バフチンにおける対話概念について: 桑野隆先生講演会まとめ

 と冠する集まりが東京茗荷谷の筑波大学で開かれた。

 ミハイル・バフチンは20世紀ソ連を生きた思想家である。彼の提出した概念には、コミュニケーションを分析しようとするときに援用できそうなものがふんだんにある。そのように考える研究者が一堂に会した形で、 100名近くが集まった。

 一番の目玉は、早稲田大の桑野隆先生のご講演である。先生はバフチンに限らず20世紀初頭のロシア文化、特に芸術運動をご専門に研究されておられる。今回初めてお姿を拝見した。なんとなく、厳しい感じの方のようにイメージしていたのだが、あにはからんや、柔和なたたずまいの方だった。

 壇上のお話は、「対話」概念をバフチンの著作の歴史を追って跡づけることに割かれた。

 バフチンのいう「対話」とは、人間という存在のありようについての考え方である。この考え方によれば、人格とは孤立した個人で完結したものとみなすことはできない。そうではなく、相容れないものとの並存において現れてくるものとして、人格が理解される。この考え方は、アメリカのロシア思想研究者ホルクイスト以降、「対話主義(dialogism)」と呼ばれ、バフチンの思想を一貫して枠づけるものとして捉えられてきた。

 たとえば、『ドストエフスキーの詩学の諸問題』(1963)では、こう書かれる。「在るとは対話的に交通することを意味する。… 生き、存在していくには、最低限二つの声が欠かせない」。ここに言われているように、対話という概念が強調するのは、複数の言葉が並置されている状態である。これを多声性(ポリフォニー)と呼び、誰にも向けられていないモノローグ的発話と対立させられる。 

 今回の桑野先生のご講演は、しかし、バフチンが執筆活動のはじめから「対話」という言葉を使っていたわけではなかった、というお話から始まった。以下、ご講演の内容をレジュメやぼくのとったノートに基づいてメモしておく。

 対話主義は、バフチンが一から創造した思想ではない。そもそも、日常会話に見られる対話形式が根元的なことばのありかただ、という認識はロシアの伝統的な考え方としてあった。それを「対話」というタームとして取り上げたのはフォルマリストのヤクビンスキイだった。バフチンはロシア・フォルマリズム最後の世代と目されることがあるが、フォルマリズムの担い手にも論争を挑んだ。したがって彼の対話主義は、ロシアの伝統的言語観を前提としながら、当時の芸術論やマルクス主義との対峙の中で磨き上げたものだと言える。桑野先生によれば、そのように当時のロシア人思想家なら誰しもが手の届くところにあった対話主義を、芸術のみならず他の領域にも利用可能な理論として練り上げたところに彼のオリジナリティがある。

 「対話」という言葉が頻出するのは、1929年に書かれた『ドストエフスキーの創作の諸問題』である。このテクストには、 1963年に書かれたヴァリアント(『ドストエフスキーの詩学の諸問題』)があり、邦訳で読めるのはこちらの方である。後に書かれた方には、いわゆる「カーニヴァル論」と呼ばれるパートが加わっているため、「対話」概念にもカーニヴァル論に合わせた形で登場するものがいくつか現れる。桑野先生はまず、29年版ドストエフスキー論と、 63年版のそれとの間にある、対話という言葉の使い方の異同をていねいに洗い出してくださった。レジュメにずらりと並んだ「対話」用法のリストは壮観である。

 一方で、1920年代初期に書かれたいくつかの著作、たとえば『芸術と責任』『行為の哲学によせて』『美的活動における作者と主人公』『言語芸術作品における内容、素材、形式の問題』(いずれも邦訳は水声社刊『ミハイル・バフチン全著作 第1巻』に所収)には、「対話」という言葉がほとんど出てこない。また、バフチンには1920年代中頃から後期にかけて他人名義で書かれた著作があるのだが、たとえば『生活の中の言葉と詩の中の言葉』『マルクス主義と言語哲学』(ヴォロシノフ名義)、『文芸学の形式的方法』(メドヴェジェフ名義)にも、同様に「対話」という言葉はほとんど出てこない。

