインはすごくいいなあ。園舎は、上から見たときにできるだけ多角形であればあるほど子どもたちにとっていいもんだ。園庭に雑草がしげっているのもいい(決してイヤミではない)!雑草だって遊び道具になるんだよ。

 1歳半をすぎたhouさんのお嬢さんはもうぺらぺらぺらりんこガールであった。

 明日(ああ、今日か)からは横浜へ。ISCAR-Japanの第1回大会に参加するため。このところ事務作業ばっかりだったので、研究発表の準備をするのが楽しい。間に合うかどうかは分からないけど。

 横浜からは7日に帰ってくるのだけど、次の日から今度は卒論生と一緒に名寄に行く。温泉につかりながら卒論の内容をうじゃうじゃしようという会である。去年は函館、今年は名寄。来年は帯広か釧路だな。

ヴァルシナー教授講演会に行ってきた

 ヤーン・ヴァルシナー教授による講演会が、過日、北海学園大学にて開催された。講演のタイトルは”Ornaments in
our minds and in our worlds”。

 オーナメントとは?装飾、飾りである。我々の住む環境にはさまざまなパターンがある。視覚的なパターン、聴覚的なパターン、
嗅覚的なパターンだってあるだろう。また、そのパターンは人工的なものであるかもしれないし、人の手によらないものかもしれない。
とにかく我々は、反復して現れるパターンに取り囲まれている。これをヴァルシナーはオーナメントと呼ぶ。

 ただし。パターンはそれ自身が反復するのではない。反復しているかのように認識する過程が必要である。
なぜならあちらのパターンとこちらのパターンはそもそも異なるものであり、
それらがそのように置かれているというのは一回きりの出来事だからである。ここには「般化generalization」
という過程が必要である。

 ヴァルシナーによれば、般化はダイナミックな過程だ。一方で目の前の複雑さをひとつのカテゴリーにまとめあげる過程
(schematization)があり、他方で目の前の複雑さがそのまま別の複雑な記号体系に移される過程
(pleromatization)がある。両者は逆向きに働くが、その運動として般化が創発するというのである。

 さて、schematizationは図式化でいいと思うのだが、
pleromatizationはヴァルシナーの独特な用語法であり、分かりづらい。図書館でお目当ての本を探そうとしていて、
その隣にあった本を手にとって読んでみたら出てきた言葉のようだ。由来をたどれば、
プレローマpleromaはキリスト教グノーシス派の言葉で、神の力全体を指す。万物の本質はそこから分岐したものであり、
ゆくゆくは全体性へと統合される。調べてみたらこんなところのようだ。ユングやベイトソンも援用していた概念らしい。

 pleroma–Wikipedia

 話をオーナメントに戻そう。ヴァルシナーによれば、オーナメントははじめ、我々を取り囲んでいた外在的なものに依拠していた。
しかしそれは次第に精神内へ内化される。精神内にあるオーナメントは、外在的なパターンを「どのように」知覚するかを規定する。たとえば、
夜空に輝く星の配列に、ひしゃくを見る人もいれば、熊を見る人もいるだろうし、世紀末救世主を見る人もいるだろう。

 しかしことはそれだけにとどまらない。何かをあるオーナメントとして見るということは、不可避的に、
その人のもつ複雑な記号体系へと結びつけられていく過程も含むのである。北斗七星に熊を見るなら、
それは壮大な神話体系の広がりに位置づけられていることを意味する。また、その神話は悲劇でもあろうし、喜劇でもあろう。このように、
オーナメントは「般化された感情的意味場generalized affective meaning field」を構成する。

 ぼくに理解できたのはこんなところである。

 講演会の後は、サッポロビール園に移動して懇親会。ヴァルシナー教授は3年前にすでに1度来たことがあるため、
ジンギスカンのやり方は手慣れたもののよう。ジョッキをもって、アイライクビア、ハハハ、
と笑うその顔がみるみる赤くなっていくのを隣で眺めていた。

打ち合わせ+ぽち研

 中部国際空港から名鉄を乗り継ぎ、有松の駅を降りた瞬間。

「あ、だめだ」

 とあきらめてしまった。何をか。ジーンズとスニーカーをはくことを、である。それくらい名古屋は暑かった。

 幸い、駅の目の前にスーパーがあったので、そこで短パンとサンダルを買ってはきかえた。こういうときの行動は素早いのである。

 スーパーの出口で女の子が配っていたうちわでパタパタと顔をあおぎながら駅前ロータリーにぼうっと立っていると、ジムニーに乗ってMさん夫妻が颯爽と登場。これからMさんの勤める大学で、共同研究の打ち合わせをするので、迎えに来てくださったのだった。

 昼食は駅から少し離れた「寿限無茶屋」。冷やしうどんに味噌(もちろん、八丁味噌のたれ)をかけた定食を食す。美味なり。

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 研究室には冷房完備。こういうときには札幌を恨めしく思う。9月に開かれる学会での発表の打ち合わせ、来年の学会での発表担当決め、それに実験の確認。言いたいことを言うためのデータを手に入れるには?難しい。

 ぼちぼちと切り上げて、Mさんのご令嬢を保育園に迎えに行く。5月にも会っているが、そのときにはハイハイだった子が、掌を天に突きあげて1歩、また1歩と両の足で大地を踏みしめている!

