あせあせ

 全国的に暑いそうですが、札幌もこのところはなかなかのものです。それでも朝晩は涼風が網戸を通り抜けてゆくので気持ちがいい。なので最近は、日中はアマネと遊び、お仕事は早朝やっております。

 今週はちょいとハード。

 10月に開かれるLD学会に呼ばれてしゃべることになった。読み書き障害のシンポジウムで、音韻分解関係の話をすることに。ただいま継続中の共同研究の理論的枠組みをお話しすることにした。抄録に載せる原稿を書かねばならない。なんと天野先生もいらっしゃるとのこと。ひええ。

 9日に研究会を開く。『実践共同体を越えて』と題された本を読む。そのレジュメを作らねば。この本、 Lave&Wengerの議論を主として社会言語学者が発展させるというものだが、ひとつの方向としてはあるように思う。要は、 reificationのしくみを、言語を対象として明らかにするということだ。

 8日には、恵庭市で実施されているブックスタートの見学に行く。研究協力のお願いも兼ねているので、そのための準備を月曜にせにゃならぬ。

 一番でかいのは、再来週締め切りの理論本の原稿。あせりつつ、ただいま本を読みながらちょこちょこ書いている。いまから罰ゲームに備えて腹筋でも鍛えようかな。袋叩きにあいそう。

前期終了

 今週水曜で非常勤2つが終了。ひとつはレポートだが、もうひとつの方は試験を来週に行なう。採点を8月頭に終わらせて、ようやく肩の荷がおりる。もうひとふんばり。

 終了後、北大にとんぼ返り。坂元忠芳先生が来校され、セミナーを開くとの情報を受け、それに参加するため。3時から始まっていたので、途中からの参加とあいなった。

 先生のご尊顔は初めてお見かけしたのですが、まあお元気な方でした。しかし70を越えてらっしゃると思うのですが、いまだにバリバリと本を読みこなしているところがすばらしく、我が身の無知に恥じ入って話しかけることはできませんでした。

 豆知識。どうも先生的には、ユングが来る、らしい。

【案内】 発達と学習研究会のお知らせ

発達と学習研究会(愛称 ハガ研)のお知らせ

第1回 言語と実践共同体論

 学習科学に関連したさまざまな文献を検討し、研究の底力を鍛えるための集まりを開きます。
 つきましては、第1回会合を以下の通り開催いたします。関心のある方の多数のご参加をお待ちしております。なお、レポーターも随時募集しております。

 ◇期日 8月9日(水) 10:00~17:00
 ◇場所 教育学研究科附属子ども発達臨床研究センター C302

 ◇検討する文献
 Barton, D. and Tusting, K. (2005) Beyond Communities of Practice: language, power and social context. New York: Cambridge University Press.

 Contents
 1 Barton, D. & Hamilton, M. Literacy, reification and the dynamics of social interaction.
 2 Tusting , K. Language and power in communities of practice.
 3 Creese, A. Mediation allegations of racism in a multiethnic London school: what speech commnities and communities of practice can tell us about discourse and power.
 4 Rock, F. “I’ve picked up some up from a colleague”: language, sharing and communities of practice in an institutional setting.
 5 Kreating, M. C. The person in the doing: negotiating the experience of self.
 6 Martin, D. Communities of practice and learning communities: do bilingual co-workers learn in community?
 7 Harris, S. R. & Shelswell, N. Moving beyond communities of practice in adult basic education.
 8 Lea, M. R. ‘Communities of Practice’ in higher education: useful heuristic or educational model?
 9 Myers, G. Communities of practice, risk and Sellafield.
 10 Gee, J. P. Semiotic social spaces and affinity spaces: from The Age of Mythology to today’s schools.