 出てこないものの、対話主義の萌芽のようなものは見て取ることができる。

 たとえば『行為の哲学によせて』で述べられる、「理論的であること」と「参加的であること」の対比はモノローグとポリフォニーの対比につなげて読むことが可能である。理論的であることとは、「生きた唯一の歴史性に無縁の」抽象的統一体を指す。一方で参加的な意識とは、唯一の存在へと人を関わらせる活動を指す(レジュメより)。ここで、参加的とはロシア語でучастныйである。ところで、63年版『ドストエフスキー論』では、このような表現が見られる。「ただ対話的な共同作業への志向のみが、他者の言葉を真剣に受け止め、一つの意味的な立場、もうひとつの視点を表すものとして、それに近づくことを可能にするのである」(強調は伊藤)。ここに見られる「共同作業」は、 участныйに英語でwithを示すсоをつけたсоучастныйである。桑野先生は、この点に対話主義への息吹を感じ取っておられた。

 あるいは、『美的作品における作者と主人公』では、作品の理解が「感情移入」や「共感」に基づくのだと捉える見方を徹底的に批判する。他者と同じ目で物事を見ることはただの他者のコピーにすぎず、真の理解とは言えない、というのである。理解において重要なことは、外部にあることだという。新しい理解は、内部からは生まれないのだから。ここで述べられていることもまた、自己と他者の一致を前提とする態度=モノローグ的、不一致を理解の前提に置く態度=ポリフォニー的という図式で読むことができる。

 このように、対話主義の基本的な考え方は、たとえ「対話」という言葉がほとんど出てこないにせよ、すでに20年代初期の論文に見られるのである。

 対話主義が分かりやすい形で書かれるようになったのは、言語を対象とした議論がなされるようになってからだという。それまでは、つまり1920年代初期の論文では「唯一の出来事」といったような書き方で議論されていたことが、「言語論的転回」とでも呼べるような時期を経て、「発話」という概念に置き換えられた。言語論的転回がもたらしたことは大きく、たとえば「イントネーション」といった概念を容易に理論に組みこむことができるようになった。あるいは、20年代初期の論文では人格を「見る」メタファ(鏡、写真、肖像画)で表現していたものが、後半になると「聞く」メタファで語ることが多くなった。

 これとは少し異なる側面での変化として、文芸作品の批評に新たなカテゴリが導入されたことが挙げられる。すなわち、「聞き手」「読み手」である。それまでは、「美的作品における作者と主人公」といった論題からも分かるように、批評のカテゴリは作者-登場人物という二項がメインであった。そこに、作品を受け取る者という立場が重視されるようになったのである。

 さて、実はひとつ重要な問題がある。バフチンは、『ドストエフスキー論』で次のように述べている。

 対話のもっとも重要なカテゴリーとしての一致(согласие)。…不一致(несогласие)は貧しく、生産的でない。もっと本質的なのはразногласие(さまざまな声があること)である。実際、それは一致へと向かっているが、そこには声の多様性と非融合性がつねに保たれている。

 対話とは、むしろ自他の一致を拒否する概念ではなかったか?桑野先生は最後にこのような宿題を投げかけて壇上からお降りになった。

 ここで一致と訳されているのはсогласие。гласиеとは「声を出す」という意味で、それにwithのсоがついている単語。直訳すれば「ともに声を出す」ということだ。絶対的に相容れない他者への語りかけをしながらも、結果的にその他者の言葉と一致してしまうこと、これははじめから一致を前提とするモノローグ主義とは異なる。あくまでも対話の結果として、対等に声を出し合う者同士として、同じ言葉が発せられてしまう、そのように考えてみたらどうだろうか。言い換えると、表面的にはユニゾンなのだけれども、個々の声はそれぞれはっきりと聞こえており、いずれの声もなんらかの点で対等である状態が起こりうるのだということを、バフチンは言っているのではないか。

 ぼくはなにしろロシア語が読めない。また、テキストのヴァリアントを追って丹念に読み込むという研究方法は、ぼくの身につけていないものである。このたびは「対話」概念にしぼった検討だったが、それでもバフチンを読む上で最重要となるものである。それさえおさえればよいと言えるかもしれない。その意味で貴重なお話を拝聴できましたことに深く感謝する次第です。

研究の基盤

 この季節、あちらこちらで「当たった」とか「残念」という声が聞こえる。科学研究費補助金、略して科研費と呼ばれる公的な助成金制度のことである。

 今年はよく知る複数の方々から「当たった」との声が聞こえてきて、喜ばしい。おめでとうございます。

 大学にせよ、研究施設にせよ、科学研究の推進に割かれる予算については、現況安穏としてはいられない。よい研究にたくさんのお金がまわり、その分、比較的よろしくない研究にはお金がまわらなくなっている。

