新しい文化心理学とアンチ・オイディプス

新しい文化心理学の構築: 〈心と社会〉の中の文化 アンチ・オイディプス

学部ゼミでヤーン・ヴァルシナーの「新しい文化心理学の構築」を読んでいます。

3・4年生と院生,それに教員3名で頭をつきあわせながら読んでいますが,何を言っているのかなんだかよく分からない箇所にたびたび出会い,その都度立ち止まっています。

私はこの本を,記号作用の歴史的発達過程を分析するための枠組みの提案として受け止めていますがどうなんでしょうね。もちろん他の読み方もあるでしょう。

頭を悩ませた後,さらに頭を悩ませる研究会が始まりました。昨年は札幌学院大のフランス哲学の先生にご指導いただきながらドゥルーズ「ベルクソニズム」を読んだのですが,今年はその続きとしてドゥルーズ・ガタリ「アンチ・オイディプス」を読むことにしました。

手始めにその2章から出発したのですが,初見では何を言っているのかさっぱり。しかし,先生にいろいろと教えていただくと,自分でも非常に驚いたのですが,かなりすんなりと理解できるようになりました(もちろん,初学者にとっての理解なので,さらに理解が深まると,同時に謎も深まっていくのでしょうが)。

要は,こういうことなのでしょう。なんでもかんでもエディプスコンプレックスの枠組みで説明しようとする精神分析ってどうなのよ。きっちりとした構造に整理される前の,おどろおどろしたものを生み出す何か(=欲望機械)に目を向けなければいけないんじゃないの。

そうとらえると実は,ヴァルシナーのこの本は,おどろおどろしたものを生み出す何かと,きっちりとした構造に整理する何かとがどう関わり合って,どう動いているのかを説明する枠組みを提案しようとしたもの,と理解することもできるんじゃないか,と思いました。

オンラインセミナー

Psychological Investigations: A Clinician's Guide to Social Therapy Schools for Growth: Radical Alternatives To Current Education Models

昨年の夏に来日したEast Side InstituteのLois Holzmanが,日本の研究者や学生向けにオンラインセミナーを開くことになり,それに参加することにしました。

いつも何かを教える立場なので,何かを「受講」するのは久しぶりです。

第1週目の今週は,まずは参加者同士の自己紹介。毎週英語で何かをアウトプットしていく作業は頭がしびれます。英文を校正してくれるサポートが欲しいです。

上に掲載しているのはセミナーで購入を指定された本。新年度の講義の準備と同時並行で読み進めて,果たしてパンクしないだろうかと今から戦々恐々であります。

沖縄で統計改革と出会う

久しぶりの更新です。

週末は沖縄に行っていました。バカンス,ではなく,琉球大にて開催された教育心理学会に参加するためです。

学会を離れたお楽しみは夜の宴会のみで,日中はほぼ会場内をうろうろして情報を仕入れていました。

今回の一番の収穫は,岡田謙介先生による効果量に関するチュートリアルをうかがえたことでした。

p<.05

検定の結果について私たちの世代は上のように確率は0.05よりも小さい,と表記すればそれでよい(ことにしましょう)と習いました。今でも多くの研究発表や論文で上記の表記が使われているかと思います。

しかしAPAのガイドラインでは,p値は具体的な数値を書くこと,効果量dとかηとかを記載すること,と明示されているとのことです。これからの心理学実習には少なくとも効果量についてはしっかりと教えなければなりませんね。

というわけで,札幌に戻ってから,岡田先生がお書きになった本を買ってきました。

統計的なモデルを想定していないデータしか扱っていない不勉強な私にとっては初めて聞くことばかりでしたが,とても面白かったです。数学というのもやはり人間のすることだな,という温かさを感じたのです。

伝えるための心理統計: 効果量・信頼区間・検定力
大久保街亜 岡田謙介
勁草書房
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【ご案内】連続公開講演会のお知らせ

10月19日(金)・20日(土)の2日間にかけて、北海道大学大学院教育学研究院主催によります連続公開講演会を下記要領で開催いたします。いずれも参加費無料、申し込み不要です。どうぞお気軽にお越しください。

