Youtubeで学ぶ心理学概論(1)―学習編

Youtubeには心理学の自学自習に使えそうな動画がいくつも上がっている。非常勤で心理学概論を教えていたときにはそうした動画にたいへんお世話になった。そうした動画のいくつかについて,これから心理学を勉強しようという方のために,説明を加えながら紹介していきたい。

それらの動画には著作権者がおり,Youtubeへの投稿は恐らく著作権者の許可を得ていない場合が多いのではと思う。ただまあ,言い訳すれば,心理学関係の映像教材は普通に買うとなるとべらぼうに高いのである。たとえば心理学の講義を非常勤で持ち始めた大学院生にはとうてい手が出ない。

それでもなるべく良質の授業をしようと思えば具体的な例を動画で見せるのはある程度効果的だろうから,いきおい,無料で手に入る動画を資料として頼りたくなるのも人情である。そういう言い訳を前置きして以下に並べていく。まずは「学習」編。歴史を追ってみていこう。

まずはパヴロフの犬の実験。”Pavlov”で検索すれば動画は山ほど引っかかるが,再現ドラマ仕立てになっている上の動画は,実際の実験を正確に再現したものかどうか分からないにせよ,雰囲気は伝わってくる。

おなじみワトソンによるアルバート坊やの実験。この実験がどのようにして行われたのかについては,鈴木光太郎先生の「オオカミ少女はいなかった」あたりを読むと面白い。

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険
鈴木 光太郎
新曜社
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ソーンダイクの試行錯誤についての再現ドラマ風動画。パヴロフの後でソーンダイクを紹介すると,一人か二人は「動物虐待だ」と感想を書いてくる学生さんがいる。

スキナーによるハトを使ったオペラント条件付け実験の様子。ネズミの入ったスキナーボックスの動画なんかもたくさんある。

BBCのドラマThe Officeより。古典的条件付けがオフィスでも再現されるか,てなシークエンス。パヴロフの話をした後でこの映像を見せると笑いが起こる。ちょっと前だともう少し鮮明な動画があったんだけど。

修論生のように

今月の10日が完成原稿デッドラインという論文をうんうんいいながら書いている.この文章の句読点が普段使い慣れない「,」と「.」なのはATOKの環境設定でデフォルトをそれにしているから.

論文だけど,データはそれなりにあるのだが,投稿する雑誌の性質に合わせて問題を書いているうちに再分析が必要ではないかと思い始めたのが運の尽き.何をどうすればよいのやらととにかく手当たり次第数字を出しまくっている.

うちの学部ではクリスマス直前が卒論や修論の締め切りとあって,どこもかしこもピリピリとした雰囲気であるが,そういう雰囲気作りに一役買っているのではないかと.デスク周りのデータと論文のプリントアウトの山はまるで修論生のようだ.こういうときに限って,HDやUSBメモリが逝ってしまったり,プリンタが壊れたり,サーバが落ちたりとお約束のようなアクシデントが起こりがち.まだ大丈夫だけど.

10日までにそれは提出するとして,実はまだ大小2本ほど年内には出さねばならない原稿がある.そういう状況に嘆いていると,「ぼくは年内締め切りが7つある」と豪語される方もおられて実に爽やかな気持ちになる.

こんなの書いてる暇もないわけだがまあ12月になったしということで.

怒濤の一週間

なんかあっという間に1週間が過ぎてしまって自分でも驚いている。

先週の土曜から、東京から来札したSさんと一緒に小学生を対象とした実験を大学でしていた。呼びかけに応じてくれた子どもたちが次から次へと来てくれたので、おかげさまで嬉しい悲鳴をあげながら1週間が過ぎたのである。

その間、Kさんとその娘さんと一緒にうちの子どもも連れてボウリングに行ったり、調査をお願いしている学校で授業見学と研究発表をさせていただいたり、神谷先生のヴィゴツキー本を読む会を企画したり、実家に帰省する妻子を空港に送っていったり、実習の準備をしたりと合間の業務をこなしていた。

実験は火曜まで続く。

子どもの会話に分け入る

p> 9月1日の読書会では,レポーターを含めて12名が参加。活発に議論が繰り広げられました。参加していただいたみなさんに感謝です。

 読んだのはGardner, H. & Forrester, M. (2010). Analysing interactions in childhood: Insights from conversation analysis. Wiley. この中から5章を選んで読みました。以下,感想です。


3章 Ethnomethodology and adult-child conversation: Whose development? (Michael Forrester).