 このことについて、最近は本当にさみしくなったねえと嘆く先輩研究者もいらっしゃるのだが、最近この道に入り込んだ身にしてみれば、トータルのお金が少なく、パイを奪うために自分の研究を「よいもの」として売り込むということはもはや前提である。何もしなくてもン百万というお金を使えた時代が過ぎ、何かをすればン百万というお金を使える時代が来ただけの話だ。ン百万というお金を手に入れるためにする何かができない方にとってはさみしい限りだろう。

 科研など公的な助成金のほかにも、私企業や財団が制定している助成金制度もたくさんある。去年もちょこちょこ出していたが、軒並み落ちてしまった。これは憶測でしかないが、こちらの方が公的な助成金よりも、選考の基準はよりシビアであろう。

 今年もがんばって出し続けよう。申請書を書く中でアイディアが出てくるということもあるしね。

忘れる/忘れられる

 日曜、妻と息子が1か月半ぶりに長崎から札幌に帰ってきた。久々に見たわが子はこころなしか少し肥えていた。向こうはさぞや暖かかったのだろう。

 電話口では「もうハイハイしてあちこち動き回るよ」とか「うっきー、あっちーって言うよ」と聞かされていたのだが、実際に目の前で見るとちょっと気圧される。唐突に変化と直面するからか。

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 風呂に入れるにしてもこちらの勝手が分からない。なにしろもうおとなしく腕の中におさまっていてはくれないほどに活発なのだ。それよりもなによりも、ぼくはどうも「そのへんのおじさん」扱いされているようで、しきりに母親を求めて顔を動かし手を伸ばし、わんわん泣いた。安全基地になっていないのである。

 ぼくもアマネの扱い方を忘れているし、向こうからもその存在の意味を忘れられている。いや、「忘れている」ということを、いつの間にか「忘れられる」にすり替えているのかもしれない。だから、「忘れられる」とは、アマネがぼくのことを忘れるということと同義ではないのかもしれない。

 それにしてもちょっとしゃくなので、今日は風呂に入る前にいないいないばあを5分くらい続けてやった。きゃっきゃと笑っていた。そのおかげか、日曜ほどには怖がらなかったようである。ただ、やはり母親を探すことはやめない。

酪農の香り

 非常勤初日。オリエンテーションだけだから楽とは言え、2つの大学で続けて同じ講義を行う。大学の間を徒歩で移動。

 午前に1コマ終えて、てくてくと1時間ほど歩いてもう一つの非常勤先に到着。その間には酪農学園大学やら雪印種苗研究所やらといった施設が点在している。雪が溶けてむきだしになった大地から立ちのぼる、酪農の香りというのだろうか、鼻腔をくすぐったにおいは、その昔アイルランドをほっつき歩いていたときにさんざっぱら嗅いだ香りだった。干し草を詰めた丸っこく黒いビニールパックが転がっていたところも共通している。

 あらためて、ああ、北海道にいるのだなあということを実感した。札幌では味わえないのだ、この香りは。

 スーツ姿で1時間歩いたら足にマメができたよ。

社会人としていかがなものか

 というタイトルが指しているのはなにあろうぼくのことだ。

 今年度から2つの大学で非常勤をすることとなった。水曜日に1コマずつ、しかもどちらも江別市内にある大学なので移動も楽だろうと思っている。

 昨日はそのうちの1つの大学の非常勤講師向けの説明会兼懇親会に行ってきた。道庁そばのホテルにて6時半開始のところ、出かけに院生さんと話をしていたらだいぶ遅れてしまった。

 なんちゃらの間のドアを開けるともうすでに懇親会に突入していた。ずらりと並ぶテーブルに並ぶ方々、壇上ではなにやらベテラン非常勤講師のスピーチが。

 講師のクチを紹介してくださった森直久さんも出席していた。隣の席が空いていたので滑り込む。「やっと来ましたね」とグラスにビールを注がれた。

 スピーチを聴きながら目の前の料理をぱくぱくと平らげる。その間隣の森さんに「どんな説明があったんですか」と尋ねた。「昨日送った資料に書いてあります、だって」。なんだそりゃ。というわけで、タダメシを食わせてくれる会だったということが判明。遠慮なくばくばくと食べる。

