Nスペ

 現在NHKに対する視聴者の風当たりが強まっているようだが、ぼくはいくつかの理由で、なんとかNHKにはがんばっていただきたいと思っている。

 理由のひとつが、タイトルに挙げたNHKスペシャルをはじめとするドキュメンタリーを見たいからである。受信料を投げ銭と考えたら、払うに値する、良質なものを観ることができると思う。

 先日放送された、免疫学者の多田富雄さんの現在を取材したNスペもよかった。脳梗塞で倒れてから右半身不随に。喉の辺りの麻痺も残ったようで、言葉も出ないし、食べ物を飲み込むのも難しいようだ。よだれをたらした姿はお世辞にも格好いいとは言えなかった。

 それでも多田先生は(謦咳に接したことなどあるはずもないが、あえて先生とお呼びしたい)倒れるまでは使わなかったというパソコンを覚え、それから6冊も本を書き、新作能も(この方は能もするのだ)数本書いた。

 5年越しの原稿がどうだとか言ってる場合じゃない。俺はこんなことでいいのか。泣けてくるよまったく。

 そのあとで観たNHKアーカイブスの宮沢賢治もよかった。1992年の放送だそうだが、賢治の教え子さんが矍鑠としておられ、農学校時代に賢治が作って学生と歌ったオペレッタを再現してくださっていた。『星めぐりの歌』など、賢治は歌もいいのである。

ひとりもんの暮らし

 ずうっと書けずにいて、もう義理も礼儀もなんもなくしてしまっているような原稿の目処をなんとかつける。首と尾っぽがなんとかくっついた格好で、胴体も埋められた。目鼻は週末、家にこもってくっつける。

 帰りがけ、もう1年近くごぶさたしていた居酒屋「かんろ」へ。相変わらずの繁盛、カウンターにかろうじて空いていた1席にねじりこむ。マスターはきちんとぼくのことを覚えていてくれた。なんでもないことかもしれないけど、すごく嬉しい。ここのやきとんは肉の部分が大きくて食べでがある。

 蕎麦屋でしめたあと、ふと思いつき、ひとりカラオケを決行。CKBの「タイガー&ドラゴン」を6回くらい歌う。歌はいろんなものが発散できてよろし。

 思ったよりも体力を消耗した模様で。家にたどり着いて意識を失い、気がついたら朝10時だった。

鬼の居ぬ間

 妻が子どもを連れて里に帰った。

 別にケンカしたわけではなくて、孫の顔を見せに行っただけである。ただ、妻の骨休めも含めて4週間近く帰ることとした。

 そんなわけで思いがけず久々の単身生活である。

 しかしなんだか家に帰るのが恐いなあ。退屈なんだろうなあ。単身赴任をしているKさんが、このあいだメールで子どものいない生活のつまらなさを教えてくれたけど、ほんとにそうなんだろうなあ。

 というわけで、このすきに、たまった仕事を終わらせてしまおう。

決戦は日曜日

 日曜日。本日は朝からお子様関係の用事がつまっていた。

 午前中、生後3ヶ月の息子を対象とする実験を行うため、某先生たち3名さまがご来宅。今後継続する一連の実験の第一回目とあって、某先生方も息子も緊張のご様子。彼の反応はうまくデータになっただろうか。

 午後、息子がちょうど生後100日になった記念に、スタジオ写真を撮りに行く。歩いて30分の写真館。プロフィールに名前を書いて、着せる服を選ぶ段になって、店員さんがドレスの棚を開けてくれる。あのう、うちの子は男の子なんですが。確かに「アマネ」なんていう名前ですがね。

 夕方、札幌駅に移動し、茨城から遊びに来た両親と妹とその子を迎えに行く。

 夜はいっしょに食事。甥は離乳食を食べ始めたころだというので、豆腐ならいいかなと気楽に豆腐専門店を予約しておいた。だがこれが大失敗。通された部屋は掛け軸などかかっているような立派な個室。甥は目につく物なんでも触ってガンガンとたたかねば気が済まないお年頃。一方、息子は息子で普段と違う雰囲気にギャアギャアと泣き続ける。大人たちは気の休まるまもなく、おいしかったであろう食事もゆっくり味わえぬまま帰途についたのでありました。

緑のウンチ

 子どものおむつを取り替えていると、ここのところ、ウンチが緑色である。それも、鮮やかな緑だ。

 「緑便」といって、生まれて数ヶ月の子どもにはよくある色のウンチである。確かに産院から帰宅してひと月くらいはたまに緑便が出ていた。2ヶ月にはいるとドロリとした黄土色のウンチばかりだったので、このままでいるのかなと思っていた矢先に復活した緑ウンチであった。

