ヴィゴツキー『心理学の危機の歴史的意味』の意味について

 以下は、以前執筆しようとした論文の冒頭に置かれるはずであった文章である。書いてはみたものの、結局は使わずに終わった。前後の文脈がないので読む方には何のことだか分からないとは思うが、ヴィゴツキーの理論について理解する一助になるかもしれないと思い、ここに掲載するものである。

 あらゆる時代、あらゆる場所、そしてあらゆる人物において等しく該当する唯一の説明体系を求めようとする人びとがいるとしたなら、ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーはそこには含まれない。人間のあらゆる精神機能を説明する究極の原理などとたいそうなことを、彼は決して言わなかった。その代わり、ごくごく小さなこと、たとえば目の前にいる子どもに触れて、言葉をかけてみるなど、そうした些細な出来事に目を向けた。

 この文章を読む方も、もしも目の前に誰か知り合いがいたら、何か話しかけてみてほしい。話しかけるという出来事が、いつでもどこでも誰にとっても同じ出来事を引き起こすということがあるだろうか。「やあ、元気?」とのあなたの問いかけに、目の前の誰かは、「元気だよ、君は?」と、いつもどこでも返事をしてくれるだろうか?これには否と答えておいた方がいいだろう。「最近だめなんだ」と悲しい表情をする人、「なんだよ、突然」と訝しがる人、無言であなたの方を一瞥するだけの人、このほかに何が起こるのか筆者には見当もつかないが、とにかく一言で片付けられないことは間違いない。

 話しかけるという出来事の帰結は、確かに多様な出来事である。しかし、こうして発生した多様な出来事のひとつひとつは、この世界に起こり得ることの完全な表現であるはずだ。起きてしまったことは仕方がない。結果の多様性という事実は、決して否定できない。たとえ仮想された唯一の説明体系から見ると互いに矛盾していたとしても。この意味で、多様な出来事はこの世界の可能性を実にみごとに反映している。多様な出来事のなかには、唯一の説明体系から予測されるものも含まれるだろうが、例外もあるはずだ。ひとつの説明体系が予測する出来事も、そうでない出来事も、等しく世界に発生するならば、その説明体系とはいったい何の役にたつのだろう?せいぜい、説明体系にうまくのった人間を正常、のらない人間を異常もしくは人間ではないものとして区別するだけの道具にしかならない。

 起きてしまったことは多様で、そこにいたるまでの道筋も多様である。これが、ヴィゴツキーの言う「具体的多様性」(『思考と言語』邦訳上巻 pp.18-9)であろう。しかし、それが起こるきっかけはどうだろうか。これを読む方々が、それぞれ目の前の人に話しかけた結果としての返事は、確かに多様であろう。しかし、その結果を発生させたのは、あなたが話しかけたという、まさにその出来事にほかならない。多様な返事は、まさにこの「話しかける」という出来事から出発している。

 ところが、単に「話しかける」という出来事は存在しない。実在するのは、誰かが誰かに話しかけるという出来事であり、本章の読み手が異なれば、当然その「誰か」も変わってくる。つまり「話しかける」という出来事も、実際には多様である。にもかかわらず、単一の「話しかけるという出来事」というカテゴリーにまとめあげることは可能である。それはなぜか。

 考えられることは、出来事としては多様でありながら、そこでは「話しかける」という共通の「方法」が採用されていることである。それを採用する人物も異なれば、それが採用される時間的・空間的状況も異なる。この世界に同一の出来事は二つとしてあり得ないのだから当然だ。にもかかわらず、出来事の同一性が保障されるのは、ひとえにひとつの方法が共有されていればこそである。科学者が、みずからの方法論の中で、再現可能性を最も重く見るのはこの限りにおいてである。科学とは、方法の異称のひとつにすぎない。

 話がそれた。以上をまとめると、「話しかけ」というひとつの方法が、さまざまな「話しかけるという出来事」を生み出し、そこからさらに多様な返事が派生する。これは、本書を読む方々と目の前の人との間に生まれた多様な対話を分析する、ひとつの図式である。そして、ヴィゴツキーの『心理学の危機の歴史的意味』での論点のひとつが、将来の心理学はこの図式をパラダイムとして科学的営みを進めるべきだということであるように、私には思われる。

「ヴィゴツキー『心理学の危機の歴史的意味』の意味について」への1件のフィードバック

  1. はじめまして大絶画と申します。
    復刊ドットコムにヴィゴツキー著『心理学の危機』をリクエストしました。みなさんの投票次第で復刊される可能性があります。
    URLから投票ページにアクセスできます。趣旨に賛同していただけるようでしたら投票へのご協力ください。
    なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。

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