 トップバッターとして不肖私が紹介したのは,エディターでもあるMichael Forresterの論文。Forresterはケント大学の先生。

 子どもの言語的スキルの発達過程を研究する上で,会話分析の手法が用いられることが増えてきたのはいいとして,会話分析にはもともとエスノメソドロジーという方法論的前提があったはず。発達という概念に対するエスノメソドロジー的な問いは,どのようにして「発達」が構築されるかというもの。そこで,子どもと大人による会話において,子どもが有能なメンバーとして社会的に取り扱われるためにはどういう条件が必要なのかが検討された。

 エラちゃんという女児が事例に出てくるが,1~2歳の頃は家族から「子ども扱い」されている。ところが3歳になると,自分を子ども扱いする親の発話実践に対して「それはおかしい」と異議申し立てをするようになる。

 ここからは,本論文を受けてのぼくの提案だが,子どもを含む人々の実践の帰結として達成される「発達A」と,「発達A」実践を可能にするある個人の「発達B」を分けた方がいいのかもしれない。なにしろ赤ちゃんは,話せない状態から話せる状態にならないかぎり,発達A実践に携わることもできないのだから,どうしたって発達Bは必要(成熟と言ってもいい)。

 では発達Bの帰結としての発話はすぐに「発達A認定実践」の網の目に取り込まれてしまうかというとそうでもなくて,発達Bとしてはなかなか達者なパフォーマンスをディスプレイできているにもかかわらず,発達Aとしてはずっと「子ども扱い」されていたというのがエラちゃんの事例から明らかになったことだった。

 読んでいるときは物足りなかったが,当日参加されていた札幌学院大の森先生からいただいたコメントで「なかなか面白いかも」と見方が変わった論文。なお著者のForresterの大学でのウェブページからこの論文で扱われている事例がムービーでダウンロード可能。

5章 Children’s emerging and developing self-repair practices (Minna Laakso). 

 2本目はMinna Laaksoの「幼児における自発的修復実践の発生と発達」。Laaksoはヘルシンキ大学の先生。所属はDepartment of Speech Sciencesってなかなか楽しそう。

 データは2002年から07年にかけてフィンランドで行われた大規模な縦断・横断研究からのもの。責任者はLaaksoご本人。そういうプロジェクトができてしまうところがまずすごい。

 子ども自身が自分の発話を「言い直す」(repair)事例を整理して示してくれている。早い事例では1歳0ヶ月でそのような場面が観察されたらしい。このことは,言語発達初期から「この言い回しは違うぞ」という気づきのようなものが芽生えていることを示すと述べられる。

 言い間違いの修正という実践は相当に高度で,というのもその前提にはメタ認知的な能力が想定されるから。そんなことは1歳代には無理だろうと一般には思われるかもしれないが,ぼくら大人は必要以上に小さな子どものことを無能扱いしているのかもしれず,この研究もそうした見方を改めさせる。

6章 Questioning repeats in the talk of four-year-old children (Jack Sidnell).

 3本目はJack Sidnellの「4歳児の会話における同じ言葉による問い返し」。Sidnellはトロント大学の先生。

 会話にはたまに同じ言葉を用いて問い返す実践が現れる。「こちら,4000円のご奉仕価格!」「えーっ,4000円?」とか。情報学的には,同じ言葉を繰り返すことには情報的な価値はまったくないが,会話の社会学的には,繰り返すことでいろいろな機能を果たすことができる。たとえば同意とか,批判とか。質問というのもそうした機能の一つだ。

 同じ言葉を繰り返すという言語使用が4歳児と5歳児の自由遊び場面にどのように見られたかを調べたのが本研究だが,結果から言えば,4歳児の方が5歳児よりもそうした問い返しを多く使用していた(約2倍)。この発達的(これは発達Bね)な違いは何によるものだろう?

8章 Feelings-talk and therapeutic vision in child-counsellor interaction (Ian Hutchby).

 4本目はIan Huchbyの「子どもとカウンセラーのやりとりにおけるフィーリングス・トークと治療的なヴィジョン」。Huchbyはレスター大学の先生。

 親の離婚を経験して,そのことでカウンセリングを受けさせられる子どもとカウンセラーの会話が分析される。面白いのは,「どう思う?」とカウンセラーが尋ねても,子どもの答えはたいてい素っ気ないこと。カウンセラーは自分の見立てを押し通し,子どもの発話をその枠組みにおさめて見ようとするが,あくまでも子どもの発話は素っ気ない。それはそうで,カウンセラーには会話を続けていく義務が職務としてあるのだが,子どもにはそんなものはないのだ。

9章 Intersubjectivity and misunderstanding in adult-child learning conversations (Chris Pike).