 心配ないと分かっていても、どこか内臓の調子が悪いのではと、万が一というのを考えてしまう。本当は、子どもはほったらかしにしても育つ、くらいの気構えがよいと思うのだが、根が心配性であるため、どうもいけない。

 緑便の他にも、手の甲や足の裏にプツプツができていたし、顔の湿疹がなかなか治らないということもあったので、妻が子どもを連れて小児科を受診し、いろいろと見てもらった。しかし、いずれも特に問題ないとのこと。湿疹には塗り薬を処方してもらったようだ。

 今日も今日とて緑便なのだが、そんなおり、NHK教育『すくすく子育て』で「ウンチ特集」を観た。

 実にさまざまな色や形のウンチがあるものだ、とただただ感心した。元はほとんど同じなのに。

 と同時に、いろいろな色や形のウンチがある、ということを知っただけで、なんだか楽になった。これはどういう心理的変化なのだろう。孤立した一つの事例が、グラデーションの中に組みこまれることにより、なんらかのつながりが出来たということだろうか。仕事のネタになりそうな気がする。

秋味

 秋味、というのは鮭の別称である。しかし北海道では8月下旬ごろから鮭が出回り始めて、秋の味というにはちと早い気もする。

 昨日堪能したのは鮭ではなく、秋の味。

 日曜の道心シンポは認定心理士会の研修もかねていたらしく、講師料というのが出た。あぶく銭はさっさと使うに限る。そこでなじみの三徳六味に出かけた。

 祝日の前日だけあって大盛況。辛うじて空いていた一席に陣取り、生ビールで喉を潤す。マスターも奥さんも忙しく立ち働いているので、手が空くまでじっくりとメニューを眺める。

 メニューはすっかり秋めいている。とりあえず3品。かぼちゃ豆腐、翡翠銀杏、それに、おお、牡蠣だ。牡蠣が出始めたのだなあ。聞くと昆布森産とのこと。厚岸のそばだそうだ。身が貝殻いっぱいにつまっておいしそう。これを焼いてもらう。

 かぼちゃ豆腐はねっとりと甘く、上に乗ったかぼちゃの種がアクセントになって楽しい。銀杏は、どこの居酒屋でもあると頼んでしまう一品。ビールにも酒にもあう。牡蠣の身はむっちりと、噛み切ると中から白い汁がほとばしる。海のミルクとはよくぞ言ったものだ。

 ひととおり楽しみ、ここからが佳境。越乃景虎、それに〆張鶴をすする。どちらも新潟のお酒らしく、飲み口は水のごとく、しかし、口中から鼻にかけて華やかな香りが残る。景虎の方がどっしりとしているだろうか。

 順番がむちゃくちゃだが、最後にお造りをもらう。愛媛であがったというもみじ鯛。空輸してきたのだとか。真鯛なのだが、夏の終わりから秋口にかけて、紅葉の季節に食べる鯛をもみじ鯛と特に呼ぶらしい。ちなみに、桜の季節に食べるのは桜鯛。

 さて、おあいその前に、家で待ってる妻に、奥さんお手製のなめらかプリンと、栗の渋皮煮をおみやげでいただく。これをしないと恐ろしいことになる。

 いずれにも紅葉の葉を散らし、目で楽しませ、そして舌で楽しませる。堪能しました。ごちそうさまでした!

社会と心理学の接点

 以下の文章は、10月30日に開催される北海道心理学会で行われる予定のシンポジウム「心理学が社会にできること」にて話そうとしていたものである。

 書いていてなんだか面白くないし、話が抽象的だし、結論もありきたりだし、将来の具体的な道筋も描けていないので、棚上げすることにした。ただ、ふくらませられれば面白くなる可能性はあるような気もする。そこで、議論のたたき台にでもなればと、人目にさらすことにした。何かご意見がある方はコメントいただければさいわいです。


 心理学は社会にたいしてどう貢献できるのか?この問いを向けられてどう答えるか。

 そもそも心理学も社会の大きな営みの一部だと考えれば、この問いは、研究者集団とそれ以外の人びととの分業体制をどのように調節するのか、と読み替えることができるだろう。

 この分業体制のあり方にはいくつかの種類があるだろう。少なくとも3つ挙げられると思う。

(1)社会からの要請とそれへの応答
 研究者集団がなんらかの社会的課題を解決するという依頼を受け、そのための基礎研究を実施。研究結果を社会的課題を抱えた現場へ還元する。

