書き起こし随想(1) 勝手に学ぶ

 小学校の授業について、可能な限りすべての子どもの発話を聞き取りながら書き起こしを作っている。ひとりひとりに専用のICレコーダを装着してもらったので、つぶやきが聞こえて大変に興味深い。

 それを聞いていて思うことは、教師の発話も他の子どもの発言も、ある子どもにとっては背景音のひとつに過ぎないということ。実際のところ、教室内の座席位置によっては教師の声の聞こえ方に著しい違いがある。

 加えて、子どもは学習のコンテクストを授業内でみずから選択し、作り出し、なんらかの達成を得ようとしていることも見えてきた。仮想的なたとえを出せば、授業中に消しゴムかすを一生懸命作ろうとしているとか、一言もしゃべらずにいようとしているとか。これを悪くとらえれば、「授業に参加していない」のであるが、もう少しポジティブに受けとめるロジックは作れないか。

 月並みな言い方であるが、「授業に参加していない」ように見える子どもも、学ぶことを放棄しているわけではない。みずから学習の課題を設定するなかでコンテクストを選択し、その枠内で課題達成しようとしているのである。要は、子どもは勝手に学んでいるのである。

Skypeは難しい

 とある打ち合わせのため、日曜なるも大学へ。

 打ち合わせ会場は横浜である。札幌の研究室と横浜の某研究室とをSkypeで結んでみる。某研究室に打ち合わせ参加メンバーがそろっていて、ぼくは一人このような形での参加である。アカウントは以前から取っておいたのだけど、使う機会がなかったので、初めての体験である。

 最初はとても面白かった。時代は進んだなあ。

 さて、打ち合わせが終わり、結果として思ったこと。

 可能であれば、会話の場に直接いた方がいい。

 ネットワークの調子如何で、動画と音声のクオリティがコロコロと変わる。最後の方はぷつぷつ途切れてばかりであちらの会話がほとんど聞き取れなかった。

 それもあるのだろうが、今、自分に話しかけられているのかどうかがよくわからない場合が多い。「伊藤さん」という言葉が会話の端々に出てくるのだが、それが自分に対する呼びかけなのか、それとも自分のことが話題に上っているだけなのかが判別つかない。

 これは相互行為分析的にはよく理解できる。というのも、会話場面において参加者はネクストスピーカーの選択のためにいくつものリソースを用いているのだが、そのうちいくつかがSkypeでは使えない。たとえば視線などだ。向こうでは複数の参加者が視線のやりとりをしていて、会話のアドレスが自明であるために、かえってこちらには不明になる。このことは、文字によるチャットと比較すればよくわかる。文字だけであればネクストスピーカーの選択を文字で行うことになるから、参加者全員にとって自明になる。

 そういったことを考慮に入れた上で、ひとくふう入れれば、とても楽しいツールになりそう。たぶんそういう工夫はもうすでになされているのだろうな。

書き起こし支援ソフト「Voice Writing」

 授業が終わったので、これからたまりにたまった録音の書き起こし作業をはじめる。そこで不可欠なのは、テープリライター向けのソフトである。

 テープリライティング用のソフトはこれまでにいくつかあった。ぼくが利用していたのは「おこしやす」と「SndPlay」。最近ではもっぱら「SndPlay」ばかり使っている。「おこしやす」は、いつの間にかバージョンがあがって「おこしやす2」になっていた。

 これから作業を始めるにあたり、なにか新しいソフトは出ていないかしらとVectorをのぞくと。おお、よさそうなものがリリースされているではないですか。

 Voice Writing株式会社ボイススピリッツ

 キーだけで音声を操作することができるのはもちろんだが、珍しいのはエディタが内蔵されている点。しかもそのエディタは2つのペインに分かれていて、左端には発話者やタイムコードを打ち込むことができる。この辺はすばらしい。

 現在公開されてるのはフリー版とのことで制限が大きい。これは商品版に移行させるための仕掛けだろうが、お金を払っても使ってみたいと思ってしまう。

 テープと格闘することの多い研究者で、お金が余っている方は、購入を検討する余地がおおいにあるだろう。

【PMF】7月4日(土)

 4日午前に芸術の森アートホールにて札幌交響楽団とPMFオーケストラメンバーによるリハーサル。
次の日にKitaraで開かれるウェルカム・コンサートのリハ。

 本番の演目は、最新パンフによれば、メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、モーツァルトの
「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。