 ご令嬢を含めて4人で向かった先は、今回のぽち研(発達・(ぽち)理論研究会の表向きの愛称)が開かれる宿のある名古屋港。暑いとはいえ、海へ吹く風が心地よい。

 宿で残りの参加者と合流。Kさん、OTさん、OSさん、Fさん。みなさん忙しそう。

 まずは親交を深めるべく、名古屋港へ来たら毎回行く居酒屋「風来坊」へ。名物手羽先をもりもりと食べる。Mさんご令嬢はスプーンを器用に使ってポテサラ、フライドポテト、トマト、おにぎりを召し上がっていた。たくさんの相対的に若い人たちに囲まれて、終始ごきげんのご様子でなにより。

 宿へ戻って近況を語り合い、また研究会の方針についても語り合った…はずであるが、飛行機に乗るのに朝5時に起きた反動がきてすぐにダウン。夢うつつでみなさんの話を聞いていた。

 明けて研究会の開始。今回は3月に引き続き、アレント「人間の条件」。

 自分の担当する4章は「仕事」。人間は変化に耐える道具を作り出してしまえた-そういう性質をもつ人間を彼女は〈工作人〉と呼んだのだが-がゆえに起きたもの"として"人間の歴史を眺める。

 5章を担当する人がまだ到着していなかったりなんだりするので、とばして6章。の前に昼食。

 名古屋港水族館そばの喫茶店にて。はじめて「あんかけスパ」なるものを食す。ちょっとモダンにおいしくした給食のようだ。

 さて6章。アレントは「現代」をどう理解するのか。彼女にとって現代とは、個人があらゆる社会的出来事の根拠となる時代である。そのときの個人とは、内的水準において世界を観察し、仮説を立てていく存在であり、同時に、至高の目的である生命を「所有する」と目される存在である。と、このように理解した。

 2時になってNさんが途中参加。しかしぼくは飛行機に乗るため3時に宿を発たねばならない。ここでお別れ。

 中部国際空港は夏休みの帰省客やら旅行客やらでごったがえしていた。これまではそういう時期を意図的に避けていたので、「帰省のピーク」なるものを体験したことがなかったのだが、体験しなくてもいいものだということを知った。

第2回ガハ研

 先日、第2回学習と発達研究会を開催しました。東京から、ゲストにもりりんさんを迎え、総勢7人での開催となりました。

 読んだのは以下の本です。

 Sawchuk, P. H., Duarte, N., & Elhammoumi, M. 2006 Critical perspectives on activity: explorations across education, work, and everyday life. New York : Cambridge University Press.

 編者たちのねらいは、次のようなものと理解しました。

 活動理論は、学際的、一般的な視座として、広く受け入れられてきたし、そこからさまざまな現象を分析した研究もすでに蓄積がある。その活動理論の源流は、ヴィゴツキーやレオンチェフといったロシアの心理学者たちにある。さらにさかのぼれば、かれらの思想の源流のひとつはマルクスの哲学である。

 しかし、近年の活動理論の受容の中で、マルクスの哲学を構成していた諸概念、たとえば階級闘争、価値、労働、疎外といった概念は、必ずしも取り上げられていたわけではなかった。編者たちは、これらの概念にもう一度目を向け直すことを、そして、これらを用いて現在の我々の社会的活動を批判的に分析することを提唱する。

 今回は5本の論文を読みました。なお、以下にレポーターが執筆された当日のレジュメを掲載しますが、無断転載はしないでください(07.8.13追記)。

 Is there a Marxist psychology? / Mohamed Elhammoumi

 北大教育学院院生の保坂和貴さんがレポートしてくれました。レジュメはこちら(doc形式)

 編者の一人Elhammoumiによるもの。彼によれば、ヴィゴツキーがうちたてようとした「マルクス主義心理学」はいまだ完成を見ておらず、その鍵はおそらく時間概念だろう、とのこと。

The cultural-historical activity theory : some aspects of development / Joachim Lompscher

 北大教育学院院生の杉山晋平さんがレポートしてくれました。レジュメはこちら(doc形式)