(2)心理学概念の社会的普及
 研究者が説明に使用する概念を、研究者以外が使用する。日常的経験で得られた知を体系化するうえで不可欠である。

 私的な経験だが、子育てサークルに参加したときのこと、3ヶ月くらいの子どもを連れてきた母親が、子どもの成長の程度を紹介する際に「喃語」という言葉を用いた、ということがあった。

「喃語」という言葉は、現在では一般的に使われることは少ないが、そもそもは、ぺちゃくちゃしゃべること、男女がいちゃいちゃしゃべることを指す。
 くだんの母親は明らかに発達心理学用語としてこの単語を用いていた。子どもの成長の説明に心理学概念が入り込んでいる例といえるだろう。

 (1)(2)はいかにも成功した分業体制であるように思われる。知を得たいものの道具も時間もない人びとと、知を得ることに道具と時間をかけている人びととが相補的関係にある。

 しかし、これら2つの集団には、分業しているがゆえに、互いに見えない部分がある。成果を求める側は知見が生産された現場を見ていないし、知見を生産した側は成果が用いられることに無力である。その結果、次の(3)のような接点を考えねばならなくなる。

(3)心理学概念の暴走
 研究者の使用する概念が普及する一方で、概念の埋め込まれていた作業仮説や理論が失われ、概念のみが先走ってしまうこともある。

 たとえば、現在、脳の研究から得られた知見を教育に活用しようとする動き、あるいはそのような要請がある。ためしにAmazonで「脳」「教育」をキーワードとしてAND検索してみた(2005年10月28日調べ)。157点のヒットがあったが、1980年から2001年までは年間10冊以下の出版点数で推移していたものの、2002年以降、2003年を除いて、出版点数が年間20冊を超えていた。近年の出版界での「脳と教育」ブームを示す結果と言えよう。

 このことについて「世界」2005年11月号が、伊藤正男、榊原洋一、柳沢正史、河原ノリエ各氏による討論を掲載している。
 討論の趣意は、こうである。現在脳科学では分子的レベルとより高次の意識や心のレベルという2つのレベルでの議論がおこなわれている。分子的レベルでの知見は確実に積み上げられているが、それと意識のレベルとをつなげるブレイクスルーはいまだ見えない。ただ、研究者は橋渡しはいつか可能と信じて研究を続けている。

 この段階では実にさまざまな作業仮説が生まれる。たとえば、同性愛者と異性愛者のあいだで、脳内のある部位の活動や神経伝達物質の多少に差異が見られたとする。すると、当の物質が同性愛の原因である可能性はある。

 この研究結果はあくまでも相関に基づくものであり、因果関係をつきとめたわけではない。なぜならクリティカルな原因が別にあるかもしれないからだ。研究者はそのことを重々承知しており、可能性の指摘にとどめる。研究はこの可能性の確からしさを上げていくことにターゲットをしぼっていく。

 一方で、作業仮説を独自の文脈で読み解こうとする人びともいる。討論で主として挙げられていたのは、教育学、ジャーナリズム、そして一部の企業である。これらにかかわる人の中には、作業仮説にすぎなかったものを科学者お墨付きの結論として採用し、広報に努める。仮説はいつのまにか事実となるわけで、その際には科学的言説が一種の権威として用いられるのである。

 では、研究者は、果たしてこの状況を指をくわえてただ眺めているだけでよいのかだろうか。

 何がどこまで分かっているのか、それはどのようにして分かったのか、結局のところ何が分かっていないのか。少なくとも、これらのことを真摯に伝えようとする努力は必要だろう。そのためには研究者集団とその他の集団とのあいだを橋渡しする良質の翻訳者が必要だ(優秀な翻訳者が優秀な研究者であるケースもあろう)。流布する知を批判的に眺めるサイエンス・リテラシーの教育もそれを下支えするはずだ。

 都合のいい概念を得て先走ろうとする社会的動向がどこかにあるならば、それをなだめることはいかにして可能か。おそらく、分業のあり方を見直す作業から明らかになるだろう。

子育て支援センター

051023.jpg

昼過ぎから、ベビーカーに子どもを乗せて、妻と3人で札幌市子育て支援総合センターを訪れた。2~4ヶ月児向けの歌遊び講座に参加するためだ。妻が申し込んでくれた。

 札幌市子育て支援総合センターは、昨年誕生したばかりの新しい施設である。札幌の繁華街、すすきのの中心から歩いて5分ほどの場所にある。繁華街のそばにありながら周囲は閑静なたたずまい。それもそのはずで、小学校の敷地内に、保育園と小学校に隣接して建てられている。さらに、正面入り口のすぐ脇には交番まである。