 最後の5本目はChris Pikeの「大人と子どもによる勉強中の会話における間主観性と誤解」。Pikeはカンタベリー・クライスト・チャーチ大学の先生。

 小学校の先生と1人の6歳児とが,算数の問題を解いているところを分析。子どもは何を話せばいいのかはよく分かっていて順調に会話をこなしているが,問題の構造はまだよく理解できておらず,結局同様の課題を何度も繰り返すことになっている。面白いのは,子どもの手が「誤り」だということが顕在化せずに円滑に会話が進んでいたこと。

 こうして見ていくと,子どもの会話にはまだまだ分け入っていく余地が大いにある感じです。その際に頼みになる理論はと言うと,まだちょっとぴんと来ないですが。このあたりを今後は考えていかねばならないと思います。

授業のリズム

 いくつかの授業を見てきて思うことは、同じ単元であっても、先生によって授業の進め方はまるで違うということだ。

 特に、やりとりの進め方が異なる。具体的に言うと、顕著なのが、リズムだ。コミュニケーションのリズムに気を遣っているかどうかは先生によってだいぶ意識に差がある。

 リズムに気を遣う先生は、自身の話し方にメリハリをつけることはもちろんなのだが、それを子どもたちにも求める。というのも、いくら自分の話し方でリズムを整えようと思っても、受け答えをする相手がそれに乗ってこなければ、トータルとしてのリズムはいびつなものになるからである。

 餅つきにたとえれば、先生がテンポよく「こねどり」をすることによって、子どもたちの杵を上げ下げするテンポが先生のリズムに引き込まれていくような、そんな感じを目指しているように思えた。

 たとえばある先生は、発問に対する子どもの回答があまりにも長くなると、途中でも切ってしまうという。発言する内容が事前にまとまっていなければ、子どもたちは「あのー、それでー、だからー」と、だらだらとした話し方になってしまう。これでは、先生の発話のテンポがよかったとしても、コミュニケーション全体のリズムは整わない。そういうときには、「、(てん)」で終わるのではなく、「。(まる)」で終わりなさいと指導されるのだそうだ。当然、「短く言い切る」の言い換えである。

 発言を短く言い切ることができるようになれば、自ずと先生と子どもたちのやりとりのリズムは整然としてくる。それは、とりもなおさず、先生が自身の話すテンポに自覚的にならなければならないということでもある。

 いずれにせよ、コミュニケーションのリズムが教室全体で整っていくことにより、子どもたちの授業への集中の度合いは高まっていくように思われる。これはまだ観察者の直感的なものである。

 ただ、授業中の子どもたちのとある非言語的行動を時間軸に沿って見ていくと、コミュニケーションにリズムがあるなと感じた授業については、時系列グラフにそのリズムがはっきりと見て取れる。その点についてもう少し掘り下げていくと面白いのではないかと最近考えている。

ポジティブに行こう

 1限から実習。初回なので読めない人数を過去の経験から推測してその分レジュメを刷ってでかける。

 教室の前にはチベットからの研究生。ぼくが受け入れ教員なので呼んでおいたのであるが、「教室に誰もいません」と不安そう。

 部屋に入りしばらく待っていると学生さんが1人。そしてそのまま2人だけでとりあえず始める。

 しかし、いろいろ話を聞くと、どうも研究生1人だけになりそう。誰も受講者がいないというのはこれまでにない経験で、さすがにがくっと来た。

 誰も来ないなら来ないで、研究生の勉強のために、実習の時間帯を利用して、市内の保育園・幼稚園を見学しに一緒に回ることをたくらむ。ポジティブに行こう。

 研究室に戻ると、投稿していた論文の審査結果が。ちょこちょこと修正すればよさそう。

 さらに翻訳会社からメール。小学生の保護者の方に渡す調査の案内と同意書を英訳してもらっておいた。保護者の中に日本語が読めない方がいるため。本当はそれぞれの国の言葉で書いたものを揃えておければよいのだが、そこまでの余裕がない。

 研究もゆっくりとだけど進んでいるような気がする。ともかくポジティブに考えていこう。

書くのが苦手

 インプットは大好きでアウトプットの苦手な私です。

 論文というのが本当に書けないのですね。研究者が行う実践として調査,分析,執筆がありますが,私は調査は大好きであとの2つは大の苦手です。「データ取りはやりますからあとはお願い」と放り出せたらどんなに楽だろうと思うのですが,そうはいかのなんとやらであります。

 そんな私なので公刊された論文というのは皆無です。

 しかしそんな人が学府に居座っているのは誠に不合理きわまりないので,がんばって書いてみました。書いた,というのが分かる証拠に,この文章の読点を眺めてみてください。

 データはなんと2001年のもの。今から10年も前のものです。今年の正月からデータの再分析を始めて,何が言えそうかを整理して,文章に仕上げて,もろもろくっつけて,いまさっき電子投稿しました。

 まだ分析と執筆を待っているデータが山のようにあります。古くは2002年のものから今に至るまで。調査協力者の方と連絡が取れるうちに早く救い出さねばなりません。

がんばらねば

 朝から、調査でお世話になっている小学校へ。

 5年生の算数と国語の授業を見せていただいた。調査の対象としているのは国語だが、担任の先生の希望もあって算数も見せていただく。

 見学の後、校長先生とも少しお話をする。夏前に行った調査から分かってきたことをかいつまんでお伝えすると、とても面白がっていただくことができたようで、先生方の前でお話をする機会を設けていただけることとなった。おまけに新聞社の取材も呼ぶとのこと。