また、本講演会の詳細につきましては、特設サイト「こどものめ」をご覧ください。

第1回講演「小中学生の語彙に関する第1回全道調査から学ぶ

講師 福田信一(北翔大学)・高橋伸(札幌市立中央中学校)
コメント 茂呂雄二(筑波大学)
(敬称略)

日時 2012年10月19日(金) 18:30~ (21:00終了予定。受付は18:00より開始)
会場 北海道大学学術交流会館第1会議室

 

第2回講演「児童養護施設でのドキュメンタリー制作現場から学ぶ

講師 刀川和也(映画『隣る人』監督)
インタビュアー 伊藤崇(北海道大学)
(敬称略)

日時 2012年10月20日(土) 9:30~13:30 (映画鑑賞受付は9:00より開始。講演会受付は11:00より開始)
  9:30-11:00 『隣る人』上映(無料)
11:30-12:30 刀川監督による講演
12:30-13:30 公開インタビュー
会場 北海道大学学術交流会館 小講堂

野火的研究会でホルツマンを読む(3)

Vygotsky at Work and Play

ホルツマンがヴィゴツキーから学んだことは,少なくとも2つあります。1つは「方法論における道具についての考え方」,もう1つは「認知と情動という二元論をいかに克服するか」という問題とそれに対する答えです。

まず第1の点について。

道具(tool)とは何でしょうか。一般的には,それは,ある目的のために用意されたものです。心理学における方法も一般的にはそのようなものと解されてきました。すなわち,なんらかの問題を解決に導くという目的のために用意されたものです。つまり道具は結果のためにある(tool for result approach),という考え方です。

この考え方では,道具とそれが対処すべき問題は切り離されていて,独立しています。また,その道具がもたらす結果はそれを適用する前から予測可能です。

それに対してヴィゴツキーは,「道具と結果が同時に生成され,それが連鎖するという活動」(p.9)として心理学的な探求をとらえています。道具と結果は切り離されているのではなく,「弁証法的な単位/統一体/全体の要素」だととらえられます。心理学の「方法とは,適用されるものでなく実践されるもの」(p.9)だというのです。

どういうことでしょうか?こういう事態を考えてみましょう。あることをしてみたら,ある帰結をもたらすことがわかった,とします。例えばごく素朴な事態,「背中がかゆい」を考えてみましょう。なんだか背中がむずむずするので手を後ろに回してかいてみるも,かゆさの本丸がどこだかはっきりせず,あちこち試しにひっかいてみる,ということはないですか。このとき,かゆくもないところをかいている手は「道具」でしょうか?かゆさの低減という課題を解決していないのですから,ただ背中をさまよっているだけのものです。しかし,ちょうどいい場所に手が行き当たったとたん,「ここがかゆかったんだ」というかゆい場所が同定されると同時に,そこをかいている手はかゆさを低減させる道具となるのです。つまり,道具と問題が同時に同定されるわけです。

ここで大事なことは,背中に手をはわせてとりあえずあちこちかいてみるという行動がまず初めにあり,その後で道具と結果が同時的に生起するという時間的な順序です。何が道具となり,何が結果となるのかは,事前には分かっておらず,あることを「する」ことで初めて,その状況を構成する様々なものごとの一部が道具的機能と帰結としての機能に分化したと考えるべきなのです。

まとめますと,道具と結果の関係については2つありうるのです。1つは道具は結果のためにあるという考え方で,ある結果がもたらされることを初めから前提して,あるものを道具とする見方です。もう1つがヴィゴツキーとホルツマンの採用するもので,道具と結果は実践的な行為を通して常に連続的に生起し続けるという考え方です。

次に第2の点について。ヴィゴツキーの発想法のひとつの特徴として,「二元論の克服」があります。例えば心身二元論は彼が克服しようとしていた最たるものでしょう。

認知(cognition)と情動(emotion)の二元論も彼が克服を目指したものです。ここで言うところの認知と情動とはどういうものでしょうか?実はホルツマンは認知はこれのことで情動はこれのこと,といったようにきちんと明示してはいません。ただ,読む限りにおいては,認知とは知的行為をもたらすような精神(mind)の働きのことで,情動とはいわく言い難い,突き動かされる衝動のようなものと考えておけばよいように思います。

