日心にて(2)

 札幌は寒いです。最高気温が20度を下回っています。あの暑い東京が懐かしく思われてしまう。

 さて、その東京で開かれていた日本心理学会もすでに会期を終えました。その感想。

 3日目の「ヴィゴツキー・シンポ」のテーマは、「ヴィゴツキーと解釈学」。東工大の岩男征樹先生の問題提起に対して、
神戸大の森岡正芳先生、学芸大の高木光太郎先生がコメントするという内容。

 以下、岩男先生のお話を私が理解できた範囲でなぞると。

 ここで解釈学と呼ばれるのは主にシュライエルマッハーからガダマーにいたる流れ。そこで強調されるのは、
解釈という作業が解釈者抜きには立ちいかないということ。言い換えると、何を見いだそうとするかという解釈者の構えが、
対象から見いだされるものを枠づけるということ。科学論の文脈では、観察の理論負荷性という概念で指示される問題。

 こうした立場からすると、私たちの認識がどのように枠づけられているのか、その枠はどのように「構築」されているのかが問題となる。
この枠は歴史的に形成されてきたものであるだろうし、言語的に「共有」されているものでもあろう。

 ヴィゴツキーにも解釈学的な志向性は見られるが、そうした流れとは一線を画すポイントがある。それは、岩男先生の言葉を借りれば
「異質性」への志向性。互いに相容れない特異性を基底にもつ存在から出発する立場もあるのではないか、
というのが岩男先生の今回の主張だったが、最後の方は時間がなくなってしまってゆっくり理解する間もなく終わってしまった。

 個人的には「共有」にかわる「分有」(partage)という概念について知りたいところ。教えてください、岩男さん。

「日心にて(2)」への2件のフィードバック

  1. (このコメントは”iwaoさん”からのものです。dun代理投稿 2010-01-17)
    お疲れさまでした。私の時間配分がまずく,一番言いたい異質性に関するメインのところが時間切れになってしまい,申し訳ありませんでした。
    さて,「分有(パルタージュ)」についてですが,お伝えしたように,これはもともとジャン=リュック・ナンシーの概念です。シンポでも言いましたが,死は共有できない,だが一人のものでもない,というところから,分割されつつ,不可分なものとして,分かち持たれているということを意味しています。ポイントは,共有のように分かち持たれているものが「同じではない」という点だと思います。ここが異質性の考え方と繋がってくるわけです。
    私なりに平たく言うと,例えば,ケーキにナイフを入れて二つに分けたとします。これらはセットになって一つのケーキであるわけです。しかし,私の分け前とあなたの分け前は,決して同じではありません。どんなに量や形を同じにしても,よくても左右対称なわけで,同じ存在ではないわけです。
    別の例でいくと,家族で車を共有しているとします。しかし,厳密には同じ時間,同じルートで,同じ運転席に座って,一緒に運転することはできません。ドライバーが私とあなたのハイブリッドかバロムワン(知ってる?)ではない限り,不可能なことです。なので,正確には分有としか言えない。
    何かあまりいい例ではありませんが,問題は,共有(あるいはそれに基づく共同体)というのは本当にあるのかということですよね。単に,我々がそう考えているだけなのかもしれません。上の車の例のように,真の意味で共有できないなら,共有というのは想像上のものでしかありません。だとしたら,なぜ我々はついそのように考えてしまうのか。リンギスを参考にして言えば,同一性の仮定というのは,人間の合理的思考の定めなんだということになるわけです。
    いずれにせよ,あらためて異質性を出発点として,分有という考え方をもとに,心理学の常識となっていることを(最近の解釈学的な考え方も含めて)考えなおしてみましょう,というのが発表の趣旨でした。
    心理的メカニズムなど一般的なものがある(=同じものがある)という前提で実験などをやること,共有に基づく共同体から心を説明すること(わたし的には背後霊が心を構成あるいは決定すると言っているのに等しい),存在を無視して関係を一次的・主導的に考えること(=関係という名のオカルト),自然物とは違って人間の心(脳でもいい)は取り換えがきかないはずなのに自然科学的に見ていいのか,など,まだまだ議論したいことがあったのですが。(これだけ見ると,けんか売ってるとしか見えないのが不安・・・笑)
    あまりうまく説明できた気がしませんが,またお会いする時までに整理しておきます。

  2. waoさん、丁寧な解説をしてくださり、ありがとうございました。
    時間配分については、司会が何もしなかったせいですので、ご容赦ください。
    分有の概念、共有との違い、よく理解できました。
    コミュニケーションに引きつけて考えると重要な問題を提起するものと思います。分有から出発すると、シャノン流のコード・デコード・モデルではないコミュニケーションのモデルを考えざるを得なくなるわけですね。
    ぜひまた勉強させてください。

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