 参加希望の方、レポート志願の方は下記連絡先まで。
伊藤 崇(tito at  edu.hokudai.ac.jp  または 内線3293)

【案内】 運動と発達 勉強会のお知らせ

 7月31~8月2日に開講予定の佐々木正人先生の集中講義に先立ち、 生態心理学についての学習会を以下の予定で開催いたします。

日程 第1回 7月20日(木)17時~20時
    第2回 7月27日(木)13時~18時

場所 教育学研究科附属子ども発達臨床センター C302

 

 当日、集中講義のテクストである「ダーウィン的方法」をお配りします。(代金もいただきます。) それを補足するために以下の文献を読みたいと思います。

・ギブソン、J. J. 1992 山上暁(訳) アフォーダンスについての覚書 安西祐一郎・石崎俊・大津由紀雄・波多野誼世夫・溝口文雄(編) 認知科学ハンドブック 共立出版. pp.629-639.)
・リード、E. S. 2000 アフォーダンスの心理学 新曜社 pp.1-140
・ギブソン、E. J. 2000 知覚の発達のための生態心理学者のプロレゴメナ:機能的アプローチ 現代思想、28(5), 128-141.
・佐々木正人 2005 地面や空気から「心」について考えることもできる:早わかりアフォーダンス 岩波科学ライブラリー105 ブックガイド〈心の科学〉を読む pp.115-126.

 参加を希望される方は、下記連絡先まで。また、事前に文献を入手したい方もご連絡ください。

伊藤 崇(tito at edu.hokudai.ac.jp)

しまった

 秋の日心に参加する予定です。某先生の某WSにお誘いを受けて、お話しすることになりました。

 例年、教心と発心には参加していたのですが、日心にはどうも都合がつかずに行けずにおりました。ですので、久々です。最後に参加したのって、もしかすると母校がホストをしたときじゃないですかね。そうするとずいぶん前だなあ。

 久々なので、各種申し込みスケジュールが身にしみてないのですね。これが教心とか発心なら、「あ、そろそろ」と体が反応するのですが、日心のスケジュールはそれらとは少しずれている。

 そんなわけで、大会参加申し込み締め切りを忘れておりました。

 今週の水曜だったんですねー。慌てて、ヘルプデスクにメール書きました。

 メールは書きましたが、大丈夫なんでしょうか。これで参加できないとなると某先生や某先生に大変なご迷惑をおかけすることになってしまうので、冷や汗ものです。

 こうして人は信用を失っていくのですね。

“しまった” の続きを読む

院生と研究会

 さて、昨日は大学院のゼミでした。今年はマスターの学生さんが2名入ってきました。今回はかれらに卒論の反省と修論に向けた構想発表をしてもらいました。

 いずれの計画も、まだぼんやりとしていて、「とにかくがんばってくれ」としか言えないような感じでした。「おもしろい」と感じている現象はあるものの、それをどうしたらいいのか分からない。徒手空拳というか。これからの大学院生活で必要なことは、いろいろな「武器」を身につけることでしょうね。それでもって集めたデータに対峙すること。

 武器というのは、要するに理論であり、方法論です。ですがマスターの段階では、まずは先に理論にどっぷりと浸かってみることをおすすめします。方法論については、修論を書いた後、隣接領域を横断できる余裕が出てきたころに勉強すると面白いと思います。

 振り返ってみると、自分はどうだったんでしょうか。

 とにかく本を読まねばと、なんか気ばかり焦って、学内でいろいろな読書会や研究会を立ち上げてはつぶしていただけのような気がします。さいわい東京近郊でさまざまな研究会が毎週のように開かれていたので、面白そうなものには臆面もなく顔を出していましたね。そのうちのいくつかは確実に今の自分の方向性を決定づけましたし、仲間と呼べるような方々も見つけることができました。いろいろな人に会ってまったく知らないことを聞くことが、ほんとに楽しかった。逆もそうですね。知らない人に自分がどういう研究をしているか話すことは、自信になります。プレゼンの基礎スキルを磨くことにもなると思いますし。

 ですから、集まりに参加するということは、もちろんそれに専心することは本末転倒なのかもしれませんが、研究を進める上で大切だと思うのですね。

 話は飛びますが、発達心理学会の分科会に認知発達理論分科会というのがあります。ぼくはここにもとてもお世話になったという実感があります。ここのよいところは、くくりが大雑把だという点です。参加する人が実際に採用しているアプローチや、具体的な研究対象や関心はバラバラなんです。それでも、実にさまざまな最新の理論を学ぶ。悪く言えば意地汚いのですが(本当に失礼だな)、よく言えば自分が現在のところ採用している理論を相対化できるという利点があります。

 たとえばここ見てください。ワクワクするでしょう。しないですか?しないでもいいです。ぼくはしたんですね、院生時代に。だから、ぼく自身はたぶんヴィゴツキアンだけど、ピアジェも読んだし、コネクショニズムも読んだし、マイクロジェネティックも読んだし、ダイナミックシステムズアプローチも読みました。身についているかどうかは分かりませんが。