 著者はポツダム大学の先生のよう。CHATのコンパクトな学説史。現在までの歴史を3つの世代としてとらえ、それぞれ、ヴィゴツキーやA・N・レオンチェフによって基礎概念が確立された時代(第一世代)、基礎概念をもとに個別の研究領域を対象とし始めた時代(第二世代)、新たな社会状況に対応すべく現れたエンゲストロムらの時代(第三世代)とした。特筆すべきは、第二世代として、A・A・レオンチェフやD・A・レオンチェフといった、意味論や人格論の部分を引き継いだ活動理論の系譜を取り上げていること。

 上記2本は理論編といったおもむきで、次の3本は少し具体的なところに話を落としています。

Our working conditions are our students’ learning conditions” : a CHAT analysis of College Teachers / Helena Worthen and Joe Berry

 北大教育学院院生の佐藤昭宏さんがレポートしてくれました。レジュメはこちら(doc形式)

 アメリカのある大学で起きた、管理職と非常勤講師の衝突の事例をもとに、「教育の質の向上」という言説が2つの立場にとってまったく異なる意味を持っていることを明らかにしたもの。エンゲストロムの三角形をむりやり使った感が否めない論文。

The importance of play in pre-school education : naturalisation versus a Marxist analysis / Alessandra Arce

 北大教育学研究院附属子ども発達臨床研究センターの川俣智路さんがレポートしてくれました。幼児教育の理念をうちたてたフレーベルの思想と、レオンチェフやエリコニンらの思想とを比較するというのが目的の論文。レポーターも苦しんでいたようですが、著者がなぜそのような目的をたてたのか、ぼくにはよく分かりませんでした。

Values, rubbish and workplace learning / Yrjo Engestrom

 不肖私がレポート。レジュメはこちら(doc形式)

 公金を投資したところで無駄と思われる社会的存在(やめろと言われても飲み続けるアル中患者、勉強を教えても理解できない学生など)は、市場における商品としてみた場合、rubbishつまりは「ゴミ」である。このような動きになんとか抵抗したい。では、「ゴミ」に価値が生じるためにはどのような条件が必要か、そういうことが起きた場合、どのような過程をたどるはずか。エンゲストロムの主張は、以下のようです。まず、「ゴミ」をさまざまな人に公開することで、その使用価値を認める人(要は、拾う神)と出会う機会を増やすこと、次に「ゴミ」とされてしまった人々の「語り」を流通させること、最後に、「ゴミ」にまつわる研究をさまざまな立場の人がバンバン行うこと。

 以上、簡単に内容をまとめてみましたが、詳しくは当日配布されたレジュメをそれぞれアップしておきますので、そちらをご覧ください。ご協力くださいましたレポーターの皆さんに深く感謝申し上げます。

 打ち上げ1次会は、札幌駅北口の「味百仙」。つまみのうまさは言うに及ばず、ここは酒のそろえが非常にすばらしいことで知られています。味にうるさいもりりんさんも大変ご満悦のご様子。

 2次会は紀伊國屋書店そばのビルに入った和風ダイニングのお店で。

 たいへん有意義な時間を過ごしました。またやりましょう!

第2回学習と発達研究会詳細

 昨年に引き続き、学習と発達研究会を開催します。

 期日: 8月7日 10時~18時
 場所: 北海道大学人文・社会科学総合教育研究棟 W508

 検討する本は以下のものです。

 Sawchuk, P. H., Duarte, N., & Elhammoumi, M. 2006 Critical perspectives on activity: explorations across education, work, and everyday life. New York : Cambridge University Press.

 報告する章およびレポーターは以下のように予定されています。そのほか、追加で報告される章もあるかもしれません。

  • 2 Is there a Marxist psychology? / Mohamed Elhammoumi (保坂 北大教育学院)
  • 3 The cultural-historical activity theory : some aspects of development / Joachim Lompscher(杉山 北大教育学院)
  • 5 The importance of play in pre-school education : naturalisation versus a Marxist analysis / Alessandra Arce (川俣 北大教育学研究院附属子ども発達臨床研究センター)
  • 7 “Our working conditions are our students’ learning conditions” : a CHAT analysis of College Teachers / Helena Worthen and Joe Berry(佐藤 北大教育学院)
  • 10  Values, rubbish and workplace learning / Yrjo Engestrom(伊藤 北大教育学研究院)
  • 11 Education as mediation between the individual’s everyday life and the historical construction of society and culture by humankind / Newton Duarte(伊藤 北大教育学研究院)

 オブザーバーも歓迎です。ふるってご参加ください。なお、終了後、懇親会を開催する予定です。こちらもよろしくお願いします。