実はホルツマンは1章で,現在のヴィゴツキー派の研究者を暗に批判し,「ヴィゴツキー理論をtheory of mindにしてしまっている」と述べています。ここでのtheory of mindは「心の理論」ではなくて,文字通り,精神に関する理論ですね。つまり,ネオヴィゴツキアンの関心が人間の認知的側面だけにあることが問題だと指摘しているのです。

こうした傾向はなにもヴィゴツキー派の研究者だけでなく,ある文化の全体的な傾向だとホルツマンは診断しています。例えば心理療法は個人の情動にフォーカスする実践領域ですが,それすら,例えば認知行動療法のように,認知によって情動をコントロールするという発想に支えられているわけです。認知と情動は分かたれた上で,認知が上位に,情動はひたすら二次的な位置に置かれるのです。

ホルツマンによればヴィゴツキーはこうした二元論を克服する方法を提起しています。それは「模倣」に注目することです。私たちの知的な行為のほとんどは,誰かから学んだものでしょう。例えば言語は典型的なものです。当然ですが子どもは「どうすれば話せるのか知らない」状態から出発するわけですが,それを抜け出る唯一の方法は,「まず話してみる」ことです。話すという行動は子どもの発明によるのではなく,周囲の大人がやっていることの模倣として生まれるのでしょう。ではなぜ模倣するのでしょう。それは,「目の前の大人がしていることをなんとなくやってみたくなってしまう」からだとホルツマンは言います。

このようにして,「なんとなくやってみる」ことから始まる創造的な模倣,つまり模倣ではあるけれどもかつてない新しい出来事が生まれていく過程において,認知的側面と情動的側面とは連続的です。やってみたらできた,できたから今度もまたやる,また別のことをするとできた…といったように。

これら2つの議論に共通する大事なポイントは,行為が先に立つ,という点です。俗な言葉で言い切ってしまえば,「やってみなければ分からない」ということになるでしょう。そんな簡単なことなのかと拍子抜けしてしまいますが,意外とこれがなかなか出てこないアイディアです。なにしろ一歩間違えれば単なる精神論です。その背後にある理論や思想をはっきりおさえておかねばなりません(ヴィゴツキーとホルツマンにとってそれはマルクスです)。

野火的研究会でホルツマンを読む(2)

Vygotsky at Work and Play

 まずはじめに確認しておいた方がよいのは,ホルツマンが「発達心理学者」である,ということです。研究者として最初にトレーニングを積んだのが,言語発達心理学者のロイス・ブルーム(Lois Bloom)のもとでであったこと,次いで彼女がマイケル・コール(Michael Cole)らのプロジェクトに参加したことは無視できないことです。つまりは,日常的な文脈における子どもの発達や学習を見つめることが,彼女の基礎にあるのです。

 発達を理論化することは想像以上に難しいことです。例えば私たちはすぐに到達点からの眺めでもって,その道中を理解しようとしてしまいます。こうした発達観は,ピアジェのような発達段階論に見られます。子どもが「知的な」大人になる過程はどのようなものか,という問いのもとで,子どもの一挙手一投足が知的・非知的という網の目にかけられる。ある子どもの行ったことは,将来なるべき「知的成人」の種として解釈されるわけです。

 こうした理解の仕方を批判する研究者に浜田寿美男さんがいます。彼は,子どもは大人になるために生きているのではないと端的に批判し,不確定な未来に向かっていまここでもがき続ける子どもという観点から発達を描き直すことをもくろんだのです。

 ホルツマンが本書で展開しているのも実は同様の発想に支えられています。ただし,相当ポジティブな発想です。発達は不確定な未来に向けて一歩ずつ歩いていくようなものですが,その不確定性を不安なものであるとか,排除すべきものであるとかとは考えません(不確定な未来を排除する発想は,早期教育の典型的な前提でしょう)。むしろ,不確定ならば自分たちのいいように作っていけばいいじゃない,と発想を切り替えます。つまりは発達を創造的過程と捉えるのです。

 ホルツマンの発想が基づくのは,ヴィゴツキーの発達理論です。そこから彼女が何を学び取ったのか,次から検討していきましょう。

野火的研究会でホルツマンを読む(1)