 マスターのうちからふらふらするのは必ずしもいいことだとは思いません。ですが、一つのアプローチの奥底に潜っていくばかりではそのうち息苦しくなってくることもあるかと思います。そのとき、周辺から漏れてくる光明のようなものに触れてみるのもよいでしょう。

 そういう光明に触れられるような集まりを、ここ札幌で作りたいという欲望があります。まずは若い有職者で集まって、そこにとんがった院生を巻き込んでいくのがいいのかなとか、いろいろ考えてはいるのですが、どうしたらよいか。

バフチンにおける対話概念について: 桑野隆先生講演会まとめ

 と冠する集まりが東京茗荷谷の筑波大学で開かれた。

 ミハイル・バフチンは20世紀ソ連を生きた思想家である。彼の提出した概念には、コミュニケーションを分析しようとするときに援用できそうなものがふんだんにある。そのように考える研究者が一堂に会した形で、 100名近くが集まった。

 一番の目玉は、早稲田大の桑野隆先生のご講演である。先生はバフチンに限らず20世紀初頭のロシア文化、特に芸術運動をご専門に研究されておられる。今回初めてお姿を拝見した。なんとなく、厳しい感じの方のようにイメージしていたのだが、あにはからんや、柔和なたたずまいの方だった。

 壇上のお話は、「対話」概念をバフチンの著作の歴史を追って跡づけることに割かれた。

 バフチンのいう「対話」とは、人間という存在のありようについての考え方である。この考え方によれば、人格とは孤立した個人で完結したものとみなすことはできない。そうではなく、相容れないものとの並存において現れてくるものとして、人格が理解される。この考え方は、アメリカのロシア思想研究者ホルクイスト以降、「対話主義(dialogism)」と呼ばれ、バフチンの思想を一貫して枠づけるものとして捉えられてきた。

 たとえば、『ドストエフスキーの詩学の諸問題』(1963)では、こう書かれる。「在るとは対話的に交通することを意味する。… 生き、存在していくには、最低限二つの声が欠かせない」。ここに言われているように、対話という概念が強調するのは、複数の言葉が並置されている状態である。これを多声性(ポリフォニー)と呼び、誰にも向けられていないモノローグ的発話と対立させられる。 

 今回の桑野先生のご講演は、しかし、バフチンが執筆活動のはじめから「対話」という言葉を使っていたわけではなかった、というお話から始まった。以下、ご講演の内容をレジュメやぼくのとったノートに基づいてメモしておく。

 対話主義は、バフチンが一から創造した思想ではない。そもそも、日常会話に見られる対話形式が根元的なことばのありかただ、という認識はロシアの伝統的な考え方としてあった。それを「対話」というタームとして取り上げたのはフォルマリストのヤクビンスキイだった。バフチンはロシア・フォルマリズム最後の世代と目されることがあるが、フォルマリズムの担い手にも論争を挑んだ。したがって彼の対話主義は、ロシアの伝統的言語観を前提としながら、当時の芸術論やマルクス主義との対峙の中で磨き上げたものだと言える。桑野先生によれば、そのように当時のロシア人思想家なら誰しもが手の届くところにあった対話主義を、芸術のみならず他の領域にも利用可能な理論として練り上げたところに彼のオリジナリティがある。

 「対話」という言葉が頻出するのは、1929年に書かれた『ドストエフスキーの創作の諸問題』である。このテクストには、 1963年に書かれたヴァリアント(『ドストエフスキーの詩学の諸問題』)があり、邦訳で読めるのはこちらの方である。後に書かれた方には、いわゆる「カーニヴァル論」と呼ばれるパートが加わっているため、「対話」概念にもカーニヴァル論に合わせた形で登場するものがいくつか現れる。桑野先生はまず、29年版ドストエフスキー論と、 63年版のそれとの間にある、対話という言葉の使い方の異同をていねいに洗い出してくださった。レジュメにずらりと並んだ「対話」用法のリストは壮観である。

