035-役割語とは何か

金水敏 2003 ヴァーチャル日本語 役割語の謎 岩波書店

金水敏(編) 2007 役割語研究の地平 くろしお出版

 久々に、言語学関係の本をぱらぱらと読んだ。

 役割語とは何か?金水(2003)は次のように定義する。

ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・
風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、
その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。(p.205)

 上記2冊は、現代日本語における役割語として、以下のようなものを挙げる。ひげを生やした高齢の博士がしゃべる「博士語」(ex. わしが親代わりになっとるわい)、男性特に少年がしゃべる「男性語」(ex. 君、ぼく、~したまえ)、お嬢様が話す「てよだわ言葉」(ex. ~よろしくってよ、滑稽だわ)、中国人が話す「アルヨことば」(ex.
そうある、~するよろし)、軍隊言葉(ex. 自分は、~であります)、美男美女が演劇的に話す西洋人語(ex. おお、ロミオ!)などなど。標準語ですら、役割語でありうる。物語のヒーローは、標準語しかしゃべらない。

 私たちは、こうした形式の変異を手がかりに、話者の人物像を特定することができる。たとえば、現代の日本語話者の大半は、以下の問いに難なく答えられるだろう。これも、金水(2003)からの引用である。

問題 次のa~hとア~クを結びつけなさい。




































a そうよ、あたしが知ってるわ(  ) ア お武家様
b そうじゃ、わしが知っておる(  ) イ (ニセ)中国人
c そや、わてが知っとるでえ(  ) ウ 老博士
d そうじゃ、拙者が存じておる(  ) エ 女の子
e そうですわよ、わたくしが存じておりますわ(  ) オ 田舎者
f そうあるよ、わたしが知ってるあるよ(  ) カ 男の子
g そうだよ、ぼくが知ってるのさ(  ) キ お嬢様
h んだ、おら知ってるだ(  ) ク 関西人

 a~hが役割語、ア~クが対応する人物像である。人物「像」というのは、それが観念的な存在、つまり私たちの頭のなかにだけ存在する人物だから。実際のところ、上に挙げた言葉を実際に話す人にお目にかかることはめったにないだろう。たとえば、仕事柄、私の周りには学位をもつ「博士」がゴロゴロしている。だが、その人たちは、たとえ年を取っていたとしても、「わしが知っておる」とは言わない。中国の方ともおつきあいしたことがあるが、「知ってるあるよ」と言う人はいなかった。さらに、現代に生きる私たちはお武家様が実際にどう話してたか知らないはずだ。この点が、役割語が「ヴァーチャル日本語」と呼ばれるゆえんである。


 したがって、私たちが役割語と接するのは、現実の、日常的な会話の場ではない。金水らが役割語渉猟の場としているのは、もっぱら小説やマンガといったフィクションの世界である。特にマンガなど子ども向けの読み物にはこれら役割語がふんだんに用いられている。


 私たちは、役割語をどのようにして知るにいたったのか。このことを説明するのに金水(2003)は幼少期の環境、特に子ども向けにつくられた読み物やアニメなどが決定的な影響を及ぼしているのではないかと述べる。そうしたものを通して、子どもには人を判断する際のカテゴリーが形成され、それが社会心理学者デヴァインの言うところの「文化的ステレオタイプ」の一部を構成する、という仮説である。管見では、今のところ、この仮説に直接アプローチする研究はないようである。ごくごく素朴に、幼稚園から小学生くらいにかけての日本の子どもたちに、上に挙げたような質問をするとどのような解答が返ってくるか確認するだけでもおもしろいかもしれない。


 さて、こうした役割語はどのように形成されたのか?現代の日本における通常の会話には見られないのに、フィクションの世界には豊かに存在するのはなぜか?この点については、金水(2003)が歴史的な跡付けを試みており、おもしろい。


 たとえば博士語の特徴である「~じゃ」「知らん」「知っとる」といった形式は、現代の西日本方言の特徴と似ている。このことから、金水は江戸時代における上方方言と江戸方言の対立に、博士語の起源を見ている。かつての江戸は、さまざまな地域から住人が流入した方言雑居地域であった。1760年代以降、東国の言葉をベースにした江戸語が若い町人階層に形成されたが、それにともない、上方から移り住んだ移民第一世代の言葉が武家の言葉、あるいは年寄りの言葉として標識化された。つまり、方言間の差異が、階層間の差異へとスライドしたわけである。 


 また、てよだわ言葉は、現代ではお蝶夫人のようなお嬢様を指標するのに用いられるが、もとは下町の階層の低い女性の使う言葉だった。これが若い女性の間での話し言葉となったのは、明治期以降、女学校が普及したためである。


近年女学の勃興するに従ひ比較的下流社会の子女が極めて多数に各女学校に入学するに至りしより所謂お店の娘小児が用ゆる言語が女学生間に用ひらるゝに至れること左に掲ぐる例の如し

○なくなつちやつた○おーやーだ○行つてゝよ○見てゝよ○行くことよ○よくッてよ

(1905(明治38)年3月16日『讀賣新聞』 金水(2003) p.149)


 博士語にせよ、てよだわ言葉にせよ、これらは当時においては実際に話されていたものであった。実際に話されていたからこそ、小説などフィクションの世界に入り込めたのである。ところが後に、現実における使用は消滅した。一方でフィクションには根強く残った。これが、役割語がフィクションにしか見られない理由として考えられることである。


 では、現代の日常会話で役割語的な言語運用がなされないかというとそうでもない。たとえば、職業カテゴリーと結びついた役割語であれば、普段耳にしているものも多いのではないか。思いつくのは、「~でよろしかったですか」「~円からのお返しとなります」など、いわゆる「ファミコン言葉」は、ぼんやりとではあるが、ある人物像と結びついていないだろうか。


 現代の日本語運用において役割語的なものが見られるのかどうか、それはどのような役割と結びついているのか、いったいどのような場面で使用されるのか、こうした社会言語学的な観点から役割語という問題にアプローチしていくのもおもしろいだろう。


 あるいは、バフチンのいう「メタ言語学」とのからみで考えていくと、もう少し深みのある問いを出していくことができるかもしれない。心理学的にもおもしろい題材となるだろうと思う。

034-「僕たち語り」と「おとな陰謀史観」の甘い関係

堀井憲一郎 2006 若者殺しの時代 講談社

 堀井憲一郎『若者殺しの時代』(講談社新書)を、通勤電車の中で読んだ。

 かつてテレビで見た堀井憲一郎は、素朴な疑問に独自に調査したデータを用いて検証するというスタイルを売りにする、ユニークなコラムニストであった。今でもそのようだ。そのユニークさは本書でもちらりと見ることができる。

 本書にはいくつかデータが登場するが、著者「らしい」ものを挙げれば、こんなところがおもしろかった。

  • 女性誌・男性誌クリスマス記事の変遷
    • 1970年アンアン「2人だけのクリスマス」
    • 1983年アンアン「クリスマス特集 今夜こそ彼の心(ハート)をつかまえる!」
    • 1987年ポパイ「クリスマス、今年こそ決めてやる」
  • 月9トレンディドラマでの携帯電話使用場面の変遷
    • 最初に使った俳優→石田純一:1989年1月『君の瞳に恋してる!』(ただし自動車電話)
    • 携帯電話同士による最初の通話場面→1995年『いつかまた逢える』
    • 最初の折りたたみ式ケータイ使用→中山美穂:1996年『おいしい関係』
  • 週刊文春ミステリーベスト10国内部門に入った本の”重量”の変遷(ページ数ではなく、”重さ”というのが、いい)
    • 1983年6冊平均404.0g
    • 2000年10冊平均522.9g

 いずれも、当時の雑誌や録画してあるビデオをかたっぱしからすべて見た(あるいはバイトに見てもらった)り、あるいは本を実際に秤に乗せたりして調べたもの、だそうだ。調査内容はばからしいが、きちんとやろうとしたら、案外こういう調査は難しい。

 こういったサブカル関連の調査をする際、ソースが雑誌や本であれば、国立国会図書館に行くことでなんとか調べがつく。しかし、テレビ・ラジオを媒体とするコンテンツについては、いったん放送されたものをソースとすることが難しい。そういうとき、ビデオに録画したものをきちんと残しておいてくれている人がいると大変助かる。著者はどうも月9ドラマを4作目からすべて保存してあるようで、そういうマニア的な努力は大事だと思う。最近では、Youtubeやニコ動など動画共有サイトに、えらく昔のテレビ番組が投稿されていることがあり、あるところにはあるんだなと嘆息する。

 さて、本書のタイトルはえらく物騒である。その含む主張は以下のようにまとめられる。1980年代のある頃から、未熟な大人を「若者」としてカテゴライズした上で、かれらの生活をえらく金のかかるものに仕立て上げ、スーツを着た「おとな」がかれらから金を巻き上げることを通して日本経済が動いてきた。その過程を通して、「若者」と呼ばれる人たちは、便利な生活は送れるが何の目標も持てず、かといって何もせずにいると「おとな」から怒られるという状態に追い込まれた。

 言っていることはどこかで聞いたことのあるようなものであり、新鮮味はない。また、著者の経験とその周囲に起きた出来事を具体的な例として話が進んでいくので、日本社会全体についての主張としては説得力はまるでない。

 それでも本書をおもしろいなと思うのは、ひとつは先程述べたように、一次データを自分で集めるという姿勢。もうひとつは、「僕」や「僕たち」という一人称的な語り方と、「おとな」批判という内容とがぴったりと結びついていること。著者自身があとがきでふりかえるように、これは一つの「書き方」である。おそらく、自らの置かれた状況を作り出したなんらかの外的な力を対象化した瞬間に、「僕たち」というどことなく弱さのともなった共同体的な人称が妥当性を持ったのではあるまいか。

「おとな」なるものは具体的な者でも物でない。「おとな」的な側面を内面化し、表現する者はいる。同様に、「若者」的、さらに言うなら「こども」的な側面を表現する者もいる。ある種の社会学の伝統に従うなら、こども、若者、おとなは、いずれも特定の社会的場面で妥当性を持つカテゴリーにすぎない。

 きちんと書く準備はないが、たとえば「”僕たち”という人称を用いた、おとな陰謀史観」とでも名付けられるような語り口があるのかもしれない。この語り口は、「おとな」という圧倒的な力を持つ存在の陰謀により、「僕たち」が迫害を受け、現在ひどい暮らしをしている、というストーリー構造をもつものと考えられる、かもしれない。ここでの「僕たち」とは、少なくとも本書の文脈では、「若者」の代名詞と考えてよい。

 要は、世代間の対立をある種の語り口によって構成されているものとして見ることができる、ということである。さらにおもしろいのは、そういう見方自体が、とっても80年代的なもののように思われることだ。本書の場合、本文とあとがきとの関係が80年代的である。つまり、本文の方で「おとな」対「僕たち」の対立を例証しておいて、あとがきで「でもそれは語り口だからね」とひっくり返す。この「なーんちゃって」的態度がぼくには80年代的に見える。

「なーんちゃって」以後に「若者」あるいは「おとな」になった人たちは、これでは途方に暮れるしかない。ひっくり返ったちゃぶ台は誰が片付けるのか。いまだに「なーんちゃって」でしか語れない著者でないことは確かだ。

033-タテとヨコから遊びを見る

ロジェ・カイヨワ 多田道太郎・塚崎幹夫(訳) 1990 遊びと人間 講談社

 私たちは、遊びについて何か知っているような気がしている。しかし、その「知っている」の中身について述べることはなかなか容易ではない。

 たとえば、遊びは子どもの日常生活に結び付いているような気がするものの、大人だって立派に遊んでいる。また、遊びの対極には真面目があるような気がするものの、遊びに没入するさまは真面目と呼びたくなる。

 かようにとらえどころのない対象を論じる際には、まず常套手段として、対象の範囲を確定することから始めることが多い。要は、定義である。

 カイヨワも遊びを定義することから始めた。彼によれば、遊びとは次の6つの側面をもつ。(1)自由な活動であること、(2)時空間的に明瞭な境界をもつこと、(3)先が読めないこと、(4)生産的ではないこと、(5)規則があること、(6)虚構であること。世に遊びと呼ばれる活動はこれら6項目において現実にあるその他の活動と区別される、と彼は言う。遊びとは、現実の世界から「隔離された活動」(p.89)なのである。