 10時45分から午前のリハ開始と事前の案内があったので、アートホールに10分前に到着。練習室にはすでに奏者が集まっていた。
弦が65人、木管が16人、金管が19人、ハープが2人、パーカスが5人の計107名。大所帯だ。まだ指揮者は入室していないように見える
(2階席なので、真下にある1階入り口付近の様子は見えない)。個々人がめいめい音を出す。自席に着いている人もいれば、
荷物置き場で音を出す人も。チューニングではない。みなラフな格好。

 コンマスは男性、白い細身の半袖シャツにジーンズ。若い。後で気づいたが、彼だけイスの種類が他の人とは異なる。
他は折りたたみイス、彼はピアノを弾く時に座るようなイス。

 45分になり、長身の男性が指揮台の脇に立ち、奏者たちの方を見ながら手を挙げ、かれらが音を出すのを止める。
「2コマ目の途中で終わります」「フィンガルが」後から気づいたが、彼はバスクラの奏者だった。その日本語での説明の後、
ワイシャツを来た男性が英語で同じ内容を説明。今日の予定を全体に対して説明する機会はこれだけだった。

 47分、指揮者の尾高忠明氏入室。黒いTシャツに黒いパンツ、黒いスニーカー。指揮台に置かれたイスに腰を置き、
「おはようございまーす」。指揮棒を右手に持ち、30度ほど腕を持ち上げ、そのまま振り上げるとすぐさま演奏に入った。
指揮者からは何の説明もない。

 曲目は「英雄の生涯」。40分以上ある曲だが、そのまま最後まで通して演奏。その間、演奏していない奏者たちは退屈そうにしている。
たとえば出番がない時は、腕や足を組み、目をつぶっている人もいる。パーカスはほとんど出番なしのためずっと座って腕を組みっぱなし。
文庫本(?)を読んでいる人も。

 トランペット3人、演奏の途中で席を立ち、後列に置かれた3つのイスに座り直す。何だろうと思っていると、
そこでファンファーレを鳴らした。指揮者はその3人に対して左手で何か合図。元の席にもどれということだろう。

 終了。指揮者、各パートごとに指示を出す。英語で。パートが日本人だけで編成されている場合は日本語で指示。
英語でも日本語でも擬音ばかり。「ティヤーッタッタッタ」「ティヤーティヤー」「ヤカタカタカタカ」「ポンポンポン」「ヤーラリラリ」
「タリラリラリラリラリ」

 譜面のどの個所を吹くのか、ピッコロ間違える。頭を下げ、左手をひょこっと上げる。チューバへの指示の出し方。「もう少し遠くで」。
吹き込む息の量が少なすぎ、音が出ず。「遠すぎです」。

 11時45分、指揮者が15分休憩の指示。建物の外に出てタバコを吸う者、コーヒーを飲む者、本を読む者、音を出す者、話す者。

 11時58分、尾高氏入室。Tシャツが変わっている。汗をかくから?それでもやはり黒。

 「英雄の生涯」の続き。パーカス、座っている席の後ろにあるゴングを鳴らしてしまう。
真正面に座っているトランペットパートの年配の男性、両手を顔の脇に置いて前後に揺らす。スネアの男性(ゴングを鳴らしたのではない人)、
両手を頭の上で合わせる。指揮者に謝っているふう。

 バリトンオーボエの奏者に、指揮者が「○○さん、□□からもう少し大きくできる?できないなら…」。バリトンオーボエ、
「やってみます」。はじめて双方の発話をともなうインタラクションが見られた。これ以外にインタラクションはなかった。たとえば、
セカンドバイオリンの席に座る女性に、指揮者から細かな注文が頻出。例としては曲想について。「老人が天国に行く際の平安を」とかなんとか。
女性はただだまって聞くだけ。練習終了後、隣のセカンドバイオリンの女性と楽譜を見ながら話し合う。

 12時30分、尾高氏がメンバーに「2時に戻ってきてくれ」と英語で言い、午前の練習終了。

 13時からの野外ステージで開かれる開会式を見る。ファンファーレ、市長挨拶、エッシェンバッハ挨拶など。
ウィーンフィルから来た奏者によるモーツァルト「クラリネット五重奏曲イ長調」。そこで立ち、再びアートホールへ。

 14時からのリハーサルはすでに始まっていた。メンバーが減っている。日本人のみ。曲目の違いによる?弦40、木管8、金管4、
パーカス2。午後最初の練習曲目は「フィンガルの洞窟」。午前中最初にバスクラの男性が話していた「2コマ目」とは2つ目のこと?
尾高氏のTシャツが替わっていた。また黒。

