忘れる/忘れられる

 日曜、妻と息子が1か月半ぶりに長崎から札幌に帰ってきた。久々に見たわが子はこころなしか少し肥えていた。向こうはさぞや暖かかったのだろう。

 電話口では「もうハイハイしてあちこち動き回るよ」とか「うっきー、あっちーって言うよ」と聞かされていたのだが、実際に目の前で見るとちょっと気圧される。唐突に変化と直面するからか。

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 風呂に入れるにしてもこちらの勝手が分からない。なにしろもうおとなしく腕の中におさまっていてはくれないほどに活発なのだ。それよりもなによりも、ぼくはどうも「そのへんのおじさん」扱いされているようで、しきりに母親を求めて顔を動かし手を伸ばし、わんわん泣いた。安全基地になっていないのである。

 ぼくもアマネの扱い方を忘れているし、向こうからもその存在の意味を忘れられている。いや、「忘れている」ということを、いつの間にか「忘れられる」にすり替えているのかもしれない。だから、「忘れられる」とは、アマネがぼくのことを忘れるということと同義ではないのかもしれない。

 それにしてもちょっとしゃくなので、今日は風呂に入る前にいないいないばあを5分くらい続けてやった。きゃっきゃと笑っていた。そのおかげか、日曜ほどには怖がらなかったようである。ただ、やはり母親を探すことはやめない。

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