029-システムの発生様式

木下清一郎 2002 心の起源:生物学からの挑戦 中央公論社
佐倉統 2002 進化論という考えかた 講談社

 行き帰りの地下鉄の中で読んでいた新書に、おもしろいヒントが書いてあった。ヒント、というのは、心理学的にものごとを考えていく上でのヒントである。心からすなおに「ああ、その通りだよな」と首肯できる説明に触れたのは久しぶりだったので、忘れないようにここに書く。

 2つのシステムが同時に存在するとき、そのあいだの関係はどのようになっているのか。

 このように問うたとき、そこには3つの可能性がある。1つはまったく無関係にある場合。2つ目は互いに接触している場合。最後の3つ目は、入れ子構造になっている場合である。この場合の入れ子とは、大きなシステムを土台として、その上(あるいは中)に小さなシステムが入っているような構造である。マトリョーシカのようなものを想像すればよい。

 1つ目はまあどうでもいいにせよ(ただし、無関係にある併存するシステムを同時に眺めているのは誰か、という問題は大きい)、問題は2番目と3番目である。まず2番目。このとき気をつけておきたいのは、接触しつつもそれぞれ独自のシステムとして機能しているならば、これらのシステムは相互依存的だという点である。つまり、一方のシステムが壊れたら、もう一方も破綻する。なぜなら、このとき、あるシステムに対して他方はすでにその一部だからである。

 3番目の関係性では、システム間に時間的な差異がある。大きなシステムがまずあって、その後、小さなシステムが発生するという順序が前提されている。このとき、大きなシステムの破綻は当然小さなシステムの崩壊をも意味する。

 ところがこの場合、逆は成り立たない。小さなシステムが崩壊しても、大きなシステムは依然として残り、その箇所を修復するだけである。

 ぼくはこの指摘にはっとした。

 木下清一郎の書いた本書では、システムを「世界」と呼んでいる。

 物質の世界、生物の世界、心の世界。木下はこの順序で発生した入れ子の世界像を想定する。言ってみれば、生物世界は物質世界に、精神世界は生物世界におんぶしているのだ。おんぶされる”ちび”が転がり落ちても、おんぶしている”親”は地に足をつけている。

 発生学を専門とする生物学者である木下が心の起源を取り上げるとき、このような前提を置いて思考を始める。これが興味深い。心理学者にはなかなかできない発想なのである。

 入れ子式の世界について考え出すと、たちまち、物質世界の”親”は何だろう、とか、精神世界の”ちび”はどんな姿だろう、とかいう問題も新しくつくり出される。そうした問題について取り組むのもまた楽しいことだ。ぼくはやらんけどね。

 ただ、「ことば」というシステムがどういう世界なのか、何かの”親”なのか、何かの”ちび”なのか、このことはきちんとやらねばならない。現在のところ、この問題に勇猛果敢に取り組んでいる研究者もいるという。たとえば佐倉統の紹介するマーティン・ノワークはコンピュータシミュレーションを使って生物の進化プロセスにおける言語の発生にアプローチしている。(ちなみに佐倉のこの本では、ノワークはプリンストン高等研究所にいることになっているが、2003年にハーバード大に移ったらしい。)

 ぼくがやろうとしているのは、当面は言語システムの個体発生をなぞることである。その際、いつか、世界の入れ子式モデルが何かのヒントになることもあろう。これは、そんなわけで書いたメモである。

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