 定義によって他の活動から区別された遊びは、分類作業に移される。カイヨワは、ここでかの有名な4類型、すなわちアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)を、そしてそれぞれに共通するタテの軸として、パイディア(遊戯)とルドゥス(競技)を設定した。パイディアとは奔放な気散じ、ルドゥスとは我慢を要する規律正しさを、それぞれ概念化する言葉である。カイヨワによって提起された分類にしたがって整理すると、以下の表のようになる(p.81の表1を改変)。

         アゴン       アレア      ミミクリ     イリンクス
パイディア  取っ組み合い   じゃんけん   ごっこ遊び   ぐるぐる舞い


ルドゥス   スポーツ競技      くじ       演劇      スキー

 さて、問題はこの分類表の使い方なのである。

 ひとつには、現実に起こった遊びがこの分類表のどこに当てはまるのか検討することが考えられる。たとえば、ベーゴマはアゴンとアレアの中間でルドゥス寄り、シンナー遊びはパイディア寄りのイリンクス、といったように。

 この使い方は、現状の整理にはたいへん役に立つ。言ってみれば、遊びの現在を水平的に横断する視点を提供する。

 もうひとつ、この表は何かの変化を説明するモデルの下地にも使える。どういう現象がそれに当てはまるのかはともかくとして、たとえば、イリンクスからミミクリへ、そしてアレアからアゴンへという発展のプロセスをたどる何かがある、といったように。

 この使い方は、言ってみれば、遊びの歴史を垂直的に縦断する。

 カイヨワは、横断と縦断を同時におこなおうとしたわけだ。文化史を遊びから読み解き直した偉大な先人ヨハン・ホイジンガを受け継ぐにあたり、この表をもってその任に当たろうとしたのである。

 横だけを見てもいけない。それだと、ある時代に何が遊びであり、何が遊びでないのかは分かるかもしれないが、その境目にはたらく動きが分からない。また、縦だけを見てもいけない。それだと、かつて大人が大真面目に執り行っていた社会的活動と、現在の子どもの遊びとの形式的類似を比較することはできるが、似たものがなぜ現代において残存しているのかを説明できない。これについてカイヨワはこういうことを書いている。

「遊びの縦の歴史、すなわち、幾時代にもまたがる遊びの形態変化-典礼が輪舞に終わる運命、魔術の道具や崇拝の対象物が玩具になる運命-は、これらの細々とつながってきた血縁関係を発見した碩学たちが予想したほどには遊びの本質について教えるところはなかったということだ」(p.118)。

 よく似た形態をもつ現実的活動と遊びとは、同時代に併存しうる。カイヨワによれば、「まじめな活動の〔機能の〕退化によって子供の遊びが生まれたのではなく、むしろ二つの違った分野の活動が同時的に存在するということではないか」(p.116)。

 この、同時代的な併存のありようと、歴史的な発展の軌跡とを、同時にながめるパースペクティブが必要なのだと、カイヨワは言っているようだ。

 さきの4分類にしたがえば、確かに現代の私たちの生活にはいずれにも該当する活動は存在する。しかし、それぞれのもつ社会的な機能が、時間を追って変化してきた、カイヨワはこのように言う。「いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリとの組合せの優位をすこしずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことであると言ってもよかろう」(p.166)。

 このようにしてカイヨワは、人間の精神史を突き動かしてきた動力を、遊びとして湧出したものの形式の中に見出そうとする。現実的活動と遊び活動とを共通して生み出す力を問おうとするわけだ。そうすることによって、おそらく究極的には、ある文化でのどの遊びを見れば、その文化での現実的活動の本質が分かるのか、という問いを提出し、それに答えようとしたのだろう。

 蛇足だが、本書に収められた補論に、心理学における遊び研究の検討がある。そこではピアジェの研究にも触れられており、遊びにおける子どもたちの約束が、後の道徳の形成に重要な役割を果たすという彼の指摘に賛意を示している。

 しかしカイヨワは、ピアジェが遊びにあるアレア(運)の側面をすっぱりと切り捨てた(というよりも、はじめから見ていなかった)ことに不満を述べる。たとえば、ある種の歌遊びでは、鬼役の割り当てと交替が不可欠の要素であるが、状況に応じて「たまたま」鬼役になるから参加者はそれを引き受けるのだろう。これがもしも、男が鬼の役、女が逃げる役といったように、遊びの外にある現実的属性と結びついた必然的役回りであったとしたら、まったく楽しくないのではないか。あくまでも、遊びの範囲内において、予測のつかない出来事として現れるから、さらに、そのうち誰かと鬼を交替するという期待があるからこそ鬼役は引き受けられるのだろう。

 この、規則の枠内における偶然の要素をカイヨワは無視せずに概念化したことは、なにかとても大切なことだったように思う。

032-第三の性

橋本秀雄 2000 性のグラデーション:半陰陽児を語る 青弓社
橋本秀雄 2004 男でも女でもない性・完全版:インターセックス(半陰陽)を生きる 青弓社
大谷幸三 1984/95 ヒジュラに会う:知られざるインド・半陰陽の社会 筑摩書房
石川武志 1995 ヒジュラ:インド第三の性 青弓社
セレナ・ナンダ 蔦森樹 カマル・シン(訳) 1999 ヒジュラ:男でも女でもなく 青土社

 萩尾望都の名作『11人いる!』には、フロルという名の(地球人から見れば)異星人が登場する。その故郷の星では、人は皆生まれたときには男でも女でもない姿だという。外性器が未分化な状態で生まれ、二次性徴期に単性へ変化する。ただし、男女の人口比を一定に保つため、長子以外が二次性徴期に入ると女性ホルモンが注射され、強制的に女性化されるのだという。フロルはホルモンをうたれる前の姿なのだった。

 ぼくたち地球人の場合、性腺および内性器、外性器の分化は胎内にいるあいだに起こってしまう。これが出生時から見ることのできる一次性徴で、二次性徴はその延長線上にある。フロルのような、性に関するモラトリアムは、地球人には用意されていない。

 だからなのか、性別をみずから選ぶこと、選ぼうとすることに対して、ぼくたち地球人の見る目はなぜか厳しい。逆に、性を選んだ人も、それに手を貸した人も、そのことを隠そうとする。

 ところで、ここで言う性とは何なのか。

 フェミニズムの議論を一通り通過してきたぼくたちにとって、性概念とは、セックス、セクシュアリティ、そしてジェンダーといった側面に分けられ、それらが複雑にからみあってできているものだ。そう信じていても、信じていなくても、人間にはオスとメスしかありえず、オスはメス、メスはオスを求め、オスにはオス特有の、メスにはメス特有の性質が生得的に備わっている、という主張を単純に認めるわけにはいかない。いずれにも反例が見つかるからだ。同性愛指向はセクシュアリティの側面における、メスの気質を持つオスはジェンダーの側面における、それぞれ反例だ。では、人間にはオスとメスしかない、という主張には?

 半陰陽と呼ばれる人たちがいる。胎内で性腺が分化する際に、ちょっとしたタイミングや成長の加減によって、外性器形態からは男女の区別がつきにくくなった人を言う。ギリシャではヘルマフロディトスという神がその姿に描かれ、日本ではふたなりと呼ばれた。外見や性腺検査の結果では、オスメス両方の特徴を持つ、あるいは持たない。オスメスとは互いに互いの成り成りての部分を持たないことによって定義されるのだとしたら、半陰陽と呼ばれる人たちはその定義から漏れることとなる。このことが、先の、人間にはオスとメスしかいないという主張の反例となる。

 インドには、ヒジュラと呼ばれる人たちが、少なくとも1980年代には4、50万人ほどいた。ヒジュラとは半陰陽の謂いである。真性半陰陽として生まれた人も中にはいるが、多くない。ほとんどは男性器を持って生まれ、二次性徴期にみずからがヒジュラであることに気づき、ヒジュラコミュニティに入る。ヒジュラとして生きていく決心がついた後に、去勢手術を受ける。

 ヒジュラは女性の着る服をまとい、結婚式や新生児誕生の祝いをして歩く。そうした門付け芸のほか、喜捨も重要な収入源であるが、都市部では売春をして糊口をしのぐ者もいる。ヒンドゥー社会の悪名高きカースト制の内からもはじき出されたこの社会集団は、その分、非日常の文化的空間にしっかりと根を張り、貪欲にそこを利用しまくっている。呪いなどなんらかの超常の力とヒジュラとが結びつけられるのもそのためだ。

 日本にも、女の子になりたい男の子だって、男の子になりたい女の子だって、いる。実際に外性器整形に踏み切る人も、いる。そうした人たちを、オカマとかオナベとかニューハーフとかトランスセックスとか言うわけだが、ではヒジュラも同じようなものなのか。

 どうやら、ちょっと違うようだ。オカマやオナベは、オカマやオナベになりたいのではなく、女や男になりたいのである。いや、あろう。しかしヒジュラは、女になりたいのではなく、ヒジュラになりたいのだ。あるいは、そもそも彼/女らは生まれつきヒジュラだったのだ。

「…もちろん、最初は戸惑ったけど、私がヒジュラであることはまぎれもない事実。この運命を素直に受け入れることにしたのです」(石川、1995、p.56)

「私は生まれたときからヒジュラです。ヒジュラになったんじゃない。もっともっとヒジュラになりたい。だから去勢したんです」(大谷、1984/95、p.119)

 ここが、男/女二分法的カテゴリーしか持たないところと、男/女を超えたカテゴリーを持つところとの違いである。前者において、オスとして生まれ、男として育ちながらも、性指向が男性であるなら、自己を男と規定できない以上、女になるしかない。なにしろ分類枠は2つしかない。ところが後者においては、性指向が男性であっても、女になる必要はない。オルタナティヴは複数用意されているのである。ここが面白いところだ。

 ただし、ヒジュラが「男/女を超えたカテゴリー」だとしたとき、また不思議な問題が出てくる。オスメスの対立軸を超えているジェンダーアイデンティティには、メスも接近可能であるはずだ。しかしヒジュラになるのはオスが大半なのである。これでは、男女を超えたカテゴリー、と言うよりも、男だけが特権的にトランス可能なジェンダー、と言った方が適切ではないか。インドでは女性は性を変えることすらままならないほど抑圧されているのだろうか?

 また、ヒジュラはほとんどが女性の着るような服を着ている。ヒジュラ専用の服装というのが、とりあえず現代では、存在しないのだ。また、言語的に見ると、女性特有の言葉づかいを採用しているらしい。したがって、ヒジュラ自身が自分は女ではなくヒジュラになのだと言っていたとしても、それは結局のところ、表面的にはオスが女性の姿を取ることでしかない。

 なぜ、メスがヒジュラにならない、あるいはなれないのか。この問いを解かない限り、男女を超えた性としてヒジュラを捉えることはできない。この問いに答える手がかりは、ヒジュラについて日本語で書かれたたった3つの文献に不思議とまったく出てこない女性の姿を、インドの現実の世界に追うしかないのだろう。

031-教育の「場」を論じる

柳治男 2005 〈学級〉の歴史学:自明視された空間を疑う 講談社

 『8時だヨ!全員集合』を生で見た最後の世代に当たる。親が見せてくれなかったので、祖父の部屋のテレビで見ていた覚えがある。荒井注はすでに抜けていて、ぼくが見たときにはすでに子どもの人気は加藤茶ではなく志村けんに移っていた。腹がよじれる、おかしくて息ができない、という経験はあの番組を見ていたときが最初で最後ではなかったか。それくらいおかしかった。

 番組前半のコントのうち、好きだったのは「幽霊屋敷もの」であった。家のあちこちから現れる幽霊に志村だけが遭遇し、ほかのメンバーからオオカミ少年扱いされるというものだった。会場(全員集合は公開生放送だった)に来ている観客から、「志村、うしろー!」と声が上がるのは、こういうコントのときだった。志村が歩いているうしろに幽霊がついて回っているのである。彼の、振り返った表情、逃げまどうときの格好、そのタイミング、いずれも絶妙で、もう本当に涙が出るほど笑った。

 ドリフのコントと言うと、しかし、どうも一般には「学校コント」の受けがいいようだ。いかりや先生に、メンバー4人が生徒、ゲストの女性歌手が女生徒という設定のものである。なぜか男がみな長袖半ズボンの小学生風なのに、女生徒はセーラー服だった。かつて紅白にドリフ揃って出演したときも、確か学校コントを披露したように記憶している(記憶があいまいなので、違っていたらご指摘ください)。