 「結婚式が遠くに聞こえる」「モルダウと同じで」

 14時30分頃、「ここで休憩していきましょ」と指揮者が告げる。メンバーのうち三分の一くらいが帰り支度をしていなくなる。

 休憩時間中、指揮台の隣にハープが運び込まれる。コンマスのイスが移動。このあたりの作業をするのは、演奏者ではない男性。
ピンク色のTシャツ。移動させたイスに座って見え方の確認(?)。

 14時45分、練習再開。尾高氏のTシャツがまた違う。今日4着目。ハープとフルートはゲスト。それぞれ、クサヴィエ・ドゥ・
メストレ氏とヴォルフガング・シュルツ氏。指揮者がイスに腰掛けながら左手を2人の方へ上げる。メンバーは足を踏みならす。
ハープとフルート、コンマスと握手。次いで指揮者と握手。

 曲目は「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」。指揮者による指示はほとんどない。3曲流す。1度、
曲を止めてセカンドバイオリンに対して指示。

 15時15分、3曲が終了。「どうするんだろう」というようにハープがきょろきょろ。フルート、「ヤンタラータラー」ではなく
「タランタラン」だと指揮者に伝える。「同じことをさきほど伝えていました」と指揮者。フルート、コンマスの楽譜を見ながらコンマスと話す。

 メンバーはほぼ全員帰り支度を始めている。今日はもうリハはないのだろうと判断、帰途につく。

【PMF】リハーサルから見るPMF

 Pacific Music Festival、略してPMFが本日開幕します。PMFとはレナード・
バーンスタインが提唱して開催されるようになった、若手音楽家のための教育音楽祭です(公式サイトより)。
今年で20回目の節目を迎えて関連するイベントも企画されているようです。

 札幌に住んでいますと、毎年この時期になると通りのあちこちに音符の描かれた旗がひらめいて気にはなっていましたが、
これまで足を運んだことはありませんでした。今年はできるだけ音楽を聴く機会をつくりたいと思っています。というのも、
9月の学会で音楽教育に関するシンポに出ることになったのですが、そうした分野にはこれまで触れたことがなかったのです。
なんとか何かひとこと言えるようになっておこうと、PMFに参加することにしたのでした。

 参加と言ってもコンサートを聴くだけでは「音楽教育の成果」しか知ることができません。ですので、リハーサルを聞くことにしました。
申し込むと、開催期間中に開かれる芸術の森やKitaraでのリハーサルを見学することができます。
私は開催期間中すべてのリハーサルを自由に観られる通しチケットというのを取りました。15,000円。

 それに加えて、来週末に学校の音楽教育関係者や学生を集めて開かれる音楽教育セミナーというのにも参加することにしました。
私自身は音楽教育に携わっているわけではありませんが、何か糸口がつかめるかもしれないという思いです。

 先日、芸森でのリハーサルを少しだけ見てきました。弦のみの編成で45人。やはり奏者は皆若い。指揮は(おそらく)ルイス・
ビアヴァ。見るといっても、アリーナ席で上から見下ろすような感じです。近づいて話しかけたり楽譜の書き込みを見ることはできません。

 私自身ブラバンでラッパを吹いていたのですが、練習の様子はオケもあまり変わらないというのが今のところの印象。
実際はだいぶ違うのでしょうね。たとえばビアヴァは「タラリタラララ」「パンパンパン」「ターンターン」「シーパパパパ」
と擬音で欲しい音のイメージを伝えます。また、奏者と指揮者とが楽譜をともに見ながら演奏について相談するという場面は、
いまのところコンマスとだけ見られました。オケと指揮者との関係とはそういうものなのでしょうか。

 知りたいのは、このリハーサルがいかにして「教育」の場として成立しているのかということです。
おそらく奏者は何かを学びに来たのであり、指揮者もまた何かを教えようとして来ているのでしょう。
そこがプロとプロのやりとりとの違いだと思われます。では、その関係性はどういう場面において見られるのか。もしかすると、
私のブラバンでの練習の仕方と同じだなと感じたのは、両者共に「教育であること」を前提として組織されているからでしょうか。
よく分かりません。

 ひとまず今日も終日芸術の森にいりびたってリハーサルを見てきます。楽譜が手に入らないかなあ。

すおっ(声にならない叫び)

 2年連続で空振っていた科研費ですが、今年から3年の間、いただくことができるようです。メールボックスに書類が入ってました。どなたに御礼を言えばいいのか分かりませんが、ありがとうございました!!!!