 一方で、1920年代初期に書かれたいくつかの著作、たとえば『芸術と責任』『行為の哲学によせて』『美的活動における作者と主人公』『言語芸術作品における内容、素材、形式の問題』(いずれも邦訳は水声社刊『ミハイル・バフチン全著作 第1巻』に所収)には、「対話」という言葉がほとんど出てこない。また、バフチンには1920年代中頃から後期にかけて他人名義で書かれた著作があるのだが、たとえば『生活の中の言葉と詩の中の言葉』『マルクス主義と言語哲学』(ヴォロシノフ名義)、『文芸学の形式的方法』(メドヴェジェフ名義)にも、同様に「対話」という言葉はほとんど出てこない。

 出てこないものの、対話主義の萌芽のようなものは見て取ることができる。

 たとえば『行為の哲学によせて』で述べられる、「理論的であること」と「参加的であること」の対比はモノローグとポリフォニーの対比につなげて読むことが可能である。理論的であることとは、「生きた唯一の歴史性に無縁の」抽象的統一体を指す。一方で参加的な意識とは、唯一の存在へと人を関わらせる活動を指す(レジュメより)。ここで、参加的とはロシア語でучастныйである。ところで、63年版『ドストエフスキー論』では、このような表現が見られる。「ただ対話的な共同作業への志向のみが、他者の言葉を真剣に受け止め、一つの意味的な立場、もうひとつの視点を表すものとして、それに近づくことを可能にするのである」(強調は伊藤)。ここに見られる「共同作業」は、 участныйに英語でwithを示すсоをつけたсоучастныйである。桑野先生は、この点に対話主義への息吹を感じ取っておられた。

 あるいは、『美的作品における作者と主人公』では、作品の理解が「感情移入」や「共感」に基づくのだと捉える見方を徹底的に批判する。他者と同じ目で物事を見ることはただの他者のコピーにすぎず、真の理解とは言えない、というのである。理解において重要なことは、外部にあることだという。新しい理解は、内部からは生まれないのだから。ここで述べられていることもまた、自己と他者の一致を前提とする態度=モノローグ的、不一致を理解の前提に置く態度=ポリフォニー的という図式で読むことができる。

 このように、対話主義の基本的な考え方は、たとえ「対話」という言葉がほとんど出てこないにせよ、すでに20年代初期の論文に見られるのである。

 対話主義が分かりやすい形で書かれるようになったのは、言語を対象とした議論がなされるようになってからだという。それまでは、つまり1920年代初期の論文では「唯一の出来事」といったような書き方で議論されていたことが、「言語論的転回」とでも呼べるような時期を経て、「発話」という概念に置き換えられた。言語論的転回がもたらしたことは大きく、たとえば「イントネーション」といった概念を容易に理論に組みこむことができるようになった。あるいは、20年代初期の論文では人格を「見る」メタファ(鏡、写真、肖像画)で表現していたものが、後半になると「聞く」メタファで語ることが多くなった。

 これとは少し異なる側面での変化として、文芸作品の批評に新たなカテゴリが導入されたことが挙げられる。すなわち、「聞き手」「読み手」である。それまでは、「美的作品における作者と主人公」といった論題からも分かるように、批評のカテゴリは作者-登場人物という二項がメインであった。そこに、作品を受け取る者という立場が重視されるようになったのである。

 さて、実はひとつ重要な問題がある。バフチンは、『ドストエフスキー論』で次のように述べている。

 対話のもっとも重要なカテゴリーとしての一致(согласие)。…不一致(несогласие)は貧しく、生産的でない。もっと本質的なのはразногласие(さまざまな声があること)である。実際、それは一致へと向かっているが、そこには声の多様性と非融合性がつねに保たれている。

 対話とは、むしろ自他の一致を拒否する概念ではなかったか?桑野先生は最後にこのような宿題を投げかけて壇上からお降りになった。

 ここで一致と訳されているのはсогласие。гласиеとは「声を出す」という意味で、それにwithのсоがついている単語。直訳すれば「ともに声を出す」ということだ。絶対的に相容れない他者への語りかけをしながらも、結果的にその他者の言葉と一致してしまうこと、これははじめから一致を前提とするモノローグ主義とは異なる。あくまでも対話の結果として、対等に声を出し合う者同士として、同じ言葉が発せられてしまう、そのように考えてみたらどうだろうか。言い換えると、表面的にはユニゾンなのだけれども、個々の声はそれぞれはっきりと聞こえており、いずれの声もなんらかの点で対等である状態が起こりうるのだということを、バフチンは言っているのではないか。