 ドリフの学校コントは、学校というフォーマットを一種のパロディとしたものと考えることができる。たとえば、いかりや先生が問いを発し、女生徒がまじめに正答する。これは前振りであり、次に指されたメンバーがお馬鹿な回答をするのが学校コントの基本的なプロットである。質問-回答とは、学校に特有のコミュニケーション・フォーマットであるが、コントではまさにそこが抽出され、利用されているのである。

 コントには、すべての視聴者がイメージとして持つ、典型的な学校の姿が反映されているのだろう。だからこそ視聴者が見て笑うのだし、そのことがひいては学校コントの人気の高さにつながっていくのだろう。質問-回答フォーマットはそうしたイメージのひとつである。

 しかしもっと視点をひけば、コントの舞台そのものが、学校というものに対して現代の日本にいるわれわれの抱くイメージを具現化している。舞台下手に黒板を背にして先生が立ち(これはテレビで教室を映す際の基本的なアングルなのである)、机を前にして生徒が全員同じ向きにいすに座る。教室内にいる全員が同じ進度で授業を受け、時間が来たら一斉に始まり、そして終える。そこは壁と廊下で区切られたひとつの部屋であり、教師と生徒がともに半日間の生活を送る。ドリフの学校コントはいずれをも備えており、われわれはそこに学校のイメージを見て安心するのである。これが理科室や体育館では学校コントにならない。あの教室の形、そして教室内の社会・制度的な陣形が、学校コントには必要なのだ。

 誰もが知っていて、コントでパロディ化される、学校の社会・制度的基盤たる「学級」は、どのようにして「誰もが知っている」状態になったのか。学級が自然の造形ではない以上、誰も知らなかった時代もあったはずであるし、それを作った誰かもいるはずである。本書は(ソデの紹介によれば)教育社会学を専門とする研究者による、学級が成立するまでの過程を追った文献渉猟の結果である。

 時代は19世紀にさかのぼる。イギリスはロンドンの貧民街に、ジョセフ・ランカスターなる青年が作った学校にはひとつの特色があった。それまでの学校では、大きな部屋に学校中の子どもたちを一堂に集め、一人の教師が彼ら全員を教えるというのが通例であった。ところがランカスターは、教師と生徒の間に「モニター」と呼ばれる役割を置いたのである。生徒に対する直接指導は複数のモニターが行い、教師は彼らを指導した。モニターを任されたのは、子どもたちの中でも年長の、すでに教科内容を習得した者であった。

 当時の教科内容は、いわゆる「3R」、すなわち「読み書きそろばん(Reading, wRiting, aRithmetic)」に限られていた。これらはさらに、単位の大きさや規則の包含関係にしたがって学ぶ順序が定められた。たとえば読み書きならば、文字に始まり、短い単語から長い単語へ、そして文章へと至るステップがあらかじめ設定された。計算でいえば、足し算、引き算、掛け算、割り算、そして三角法といった具合である。

 ランカスターの学校では、こうしたステップは、モニターと生徒とを組み合わせるためのリソースとなった。まず、生徒がステップに応じて習熟度別に分けられた。入学したばかりの生徒は、はじめ足し算を学ぶよう割り当てられ、それをマスターしたら引き算の学習へと移る、といったふうである。あるステップの学習内容をマスターした生徒の中には、そのステップを担当するモニターとなる者がいた。モニター役を担ったのは生徒だったのである。

 この、習熟度ごとに分けられた生徒の集団と、彼らを指導するモニターという1セットが、こんにちわれわれの社会に普及した「学級」の始まりである。このあたりの事情は、教育史の分野では「ベル・ランカスター法」という教授システムの成立として語られる。なお日本では、習熟度別に生徒を編成するやり方は明治5(1872)年の「学制」において採用されている。

 本書のポイントと関連して重要なことは、子どもをある程度の人数のまとまりに分け、彼らに対してあらかじめ設定された均一の内容を提供するという教授法が、きわめて限定された教科(3R)の教授を目的として開発され、実施されたということである。そしてまた、経済的な効率性を追求した結果、そうした方法が選ばれたということも重要だ。

 なぜ重要なのか。その後のイギリスや日本で、学級編成方法のたどる変化を追うと、そのことが分かる。大きく2つの変化があった。第一に、習熟度別学級編成から年齢別編成へという変化、そして第二に、学校の教化対象が子どもの道徳的感情へと拡張されたという変化である。

 まず第一の変化について。われわれにとってはなじみ深い「学年」という概念がイギリスに登場したのは、1862年の改正教育令以降であった。ランカスターがモニター制度を提案してから60年近く経った頃である。この変化の背景には、学校が全国的に普及したこと、政府がそれに対して補助金を出したことがある。改正教育令では、補助金がまっとうに使われているかどうかを確認するため、全国の学校へ監督官が政府から派遣され、指導の効率が査察対象となった。

 ここから、全国の学校の経営効率を同じ基準で比較する必要性が生まれた。この必要性を満たすべく生まれたのが、まず教科内容を全国で統一すること、そして、一定の期間で生徒がその教科内容をマスターした程度を経営効率の指標とすることであった。教科内容は6段階に分けられ、それぞれの1年間の学習期間が設けられた(計6年間の就学期間があったことになる)。それまでは、生徒がより高度な学習内容に移るのは、それをマスターしたときであった。ところが、改正教育令の結果、マスターしようがしまいが、移動の機会は同一時期に定められたのである。本書はここに学年制の誕生を見た。

 第二の変化は、学級が生徒に対する道徳的訓練の場となったことである。実はこれは第一の変化とも関連している。習熟度別学級編成の場合、教師と生徒の関係は目的的、一次的なものである。生徒が教師の担当する教科内容をすべて学んでしまえば、次の学級へと移ることとなり、それきり彼らの関係は切れる。ところが1年間という短くもない期間を強制的に過ごすこととなると、話は違ってくる。集団を維持するには、それを支えるだけの別の目的が必要となる。本書はこれを、教師と生徒とのあいだの「司牧」的関係の成立に見た。

 司牧とはキリスト教で言うところの、迷える羊としての信者を宗教指導者が導くことを指す。つまり、教師は原罪説に基づき、放っておけば悪人になってしまう子どもを救済する他愛的な感情を持ち、3R以外の生活にも介入を始める。同時に生徒も、教師の下で自分を律する。こうした関係は、授業時間だけでなく寄宿舎への入寮を通して朝から晩まで教師と生徒がひとつところで生活するパブリック・スクールを想像すると分かりやすい。

 かつての学級は、社会生活を送る上で基礎となるスキルを習得させるため、経済的事情を鑑みた場合の最適解として誕生した。ランカスターの学校は、いかに安い授業料で、多くの子どもに適切な指導を行うか、こうした問いに対する解答だったのである。

 ところがこの解答は、いずれ問いに変質する。つまり、いかにして学級を維持するのか、という問いである。学校を維持するには、政府から突きつけられた、生徒の成績向上という要求をクリアし、補助金を獲得しなければならない。こうして学年別編成という解答が生まれる。また、無関係な人間同士、1年間もの長きにわたり顔をつきあわせるためには、感情の統制という仕組みが必要となる。

 著者が一番に言いたい点は、おそらくここだろう。何を教えるべきかという問いと、どこで誰がどうやって教えるべきかという問いは、かつては不可分なセットだったのだ。ところが現代の教育政策は、前者のみを扱い、後者を背景に置いてしまった。だから、教科内容を減らす減らさないが議論の対象となっても、学級それ自体に手をつけることはなかなかなされない。ドリフの学校コントは、教室ではなく、教科内容をパロディの対象とした。このことの意味は小さくないと思われる。

 もちろん、学習内容に応じて子どもを組織しようとする動きはある。私立校や塾ならば、習熟度別学級編成や少人数制は現在でも実現しているし、公教育でも少人数学級や複数担任制、飛び級制度、小学校での教科担当制など、テストケースを終えて全国的な実施に向けた動きも聞く。しかし、何を教えるべきかという問いと、どこで誰がどうやって教えるべきかという問いとを、つながったものとして行おうとする議論はなかなかできないでいる。

 歴史が提起するのは、具体的な解決方法ではない。議論の仕方なのである。

030-ロシア・フォルマリズム概観

ミシェル・オクチュリエ 桑野隆・赤塚若樹(訳) 1996 ロシア・フォルマリズム 白水社

 簡単な書評、というか本を読んで起こった雑感を書きつけ始めてようやく30回目となった。松岡正剛のように千回とは言わないまでも、もう少し続けていくつもりである。

 これまでは雑感をあっさりと片づけることが多かったが、せっかくの区切り(まだ30回だけど)なのだし、今回はもう少しねっとりといく。と言っても知らないことについてはねっとりと書けない。なので、今の自分が強く関心をもっていることについて書いてみたい。

 こんにちの心理学界にも多大な影響を与えつづけている発達心理学者、レフ・ヴィゴツキーに関心があって彼の身辺をずっと調べてきた。

 彼の心理学者としてのキャリアのはじまりは意外に遅く、28歳のときであった。しかし、歴史家アレクサンドル・エトキントは、それ以前のキャリアや社会的交流について詳細に検討し、その期間にあった出来事が彼の思想形成に与えた影響について述べている(エトキント、1997)。また、van der VeerとValsiner(1991)は、ヴィゴツキーの思想形成のプロセスを検討する上で、24年以前から準備されていた著作『ハムレット』と『芸術心理学』が重要だとしている。

 これらの研究からかいま見えるのは、文芸や演劇に対するヴィゴツキーの妥協を許さないまなざしである。その矛先は、当時の芸術や批評の潮流にも向けられていた。やり玉に挙げられたのはポテブニャらの象徴主義、そしてシクロフスキイらの形式主義、つまりはフォルマリズムである。したがって、フォルマリズムという運動を見ておくことは、ヴィゴツキーがいったい彼らの何に反対して、何に同意していたのか、そして自己の思想をどのように発展させたのかを知る上で必要なことなのだ。

 しかしわたしはロシア文学史の専門家でもないし、ロシア語すら読めない。いくつかの単語を知っているのみである。いきおい、入門書からはじめることとなる。そこで、本書だ。

 訳者たちの解説によれば、著者のミシェル・オクチュリエ(Michel Aucouturier)は、パリ第一大学の教授で、20世紀ロシア文学を主に研究している。論文には、パステルナークやゴーリキイを取り上げたものがある。
 
 フォルマリズムとは何か?1910年代に興り、詩の評価の仕方を根底から変え、スターリン体制下で粛清を受けた文芸運動。のちの構造主義や情報理論を準備した文芸運動。この運動を一望のもとに置くことはきわめて難しい作業だが、オクチュリエの筆によるこの一冊はそれを成し遂げている。

 目次を見てみよう。「『詩的言語』」(第1章)にはじまり、「『手法』と散文の理論」(第2章)で初期フォルマリズムの基本的な概念をおさえたのち、「詩と『構成』という概念」(第3章)、「『異化』と文学史」(第4章)では、エイヘンバウムやトゥイニャーノフといった、後期フォルマリズムの展開を担った論者の概念がまとめられている。続く、「フォルマリズム批判」(第5章)、「詩学と社会学」(第6章)では、フォルマリストを取り巻いていた社会的状況と、それに対するフォルマリズム内部からの応答が描かれ、「フォルマリズムの死と再生」(第7章)ではフォルマリズムの嫡子たるプラーグ派言語学とタルトゥ学派に触れられている。

 このように本書はきわめてバランス良くまとめられている。以下、オクチュリエの文章に基づき、邦訳のある文献をひきながら、わたしなりにこの文芸運動を追ってみたい。なお、以下引用は断りのない限りオクチュリエの本書からのものである。

1. 誕生、死、再生

 1913年12月のことである。サンクトペテルブルグにあった「野良犬」という酒場でひとりの青年が観衆に向かって講演を行った。のちに『言葉の復活』というタイトルの小冊子となったこの講演の語り手はヴィクトル・シクロフスキイ、当時サンクトペテルブルグ大学に在籍していた青年であった。

 彼がこの講演で言いたかったことはただひとつ、「言語芸術が採るべき方向性は、慣習から脱し、原初のみずみずしい感覚を再生することだ」ということである。

 再生とは?新しい言語表現が生まれたとき、読み手や聞き手には鮮烈な感覚が起こったはずだ。ところがその表現が何度も繰り返され、紋切り型の言い方となった後では、もはや読み手や聞き手を感動させることはできない。言葉は単なる記号となり、その理解は単なる再認となる。しかし、芸術家の役割が、感動を引き起こすことであるとするなら、詩人は新しい表現と出会ったときの新鮮な感覚を常に作り出し続けなければならない。これがシクロフスキイの主張である。