 身の引き締まる思いである。がんばらねば。

研究者自身で何ができるか

 研究に対する事業仕分けについてもう少し考えてみましょう。

 ちょうど、自分の入っている学会から、学会として意見を申し述べた方がよろしいのではという旨の会長名義メールが届いたところです。研究費の削減は、研究者の自由なアイディアに基づく研究を不可能にするがゆえに、この国の科学技術の発展を妨げるという趣旨のメールでした。

 その通りだなと思います。思いますが、もう少し立ち止まって考えてみましょう。

 実際のところ、他の事業も含めた予算総額は限られています。その中でのパイの奪い合いが起こっているわけで、いくら研究が大事だと言ったところで、現在以上に使える予算が回ってくることはないでしょう。

 だとすれば、余力のあるうちに、税金を効率よく使うシステム、税金に頼らずに研究を推進するシステムを部分的にでも作っておく必要があるのではないでしょうか。恒久的な研究基盤づくりをする上で、今後再びの政権交代もあり得る政府はアテにならないことははっきりしたわけですから。

 じゃなきゃ、そんなシステムすら自前で考案できないような(人文社会科学も含めた)研究者には、やはり予算を渡すわけにはいかないよね、と言われてしまいます。では、何がシステムとして可能でしょうか。私には思いつくことはわずかです。

 (1)単年度予算をやめること。年度末になると、予算が余ってるからという理由でどうでもいいものを買っていたりあちこち出張していたりする研究室を私は知っています(ちなみに私は年度途中でほぼ使い切ってしまいます)。現実としてこうした「ムダ」な執行はあるわけですから、それをいかに「ムダ」にしないかが求められる。そこで、複数年度に渡る予算執行をさっさと認めて欲しいわけです。ただ、これは財務省の協力が確実に必要ですね。

 (2)研究成果による儲けを研究費にまわすこと。あまりにも単純といえば単純ですが、一番健全な姿なのかもしれません。儲けを産み出しにくい研究領域ももちろんあるわけで、そのような場合には、たとえば一般書などを執筆した場合の印税をプールするための仕組みを作っておくことも有効では。微々たる印税も積もり積もれば億の単位になるかもしれません。

 あまり鋭いアイディアは出ませんね。これが私の限界ということでしょう。

 ともかく、これからの研究者が税金に頼り続けることはもうできないと認識しておくべきでしょう。うまいシステムはないもんでしょうかね。

書き起こし随想(2) 聞き手のタイプ分け

 授業中のコミュニケーションを「聞き手」の側から描こうと目論んでいる。その際にどのような枠組みをもってくるか。Goffmanの参加役割は使えないか。

 Goffmanによれば会話の聞き手は多様に分化しうる。話し手の発話を聞くことができる範囲には、承認された聞き手とそうでない聞き手とがいる。通常、承認された聞き手と話し手を含めて「会話の輪」と呼ぶ。が、輪の外には、輪のメンバーとして承認されていないものの、聞いている人というのは存在する。食堂の隣のテーブルに座っている人なんかそうだ。

 この水準では、教室内のメンバーはすべて承認された聞き手である。参与観察者はどうか?一般的には承認されていない聞き手なのだが、学校の先生のなかにはそれを許さない人もいて、「ちょっとあそこにいる先生にも聞いてみよう」と話を振ってくれることがある。

 承認された聞き手もいくつかに分かれうる。どのように分けるかが分析のポイントになるだろう。

 話し手との協働性、相互行為の連鎖といった観点からは、発話に返答すべき者とそうでない者という分け方ができる。これは聞き手が自分で決定することができない、という意味で話し手との協働の結果であるし。さらには、自分がそのうち何者であるかは発話連鎖という文脈のなかで決まってくる。

 教室の子どもたちは自らをどのように位置づけるのだろうか?ある子どもが指名されて発言する。それに対して、子どもたちのなかには「ふーん」「あー」と相づちをぼそっと言う者もいる。挙手をして「似ていまーす」「同じでーす」「違いまーす」と自分の意見との比較を言う子もいる。彼らは「返答すべき者」として位置づけているのかもしれない。

 一方で、何もしない子、何か授業に関係していないことをしている子もいる。そもそも、授業とは別の会話の輪を作っている子もいる。彼らは「返答すべきでない」あるいは「しなくてもよい」と位置づけているのかもしれない。

 このように聞き手としての参加のありようをいくつかの種類に設定し、そのカテゴリーをもって子どもたちの立ち位置の時系列的な変化を記述してみたい。その際の行動指標は、発話内容、そのタイミング、視線といったものが想定しうる。