 ぼくはなにしろロシア語が読めない。また、テキストのヴァリアントを追って丹念に読み込むという研究方法は、ぼくの身につけていないものである。このたびは「対話」概念にしぼった検討だったが、それでもバフチンを読む上で最重要となるものである。それさえおさえればよいと言えるかもしれない。その意味で貴重なお話を拝聴できましたことに深く感謝する次第です。

ぽっちり研究会

 28日から30日まで、ぽっちり研究会が名古屋で開催された。

 ぽっちり研究会とは、世の中のぽっちりしたものに関心を寄せる研究者が、北は北海道、西は香川から一堂に会し、2泊3日で議論を戦わせるというものである。かつてはM研と言った。もちろんマツケンの世を忍ぶ名である。

 今回は、アメリカで最近とみにぽっちりしてきたという噂で持ちきりの、ダニエル・デネット『自由は進化する』について討議された。

 彼は自由という概念とのつきあい方を、この分厚い本の中で懸命に説こうとしている。自由とは、ダーウィン的アルゴリズムの上で連綿と転がってきた負け犬的生命体が選んだひとつの生き残り解決策である。これは、自由という概念を至上の善という不可侵の価値と見なすつきあい方からすると、驚くべき考え方だろう。

 デネットは本書最後の数章で、ヒトにおいて自由の生じたきっかけを、コミュニケーションと言語に置いた。ある一定のコミュニケーションパターンを選択するように進化したとすれば、現在のヒトのような種が生まれるはずだというロジックである。なるほど、確かにそうかもしれない。

 読書は粛々と進み、3日で1冊を読み終えた。なお、夕食には2日とも手羽先を食べた。

 この研究会では、このたび本を出すことが決まった。世の大学生の一部が泣いて喜ぶ企画である。そのための悪巧みもなされのだった。

FWSP

 函館からの列車はトンネルに入り、地中へと潜り込んだ。最深部を示す緑色のランプが窓の外をしゅんと通り過ぎていくのを座席に座ったまままどろみながら眺め、眠りに落ちた。

 25日、青森県は弘前にやって来た。津軽海峡を電車で越えたのは初めてである。

 相馬村にある「そうまロマントピア」にて開かれるFWSPに参加するためである。FWSPとはField Work Social Psychologyの略で、その名の通り、フィールドワークから研究を行なっている社会心理学者たちの集まりである。東北大の大橋英寿先生、京都大の杉万俊夫先生、大阪大の渥美公秀先生を中心とした関係者、院生が、年に1度、各地を転々としながら集まる。そこで、院生を含めて研究発表をするという趣旨の会である。今回で8回目だそうだが、途中から筑波大の茂呂雄二先生が参加しはじめ、そのおこぼれに預かってぼくは2度目の参加となった。クローズドな会で、新規参加者には開かれていない。

 北大からは3人の院生が乗り込んだ。ぼくは今回は発表会の司会を仰せつかった。

 相馬村というのは、実はもう存在しない。隣の弘前市、岩木町とともに合併し、現在は弘前市となっている。今回のオーガナイザを務められた作道信介先生の車で弘前大から現地へと行く途中に、広大なリンゴ畑が広がっていた。

 そのリンゴ農家でもあり、長らく村議(現在では市議)を務められた清野一栄さんが、初日のゲストとしていらした。そうまロマントピアを中心とした村づくりを長らく調査されている、弘前大の山下祐介先生(社会学)がまずご発表され、それにコメントするという形だった。

 その後、京大と阪大の院生さんの博論発表があり、夕食。総勢30人強の自己紹介のあと、「ディープセッション」と称する飲み会へとなだれ込んだ。

 2日目、質疑応答含めて30分の研究発表が朝から夕方までぶっ通しで続く。午後から北大の院生さんが発表、司会を務める。子どもの遊びの自然観察データをもとにした分析だが、いかんせん理論の部分が弱いという指摘を受けていたようだ。しかし、院生さんはみな、自分の弱いところを積極的にさらけ出し、それについてのアドバイスに真摯に耳を傾けていたようである。頼もしい限り。