 この方向性は、畢竟、芸術家を「言葉それ自体」へと向かわせる。シクロフスキイがこの方向性に踏み込んだ人びととして賞賛したのは「未来派(フトゥリズム)」の詩人、クルチョーヌイフやフレーブニコフといった人びとであった。彼らはすでに、誰も聞いたことのない、したがって誰にも言葉の意味が理解できない、「ザーウミ」と呼ばれる言語で書かれた詩を書いていた。それは言葉の音の響きそれ自体から何らかの感覚を引き起こすことが目指されていた。「言葉それ自体」とは未来派詩人の掲げた標語でもある。

「野良犬」での講演の3年後、サンクトペテルブルグのナジェージジンスカヤ通り33番地にある印刷所に「詩的言語研究会」というサークルが生まれた。メンバーにはシクロフスキイのほか、レフ・ヤクビンスキイ、ヴィクトル・ジルムンスキイ、ボリス・エイヘンバウム、エヴゲーニイ・ポリヴァノフがいた(『オポヤズについて』、p.319)。このサークル、略称を「オポヤズ」といった。Obshvhestvo izuchenia POeticheskogo IAZykaの略である。

 おもしろいことに、歴史の共振性はこのときも遺憾なく発揮されたらしく、モスクワではこの頃、ローマン・ヤコブソンを中心とした言語学者によってモスクワ言語学サークルが結成された。正確には1915年のことである。

 詩の言語を研究の対象とした彼らは、メンバーのオシップ・ブリークの奇妙な仲介があって、次第にサンクトペテルブルグのオポヤズと交流を重ねるようになった。その後、1920年代に入って、これら2つのグループは手を携えながら挑発的な主張を世に発し続けていくこととなる。

 あまりにもラディカルであったために、彼らには当初から批判の矢が向けられた。論点のすれ違いはあったにせよ、しごく穏健で、建設的な議論も、もちろんなされた。たとえばあのトロツキイやルチャルスキイといった人びとによるものである。しかしそれは十月革命直後の頃だけであり、全体主義的な政治体制が完成するにしたがい、議論する機会すら失われ、「意見」ではなく「主張者」そのものが迫害を受けるようになった。しだいに「フォルマリズム」とは反体制的な文芸理論すべてに貼られるレッテルとなった。のち、シクロフスキイ自身『科学的誤謬の記念碑』(1930)と題する自己批判を書くこととなる。そこに記された「上部構造云々」という表現は、本筋の議論の添え物として付け足された感があるとはいえ、なにか痛々しい。

 しかし、スターリン政権下のソヴィエト国内ではこのようにして抑圧されたフォルマリズムであったが、1926年に創設されたプラハ言語学サークル(特に、ヤコブソンやヤン・ムカジョフスキー)によって保存され、発展する。さらに、1953年のスターリンの死去にともなって再評価の気運が高まり、タルトゥ大学のユーリ・ロトマンによって形を変えながらも受け継がれていった。

 以上が、ロシア文化史における、フォルマリズムと呼ばれる芸術運動のごくおおざっぱなスケッチである。次にこの運動をその内側から見ていこう。まず、彼らの芸術に対する態度を明らかにするために、2つの詩の潮流に対する評価を比較しよう。それは、象徴主義と未来派の詩である。その後で、フォルマリストによる理論を具体的に見ていくことにする。

2. 象徴主義批判

 フォルマリズムは既存の芸術理論に真っ向から反対するところから議論を始めた。当時の主要な潮流とは象徴主義である。一般に、19世紀末から20世紀初めにかけて興った「象徴主義」とは、エドガー・アラン・ポーに感化されたフランスのシャルル・ボードレールに始まり、ヴェルレーヌ、ランボー、そしてステファヌ・マラルメへと続き、その後全ヨーロッパに広まった文学運動を指す。ロシアにおいてこの運動に反応したのが、アレクサンドル・ブロークだった。ブロークの詩を評価したワレリー・ブリューソフは雑誌「天秤座」の主幹を務め、ロシア国内においても象徴主義を主流とする役割を果たした。

 こうした状況にあって、何か新しいことをしでかそうとする者、あるいは自分の芸術観を屹立させようとする者にとっては、「天秤座」の詩人たちは絶好の試金石だったのである。たとえば詩人オシップ・マンデリシタームはベールイを評し、「自分の直感的な目的のために言葉を仮借なく搾取してしまう」という罪を犯したと言う(マンデリシターム、1999、p.75)。本来言葉とは、声を出して話したり、手を動かして書いたりして、肉体をもつ人びとが歴史のなかで伝えてきたものである。このように言葉には具体的な来歴があるはずであるのに、象徴主義者をそれをまったく無視し、言葉を単に別のある語をほのめかすだけの道具としてしか捉えない。たとえば「薔薇」という言葉は、「娘の美しさ」を暗示するだけの道具でしかない。

 このような考え方が蔓延したのは、意識が第一義的なものであり、表象はそれに何らかの形を与える外的な付随物として捉えられていたからだとマンデリシタームは言う。しかし「表象は、意識の客観的な所与性としてだけではなく、肝臓や心臓とまったく同じ、人間の器官とみなすこともできる」(マンデリシターム、1999、p.90)。人間の肉体的な叫びに言葉の起源を見るこのアプローチは、アクメイズムと呼ばれる。

 マンデリシタームらのアクメイズムが強調するのは、「言葉そのものの実在性(リアリティ)」(マンデリシターム、1999、p.74)である。「最も適切で正確なのは、言葉を形象、つまり言語表象としてみることだ。音声が形式で、残りのすべては内容だというなら、この方法によって、形式と内容の問題は克服される。言葉の意義性とその響く本性のどちらが一次的なのかという問題もまた克服される。言語表象とは、諸現象の複雑な複合体、結びつき、『システム』なのだ」(p.89)。すると、「薔薇」という語を聞いて感じる美しさは、そこから喚起されるイメージ(薔薇そのもの、そこから連想される娘)の美しさであると同時に、言葉そのものの美しさでもある、ということになる。

 マンデリシタームの主張から浮かんできたのは、当時の若者が象徴主義を克服する道をどこに見ていたのかということである。それは、言葉が指し示すものではなく、また、言葉という道具によって起こる神秘的な出来事でもなく、言葉のかたちそのものに美の原因を見いだそうとする道であった。そして、初期のフォルマリズムはこの道を明確に掲げていたのである。

 シクロフスキイによるフォルマリズムのマニフェスト、『言葉の復活』(1914)は、象徴主義の理論家ポテブニャへの応答から始まる。ポテブニャによれば、芸術には内的形式と外的形式の2つが必要である。すなわち、観衆が感じるイメージと、作品を構成する音や文字である。シクロフスキイは、ポテブニャが前者を強調し、後者を軽んじたことを批判する。彼によればポテブニャの主張は、「芸術はイメージによる思考」(『手法としての芸術』、p.20)だとするものである。

 シクロフスキイはこれに対して、詩を他の言葉と区別するもの、すなわち芸術をそれ自体で芸術たらしめる基準を、外的な形式に求めた。しかしそれは単なる音や文字であってはならない。なぜなら、日常的にわたしたちが使う言葉は意思の疎通という目的に資することが期待される二次的なものである。シクロフスキイは「言葉それ自体」へと、生まれたばかりの生きてみずみずしい言葉へと戻り、それに初めて出会う際の感動、音声を出したり聞いたりするときの肉体的心地よさ(あるいは、居心地の悪さ)をこそ詩の本義としたのである。詩の言語は「特殊な領域で、そこでは唇の動きひとつ無視できない…筋肉の動きが快ければ舞踏の世界に即応するし、見て楽しければ一枚の絵画に相当するわけだ」(『オポヤズについて』、p.321)。

 生ける言葉。シクロフスキイがこの言葉で賞賛するのは未来主義の詩人たちであった。「今や、芸術家は、死せる言葉ではない生ける言葉と生ける形式を相手にしたいと思いはじめ、言葉に個性的な外貌を与えようとして、言葉を破壊し、歪めた。…新しい生ける言葉の誕生だ」(『言葉の復活』、pp.17-18)。

 象徴主義を擁護したポテブニャーのように、シクロフスキイやヤコブソンは未来派を擁護した。では、その未来派とは何だったのか。

3. 未来派擁護

 未来派とは、詩や絵画、演劇や映像といったさまざまな芸術運動を横断して、1900年代初頭のロシアに起こった芸術運動である。この運動を広い視野から簡潔にまとめている本の中で、桑野隆はロシア語で言う「ブイト」からの脱却が未来派の芸術家たちに共通する目標として重要だと指摘する(『夢みる権利』)。そもそも「ブイト(byt)」とは「慣習的な生活」のことであるが、未来派においては否定的な意味合いをもっている。すなわち「因循姑息」であり、「凝り固まり、伝統的で保守的な社会的骨組」(『夢みる権利』、p.18)を指す言葉であった。未来派とはそのような惰性的生活から抜け出し、新たな生を築き上げようとする芸術家たちの運動だったのである。

 未来派と呼ばれた詩人には、ベレミール・フレーブニコフやアレクサンドル・クルチョーヌイフ、ヴラディーミル・マヤコフスキイ、そしてダヴィド・ブリュークといった人びとがいた。(実際には未来派と呼ばれた芸術家にもいくつかのグループがあった。上に挙げたのは「立体未来派」と呼ばれた人びとである。2005年4月3日現在のhttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/7795/history/futurizm.htmlの記述に基づく。)

 ロシアにおける未来派運動に先立つこと数年前、1909年にイタリアではフィリッポ・マリネッティが「未来派宣言」を発表、物質主義文明と芸術との密接な関係を主張した。ヤコブソンは『最も新しいロシアの詩』において、イタリアとロシアそれぞれの未来派の主張を比較している。確かに両者の作った詩を並べれば、わけのわからなさでは表面的には類似している。しかしヤコブソンは両者に決定的な違いを見る。新たな表現内容(発明された機械であったり、それについての詩人の経験であったり)の出現が、新たな表現形式を要請するのだと、マリネッティは言う。一方ロシアの未来派は、新たな表現形式を作り出すことによって、新たな表現内容を生み出そうとしている。ヤコブソンはこのように対比させる。

 ヤコブソンの『最も新しいロシアの詩』は、フレーブニコフらの詩における「手法(プリョーム)」の優位を、数多くの手法の例を挙げて紹介する。そのなかで彼は、「表現への志向、ことばの集合そのものへの志向、私は、これを、詩にとって唯一の本質的な契機」(p.97)だと述べる。つまり、ロシア未来派にとっては、言ってみれば表現方法が詩の「主人公」だったのである。たとえばそれは民俗的な地口や子供のことば遊びに見られるような似た音の連鎖や頭韻・脚韻、あるいは新造語をしつこく反復することによって生まれる効果を意図的に利用している。

 これらは、語の内的形式による効果ではなく、外的形式による効果を期待しての詩である。その極北にあるのが、何のイメージも持たない、心理学的に言えば無意味語のような言葉、すなわち「ザーウミ」による詩作である。ヤコブソンによれば、ザーウミ(超言語)とは「ゼロの内部形式をもつ語」(『最も新しいロシアの詩』、p.184)である。強いてカナに表した例を挙げれば、「ボベオビ」「リエエエイ」「グジ・グジ・グジ」といった語句が、とりあえずは意味の分かる文に挟み込まれる。

 シクロフスキイが『言葉の復活』において賞賛していたのは、このように意味を持たない語から構成される詩を極北に持つ、言葉それ自体に志向する一連の詩と詩であった。

 何に反対したのか、何を擁護したのか、とりあえず確認することができた。続いて、フォルマリスト自身の理論の中身に入っていく。オクチュリエが目次に挙げていた、詩的言語、手法、構成といった言葉はいずれもフォルマリズムの主柱となる概念である。順に見ていこう。

4. 詩的言語

 オポヤズがその最初期に掲げたのが、日常言語(または、散文的言語)と詩的言語という対立する概念であった。ごく簡単に言えば、日常的に交わされる、意思の疎通という目的に資するだけの日常言語があるとして、そこから詩を区別する特有の文法、内的な論理、これが詩的言語である。そのような詩的言語は、日常言語は伝達内容に志向する一方、伝達手段に志向するものとされた。

