野火的研究会でホルツマンを読む(3)

Vygotsky at Work and Play

ホルツマンがヴィゴツキーから学んだことは,少なくとも2つあります。1つは「方法論における道具についての考え方」,もう1つは「認知と情動という二元論をいかに克服するか」という問題とそれに対する答えです。

まず第1の点について。

道具(tool)とは何でしょうか。一般的には,それは,ある目的のために用意されたものです。心理学における方法も一般的にはそのようなものと解されてきました。すなわち,なんらかの問題を解決に導くという目的のために用意されたものです。つまり道具は結果のためにある(tool for result approach),という考え方です。

この考え方では,道具とそれが対処すべき問題は切り離されていて,独立しています。また,その道具がもたらす結果はそれを適用する前から予測可能です。

それに対してヴィゴツキーは,「道具と結果が同時に生成され,それが連鎖するという活動」(p.9)として心理学的な探求をとらえています。道具と結果は切り離されているのではなく,「弁証法的な単位/統一体/全体の要素」だととらえられます。心理学の「方法とは,適用されるものでなく実践されるもの」(p.9)だというのです。

どういうことでしょうか?こういう事態を考えてみましょう。あることをしてみたら,ある帰結をもたらすことがわかった,とします。例えばごく素朴な事態,「背中がかゆい」を考えてみましょう。なんだか背中がむずむずするので手を後ろに回してかいてみるも,かゆさの本丸がどこだかはっきりせず,あちこち試しにひっかいてみる,ということはないですか。このとき,かゆくもないところをかいている手は「道具」でしょうか?かゆさの低減という課題を解決していないのですから,ただ背中をさまよっているだけのものです。しかし,ちょうどいい場所に手が行き当たったとたん,「ここがかゆかったんだ」というかゆい場所が同定されると同時に,そこをかいている手はかゆさを低減させる道具となるのです。つまり,道具と問題が同時に同定されるわけです。

ここで大事なことは,背中に手をはわせてとりあえずあちこちかいてみるという行動がまず初めにあり,その後で道具と結果が同時的に生起するという時間的な順序です。何が道具となり,何が結果となるのかは,事前には分かっておらず,あることを「する」ことで初めて,その状況を構成する様々なものごとの一部が道具的機能と帰結としての機能に分化したと考えるべきなのです。

まとめますと,道具と結果の関係については2つありうるのです。1つは道具は結果のためにあるという考え方で,ある結果がもたらされることを初めから前提して,あるものを道具とする見方です。もう1つがヴィゴツキーとホルツマンの採用するもので,道具と結果は実践的な行為を通して常に連続的に生起し続けるという考え方です。

次に第2の点について。ヴィゴツキーの発想法のひとつの特徴として,「二元論の克服」があります。例えば心身二元論は彼が克服しようとしていた最たるものでしょう。

認知(cognition)と情動(emotion)の二元論も彼が克服を目指したものです。ここで言うところの認知と情動とはどういうものでしょうか?実はホルツマンは認知はこれのことで情動はこれのこと,といったようにきちんと明示してはいません。ただ,読む限りにおいては,認知とは知的行為をもたらすような精神(mind)の働きのことで,情動とはいわく言い難い,突き動かされる衝動のようなものと考えておけばよいように思います。

実はホルツマンは1章で,現在のヴィゴツキー派の研究者を暗に批判し,「ヴィゴツキー理論をtheory of mindにしてしまっている」と述べています。ここでのtheory of mindは「心の理論」ではなくて,文字通り,精神に関する理論ですね。つまり,ネオヴィゴツキアンの関心が人間の認知的側面だけにあることが問題だと指摘しているのです。

こうした傾向はなにもヴィゴツキー派の研究者だけでなく,ある文化の全体的な傾向だとホルツマンは診断しています。例えば心理療法は個人の情動にフォーカスする実践領域ですが,それすら,例えば認知行動療法のように,認知によって情動をコントロールするという発想に支えられているわけです。認知と情動は分かたれた上で,認知が上位に,情動はひたすら二次的な位置に置かれるのです。

ホルツマンによればヴィゴツキーはこうした二元論を克服する方法を提起しています。それは「模倣」に注目することです。私たちの知的な行為のほとんどは,誰かから学んだものでしょう。例えば言語は典型的なものです。当然ですが子どもは「どうすれば話せるのか知らない」状態から出発するわけですが,それを抜け出る唯一の方法は,「まず話してみる」ことです。話すという行動は子どもの発明によるのではなく,周囲の大人がやっていることの模倣として生まれるのでしょう。ではなぜ模倣するのでしょう。それは,「目の前の大人がしていることをなんとなくやってみたくなってしまう」からだとホルツマンは言います。

このようにして,「なんとなくやってみる」ことから始まる創造的な模倣,つまり模倣ではあるけれどもかつてない新しい出来事が生まれていく過程において,認知的側面と情動的側面とは連続的です。やってみたらできた,できたから今度もまたやる,また別のことをするとできた…といったように。

これら2つの議論に共通する大事なポイントは,行為が先に立つ,という点です。俗な言葉で言い切ってしまえば,「やってみなければ分からない」ということになるでしょう。そんな簡単なことなのかと拍子抜けしてしまいますが,意外とこれがなかなか出てこないアイディアです。なにしろ一歩間違えれば単なる精神論です。その背後にある理論や思想をはっきりおさえておかねばなりません(ヴィゴツキーとホルツマンにとってそれはマルクスです)。

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