027-ニッポンのスイッチ

松岡正剛 2004 花鳥風月の科学 中央公論社

 松岡正剛さんには,大学院のころから惹きつけられていた。ウェブ上に日々更新されていく「千夜千冊」を目にしてからだ。ほんとうに千冊の書評を書き上げられるのかと半ば危ぶんでいたが,2004年年7月7日,ついに満願成就された。

 千冊目は良寛だった。千冊目については,数週間前からそのサイトのファンの間であれこれと憶測が飛び交っていた。ぼくはひそかにジョイス『ユリシーズ』ではないかと予想していたが,それは999夜にして,ホメロス『オデュッセイア』とともに出てしまった。

 良寛については何も知らない。知らないながらも,松岡さんの文章を読んでいて,ずいぶんと静かな人という印象が浮かんできた。文章のあちらこちらに「雪」という文字が散りばめられていたからだろうと思う。

 「雪」という言葉を聞き,文字を読む。このとき,ぼくの頭のなかから,いろいろなイメージがいっぺんに引き出され,頭はそれで満たされてしまう。引き出されたものが,さらに別のイメージを引き出し,こうして連想のたえざる流れが続いていく。ここには,雪についての知識も含まれるし,また,雪を見る楽しさやせつなさ,手にしたときの冷たさやベトベトサラサラした感触,しんしんと降る雪に対比されて感じられる家の中の温かさなど,さまざまな気持ちも含まれる。こうした知識や感情のとめどない奔流が脳内にあふれるきっかけは「雪」という言葉なり文字であった。言ってみれば,ぼくたちの頭の中にある「雪」というスイッチが押されたとたん,雪に関する情報のデータベースが探索されたり,さまざまな感情を発動させるプログラムが起動したりするのだ。

 こうしたスイッチは,実はたくさんある。人間は歴史の中でこれらを作ってきた。のみならず,スイッチ作成作業と並行して,それを押すとあふれ出す知識や感情についても,取捨選択を繰り返してきた。たとえば西洋絵画に描かれたイコンは,描かれたそのものから別のものごとへハイパーリンクするスイッチである。また,王家の掲げる紋章は,その家系の歴史とともに,その間に起きた喜ばしい出来事も悲しむべき出来事も,見る人の中に呼び起こすスイッチである。日本あるいは日本人について考えると,何がスイッチに相当するだろう。たとえば和歌なら,「枕詞」はそれに続く一定の言葉を,「歌枕」はその地名に付随するなんらかの情緒を,それぞれ呼び起こすスイッチである。

 松岡正剛さんは,10個のスイッチを選んだ。山,道,神,風,鳥,花,仏,時,夢,月である。これらは「日本人が古来から開発してきた独特のマルチメディア・システム」(p.19)を構成するという。日本の歴史の中で,何千億という日本人の見たものや感じたことを網羅するウェブの中心に,徐々に位置付けられきたスイッチが「花鳥風月」である。このスイッチを押すことで,ぼくたちは容易にほかの誰かの見たものや感じたことにアクセスできるようになる。こうしたウェブの全体が「日本的なるもの」のシステムと呼ばれるのだ。

 ひとつ重要なことは,このシステムはウェブ上のスイッチの配置を歴史の中でたびたび変えてきたということである。スイッチの場所が変わると,ウェブに新しい連絡が生まれる。さらにはウェブ全体の景観が大きく変貌することもある。

 たとえば「神」と「仏」という2つのスイッチが,日本の歴史をどのように駆動させてきたのか,そしてそれぞれのスイッチがどのような関係にあったのかを考えてみるとよいだろう。日本において神と仏は同じものと見なされたり(本地垂迹説),仏の教えが正しいとされたり(聖武天皇による国造り),逆に仏が弾圧されたり(明治の廃仏毀釈)してきた。そのたびにウェブは大きく様相を変えたに違いない。こうしたなかで,神や仏というスイッチと,ぼくたちの身の回りにあるものごととが,緻密なリンクで結びつけられてきたのだ。

 卑近な例を出せば,ぼくの実家は,神棚と仏壇の両方を持ち,また,寺の檀家であると同時に氏神様にもお供えをしている。ぼくは小さいころから,仏様に対しては手をただ合わせるよう,神様に対しては手を打ってから合わせるように教えられた。一見するとややこしい,こうした棲み分けや使い分けをこなすというぼくの習慣がどこからどのようにして来たのか,このことをぼくは知るべきなのだろう。きっとそこには,2つのスイッチを介在するなんらかのリンクがあるはずなのだ。こうしたリンクで構成されるウェブの景観とその動きは,もしかすると「文化」と呼ばれるものかもしれない。

 ところで,文化という概念は,往々にして,複数の異質な生活習慣を対比するために持ち出される。西洋文化と東洋文化といったように。しかし,神と仏の例を出せば分かるように,歴史においては異質なもの同士が常に接触し,融合し,分離していたし,ある個人の生活すら,それらのすりあわせから構成されている。とするならば,ある時点で表面的に異質な文化を併置して比較することに何の意味があるだろうか。

 むしろ,ぼくにとっては,スイッチとリンクで構成されたウェブの景観とそのダイナミクスをていねいに解きほぐし,書き留めていくことが,おもしろそうな作業として映る。松岡正剛さんの書く文章がぼくにとって刺激的なのもそうした理由からだろう。

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