 詩的言語における素材の優位、同時にそれが自律的な法則や価値を持つことについて、はじめて理論的主張を行ったのはヤクビンスキイであった。またシクロフスキイは、散文と詩の違いを、テクストを構成する法則の差異に帰した。ヤコブソンは詩を散文から区別する法則を取り出すことこそが芸術理論家のすべきことだと言った。「文芸学が対象とすべきは、文学ではない。文学性、つまり、ある作品を文学作品たらしめるもの、である」(『最も新しいロシアの詩』、p.21)。そのような法則を構成する外的形式の候補として、彼らが研究対象としたのは、音の役割、語彙や統語論、そして韻律的構造であった。

 しかし初期フォルマリズムに見られた論理を素直に追うと、詩は詩的言語で作られているがゆえに詩だ、という理屈になる。一見するとこの言明は論点の先取りのようである。実際、初期のオポヤズには散文と詩はまったく別物として扱うことが未検討の前提とされていたようである。しかし、オクチュリエの言うように(p.17)、あるテクストについて詩か散文かという判断を下す前に、素材を吟味することを通して、そこから詩かそうでないかを区別する手がかりを見いだすことが、本来必要な研究手続きであった。

 この点はフォルマリズム内部から修正がなされた。散文の言語と詩の言語が独立して併存するのではなく、言語という大きなシステムに、詩の「機能」とがある、という変更である。これはプラハ言語学サークルにおいて明確に打ち出された修正点であり、1929年に発表された『第1回スラヴィスト会議提出のテーゼ』第3条項が、「相異なる機能を果たす諸言語の研究に関する問題」として、言語機能の問題について触れていた。さらに、ヤコブソンは後に書いた論文『言語学と詩学』において、言語の6機能として整理したなかに、詩的機能を組み込む形で発展させた。6機能とは、以下の通りである。(1)メッセージの送り手の内面を志向する「情緒的機能」、(2)メッセージの受け手に志向する「動能的機能」(命令など)、(3)メッセージが交わされる状況そのものに志向する「指示的機能」(いわゆるindex)、(4)メッセージの交換そのものに志向する「交話的機能」(「今日はいい天気ですね」)、(5)メッセージを読み取るためのコードに志向する「メタ言語的機能」、そして(6)メッセージの媒体そのものに志向する「詩的機能」である。言葉においては常に6つの機能が階層上になってはたらいており、優位な機能は発話ごとに変わってくる。これならば散文と詩とがそもそも別種の言語だと言う必要がなくなると同時に、諸機能を果たすための言語的装置の抽出という研究パラダイムの実行も可能となるのだ。

 ひとまずまとめるならば、フォルマリズムの根幹となる主張は、文芸作品をその内容ではなく、テクストそのもののはたらきから評価することだったと言える。内容から形式へというこの転換は、20世紀文学理論、特に構造主義と呼ばれる批評の潮流に大きな影響を与えた。たとえばロラン・バルトであり、クリステヴァであり、さきごろ逝去したジャック・デリダといった人びとである(土田・神郡・伊藤、1996)。

5. 手法と構成

 従来、芸術作品の批評は、作品の書かれた時代背景や作者の経歴、あるいは作品主人公の行動や心情といったところを基にしてなされていた。作者に利用可能な資源や物語内容の筋立てが「動機」となって、なんらかの外的形式が創造されると考えられていたのである。しかしすでに見たように、フォルマリズムは従来型の考え方をひっくり返した。動機という概念で言うならば、「文学作品の分析とは、まず第一に、独創性をつくりだしている、ひとつないし複数の手法をあきらかにするこおであり、つぎに、そのような手法がどんなふうに取りいれられているのか、また作者がそれら手法を活用し、合理的に正当化し、『動機づける』ために利用するさまざまな事実、思想、あるいは感情という『素材』がどんなものなのかを示すことである」(p.30)。ある手法を使いたいがために、それに見合った「素材」が選ばれる。外的形式を二次的なものとする従来の文芸観からするとまったく正反対だということが分かるだろう。

 フォルマリストたちは「詩的言語」というカテゴリーから明らかなようにはじめは詩を研究の対象としていた。すでに見たように彼らの分析カテゴリーはそこから言語の詩的機能へと移行したのだが、それとともに詩以外のテクスト、たとえば小説のなかに見られる詩的機能の分析にも手を染め始めた。ここでは1919年に書かれた、エイヘンバウムによる「ゴーゴリの『外套』はいかにつくられているか」という論文から、「手法」「構成」という概念について見ていこう。

 エイヘンバウムはまず、ゴーゴリの作品が彼の「語り(スカース)」の力によって支えられていることを強調する。語りとは字義通り声を通した朗唱のことであるが、それに必然的に伴う、いかに発音するか、いかに間をとるかといった制約、そしてこれらの制約から派生した語りの手法や構成の仕方こそ、彼の作品の基本的組成を吟味するためには頭に入れておくべきことなのである。要は、ゴーゴリの作品は目で「聞く」ために書かれたのだ。たとえば『外套』の主人公の名アカーキイ・アカーキエヴィチは、ゴーゴリ自身が釈明していたように、反復される/k/の音のゆえに選ばれたのである。

 音への志向は、しかし詩作にも適用できる切り口である。散文へと分析対象を拡げたときにフォルマリストたちが新たに行ったのは、「ファーブラ」と「シュジェート」という対概念を持ち出しての議論であった。ファーブラとはストーリーのことで、因果的な関係性を重視した出来事の並べ方である。一方シュジェートとはプロット、筋のことであり、ある効果をねらってなされた出来事の配置の仕方である。たとえば小説に語り手による回想を挟み込むならば、実際に年表のような形式にした場合、つまりファーブラとしてはA(過去の出来事)→B(語りが起こっている現在)という出来事の因果系列となるが、小説のシュジェートとしてはB(現在)→A(過去)という並べ方となる。シクロフスキイは、物語作品にとって、主人公やモチーフよりも、シュジェート、すなわち語り方の方が優位にあることを強調した。また、数多ある物語作品に通底する法則をシュジェートを通して発見しようとしていた。

 そのうえで、エイヘンバウムは次のように言う。わたしたちはアカーキイ・アカーキエヴィチの置かれた悲喜劇的状況に感動するのではない。『外套』という作品の「文体」が読者に悲喜劇的効果を生むのだ。作品中盤に現れる、主人公の果敢な抵抗という山場は、登場人物の心情を分析対象としてきた従来の批評家が高く評価するところである。しかしエイヘンバウムは、その箇所が目につくのは、それまでの地口ばかりの文体から一転して、メロドラマ的文体へと変わったからだと述べる。あくまでも文体の変更に感動の原因を求めるのである。「エイヘンバウムが提案しようとしているのは…心理学的解釈の一切を拒絶し、さらに一般的には、作品のそとのさまざまな要因に助けをもとめる因果律的解釈の一切を拒絶するような方法論的原則である」(p.29)。

 しかしシュジェートとファーブラというこの対立は、後にバフチンによって形式と内容という伝統的対立の単なる言い直しであるとして指摘された。結局のところフォルマリストも、内容を重視して形式を二次的なものとする従来の文学評論と、内容-形式という対立の軸では同じ土俵にいたのだという指摘である。意味内容を捨て去るのなら、それと対立してはじめて意味をなす形式というカテゴリーも捨てなければならない。まったく新しい分析の軸を提案しなければならない。実はフォルマリズム内部から、その提案に近いことがなされていた。後期フォルマリズムの中心人物トゥイニャーノフによるものであり、「構成」という概念の再定式化に基づくものであった。

 芸術作品に対するそれまでの捉え方では、素材と、それを操作する手法とが分けられており、フォルマリズムもそれを暗黙のうちに受け入れていた。トゥイニャーノフは、それらを捉え直し、素材同士の「関係の仕方」、すなわち構成を分析の基本的単位としたのである。「トゥイニャーノフは、素材を『構成』という概念におきかえているが、この概念には、詩の形式、文体、シュジェート、人物、テーマなどといった、作品を形成するさまざまな要素のあいだの機能的な相関関係が合意されている」(p.56)。これによって、「オポヤズが活動を開始した時期に行なった、『形式』と『内容』にたいする伝統的見地の論争的転倒は袋小路に行き着いてしまったが、その袋小路は…『構成』と『志向』という概念によって、のりこえることが可能になってくる」(p.62)。

 ここで彼の言う志向とは何か。「トゥイニャーノフにとって芸術作品は、じつは、『触知可能な』素材の物理的組織に帰着するわけではなく、芸術作品とは、自分に情報と意味を与えてくれる美的意図によってのみ存在するのである」(p.58)。この美的意図のことを、彼は「志向」という概念で捉えていた。志向とは「私たちの知覚にテクストの情報を与え、発話のある一定の切片を詩に変える意図」(p.58)である。つまり志向とは、テクストを読む私たちにとって知覚される、作り手の作為、および観衆の期待と考えられる。挙げられている例として、ある要素の出現が、次にくる要素の出現を期待させると同時に、それ以前に出現していた要素から期待されていたものを満足させることが述べられる。要するに、詩にリズムを読み取る観衆の能動的な知覚、すなわち志向が、トゥイニャーノフの言う構成を成立させるのである。

 シクロフスキイ、エイヘンバウムまでのあいだに進められた外的形式に基づく批評は、芸術作品全体の美的効果を手法の「足し算」(シクロフスキイ『オポヤズについて』、p.325)から求めるどちらかといえば静的なアプローチであった。一方トゥイニャーノフは、作品内に張り巡らされた相互的関係性と、そこから多様な解釈を導く読み手のダイナミックな知覚に基づいたアプローチへと軌道修正したのである。このことの持つ意義を、オクチュリエは高く評価する。なぜなら後の構造主義的文学批評やバフチンの文学理論との共通性が指摘できるからである。

 特にバフチンとフォルマリズムとの関係は、バフチンを知る意味でも、また20世紀前半のロシア文学史全体を視野に納める意味でも、押さえておくべき問題である。オクチュリエはこれについても1節を割いて議論するが、もうそろそろいいだろう。あとは別の話である。

6. ふたたび、ヴィゴツキー

 フォルマリズムという運動について駆け足で眺めた。乱暴なのは承知のうえで彼らの研究態度を一言でまとめるなら、分析対象を「外に現れた言葉のかたち」だけに徹底的にしぼるものだったと言えよう。

 ここでふたたび、当初の問いすなわちヴィゴツキーに戻ってみる。ヴィゴツキーの著作にはフォルマリストの名も見られる。その中で重要なのは、ヤクビンスキイであろう。ヴィゴツキーの著作におけるヤクビンスキイの位置づけについては、Wertsch(1985、4章)やvan deer VeerとValsiner(1991、15章)にまとまった記述がある。

 Wertschは、意味についてのヴィゴツキーの理論が、彼の高次精神機能に関するモデルを理解する鍵となる、と主張する。その上で、1915年から1925年の間にヴィゴツキーが書いた文芸理論、およびそれに影響した多くの文学者は、意味についての理論を検討する際には重要だと述べた。そこできわめて重要なのが、ヤクビンスキイの「対話論」である。

 ヤクビンスキイの対話論がヴィゴツキーに与えた影響として、Wertschは2点挙げる。第一に、独話形式と対話形式とを比べたとき、後者の方がより自然で、発生的に先行する。独話形式は人工的なもの、発生的に後にくるものだ。これはヴィゴツキーの『思考と言語』全体の主要なテーマであるところの、自己中心的なことばの発達的位置づけの問題と関連づけられる。すなわち、言葉(正確には、話し言葉)ははじめ社会的コミュニケーションで機能し、のちに個人の内面に転化して自己内での対話、すなわち反省的思考のための道具となる。

 第二点は自己内での発話がいかなるものかという問題と関連づけられている。Wertschの説明によれば、ヤクビンスキイは対話を明示性の低い形式、独話(たとえば書き言葉)を明示性の高い形式として、それぞれとらえていた。親しいもの同士の対面式の対話では、話し手と聞き手の両方に共通の文脈が与えられているため、明示される形式は小さくてすむ。ほのめかすだけでも十分となる。このことを説明するためにヴィゴツキーが持ち出している事例(トルストイ『アンナ・カレーニナ』)は、ヤクビンスキイが使用していた例を踏襲しているという(van deer Veer and Valsiner, 1990; Wertsch, 1985)。

