028-あなた自身の教育学

苅谷剛彦 1995 大衆教育社会のゆくえ:学歴主義と平等神話の戦後史 中央公論社

「教育に何ができるのかを考えるのではなく,何ができないのかを考えること
教育に何を期待すべきかではなく,何を期待してはいけないのかを論じること」(p.218)

 どこで聞いた話か忘れたけど,世の中には,誰でも一家言持っていることが2つあるらしい。何かっていうと,言語と教育なんだって。
 
 熊さん「最近の若い奴らの言葉遣いはなんだい,ありゃあ。まるでなっちゃいねえ」
 八つぁん「そうそう,そりゃあね,教育が悪りいせいなんだ」
 
 ほらね。どっかで聞いたことあるでしょう。それでこのあと,熊さんさん流の言語論やら,八つぁん流の教育論やらが滔々と続くわけです。

 言語と教育はどちらも,
 (1)現在のものはダメ
 (2)どこかに良いものが存在する,あるいは,していた
 (3)ダメなのは他人であって,自分ではない
 という前提で話ができる素材なんですね。

 こんな構造があるから,自分の理想にあてはまらないものを取りあげて批判して,我が身を振り返らないということができるんでしょう。

 ところで,この本は教育についての本です。でも,現在の教育制度がダメだとか,どこかに理想の教育方法があるとか,そんなことが書いてあるわけではありません。
 
 ぼくらが,教育をどのようなものとして考えてきたのか,そして,ぼくらの社会的な仕組みのなかに,教育がどのように埋め込まれてきたのか,そうした経緯をていねいに解きほぐしていきましょうね,ということが書いてある本です。特に後者,つまり教育という切り口から社会を分析するやりかたに,この本の妙味があります。ぼくらの教育観は,その分析からあぶりだされるようになっているんですね。

 分析は,ぼくらの社会にどういう特徴があるのか,というところから出発します。一口に言えば「大衆教育社会」なんですが,説明が要りますね。

 これは,「大衆教育」と「大衆社会」とが重なった言葉です。大衆教育とは,社会に住むほとんどの人に対して教育が行なわれること。大衆社会とは,社会の中にいくつか分かれてある集団の間の違いがさほど目立たなくて,ほとんどの人が一般大衆として位置づけられているような社会のこと。イギリスの階級社会やアメリカの多民族社会と比べると分かりやすいでしょう。
 
 すると,大衆教育社会のメンバーの間には,もしも社会の中になんらかの差別があるとするならば,それは階級とか民族とかいった生まれながらの社会的属性によるのではなく,個々人の成績の差によるものだという認識が生まれる余地ができます。これを苅谷は「メリトクラシーの大衆化」というふうに呼んでいます。メリトクラシーというのは成果主義のことですね。

 ところが,出自とその後の進学先や就職先とのあいだには,実際には関連があるというのです。たとえば東京大学や早稲田・慶應に入るような子どもの親のうち,医者や弁護士,大企業の管理職,中小企業の社長といった,組織の管理運営にかかわる職種に就く人たちの割合は,戦後から一貫して非常に高かったことが示されています。さらに,1990年に東京の小中学校で行なわれた調査も,父親の職種が専門管理職である場合の方が,ブルーカラーである場合よりも,成績のよい子どもの割合が高いことを示しています。

 これらの調査では,生まれた社会的階層が,その後の進学先や成績に影響するかどうかまでは分かりません。ですが,もしもまったく影響がなければ,ある大学の入学生の親のうち,専門管理職とブルーカラーの占める割合は,ならせばだいたい同じくらいになるはずです。それが,そうはなっていなかった,というわけです。ね,影響関係を探る価値がありそうでしょう。

 子どもに教育を受けさせるのはたいていの場合親ですから,子どもの将来に対する親の心構え,あるいは学校に対する親の見方が,子どもの進学先や成績に影響を与えていると考えていいでしょう。

 子どもがどうやって人生を送っていくか,そこに学校がどのように関わっているのか。そうしたことに対する社会の人々の考え方として,戦後の日本に特徴的だったのが,学歴主義と平等主義だというのが,苅谷の仮説です。
 
 学歴主義とは,良い成績をとって,良い高等教育を受ければ,より上の社会的ステイタスを得ることができるという考え方です。俗っぽく言ってしまえば「成り上がり」ですね。平等主義というのは,2つの考え方がまじっていて,まず1つは,「差別」はいかん,もう少し詳しく言うと,成績を基に子どもを序列化して,習熟度ごとに異なる対応をするのはいかん,という考え方です。なぜいけないかと言うと,低い成績の子どもが劣等感を感じてしまうからだというわけです。もう1つは,みんながんばれば同じくらいの成績をとれるんだ,つまり能力は固定的なものではなく,教育を通じて変えていくことができるんだ,という考え方です。