 そうこうしているうちに、教養科目をご担当される先生が見えてごあいさつをしてくださった。両手には名刺が。

 ところが、遅れてしまって慌てて出てきたため、名刺を忘れてしまっていた。うう、しまった。「すみません、生憎切らしておりまして」と、平身低頭。

 続いて、学長がじきじきにごあいさつに来てくださった。両手に名刺が。ひい。「生憎切らしておりまして」。ため息をつきながら席について、デザートのイチゴを食べた。

 こういう場に名刺を持ってこないというのは、それなりの社会人としていかがなものか、と猛省する。

 終了後、森さんと連れだって、狸小路にあるワインバーへ。森さんが「ねっとりとしたものを」などと難しげな注文を出すと、そのたびにマスターがワインセラーからひょいと取り出してくる。どうもソムリエの資格をお持ちのようである。ワインはあまりこだわらずに飲むため、ありがたみがわからないのだが、ともかく美味しかったっす。

ビルイカンヘイソク?

 4月から新しく始める調査では、子どもたちにマイクをつけてもらうのだが、むき出しのままでは不安になる子もいるかもしれないと、園の先生から安全ピンで服に留めるワッペンにマイクを仕込んではどうかと提案を受けた。それならと、1時間かけて首から提げる小さな袋を縫い上げたものの、あまりにもお粗末である。たまたま通りかかった院生さんに手芸の心得を聞いたところ、得意だとのお返事。よし、手芸アルバイト決定。伊藤さん、助かったよ~。

 学部ウェブページの更新作業は遅々として進まず、気ばかり焦る。明日は新入生のオリエンテーションではないか。なんちゃら委員として、出席せねばならない。1日仕事である。

 かつてこのブログに書いた「社会文化的アプローチにおける人格」について、広島大学の院生さんよりコメントをいただいていたのだが、ようやくそれに簡単なお返事を書いた。ヴィゴツキーの『高次精神機能の発達史』に、発達における「人格」概念について詳しく書かれた章があるのだが、そのところと、拙論で議論した「人格」概念の関連について。バラバラな行動を統一する「場」のような何かとして、ヴィゴツキーは人格を考えていた。とするなら、ハムレット論や『芸術心理学』における登場人物論との対応は十分に考えられる。このつながりについては指摘を受けて気付いたことだ。岡花さんありがとう。

 携帯に電話がかかっていた。かけ直すと妻である。

 アマネの左目からの目やにがひどく、思いあまって眼科を受診したところ、ビルイカンヘイソクだろうとのこと。鼻涙管閉塞?調べてみると、よくある先天性の状態らしい。治すには、針金のようなものを涙管に差し込むようだ、と妻。ひい、痛そう。

 調べてみると、大きな病院の眼科なら小児眼科の専門医がいるようだ。もうそろそろ長崎から札幌へ帰ってくるので、すぐに市内のどこかの病院へ連れて行くことにした。

蝦夷地のおぢさん

 ぽっちり研究会から札幌へ戻り、があがあと仕事を片づけ、再び名古屋へ舞い戻った。プロジェクト(と書くと格好良い)の打ち合わせのためである。

 名古屋といえば喫茶店である。待ち合わせ場所に指定されたヤマダ電機の隣にあった喫茶店に入りコーヒーを飲んでいると、松本博雄さんが車で迎えに来てくださった。今日は松本さんのご息女トモちゃんの保育園入園式だったそうで、午前中はそちらにご出席されていたそうだ。桜咲くうららかな日である。

 打ち合わせは松本さんのご自宅で。奥さんの美穂さんがトモちゃんを連れて出迎えてくださった。

 PCをつきあわせて今後の方針を決めていく。共同研究とは銘打っているものの、ぼくはほとんどおんぶにだっこ状態である。分担していた作業の積み残しもある。それでも5月までにお互いやっておくべきことだけは決めた。読むべき文献の分担も決めた。

 作業の脇で、トモちゃんがえーえー泣く。まだ生後3か月、アマネでさんざん経験していたのだが、やはりなにか切なくなってくるものである。そのたびごとに松本さんはお父さんになり、美穂さんはお母さんになる。ぼくも「蝦夷地のおじさん」としてときどきだっこさせてもらう。トモちゃんはよその人に会うときはおとなしいそうなのだが、ぼくがいるときでもえーえー泣いていた。だから「家族と認識されているみたい」なのだそうな。

 一晩泊めてもらい、日中少し作業をした後、おいとまをした。赤ちゃんがいて大変なところ、いろいろとお世話になりました。ありがとうございました!