 以上のように、フォルマリスト(正確には、ヤクビンスキイただ一人)が後期ヴィゴツキーの主要テーマに多大な影響を与えたことは確かである。しかし、『思考と言語』から少しさかのぼって『ハムレット』『芸術心理学』までたどるとどうか。『芸術心理学』では初期フォルマリズムが批判の対象になっているし、『ハムレット』にいたっては明らかに象徴主義や神秘主義の強い影響が見られる。

 これら2つの時期を比較したとき、ヴィゴツキーとフォルマリズムとの関係はますます謎めいてくるのだ。もちろん、いかなる主張でもすみからすみまで諸手を挙げての賛成を得ることは少ないだろうから、ヴィゴツキーのように、フォルマリズムの主張の一部に賛成、一部に反対だという人がいても何も不思議なことはない。しかし、フォルマリズムの大前提である「外に現れたかたち」へのこだわりにまでさかのぼったとき、それに対してヴィゴツキーはどういう態度をとるのか。この点は慎重に検討しなければならない。なぜなら、ヴィゴツキーの言語論では、内化に象徴されるように、個人の外と内とをどのようにしてつなげるのかがきわめて重要だからである。

 私見では、ヴィゴツキーにとって最終的に明らかにしたい目標は個人の内面であった。その点でフォルマリズムとは決裂する。フォルマリズムにとって主人公の内的な動機はあくまでも二次的なものだからである。

 ここで、ヴィゴツキーのように個人の内面というものを広く認めたとき、「他者の内側」という「絶対に到達し得ない向こう側」に突き当たる。そして「永遠の彼岸」とはヴィゴツキーの『ハムレット』に通底するテーマである。

 フォルマリスト・ヤクビンスキイとヴィゴツキーが唯一の意見を一致させるところの対話論は、他者を必須の要件とする。私がコミュニケーションしようとする相手とは、その内面を永遠に悉知しえない他者にほかならない。そのような他者とのやりとりが、ひるがえってみずからの思考を組成する。言い換えれば、みずからの思考を組成するのは、悉知しえない内面を含み持った外的形式(他者がどのような「意図」をもってしゃべったのかは知り得ない)である。

 言語的思考がそもそもそのようなものだとするならば、わたしたちは本質的に知覚可能な表面とそれができない永遠の彼岸とを重ね合わせながら思考をしていることになる。よく、ヴィゴツキー=バフチンの対話論は、個人のうちに住まわせた他者との反省的な対話を説明するために担ぎ出されるが、上の図式をそのままもってくるならば、思考とは実は対話ではなく「鼎話」、すなわち三重の会話なのではないだろうか。つまり、もとからあった思考、内化され反省的機能を持つに至った言葉、そして「言葉の裏」である。

 ここに展開した議論はまだ不十分であるが、ヴィゴツキーとフォルマリズムを並べたときに浮かび上がるひとつの問いだろうと考えているし、それが正当に問いと認められるなら、おもしろい議論がそこから生まれるだろうとも考えている。


文献

アレクサンドル・エトキント 武田昭文(訳) 1997 文芸学者ヴィゴツキー:忘れられたテクストと知られざるコンテクスト 現代思想、25(4), 214-241.

ローマン・ヤコブソン 北岡誠司(訳) 最も新しいロシアの詩:素描一 水野忠夫(編) ロシア・フォルマリズム文学論集1 せりか書房 pp.7-193.

桑野隆 1996 夢みる権利 東京大学出版会

オシップ・マンデリシターム 斉藤毅(訳) 1999 言葉と文化 水声社

ヴィクトル・シクロフスキイ 松原明(訳) 1988 手法としての芸術 桑野隆・大石雅彦(編) 1988 ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 国書刊行会、pp.20-35.

ヴィクトル・シクロフスキイ 坂倉千鶴(訳) 1988 言葉の復活 桑野隆・大石雅彦(編) 1988 ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 国書刊行会、pp.13-19.

ヴィクトル・シクロフスキイ 近藤昌夫(訳) 1988 オポヤズについて 桑野隆・大石雅彦(編) 1988 ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 国書刊行会、pp.319-326.

土田知則・神郡悦子・伊藤直哉 1996 現代文学理論:テクスト・読み・世界 新曜社

van der Veer, R., and Valsiner, J. 1991 Understanding Vygotsky: A quest for synthesis. Oxford, UK.: Blackwell.

Wertsch, J. V. 1985 Vygotsky and the social formation of mind. Cambridge, Mass.: Harvard University Press.

029-システムの発生様式

木下清一郎 2002 心の起源:生物学からの挑戦 中央公論社
佐倉統 2002 進化論という考えかた 講談社

 行き帰りの地下鉄の中で読んでいた新書に、おもしろいヒントが書いてあった。ヒント、というのは、心理学的にものごとを考えていく上でのヒントである。心からすなおに「ああ、その通りだよな」と首肯できる説明に触れたのは久しぶりだったので、忘れないようにここに書く。

 2つのシステムが同時に存在するとき、そのあいだの関係はどのようになっているのか。

 このように問うたとき、そこには3つの可能性がある。1つはまったく無関係にある場合。2つ目は互いに接触している場合。最後の3つ目は、入れ子構造になっている場合である。この場合の入れ子とは、大きなシステムを土台として、その上(あるいは中)に小さなシステムが入っているような構造である。マトリョーシカのようなものを想像すればよい。

 1つ目はまあどうでもいいにせよ(ただし、無関係にある併存するシステムを同時に眺めているのは誰か、という問題は大きい)、問題は2番目と3番目である。まず2番目。このとき気をつけておきたいのは、接触しつつもそれぞれ独自のシステムとして機能しているならば、これらのシステムは相互依存的だという点である。つまり、一方のシステムが壊れたら、もう一方も破綻する。なぜなら、このとき、あるシステムに対して他方はすでにその一部だからである。

 3番目の関係性では、システム間に時間的な差異がある。大きなシステムがまずあって、その後、小さなシステムが発生するという順序が前提されている。このとき、大きなシステムの破綻は当然小さなシステムの崩壊をも意味する。

 ところがこの場合、逆は成り立たない。小さなシステムが崩壊しても、大きなシステムは依然として残り、その箇所を修復するだけである。

 ぼくはこの指摘にはっとした。

 木下清一郎の書いた本書では、システムを「世界」と呼んでいる。

 物質の世界、生物の世界、心の世界。木下はこの順序で発生した入れ子の世界像を想定する。言ってみれば、生物世界は物質世界に、精神世界は生物世界におんぶしているのだ。おんぶされる”ちび”が転がり落ちても、おんぶしている”親”は地に足をつけている。

 発生学を専門とする生物学者である木下が心の起源を取り上げるとき、このような前提を置いて思考を始める。これが興味深い。心理学者にはなかなかできない発想なのである。

 入れ子式の世界について考え出すと、たちまち、物質世界の”親”は何だろう、とか、精神世界の”ちび”はどんな姿だろう、とかいう問題も新しくつくり出される。そうした問題について取り組むのもまた楽しいことだ。ぼくはやらんけどね。

 ただ、「ことば」というシステムがどういう世界なのか、何かの”親”なのか、何かの”ちび”なのか、このことはきちんとやらねばならない。現在のところ、この問題に勇猛果敢に取り組んでいる研究者もいるという。たとえば佐倉統の紹介するマーティン・ノワークはコンピュータシミュレーションを使って生物の進化プロセスにおける言語の発生にアプローチしている。(ちなみに佐倉のこの本では、ノワークはプリンストン高等研究所にいることになっているが、2003年にハーバード大に移ったらしい。)

 ぼくがやろうとしているのは、当面は言語システムの個体発生をなぞることである。その際、いつか、世界の入れ子式モデルが何かのヒントになることもあろう。これは、そんなわけで書いたメモである。

028-あなた自身の教育学

苅谷剛彦 1995 大衆教育社会のゆくえ:学歴主義と平等神話の戦後史 中央公論社

「教育に何ができるのかを考えるのではなく,何ができないのかを考えること
教育に何を期待すべきかではなく,何を期待してはいけないのかを論じること」(p.218)

 どこで聞いた話か忘れたけど,世の中には,誰でも一家言持っていることが2つあるらしい。何かっていうと,言語と教育なんだって。
 
 熊さん「最近の若い奴らの言葉遣いはなんだい,ありゃあ。まるでなっちゃいねえ」
 八つぁん「そうそう,そりゃあね,教育が悪りいせいなんだ」
 
 ほらね。どっかで聞いたことあるでしょう。それでこのあと,熊さんさん流の言語論やら,八つぁん流の教育論やらが滔々と続くわけです。

 言語と教育はどちらも,
 (1)現在のものはダメ
 (2)どこかに良いものが存在する,あるいは,していた
 (3)ダメなのは他人であって,自分ではない
 という前提で話ができる素材なんですね。

 こんな構造があるから,自分の理想にあてはまらないものを取りあげて批判して,我が身を振り返らないということができるんでしょう。

 ところで,この本は教育についての本です。でも,現在の教育制度がダメだとか,どこかに理想の教育方法があるとか,そんなことが書いてあるわけではありません。
 
 ぼくらが,教育をどのようなものとして考えてきたのか,そして,ぼくらの社会的な仕組みのなかに,教育がどのように埋め込まれてきたのか,そうした経緯をていねいに解きほぐしていきましょうね,ということが書いてある本です。特に後者,つまり教育という切り口から社会を分析するやりかたに,この本の妙味があります。ぼくらの教育観は,その分析からあぶりだされるようになっているんですね。

 分析は,ぼくらの社会にどういう特徴があるのか,というところから出発します。一口に言えば「大衆教育社会」なんですが,説明が要りますね。

 これは,「大衆教育」と「大衆社会」とが重なった言葉です。大衆教育とは,社会に住むほとんどの人に対して教育が行なわれること。大衆社会とは,社会の中にいくつか分かれてある集団の間の違いがさほど目立たなくて,ほとんどの人が一般大衆として位置づけられているような社会のこと。イギリスの階級社会やアメリカの多民族社会と比べると分かりやすいでしょう。
 
 すると,大衆教育社会のメンバーの間には,もしも社会の中になんらかの差別があるとするならば,それは階級とか民族とかいった生まれながらの社会的属性によるのではなく,個々人の成績の差によるものだという認識が生まれる余地ができます。これを苅谷は「メリトクラシーの大衆化」というふうに呼んでいます。メリトクラシーというのは成果主義のことですね。

 ところが,出自とその後の進学先や就職先とのあいだには,実際には関連があるというのです。たとえば東京大学や早稲田・慶應に入るような子どもの親のうち,医者や弁護士,大企業の管理職,中小企業の社長といった,組織の管理運営にかかわる職種に就く人たちの割合は,戦後から一貫して非常に高かったことが示されています。さらに,1990年に東京の小中学校で行なわれた調査も,父親の職種が専門管理職である場合の方が,ブルーカラーである場合よりも,成績のよい子どもの割合が高いことを示しています。

 これらの調査では,生まれた社会的階層が,その後の進学先や成績に影響するかどうかまでは分かりません。ですが,もしもまったく影響がなければ,ある大学の入学生の親のうち,専門管理職とブルーカラーの占める割合は,ならせばだいたい同じくらいになるはずです。それが,そうはなっていなかった,というわけです。ね,影響関係を探る価値がありそうでしょう。

 子どもに教育を受けさせるのはたいていの場合親ですから,子どもの将来に対する親の心構え,あるいは学校に対する親の見方が,子どもの進学先や成績に影響を与えていると考えていいでしょう。

 子どもがどうやって人生を送っていくか,そこに学校がどのように関わっているのか。そうしたことに対する社会の人々の考え方として,戦後の日本に特徴的だったのが,学歴主義と平等主義だというのが,苅谷の仮説です。
 
 学歴主義とは,良い成績をとって,良い高等教育を受ければ,より上の社会的ステイタスを得ることができるという考え方です。俗っぽく言ってしまえば「成り上がり」ですね。平等主義というのは,2つの考え方がまじっていて,まず1つは,「差別」はいかん,もう少し詳しく言うと,成績を基に子どもを序列化して,習熟度ごとに異なる対応をするのはいかん,という考え方です。なぜいけないかと言うと,低い成績の子どもが劣等感を感じてしまうからだというわけです。もう1つは,みんながんばれば同じくらいの成績をとれるんだ,つまり能力は固定的なものではなく,教育を通じて変えていくことができるんだ,という考え方です。