 このところ気分が沈みがちだったのですが、少し上向きになってきました。

 研究計画書ではだいぶ大風呂敷を広げてしまったので、形にするのが今から悩ましいですが、とにかく3年間がんばります。今回の研究の舞台は小学校。さて、どうなるか…。

ヴィゴツキーのドキュメンタリー!

 ヴィゴツキーに関するドキュメンタリー映画ができたのだそうだ。これは、青山学院大の高木光太郎先生のブログからの情報。高木先生は、Holzmanのブログを参照している。

 Lev Vygotsky Documentary 公式サイト

 解説を読むと、映画はおよそ2時間。その生涯、理論解説、実践の3部で構成されているとのこと。そうそうたる方々が出演している。

“Lev Vygotsky: one man’s legacy through his life and practice” explores the compelling story of this father of Russian Psychology. This documentary uses a mixture of interviews and commentary from family members Gita L. Vygodskaya and Elena Kravtzova, renowned professors/educators including Michael Cole, Lois Holzman, Vera John-Steiner, Alex Kozulin, Tamara Lifanova, Luciano Mecacci, James Wertsch, and others, archive photos, film footage, narration, and Vygotskian practice examples. (公式サイト解説より)

 サイトではDVDが販売されており、1枚400ドル。だいたい4万円弱?ISCAR会員だと2割引だそうだ。私は非会員。会員のどなたかにお願いしよう。まずはM先生か。

科研と打ち合わせと野球

 昨日は朝から研究室にこもってパチパチとキーボードをたたいていた。科研の申請書を書いていたのである。

 本来であればその前の日が(大学の事務での)締め切りだったのだが、電話で頼み込んで1日のばしてもらっていたのである。
まったくもってよい教師ではない。

 なんとか体裁を整えて2部印刷し、1部ずつクリップで留めて提出。電子申請になって楽になったのはこの点だ。数年前は、確か、
両面で印刷し、端をのり付けして、角に色を塗ったものを7部くらい提出しなければならなかった。電子申請になり、そういう作業はすべて「あちら」
でしてもらえることになったそうである。

 提出したのもつかの間、全学の授業へ。英語をぱあぱあと読む。

 研究室にとんぼ返りし、Kくんと研究の相談。状況的学習論第2世代をうそぶくからには、いったい何を発信する必要があるのか。
やはり実例をもっている人は強いと思う。Kくんにはそういう体験に裏付けられた議論を展開していってもらいたい。

 打ち合わせを終えて、そのまま2人で打ち上げ。久々に13条の「しょうた」へ。そういえば昼飯を食っていなかったことに気付く。

 Kくんがタクシーに乗ったのを見届けてから、地下鉄で平岸へ。「もつ一」。黒ホッピー、厚揚げ、小袋刺しをルーティンのように注文。

「日ハムどうだったの」、とぼく。
「負けちゃった、完敗」、とおかみさん。

「何対何」「キュウゼロ、ヒット3本じゃどうしようもないよ」「向こうは打つからねえ」「セリーグはどっちかな」
「中日じゃないですかね、巨人は中日と相性が悪いし」

 カウンター越しに野球の話。野球をよく見るようになって、何がよかったかというと、こうして居酒屋で話すネタができたこと。
天井を見ると、「誠」「賢」と勘亭流で書かれた旗が。札幌の居酒屋で、日ハムの悪口は言わない方がよろしい。

ヴィゴツキー『心理学の危機の歴史的意味』の意味について

 以下は、以前執筆しようとした論文の冒頭に置かれるはずであった文章である。書いてはみたものの、結局は使わずに終わった。前後の文脈がないので読む方には何のことだか分からないとは思うが、ヴィゴツキーの理論について理解する一助になるかもしれないと思い、ここに掲載するものである。

 あらゆる時代、あらゆる場所、そしてあらゆる人物において等しく該当する唯一の説明体系を求めようとする人びとがいるとしたなら、ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーはそこには含まれない。人間のあらゆる精神機能を説明する究極の原理などとたいそうなことを、彼は決して言わなかった。その代わり、ごくごく小さなこと、たとえば目の前にいる子どもに触れて、言葉をかけてみるなど、そうした些細な出来事に目を向けた。