 札幌に戻ってみれば雪だった。それでも明日からぼちぼち新学期の香りがしてくる。

 こうして怒濤の3月は終わったのだった。

ぽっちり研究会

 28日から30日まで、ぽっちり研究会が名古屋で開催された。

 ぽっちり研究会とは、世の中のぽっちりしたものに関心を寄せる研究者が、北は北海道、西は香川から一堂に会し、2泊3日で議論を戦わせるというものである。かつてはM研と言った。もちろんマツケンの世を忍ぶ名である。

 今回は、アメリカで最近とみにぽっちりしてきたという噂で持ちきりの、ダニエル・デネット『自由は進化する』について討議された。

 彼は自由という概念とのつきあい方を、この分厚い本の中で懸命に説こうとしている。自由とは、ダーウィン的アルゴリズムの上で連綿と転がってきた負け犬的生命体が選んだひとつの生き残り解決策である。これは、自由という概念を至上の善という不可侵の価値と見なすつきあい方からすると、驚くべき考え方だろう。

 デネットは本書最後の数章で、ヒトにおいて自由の生じたきっかけを、コミュニケーションと言語に置いた。ある一定のコミュニケーションパターンを選択するように進化したとすれば、現在のヒトのような種が生まれるはずだというロジックである。なるほど、確かにそうかもしれない。

 読書は粛々と進み、3日で1冊を読み終えた。なお、夕食には2日とも手羽先を食べた。

 この研究会では、このたび本を出すことが決まった。世の大学生の一部が泣いて喜ぶ企画である。そのための悪巧みもなされのだった。

FWSP

 函館からの列車はトンネルに入り、地中へと潜り込んだ。最深部を示す緑色のランプが窓の外をしゅんと通り過ぎていくのを座席に座ったまままどろみながら眺め、眠りに落ちた。

 25日、青森県は弘前にやって来た。津軽海峡を電車で越えたのは初めてである。

 相馬村にある「そうまロマントピア」にて開かれるFWSPに参加するためである。FWSPとはField Work Social Psychologyの略で、その名の通り、フィールドワークから研究を行なっている社会心理学者たちの集まりである。東北大の大橋英寿先生、京都大の杉万俊夫先生、大阪大の渥美公秀先生を中心とした関係者、院生が、年に1度、各地を転々としながら集まる。そこで、院生を含めて研究発表をするという趣旨の会である。今回で8回目だそうだが、途中から筑波大の茂呂雄二先生が参加しはじめ、そのおこぼれに預かってぼくは2度目の参加となった。クローズドな会で、新規参加者には開かれていない。

 北大からは3人の院生が乗り込んだ。ぼくは今回は発表会の司会を仰せつかった。

 相馬村というのは、実はもう存在しない。隣の弘前市、岩木町とともに合併し、現在は弘前市となっている。今回のオーガナイザを務められた作道信介先生の車で弘前大から現地へと行く途中に、広大なリンゴ畑が広がっていた。

 そのリンゴ農家でもあり、長らく村議(現在では市議)を務められた清野一栄さんが、初日のゲストとしていらした。そうまロマントピアを中心とした村づくりを長らく調査されている、弘前大の山下祐介先生(社会学)がまずご発表され、それにコメントするという形だった。

 その後、京大と阪大の院生さんの博論発表があり、夕食。総勢30人強の自己紹介のあと、「ディープセッション」と称する飲み会へとなだれ込んだ。

 2日目、質疑応答含めて30分の研究発表が朝から夕方までぶっ通しで続く。午後から北大の院生さんが発表、司会を務める。子どもの遊びの自然観察データをもとにした分析だが、いかんせん理論の部分が弱いという指摘を受けていたようだ。しかし、院生さんはみな、自分の弱いところを積極的にさらけ出し、それについてのアドバイスに真摯に耳を傾けていたようである。頼もしい限り。

 夕食後のディープセッションで杉万先生と少しお話をする。今進めている研究では1人の子どもを追いかけていますと申し上げると、「1人しかデータを取らないのはさぼっているだけではないか、という批判を受けたらどう反論する?」と問われた。そのときは答えに窮してしまった。「そんなことでどうする」とお叱りを受けた。叱られるというのは貴重な経験である。絶対に大事にしなければならない。これについては近いうちにきちんとここで整理したい。

 3日目、ロマントピアに湧く温泉に朝から浸かる。露天風呂から眺めれば、雪を冠した岩木山が、青空にくっきりと映える。なんと美しいことか。津軽富士とはよくいったもので、両裾はなだらかに対称型をなしている。