 これらは考え方ですから,ほかの考え方もできるわけです。実際,かつては成績別クラス編成をおこなう学校もあったんです。ですが,今ではこれらの考え方が社会に支配的になっている。少なくとも,教育を語るなかで,カエルの子はカエルと言ってしまったら,ブーイングを受けることでしょう。

 ですが,ここに決定的な落し穴があります。ある考え方を採用したときに,別の考え方でしか見えないことがどうしても疎かになってしまうのです。カエルの子はカエルという主張を吟味することなく捨ててしまったら,カエルの子はカエルだという事実,つまり親の職業と子どもの学歴の相関に目が向かなくなってしまいますね。すると,カエルの子がカエルになるという教育機会の本当の不平等をなくすための努力もできなくなってしまいます。
 
 特に,社会を制度の面で組織化する職に就く人が,どのような考え方を持っているのか,チェックしてみる必要がありますね。彼らが見落としているものを,見直すよう説得するのは容易ではありません。何しろ考え方というやつは,下手をすると盲信に変わります。実際のデータを目の前につきつけて,それをもとに議論を積み重ねていくしかないんです。

 そうした議論は,自分にも跳ね返ってくる話になるでしょう。自分が今この職に就いているのは,社会にどういう仕組みがあるからなのか,それに対して自分がどう対処してきたのか,これらを振り返らなければならないからです。これは辛い作業ですね。
 
 さて,冒頭の2人の会話には3つの前提がありましたが,それでは,苅谷はどのような前提をもって議論しているのでしょうか。批判的に本を読む場合,議論に安易に巻き込まれないようにするためには,前提に目を向けるのが有効でしょう。重要な前提は,2つあるように思います。

(1)現在の教育が良いか悪いかは一概に言えない。
 悪く言われることの多い受験対策型の詰め込み授業でも,暗記学習が好きな子どもならとてもうまくいく。つまり,「良いか悪いか」はまっとうな問いではない。同様に,「理想的な教育があるかどうか」もまっとうな問いではない。「まっとうでない」というのは,答えようがない,という意味。

(2)現在の教育を形作る社会的な仕組みや,人々の認識を実証的に示すべきだ。
 現在の教育を相対化して,ほかの仕組みやほかの考え方に目を向ける。たとえば,現在の仕組みや考え方の歴史的な由来と変遷を示す作業を通してそれは可能だろう。

 もう1つ,大事な前提を付け加えておきましょう。これを苅谷が念頭に置いていたかどうか分からないのですが,ぼくは大事だと思っています。
 
(3)教育とは誰にとっても日常的な出来事である。
 教育を論じる,というのは教育を対象化することだから,論じる人はいったん教育の現場から身を引き離してメタ的に眺めなければならない。
 これが行き過ぎると,「ひとごと」になってしまう。理想的な教育方法を考えたとしても,それを受けるのは自分ではないからだ。自分が受けるわけでもない教育についていっしょうけんめい考えるのが,教育研究者である。
 しかしそうした人も,普段から誰かから何かを教えてもらっている。道を教えてもらったり,本を読んだり。つまり誰でも日頃から教えを受けているのである。
 「教育」の意味をここまで広げてみたらどうだろうか。教育を論じるとは,決して「ひとごと」ではない,ということになる。
 教育を行為として捉えるなら,それは普段からぼくらが行っている些細な出来事の積み重ねである。教室という場所で行う大人の一挙手一投足が,子どもにとって何かを学び取る材料となりうる。
 教育という制度の実施や,教育観の形成を支えているのも,こうしたごくごく些細な出来事の積み重ねにほかならない。この点は,どうしても大規模な調査などでは抜け落ちてしまう。

 言語や教育について誰でも語ることができるのは,それらの理想がどっかにあって,自分は理想像に近く,他の人はそこからずれているという前提で話ができるから,というのがぼくの主張でした。自分はとても安全な場所にいて,他人を攻撃しているわけですね。この安全な場所はぜひともなくしたい。言語もそうですが,教育を論じるうえで,安全な場所なんかない,そういうふうに考えた方がいいと思うんです。

 本来は,「教育」という言葉で括られる出来事をもう少しはっきりさせてから議論をはじめないといけないんです。教育制度のことなのか,それとも教育実践のことなのか,はたまた,学校教育のことなのか生涯教育のことなのか,事情は少しずつ違うわけですからね。上でも「教育」の意味を勝手に拡げて自分に都合のいい主張をしているわけです。これはルール違反ですね。とてもではありませんが,教育一般の話なんかできない。それでも今日も今日とて熊さん八つぁんは居酒屋で教育談義を繰り広げるのです。

 ああ,長くなってしまいました。やっぱり,教育の問題にかんしては誰でも一家言持ってるんですねえ。

027-ニッポンのスイッチ

松岡正剛 2004 花鳥風月の科学 中央公論社

 松岡正剛さんには,大学院のころから惹きつけられていた。ウェブ上に日々更新されていく「千夜千冊」を目にしてからだ。ほんとうに千冊の書評を書き上げられるのかと半ば危ぶんでいたが,2004年年7月7日,ついに満願成就された。

 千冊目は良寛だった。千冊目については,数週間前からそのサイトのファンの間であれこれと憶測が飛び交っていた。ぼくはひそかにジョイス『ユリシーズ』ではないかと予想していたが,それは999夜にして,ホメロス『オデュッセイア』とともに出てしまった。

 良寛については何も知らない。知らないながらも,松岡さんの文章を読んでいて,ずいぶんと静かな人という印象が浮かんできた。文章のあちらこちらに「雪」という文字が散りばめられていたからだろうと思う。

 「雪」という言葉を聞き,文字を読む。このとき,ぼくの頭のなかから,いろいろなイメージがいっぺんに引き出され,頭はそれで満たされてしまう。引き出されたものが,さらに別のイメージを引き出し,こうして連想のたえざる流れが続いていく。ここには,雪についての知識も含まれるし,また,雪を見る楽しさやせつなさ,手にしたときの冷たさやベトベトサラサラした感触,しんしんと降る雪に対比されて感じられる家の中の温かさなど,さまざまな気持ちも含まれる。こうした知識や感情のとめどない奔流が脳内にあふれるきっかけは「雪」という言葉なり文字であった。言ってみれば,ぼくたちの頭の中にある「雪」というスイッチが押されたとたん,雪に関する情報のデータベースが探索されたり,さまざまな感情を発動させるプログラムが起動したりするのだ。

 こうしたスイッチは,実はたくさんある。人間は歴史の中でこれらを作ってきた。のみならず,スイッチ作成作業と並行して,それを押すとあふれ出す知識や感情についても,取捨選択を繰り返してきた。たとえば西洋絵画に描かれたイコンは,描かれたそのものから別のものごとへハイパーリンクするスイッチである。また,王家の掲げる紋章は,その家系の歴史とともに,その間に起きた喜ばしい出来事も悲しむべき出来事も,見る人の中に呼び起こすスイッチである。日本あるいは日本人について考えると,何がスイッチに相当するだろう。たとえば和歌なら,「枕詞」はそれに続く一定の言葉を,「歌枕」はその地名に付随するなんらかの情緒を,それぞれ呼び起こすスイッチである。

 松岡正剛さんは,10個のスイッチを選んだ。山,道,神,風,鳥,花,仏,時,夢,月である。これらは「日本人が古来から開発してきた独特のマルチメディア・システム」(p.19)を構成するという。日本の歴史の中で,何千億という日本人の見たものや感じたことを網羅するウェブの中心に,徐々に位置付けられきたスイッチが「花鳥風月」である。このスイッチを押すことで,ぼくたちは容易にほかの誰かの見たものや感じたことにアクセスできるようになる。こうしたウェブの全体が「日本的なるもの」のシステムと呼ばれるのだ。

 ひとつ重要なことは,このシステムはウェブ上のスイッチの配置を歴史の中でたびたび変えてきたということである。スイッチの場所が変わると,ウェブに新しい連絡が生まれる。さらにはウェブ全体の景観が大きく変貌することもある。

 たとえば「神」と「仏」という2つのスイッチが,日本の歴史をどのように駆動させてきたのか,そしてそれぞれのスイッチがどのような関係にあったのかを考えてみるとよいだろう。日本において神と仏は同じものと見なされたり(本地垂迹説),仏の教えが正しいとされたり(聖武天皇による国造り),逆に仏が弾圧されたり(明治の廃仏毀釈)してきた。そのたびにウェブは大きく様相を変えたに違いない。こうしたなかで,神や仏というスイッチと,ぼくたちの身の回りにあるものごととが,緻密なリンクで結びつけられてきたのだ。

 卑近な例を出せば,ぼくの実家は,神棚と仏壇の両方を持ち,また,寺の檀家であると同時に氏神様にもお供えをしている。ぼくは小さいころから,仏様に対しては手をただ合わせるよう,神様に対しては手を打ってから合わせるように教えられた。一見するとややこしい,こうした棲み分けや使い分けをこなすというぼくの習慣がどこからどのようにして来たのか,このことをぼくは知るべきなのだろう。きっとそこには,2つのスイッチを介在するなんらかのリンクがあるはずなのだ。こうしたリンクで構成されるウェブの景観とその動きは,もしかすると「文化」と呼ばれるものかもしれない。

 ところで,文化という概念は,往々にして,複数の異質な生活習慣を対比するために持ち出される。西洋文化と東洋文化といったように。しかし,神と仏の例を出せば分かるように,歴史においては異質なもの同士が常に接触し,融合し,分離していたし,ある個人の生活すら,それらのすりあわせから構成されている。とするならば,ある時点で表面的に異質な文化を併置して比較することに何の意味があるだろうか。

 むしろ,ぼくにとっては,スイッチとリンクで構成されたウェブの景観とそのダイナミクスをていねいに解きほぐし,書き留めていくことが,おもしろそうな作業として映る。松岡正剛さんの書く文章がぼくにとって刺激的なのもそうした理由からだろう。

026-完全言語の探究

ウンベルト・エーコ 上村忠男・廣石正和(訳) 1995 完全言語の探求 平凡社

 ジャック・ルゴフの編集による「叢書ヨーロッパ」の中の1冊。原著は1993年,ローマのラテルツァ社から出版された。日本ではこのシリーズを平凡社が引き受けているようで,確認できただけで現在まで本書を含め6冊が刊行されている。海,農民,食,理性,そして異端と,それぞれの切り口からヨーロッパという運動を浮かび上がらせようとするこのシリーズにあって,言語を担当することとなったエーコの戦慄,あるいは喜びは,想像を絶する。

 ヨーロッパに一筋の言語史を読み解く彼が,その鍵として「完全言語(lingua perfetta)」を選んだことは,英断だろうと思う。ここには,宗教,政治,民族,都市,メディアなど縦に割られた議論を横にまたいでいくための方法が潜んでいるからだ。

 では,その完全言語とは何だろうか。ひとことで言ってしまえば,人類に共通するたった一つの言語のことである。世界のどこへ行っても,人間がたった一つの同じ言語を話す。その言語こそ,「完全言語」と呼ぶにふさわしい,ということだ。

 ここには,自然言語は多様であり,それは解消すべき混乱だとする見方が前提としてある。しかし,誰でも気づくように,現在までのところ言葉の壁は厳然としてあり,完全言語はいまだ現われていない。その代わり,書物のなかに神の真意が潜んでいるのだとする者や,私たち人間の頭の動き方の普遍性に訴える者,あるいは,ないのだから作ってしまおうという者がいた。つまり完全言語とは,ヨーロッパの歴史に幾度も現われては消えた一種の「計画」(ジェイムズ・ノウルソン)だったのである。

 この計画は実にさまざまな形を取ったのだが,ここでは大きく二つに分けてみたい。一つはコンテンツとしての完全言語を発見しようとする計画であり,もう一つはコンテンツを媒介するメディアの利便性を追求するために完全言語を創出しようとする計画である。もちろん,コンテンツとメディアとは不離の間柄なのだが,重要なのは,歴史的に見るとコンテンツをめぐってメディアが形成されたという関係があること(松岡正剛),その一方で,メディアは独自のコンテンツを求め,新たなコンテンツがまた新しいメディアを形成していったというダイナミクスが読み取れることである。