 歌遊び講座には15組ほどの親子が参加していたろうか。妻の友だち関係のみなさんを中心に小さな輪ができる。

 センター職員の方だろうか、講師となり、赤ちゃんを相手にしてちょうどいい歌を、参加者がそれぞれ自分のところの子どもに歌って聞かせる。歌といってもたいそうなものを覚えなければならないのではなく、子どもに向かい合うという姿勢とリズミカルな歌い方と肌と肌で直接触れ合うことを心がけましょうという程度。単純だが、確かに大事なこと。

 帰りがけに、行きつけの居酒屋に行き、子どもの顔を見せた。子どもを見るとみなにこにこしてくれる。そう言えば、地下鉄駅のエレベータではご高齢の方々がみな子どもの顔を見てにこにこしてくれる。街というものの持つもう一つの顔が透けて見える。

冬が来る前に

 先日のこと。妻が子を連れて札幌大通公園へ散歩に出かけたとき、小さな羽虫の大群が空中にぷかぷかただよっており、そいつらが子どもの鼻の穴や目に入って大泣きしたのだそうな。

 おそらく雪虫というやつだろう。札幌に来てから初めて知った。この虫が飛んでからしばらくすると、雪が降り出すのだそうな。雪を知らせる虫であるが、服や顔にぺとぺとつくので始末が悪い。

 雪虫が飛んだからというわけではないが、ストーブの準備をした。昨シーズンの残りの灯油を使って試運転をする。夏前に整備に出しておいたせいか、火をつけるとグオーという音とともにストーブ本体が小刻みに揺れるという現象はなくなっていた。よかった。灯油の値上がりが気にかかるが。

 今年の冬は子どもとともに過ごすわけで、ハイハイなどし始めたらストーブのそばに近づけないよう親はいつも気が休まらない。そこでストーブのまわりに置くサークルを買った。これでも安心はできないけどやるべきことはしておく。

 街路樹の葉はもう紅く、スーパーに行けば大根と白菜が野菜売り場の主役に躍り出ている。

 大学では、学生が卒論でそろそろ目の色を変え始めている。

 3度目の冬である。

YP-F1ZBを試してみた

 自然な会話を録音するために、デジタルオーディオプレイヤーを使っていることを書いた。

 そこで最後に紹介したYP-F1ZBを購入したので、早速試してみる。

 まず、個人的に一番のポイントであるところのクリップだが、しっかりした作りで、襟元や胸ポケットに指しても動かない。しっかりしているためにクリップ自体がだいぶ重いのだが(スチール製だと思う)やむをえないか。

 PCとのインタフェースは、USBを介する。YP-F1ZBは、PCに接続するとそのまま1GBのメモリとして使える。Windowsのエクスプローラからファイルの操作が可能である。
 YP-F1ZB側にあるUSBケーブルの接続口が変わっていて、イヤホンジャックの穴と共用である。充電はUSBからとる。

 さて、朝から夕方まで、1日これを胸ポケットに装着して生活してみた。普段の発話をどこまで鮮明に録音できるのか、バッテリーはどのくらいもつのかを確認するためである。

 結果、6時間連続録音したところでバッテリーが力尽きた。まあバッテリーのもちは十分すぎるくらいだろう。
 次に、録音された音声(WAV形式で保存される)を聞いてみる。エクスプローラから録音されたデータを見ることができる。ファイルサイズは、6時間で92MB!たったそんなもの?小さすぎる。
 案の定、録音された音声は非常に聞き取りづらいものであった。胸元にあるにもかかわらず、わたしの声すら聴き取りにくい。音質の面では、残念ながら、iRiver N-10とは比べものにならないくらい低い。ちょっとこれでは使えない。

 まとめると、装着する際の容易さと安定度、およびバッテリーとメモリの容量は満足のいくものであったものの、音質が悪く、会話音声の明瞭な記録という目的に照らせば不十分であった。

 これで、N-10にしっかりとしたクリップをつけるという解決方法がどうやらベストであるらしいことが判明。やはり買ってみないと分からないことは多いものだ。

 なお、研究の目的からすると不適の烙印を押されたYP-F1ZBであるが、1GBのUSBフラッシュメモリとして余生を過ごしていただくことにする。