 昼まで研究発表が続けられ、昼食後解散となった。

 次回は阪大の渥美先生のオーガナイズで、新潟県で開かれる予定である。先生は阪神大震災以降、ボランティアネットワークのご研究をされているが、先だっての中越地震にも入り込んでいる。その関係である。

 帰りの列車の中で仕事をしようと、グリーン車に乗り換えたが、揺れがひどくPCをのぞき込んでいると気持ち悪くなってきた。あきらめてせっかくの広い座席でぞんぶんに足を伸ばし、夜の9時に札幌に着いた。

 とにかく今回の収穫は、杉万先生から叱られたということである。答えられなかった問いは1つだが、それにだけ答えたからよしというものではない。どんなことを問われても答えを準備しておけということである。そういうことも含まれた叱責だったのだ、と了解した。

 帰ってきてから、ある人から杉万先生に言伝を預かっていたのをすっかり忘れていたことに気付いた。森さんごめんなさい。

藍よりも青い君

 今日は卒業式だった。

 学部の祝賀会会場へ踏み入れると、色とりどりの縮緬が視界を覆った。昨日卒業生に会ったので聞いていたのだが、朝5時起きで美容室に入るのだそうだ。どんな服を着ても良いのだが、服にはそれに見合うしゃべり方、笑い方、歩き方があるのだということは覚えておいてほしい。

 ゼミの4年生から色紙と記念品をいただく。みんなの手助けができたかどうか分からないけど、ありがとう。藍よりも青くなってくれ。

 それにしても、と毎年思う。

 昨年の2月頃には卒論など書けるのだろうかと部屋に来て悩みを口にしていた彼/女らが、いつの間にかそれなりに形なすものを書き上げ、それなりの評価を得る。これは目を見張る学習過程である。この過程を傍から眺めて分析できないかとも思うのだが、本人も必死、それを見守るスーパーバイザーも必死とあって、なかなかできないでいる。

 祝賀会を20分で辞し、研究会へ。

 埼玉県立大学から、小児看護を専門とされる徳本弘子先生と添田啓子先生がいらして、先生方が看護学生に行なっている実習の方法について意見交換。学生たちは乳児に触った経験がないか、ごく少ない。そういう現状のなか、実際の病棟に連れて行ってもよいくらいにまで、乳児の扱い方を習得させなければならない。これが先生方の抱えた問題である。

 学生さんたちはグループになって、喘息様の症状が見られるという想定で乳児の人形に対処する、という課題にあたる。体重や身長を測るんでも、体重計にタオルをどうやって敷くか、身長計にどう赤ちゃんを乗せるか、グループのなかで声をかけ合いながら作業を進めていく。ただ、ビデオを見ると、乳児の人形を抱く両腕の形がとにかくあぶなっかしい学生さんもいれば、しっかりと安定した抱き方のできる学生さんもいる。離れたところで作業するために、一次的に人形をテーブルの端に置く学生さんもいて、見ているこちらは思わず「うわ」と声を上げてしまった。

 もちろん子どもに接したことがないのだからできないのは仕方ない。しかし彼女らは(ビデオに出ていたのは全員女性だった)数日間の実習を通して、一通り赤ちゃんの扱い方を身につける。さらには、人形に一個の人格を見出すに至る(それを目論み、はじめから人形には「あっくん」という名前がつけられていた)。

 座学を通して一応の知識と基礎技能を学び、次の段階で演習を通して一連の身体技能を学び、さらに実習を通して現場での総合を試す。このように、場を横断することが看護教育の4年間を通して一貫しているのである。

 乳児保育を担当しているという保育士の方が、会に参加されていた。保育士の中には、2年間の教育を終えて現場に入り、突然生後半年ぐらいの子どもを受け持つことになる人もいる。そうした場合、びいと床で泣く赤ちゃんの枕元に棒のように立ちつくし、どうすればいいのですかという目で見る人もいるそうだ。しかたない、赤ちゃんを実際にあやしたことがなければ、やり方など分からないのは当たり前である。

 たぶん、2年間や4年間というごく短い期間で、「学習することを学習する」ように学生に仕向けなければならないのだろう。難しいけれど、現場に行って動けるようになるためには絶対に必要なことだ。

 研究会の打ち上げで、北大そばの居酒屋「しょうた」へ。これからの大学のあり方について、先生方が杯を傾けながらとりとめなく語り合うのを聞く。

 明日は朝5時起きで、美容室ではなく、青森へ。