 夕食後のディープセッションで杉万先生と少しお話をする。今進めている研究では1人の子どもを追いかけていますと申し上げると、「1人しかデータを取らないのはさぼっているだけではないか、という批判を受けたらどう反論する?」と問われた。そのときは答えに窮してしまった。「そんなことでどうする」とお叱りを受けた。叱られるというのは貴重な経験である。絶対に大事にしなければならない。これについては近いうちにきちんとここで整理したい。

 3日目、ロマントピアに湧く温泉に朝から浸かる。露天風呂から眺めれば、雪を冠した岩木山が、青空にくっきりと映える。なんと美しいことか。津軽富士とはよくいったもので、両裾はなだらかに対称型をなしている。

 昼まで研究発表が続けられ、昼食後解散となった。

 次回は阪大の渥美先生のオーガナイズで、新潟県で開かれる予定である。先生は阪神大震災以降、ボランティアネットワークのご研究をされているが、先だっての中越地震にも入り込んでいる。その関係である。

 帰りの列車の中で仕事をしようと、グリーン車に乗り換えたが、揺れがひどくPCをのぞき込んでいると気持ち悪くなってきた。あきらめてせっかくの広い座席でぞんぶんに足を伸ばし、夜の9時に札幌に着いた。

 とにかく今回の収穫は、杉万先生から叱られたということである。答えられなかった問いは1つだが、それにだけ答えたからよしというものではない。どんなことを問われても答えを準備しておけということである。そういうことも含まれた叱責だったのだ、と了解した。

 帰ってきてから、ある人から杉万先生に言伝を預かっていたのをすっかり忘れていたことに気付いた。森さんごめんなさい。

博多の風は頬を撫で行く

 20日から22日まで、日本発達心理学会が九州大学で開催された。今、博多に来ている。

 前日の19日から九州に入り、長崎の妻の実家へ。今、妻と子が1か月半ほどの予定で帰っており、ひさびさに会った。アマネはいつの間にかモゾモゾと這って動くようになっていた。だっこすると辺りにあるものをやたら触りたがる。

 20日の早朝、実家の皆様とお別れして、白い「かもめ」に乗って博多へ。

 学会会場は九大箱崎キャンパス。いろいろな方にお会いし、ニコニコしながら歩き回る。

 学会のニューズレター委員会というところで働いているのだが、その懇親会を開いた。幹事である。博多大名にある「寺田屋」にて。目良委員長をはじめとしてみなさんと親睦を深める。懇親会後、残った人々でタクシーに乗り込み、元祖長浜ラーメンにくりだす。やっぱり替え玉だろうと注文したが、量が多く目を白黒させながらなんとか完食。少しスープが水っぽかった気がする。三重大の赤木和重さんと博多駅近くで三次会。

 2日目、ポスター発表である。ある4歳の男の子と、そのご家族の会話を分析したもの。思うに、この学会を含めて言語発達研究は相変わらず盛んなのであるが、発話と同時に非言語的行動まで含めて分析をしているものは非常に少ない。ぼくのものは、会話において子どもが「聞き手」という相互行為上の役割を引き受ける際の、その場での手掛かりを見つけ出そうというもので、その手掛かりには視線やなんやかんや環境にあるあらゆるものが含まれる。そういう分析が必要だと思っているからやっているのだが、言語発達という研究の文脈ではまだまだ少数派である。

 たくさんの知り合いの方々にポスターの前までおいでいただいた。研究の内容をご説明する。こういう機会が貴重であることに最近気づき始めている。発表をする場、反応がすぐに返ってくる場というのが本当に少ない。文句を言う前に自分でそういう場を作ればいいのだが。たくさんのツッコミをありがたく拝聴する。がんばります。

 その日の夜、北大の陳先生にくっついて、九大の橋彌先生ご夫妻がコーディネイトしてくださった、志賀島の民宿で大勢の方々と会食。京大の高田明さんに久しぶりにお会いした。ついこの間アフリカから帰ってきたとのこと。

 さすがにくたびれてきており、ぜいぜい言いながら3日目に。ポスター会場で岡本依子先生と初めてお話しさせていただく。筑波の学部時代、同級生だった澤田匡人君とばったり、近況報告をしあう。がんばっているようでなにより。

 そんなとき、明日帰る飛行機がストのため欠航するという情報が。学部事務から乗る便が振り替えできたとの連絡が来る。助かった。