(1) コンテンツとしての完全言語

 完全言語をめぐる問題は,はじめ,神話において現われたために,のちに神学の一大テーマとなった。たとえば,旧約聖書創世記において世界のもろもろの生き物にアダムが名付けをしたこと(第2章第19節)に注目したとき,二つの問いが生まれる。一つ目の問いは,アダムは普遍的な「種」という実在に名付けをしたのか,それとも彼が付けた名は虚構に過ぎず,世界にはただ個物があるのみかというものであり,スコラ哲学の普遍論争に代表される。

 しかしエーコが重視するのは二つ目の問いであった。それは,創世記第2章第19節においてアダムは何語を話したのか,というものである。アダムの言葉探しは,言語の単一起源説,すなわち,バベル以後に乱れた結果としての「あらゆる言語はただひとつの祖語から派生したという仮説」(p.117)を前提とする。かつては旧約聖書の言語たるヘブライ語が,次いで愛国主義的な人間にとっては自分の話す言語がそれぞれ祖語の候補となった。決め手のなかった祖語探しを一変させたのは,18世紀にサンスクリットがヨーロッパに広く知られるようになったという事態である。19世紀ドイツのヤーコプ・グリムがうち立てた音韻変化法則を利用して,サンスクリットとヨーロッパ諸語との間を体系的な推移規則でつなぐことがついに可能となった。これにより両者が共有する単一の「祖語」の存在が仮定され,そこから派生した諸言語をインド=ヨーロッパ語族と呼ぶようになったのである。しかしこの方法は同時に,体系的な規則ではどうしても橋渡しできない諸言語の存在も明らかにしてしまった。たとえば,セム語族,ウラル語族がそれである。つまり単一起源説を証明しようとしたまさにその方法によって,言語多起源説が導かれてしまったのである。

 アダムの言葉探しは,聖書など書かれた言葉に隠されて潜む神の真意,すなわち神の言葉探しという運動を生み出すことともなった。ユダヤにおけるカバラ信仰,ライムンドゥス・ルルスの結合術はその例である。カバラとは文字を新しく組み合わせ,いまだ誰も知らない真理を作り出す秘術である。一方ルルスの結合術とは,既知のことがらを文字の組み合わせによって証明する方法である(cf. p.112)。いずれもながらく中世史のなかで埋もれていたが,フランセス・イェイツやパオロ・ロッシの手によって,ライプニッツら近世合理主義者に少なからぬ影響を与えたことが知られるようになった。少数の文字の組み合わせによって膨大な量のことがらを表現するという方法は,現在の情報理論の根本原理にもなっている。われわれはいまだ,13世紀に生まれたルルスの発想から抜けきれずにいるのだ。

(2) メディアとしての完全言語

 創造された神話は,自分自身を保存するための仕組みを作る。偶像,教会,聖書,その他あらゆる宗教的諸制度がそれである。もちろん神話を書き記した言語もその保存の一翼を担った。ヨーロッパではながらくラテン語がその地位にあった。ラテン語と神話は手を携えつつヨーロッパに広まっていったのである。ゆえに,神話にとって「国際標準語」という完全言語計画は必須であった。

 ローマ帝国の霧散とともにラテン語の立場は激しく変化した。それを話す者がいなくなったのである。また,宗教的諸制度の地位も時代によって大きく変わった。つまり,メディアとコンテンツとの,すなわちラテン語と神話との結びつきは絶対的なものではなくなったのである。それでもなお,国際標準語を求めようとする動きそれ自体は止まなかった。

 世界の安寧な統一という野望のもとで作られた国際標準語のうち,現在最も有名なのはレイゼル・ルドウィク・ザメンホフによるエスペラントだろう。古くは1879年にドイツのマルティン・シュライヤーがヴォラピュークを,のち,1903年にジュゼッペ・ペアノがラティノ・シネ・フレクシオネを,その他,数え上げればきりがないほど,国際標準語の候補が創案されている。また,母語の統一はあきらめるにしても,便宜的に第二言語を統一しようとする計画もあった。いわゆる「国際補助語」である。かつてのラテン語,フランス語,現在の英語のように軍事的・経済的強国の影響で普及した言語は,自然言語がその位置に付いた例である。

 ところで,完全言語計画の中には,意識的に話し言葉以外にその規範を求めようとした動きもあった。例えば,音を表わすアルファベットと違って,多くの象形文字(エジプトのヒエログリフ,中国の漢字)は事物(あるいは,その概念)そのものを表す。この点をもって,17世紀ドイツのアタナシウス・キルヒャーは,それらを神の完全言語の具現化した姿として解読に耽った。また,身振りに基づいた計画は,後に手話を体系化するきっかけとなった。

(3) コンテンツとメディアのダイナミクス

 神話と提携していた国際標準語は,しかし,脆さも含みもつ。第一の脆さは,コンテンツが新たなメディアを求めたこと,第二の脆さは,メディアが新たなコンテンツを求めたことである。

 第一の脆さの原因は,神話が口伝ではなく書かれたテクスト(例えば,聖書)によってもたらされるとき,必然的に書き言葉が国際標準語になるという点である。ローマの影響下から抜け出して各地方ごとに経済圏や国家が確立されると,ラテン語は話し言葉としてはもはや「死語」となる。すると,そのあとにラテン語表記の聖書や学術書だけが取り残されるという事態が起こった。ここに新たなメディアを探索する必要性が生じる。14世紀イタリアのダンテ・アリギエーリが俗語(民衆の話し言葉)で詩を書いたのも,16世紀ドイツのマルティン・ルターがドイツ語訳聖書を作ったのも,こういう動きの中のことであった。つまり,ラテン語という国際標準語を基盤としていたはずの神話制度が各地で独自の発展を見せ,皮肉にも,言語を乗っ取ってしまったのである。

 さて,神話的諸制度が安定し,人々の生活の大前提となったとき,新たな神話を求める運動が起こった。ここに神話と提携する国際標準語の第二の脆さがある。ヨーロッパで言えばちょうどルネサンスの時期に当たり,新約聖書以前のギリシャをモデルとする古典的人間観の復活は,計画の動機をキリスト教的伝統から引き離すこととなったのである。まず人々は,プラトンなど古代ギリシャにおいて交わされていた議論に理論を求めた。

 たとえばプラトンは,『クラテュロス』と題された対話編において,言語の起源(正確には,名前の起源)について三つの説を提示した(cf. p.35)。第一に,名は自然の本性(これをピュシスと呼ぶ)に正確に反映して生まれてきたとするクラテュロスの説。これによれば,「ネコ」という名前はあの動物の自然の中の位置や性質をこの上なく適切に表している。曰く,にゃあにゃあうるさいので「鳴く子」→「ネコ」なのだ,と。第二に,名は人々の間の取り決め(これをノモスと呼ぶ)に過ぎず,何にどのような名をつけようと,それは恣意的だとするヘルモゲネスの説。これによれば,あの動物は「イヌ」であっても「ポペ」であってもよく,たまたま「ネコ」と呼ぶことに決めただけだ,と。そして第三は,名とは事物ではなく概念(これを,イデアと呼ぶ)と結びついてそれを指し示しているというプラトン自身の説である。

 さて,計画の動機が宗教的諸制度から離れると,探求の対象は神の意志から被造物たる自然へと移った。16,7世紀に自然科学の哲学的・方法的基礎を築いた人々(フランシス・ベーコンにせよ,ルネ・デカルトにせよ)は,面白いことに,ラテン語で書いた。国際標準語であるラテン語は,そのコンテンツに神の被造物の仕組みをも含みこむにいたったのである。一方,メディアがコンテンツを作るとともに,新たなコンテンツには新たなメディアが必要となった。ベーコンにとって,ラテン語は人々の手垢にまみれた不純物であり,自然を正確に認識するにはきわめて不完全な道具だった。彼が「市場のイドラ」と呼ぶ認識の蒙昧はそれに起因する。こうして,16世紀から19世紀にいたる300年間,はじめは事物を正確に記述するための,のちには人間の思考を正確に写し取る,完全言語が求められたのである。前者の代表がイギリスのジョン・ウィルキンズの手による『真正の記号ならびに哲学的言語にむけての試論』(1668)であり,後者の代表がフランスのアントワーヌ・アルノーとクロード・ランスローによって編まれたいわゆる『ポール=ロワイヤル文法』(1660)である。

 これら二つの著作には,ここではこれ以上深く入らない。そのうち,ジェイムズ・ノウルソンの『英仏普遍言語計画』について書くときに,詳しく触れたい。ごく簡単に感想だけ言えば,今見るに,いずれも表面的には荒唐無稽な計画である。しかし,それらを単に著者らの無知の結果として切り捨てるのではなく,それぞれに固有の自然観や解決すべき問題があり,それに対して真摯に答えようとした結果であることを忘れるべきではない。また,これらは現代まで続くさまざまな思想の根本的な前提でもあることは強調しておくべきだろう。たとえば前者はゴッドローブ・フレーゲの論理学と,後者はノーム・チョムスキーの生成文法理論と,それそれ共通する方法論をもつ。

(4) 完全言語と普遍言語

 さて,ここまで人々の求める単一の言語を完全言語と呼んできた。しかしエーコは,言語の単一起源説を概観する中で,次のような注意書きを読者に設けている。曰く,諸言語に共通する祖語の探求では…
「一,完全言語と普遍言語とが十分に区別されていない。事物の本性をそのまま反映できるような言語を探求することと,万人が話すことができ,また話さなければならない言語を探求することとは,別のことである。完全言語が少数の者しか使うことができないこともありうるし,普遍的に使用される言語が不完全であることもありうるのだ。」(p.117)

 エーコは,「事物の本性をそのまま反映できるような言語」を完全言語と呼び,「万人が話すことができ,また話さなければならない言語」を普遍言語と呼ぶ。ここに,本稿で導入した区別を重ねあわせてみるとどうだろう。すなわち,コンテンツとしての完全言語を「完全言語」,そして,メディアとしての完全言語を「普遍言語」,というように考えてみる。すると,たとえば17世紀以降の自然科学という営みは,自然的秩序の鏡である完全言語を,研究者や一般の人々の普遍言語にしようとした運動だった,と言えるのではないか。

 完全言語とは「コンテンツが単一である」とする仮説のもとで生まれる仮想的対象であり,一方普遍言語は,人々の社会的活動から生み出された「メディアを統一する」という将来的目標である。共通するのは,どちらもいまだ実現したことがなく,これからも実現するかどうか不明であるところの,バーチャルな存在だということだ。

 そろそろ文章を閉じたいと思う。

 通貨という基盤の上に統合を目指す現在のヨーロッパにあって,完全言語はさらなる活発な流通を導く「思想の通貨」となるのかもしれない。しかし,エーコ自身はこのような楽観主義を一蹴する。通貨のみならず言語も一つにすること,それは言語の大前提である記号化作用とコミュニケーション(交通)に本質的に含まれる「生成」の過程を止めてしまうことを意味する。この生成の過程を言語学の問題として取り上げたのが,実はフェルディナン・ド・ソシュールであり,彼を始祖とする記号学の潮流なのである。記号学の方法と世界観を手にした以上,われわれは生成の過程を無視するわけにはいかない。エーコの主張は,実際にはここにある。

 「哲学的言語[引用者注,完全言語のこと]をつくりあげることが不可能なのは,ほかでもない,言語活動というものはまさに観念学者たちがきわめて正確にあとづけたような諸段階をへて生成していくものであり,完全言語が準拠しなければならないのがこれらの段階のうちのどれであるかはいまだに未決であるからである。哲学的言語といえども,ある特定の段階に根ざしているのであってみれば,言語活動の生成段階のうちのただひとつの段階だけを反映することしかできず,この段階のかかえる限界をとどめていることは明白である。しかしまた,その限界こそは,人類につぎのより分節化された段階を展開させるよううながしてきたのであった。思考と言語活動には時間のなかにあって(しかも,言語活動の誕生にかんするすべての理論が口にしている遠い先史の時間のなかにあってだけでなく,わたしたちの現在の歴史を生みだしている現に進行中の時間のなかにあって)展開される生成の過程がそなわっているとひとたび判定されたからには,哲学的言語をめざすあらゆる試みは不成功におわる運命にあるといってよい。」(p.414)

 完全言語の発見と普遍言語の実現,それは机上思想家の単なる虚妄なのか,それともいかなる犠牲をはらってでも到達を目指すべき現実上の目標なのか。完全言語をめぐる問題は,エーコはそれを不可能だと断定するが,いずれにせよ,古色蒼然たる言語史を,きわめて現在的な私たち自身の問題として見せてくれる。