 これらは考え方ですから,ほかの考え方もできるわけです。実際,かつては成績別クラス編成をおこなう学校もあったんです。ですが,今ではこれらの考え方が社会に支配的になっている。少なくとも,教育を語るなかで,カエルの子はカエルと言ってしまったら,ブーイングを受けることでしょう。

 ですが,ここに決定的な落し穴があります。ある考え方を採用したときに,別の考え方でしか見えないことがどうしても疎かになってしまうのです。カエルの子はカエルという主張を吟味することなく捨ててしまったら,カエルの子はカエルだという事実,つまり親の職業と子どもの学歴の相関に目が向かなくなってしまいますね。すると,カエルの子がカエルになるという教育機会の本当の不平等をなくすための努力もできなくなってしまいます。
 
 特に,社会を制度の面で組織化する職に就く人が,どのような考え方を持っているのか,チェックしてみる必要がありますね。彼らが見落としているものを,見直すよう説得するのは容易ではありません。何しろ考え方というやつは,下手をすると盲信に変わります。実際のデータを目の前につきつけて,それをもとに議論を積み重ねていくしかないんです。

 そうした議論は,自分にも跳ね返ってくる話になるでしょう。自分が今この職に就いているのは,社会にどういう仕組みがあるからなのか,それに対して自分がどう対処してきたのか,これらを振り返らなければならないからです。これは辛い作業ですね。
 
 さて,冒頭の2人の会話には3つの前提がありましたが,それでは,苅谷はどのような前提をもって議論しているのでしょうか。批判的に本を読む場合,議論に安易に巻き込まれないようにするためには,前提に目を向けるのが有効でしょう。重要な前提は,2つあるように思います。

(1)現在の教育が良いか悪いかは一概に言えない。
 悪く言われることの多い受験対策型の詰め込み授業でも,暗記学習が好きな子どもならとてもうまくいく。つまり,「良いか悪いか」はまっとうな問いではない。同様に,「理想的な教育があるかどうか」もまっとうな問いではない。「まっとうでない」というのは,答えようがない,という意味。

(2)現在の教育を形作る社会的な仕組みや,人々の認識を実証的に示すべきだ。
 現在の教育を相対化して,ほかの仕組みやほかの考え方に目を向ける。たとえば,現在の仕組みや考え方の歴史的な由来と変遷を示す作業を通してそれは可能だろう。

 もう1つ,大事な前提を付け加えておきましょう。これを苅谷が念頭に置いていたかどうか分からないのですが,ぼくは大事だと思っています。
 
(3)教育とは誰にとっても日常的な出来事である。
 教育を論じる,というのは教育を対象化することだから,論じる人はいったん教育の現場から身を引き離してメタ的に眺めなければならない。
 これが行き過ぎると,「ひとごと」になってしまう。理想的な教育方法を考えたとしても,それを受けるのは自分ではないからだ。自分が受けるわけでもない教育についていっしょうけんめい考えるのが,教育研究者である。
 しかしそうした人も,普段から誰かから何かを教えてもらっている。道を教えてもらったり,本を読んだり。つまり誰でも日頃から教えを受けているのである。
 「教育」の意味をここまで広げてみたらどうだろうか。教育を論じるとは,決して「ひとごと」ではない,ということになる。
 教育を行為として捉えるなら,それは普段からぼくらが行っている些細な出来事の積み重ねである。教室という場所で行う大人の一挙手一投足が,子どもにとって何かを学び取る材料となりうる。
 教育という制度の実施や,教育観の形成を支えているのも,こうしたごくごく些細な出来事の積み重ねにほかならない。この点は,どうしても大規模な調査などでは抜け落ちてしまう。

 言語や教育について誰でも語ることができるのは,それらの理想がどっかにあって,自分は理想像に近く,他の人はそこからずれているという前提で話ができるから,というのがぼくの主張でした。自分はとても安全な場所にいて,他人を攻撃しているわけですね。この安全な場所はぜひともなくしたい。言語もそうですが,教育を論じるうえで,安全な場所なんかない,そういうふうに考えた方がいいと思うんです。

 本来は,「教育」という言葉で括られる出来事をもう少しはっきりさせてから議論をはじめないといけないんです。教育制度のことなのか,それとも教育実践のことなのか,はたまた,学校教育のことなのか生涯教育のことなのか,事情は少しずつ違うわけですからね。上でも「教育」の意味を勝手に拡げて自分に都合のいい主張をしているわけです。これはルール違反ですね。とてもではありませんが,教育一般の話なんかできない。それでも今日も今日とて熊さん八つぁんは居酒屋で教育談義を繰り広げるのです。

 ああ,長くなってしまいました。やっぱり,教育の問題にかんしては誰でも一家言持ってるんですねえ。

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