 この文章を読む方も、もしも目の前に誰か知り合いがいたら、何か話しかけてみてほしい。話しかけるという出来事が、いつでもどこでも誰にとっても同じ出来事を引き起こすということがあるだろうか。「やあ、元気?」とのあなたの問いかけに、目の前の誰かは、「元気だよ、君は?」と、いつもどこでも返事をしてくれるだろうか?これには否と答えておいた方がいいだろう。「最近だめなんだ」と悲しい表情をする人、「なんだよ、突然」と訝しがる人、無言であなたの方を一瞥するだけの人、このほかに何が起こるのか筆者には見当もつかないが、とにかく一言で片付けられないことは間違いない。

 話しかけるという出来事の帰結は、確かに多様な出来事である。しかし、こうして発生した多様な出来事のひとつひとつは、この世界に起こり得ることの完全な表現であるはずだ。起きてしまったことは仕方がない。結果の多様性という事実は、決して否定できない。たとえ仮想された唯一の説明体系から見ると互いに矛盾していたとしても。この意味で、多様な出来事はこの世界の可能性を実にみごとに反映している。多様な出来事のなかには、唯一の説明体系から予測されるものも含まれるだろうが、例外もあるはずだ。ひとつの説明体系が予測する出来事も、そうでない出来事も、等しく世界に発生するならば、その説明体系とはいったい何の役にたつのだろう?せいぜい、説明体系にうまくのった人間を正常、のらない人間を異常もしくは人間ではないものとして区別するだけの道具にしかならない。

 起きてしまったことは多様で、そこにいたるまでの道筋も多様である。これが、ヴィゴツキーの言う「具体的多様性」(『思考と言語』邦訳上巻 pp.18-9)であろう。しかし、それが起こるきっかけはどうだろうか。これを読む方々が、それぞれ目の前の人に話しかけた結果としての返事は、確かに多様であろう。しかし、その結果を発生させたのは、あなたが話しかけたという、まさにその出来事にほかならない。多様な返事は、まさにこの「話しかける」という出来事から出発している。

 ところが、単に「話しかける」という出来事は存在しない。実在するのは、誰かが誰かに話しかけるという出来事であり、本章の読み手が異なれば、当然その「誰か」も変わってくる。つまり「話しかける」という出来事も、実際には多様である。にもかかわらず、単一の「話しかけるという出来事」というカテゴリーにまとめあげることは可能である。それはなぜか。

 考えられることは、出来事としては多様でありながら、そこでは「話しかける」という共通の「方法」が採用されていることである。それを採用する人物も異なれば、それが採用される時間的・空間的状況も異なる。この世界に同一の出来事は二つとしてあり得ないのだから当然だ。にもかかわらず、出来事の同一性が保障されるのは、ひとえにひとつの方法が共有されていればこそである。科学者が、みずからの方法論の中で、再現可能性を最も重く見るのはこの限りにおいてである。科学とは、方法の異称のひとつにすぎない。

 話がそれた。以上をまとめると、「話しかけ」というひとつの方法が、さまざまな「話しかけるという出来事」を生み出し、そこからさらに多様な返事が派生する。これは、本書を読む方々と目の前の人との間に生まれた多様な対話を分析する、ひとつの図式である。そして、ヴィゴツキーの『心理学の危機の歴史的意味』での論点のひとつが、将来の心理学はこの図式をパラダイムとして科学的営みを進めるべきだということであるように、私には思われる。

非常勤+ダメでした

 非常勤先での講義1回目。

 お仕事のお声をかけてくださったM先生にご挨拶をした後,教室へ向かう。だいたい80名ほど。去年よりも少なく,
こちらとしてはちょうどやりやすい人数である。

 ほとんど全員1年生ということで,大学で学ぶ上での心得のようなものを開陳する。話の中身は内緒である。

 帰り際,4月に北大から異動されたF先生にご挨拶に行く。まだまだがらんとした部屋で引っ越しの整理に追われていたようだ。

 久しぶりに講義をしたら足がぐたっと疲れた。ついこないだまで,2コマ続けて話をしていたこともあったんだけどなあ。体力のなさ。

 北大に戻る。メールボックスを開けてもダイレクトメールばかり。PCの前に座り,Eメールボックスを開ける。
「科研があたった人にはお知らせ入れといたでよ」のメッセージ。

 お知らせ?

 … えー。

 今年もダメでした。はは。ははは。はははははは。

 気を取り直して別の助成にちょこちょこ応募しようっと。