Vygotsky at Work and Play

野火的研究会なる集まりに参加するため,東京へ行っていました。

いわゆる社会文化的アプローチを掲げた研究者たちが集まり,これからの心理学のかたちを議論していこうという趣旨の会と理解しています。実は初めての参加。

ここで,この夏に来日するロイス・ホルツマン(Lois Holzman)の書いた"Vygotsky at Work and Play "を読むことになり,私が報告者を務めました。

ホルツマンについてはこのあたりを参照いただくとして,ここでは本の中身について少し紹介して,私なりの論点を挙げてみたいと思います。

さて本書は6章から成っていますが,全編を通して,ホルツマンが盟友フレッド・ニューマン(Fred Newman)とともにたずさわった組織であるEast Side Instituteで展開されたいくつかのプロジェクトが紹介されます。それが2~5章で,1章はそれらのプロジェクトを推進する背景となった心理学理論の紹介,6章はまとめです。

ただし,プロジェクトの紹介とは言え,すべてを書き尽くすことはできない道理ゆえ,プロジェクトのディテールがどうしても読み手,特にニューヨークの実情をよく知らない読み手には伝わってこないのです。人々の置かれた状況の大変さ,そこから少しでも何か新しいことが生まれるよう仕掛けを作っていくことの難しさ,instituteのスタッフは恐らく大変な苦労をされているものと思われます。そのあたりのディテールにこだわり出すと,隔靴掻痒感がどうしてもぬぐえないのです。ですので,本書はプロジェクトの紹介については「ほう,こういうプロジェクトがあるのだね」と,深くこだわらずに一読するくらいでよいのではないかと思います。

その代わりに,1章と6章はじっくりと読み込んで欲しいところです。ここはホルツマンがヴィゴツキー理論から何を学んだのかが書かれている章なのですが,通常のヴィゴツキアンが言うようなこととは少し違います。もしかすると,ヴィゴツキーのイメージが変わるかもしれません。

というところで続きます。

国際ワークショップと公開講演会

日本発達心理学会が毎年企画しております国際ワークショップと公開講演会ですが,今年はニューヨークからロイス・ホルツマン(Lois Holzman)先生をお迎えして開催されます。

すでに学会ウェブサイトには案内があがっておりますので,こちらでも宣伝します。というのも,私もこの企画には一枚かんでおりますので,できるだけたくさんの方にいらしていただけるとありがたいのです。

どうぞよろしくお願いいたします。

2012年度国際ワークショップと公開講演会のご案内

発達心理学会@名古屋

先週末は名古屋で開催されていた発達心理学会に参加してきました。

出番は3つで,ポスター1件にラウンドテーブル(RT)での指定討論2件。お座敷研究者としては,お茶をひかないようにこのペースをなんとか持続したいものであります。

さてその指定討論ですが,1つ目は初日に開催された,神戸大の赤木和重先生主催による特別支援教育における授業作りに関するもの。授業を研究しているということで呼んでいただけました。

赤木先生が最近注目されている,京都の村上公也先生,古里章子先生の特別支援学級における授業を紹介する,というRT。村上先生の実践はDVDにもなっていて,それを事前に拝見していました。私は他の先生による特別支援学級の実践を見たことがありませんので,比較はできないのですが,素朴に面白い,というか,子どもとしてその場にいたいと思うような授業でした。

なにより,障害の特性に合わせた授業を目指すのではなく,授業の目標と子どもの特性(障害の,ではなく)に合わせて方法を練り上げていっているように見えました。これは当たり前のようでいて,特別支援教育の世界ではあまりそうでもないらしいということが今回のRTで分かりました。村上先生が目指す授業の目標も,レベルを下げているのではなく,むしろ数の世界の本質に触れることにあるように見えました。

私が拝見した映像の中で一番印象に残っているのは,とある女児の表情でした。自閉症と診断されているのだそうですが,自分の計算の遅さでチームが勝てないことにとまどい,悲しんでいる様子がありありと浮かんでいました。特性に合わせた授業では,むしろこうしたとまどいや悲しみを排除する方向にいくのかもしれません(よく知らないので推測です)。子どもが他の子どもといっしょに生活したり,成長して他の人とともに暮らすということは,こうした感情につきあっていくことでもあります。それにどう向き合うかを学ぶ場を補償しているのが,村上・古里両先生の実践だったと思います。

私は,教師にとっても,児童にとっても,理屈が通っていることが,「よい授業」の条件ではないかとコメントしました。

指定討論の2つ目は,二日目に開催された,富士常葉大の百合草禎二先生主催による,ヴィゴツキー研究に関するもの。メインゲストに大妻女子大の森岡修一先生を迎えて,言語教育にヴィゴツキー理論がどのように活かされるべきかという観点からお話をいただきました。

ヴィゴツキーを巡る状況は私ではフォローしきれないのですが,そこを森岡先生はきちんと整理されており,また,旧ソ連邦にあった中央アジアの諸共和国の現在の学校教育までご報告いただき,充実した講義を拝聴したような気分でした。

内容についてのコメントというよりは,ヴィゴツキー理論の大雑把なところと,日本における外国人児童への教育についての示唆を質問しました。まるでできの悪い学生のような質問だったのですが,それにきちんとお答えいただいて恐縮してしまいました。

二日目午前には自分のポスター発表があり,珍しくたくさんの方に足を運んでいただきました。

三日目はフリーなので気になる発表をふらふらと。言語発達に関する札幌学院大の鈴木健太郎先生や立教の石黒広昭先生たちの一連の発表はとても面白いです。最初の言語が生まれるまでの道筋を,複数のメカニズムの並走としてとらえること,そして,母子相互作用をそれが起こるトータルな場の変容として記述するという視点は参考になります。

振り返ってみると充実した三日間でしたね。

小学校での研究発表会

とある小学校と,授業場面での教師と児童によるコミュニケーションに関する共同研究を3年間行ってきた。今年度が3年目にあたり,先日その成果を先生方の前で発表してきた。今回は,共同でデータを分析している関根和生さんと一緒。関根さんは発表がうまくて,学校の先生から「好きだ」とお褒めをいただいていた。

分析は,ビデオに撮った授業に基づいている。今回は,教師と児童の身体的な動きを徹底的に細かく見るという目的があるので,ビデオで撮影することは必然的だった。クラスにビデオを入れさせていただくというのは難しい。プライバシーの問題など,いろいろとクリアしなければならないことがたくさんあるからである。

そういう起こりうる問題を越えて,研究の目的にご賛同くださったのが,その小学校の校長先生はじめ先生方だった。特に校長先生が非常に面白がってくださり,全面的にサポートしてくださった。先生にはことばにできないくらいの感謝の気持ちがある。学校の授業研究を引き続き行っていくことが,先生のお気持ちに応える誠意だと思う。

発表会には全校の先生が集まっておられた。ものすごい熱意である。

校長先生から趣意説明をいただいた後,司会をバトンタッチし,2人の分析を報告。関根さんは挙手と身振り,私は視線の動きと発話について。最後に,校長先生からコメントをいただく。

その後に他の先生方からご意見をいただいた。率直に言って,本質的な質問や感想をいただくことができたと思う。ありていに言えば「いただいたご意見を参考に今後もがんばっていきたい」ということなのだが,「どうがんばればいいのか」を具体的に指し示していただけた。

例えば教室には,実物投影機(書画カメラみたいなもの)が一昨年導入された。それによって,児童の視線の動かし方が変わったような印象がある,と,ある先生がおっしゃった。これは本当に嬉しいサジェスチョン。授業では,黒板,教科書,他の子ども,教師など,さまざまなリソースがあり,それらを折り合わせて個々の子どもが学習課題に取り組んでいく。そこにさらにもう一つリソースが加わることによって,いかにして集団的な相互行為と個々人の思考のプロセスが再編成されるか。面白いテーマになる。

発表会のあと用意していたいだ宴席で,4月から月1くらいのペースで授業をきちんと見せていただくこと,もう少し小規模なものになるかもしれないが研究会を定期的に実施することを先生方と約束した。

普段はみなさんお忙しそうで声をかけるのもはばかられるほどなので,これを機会にいろんな先生とお話しさせていただく。こんなに楽しい飲み会はそうめったにあるものではない。