ウンベルト・エーコ 上村忠男・廣石正和(訳) 1995 完全言語の探求 平凡社
ジャック・ルゴフの編集による「叢書ヨーロッパ」の中の1冊。原著は1993年,ローマのラテルツァ社から出版された。日本ではこのシリーズを平凡社が引き受けているようで,確認できただけで現在まで本書を含め6冊が刊行されている。海,農民,食,理性,そして異端と,それぞれの切り口からヨーロッパという運動を浮かび上がらせようとするこのシリーズにあって,言語を担当することとなったエーコの戦慄,あるいは喜びは,想像を絶する。
ヨーロッパに一筋の言語史を読み解く彼が,その鍵として「完全言語(lingua perfetta)」を選んだことは,英断だろうと思う。ここには,宗教,政治,民族,都市,メディアなど縦に割られた議論を横にまたいでいくための方法が潜んでいるからだ。
では,その完全言語とは何だろうか。ひとことで言ってしまえば,人類に共通するたった一つの言語のことである。世界のどこへ行っても,人間がたった一つの同じ言語を話す。その言語こそ,「完全言語」と呼ぶにふさわしい,ということだ。
ここには,自然言語は多様であり,それは解消すべき混乱だとする見方が前提としてある。しかし,誰でも気づくように,現在までのところ言葉の壁は厳然としてあり,完全言語はいまだ現われていない。その代わり,書物のなかに神の真意が潜んでいるのだとする者や,私たち人間の頭の動き方の普遍性に訴える者,あるいは,ないのだから作ってしまおうという者がいた。つまり完全言語とは,ヨーロッパの歴史に幾度も現われては消えた一種の「計画」(ジェイムズ・ノウルソン)だったのである。
この計画は実にさまざまな形を取ったのだが,ここでは大きく二つに分けてみたい。一つはコンテンツとしての完全言語を発見しようとする計画であり,もう一つはコンテンツを媒介するメディアの利便性を追求するために完全言語を創出しようとする計画である。もちろん,コンテンツとメディアとは不離の間柄なのだが,重要なのは,歴史的に見るとコンテンツをめぐってメディアが形成されたという関係があること(松岡正剛),その一方で,メディアは独自のコンテンツを求め,新たなコンテンツがまた新しいメディアを形成していったというダイナミクスが読み取れることである。
(1) コンテンツとしての完全言語
完全言語をめぐる問題は,はじめ,神話において現われたために,のちに神学の一大テーマとなった。たとえば,旧約聖書創世記において世界のもろもろの生き物にアダムが名付けをしたこと(第2章第19節)に注目したとき,二つの問いが生まれる。一つ目の問いは,アダムは普遍的な「種」という実在に名付けをしたのか,それとも彼が付けた名は虚構に過ぎず,世界にはただ個物があるのみかというものであり,スコラ哲学の普遍論争に代表される。
しかしエーコが重視するのは二つ目の問いであった。それは,創世記第2章第19節においてアダムは何語を話したのか,というものである。アダムの言葉探しは,言語の単一起源説,すなわち,バベル以後に乱れた結果としての「あらゆる言語はただひとつの祖語から派生したという仮説」(p.117)を前提とする。かつては旧約聖書の言語たるヘブライ語が,次いで愛国主義的な人間にとっては自分の話す言語がそれぞれ祖語の候補となった。決め手のなかった祖語探しを一変させたのは,18世紀にサンスクリットがヨーロッパに広く知られるようになったという事態である。19世紀ドイツのヤーコプ・グリムがうち立てた音韻変化法則を利用して,サンスクリットとヨーロッパ諸語との間を体系的な推移規則でつなぐことがついに可能となった。これにより両者が共有する単一の「祖語」の存在が仮定され,そこから派生した諸言語をインド=ヨーロッパ語族と呼ぶようになったのである。しかしこの方法は同時に,体系的な規則ではどうしても橋渡しできない諸言語の存在も明らかにしてしまった。たとえば,セム語族,ウラル語族がそれである。つまり単一起源説を証明しようとしたまさにその方法によって,言語多起源説が導かれてしまったのである。
アダムの言葉探しは,聖書など書かれた言葉に隠されて潜む神の真意,すなわち神の言葉探しという運動を生み出すことともなった。ユダヤにおけるカバラ信仰,ライムンドゥス・ルルスの結合術はその例である。カバラとは文字を新しく組み合わせ,いまだ誰も知らない真理を作り出す秘術である。一方ルルスの結合術とは,既知のことがらを文字の組み合わせによって証明する方法である(cf. p.112)。いずれもながらく中世史のなかで埋もれていたが,フランセス・イェイツやパオロ・ロッシの手によって,ライプニッツら近世合理主義者に少なからぬ影響を与えたことが知られるようになった。少数の文字の組み合わせによって膨大な量のことがらを表現するという方法は,現在の情報理論の根本原理にもなっている。われわれはいまだ,13世紀に生まれたルルスの発想から抜けきれずにいるのだ。
(2) メディアとしての完全言語
創造された神話は,自分自身を保存するための仕組みを作る。偶像,教会,聖書,その他あらゆる宗教的諸制度がそれである。もちろん神話を書き記した言語もその保存の一翼を担った。ヨーロッパではながらくラテン語がその地位にあった。ラテン語と神話は手を携えつつヨーロッパに広まっていったのである。ゆえに,神話にとって「国際標準語」という完全言語計画は必須であった。
ローマ帝国の霧散とともにラテン語の立場は激しく変化した。それを話す者がいなくなったのである。また,宗教的諸制度の地位も時代によって大きく変わった。つまり,メディアとコンテンツとの,すなわちラテン語と神話との結びつきは絶対的なものではなくなったのである。それでもなお,国際標準語を求めようとする動きそれ自体は止まなかった。
世界の安寧な統一という野望のもとで作られた国際標準語のうち,現在最も有名なのはレイゼル・ルドウィク・ザメンホフによるエスペラントだろう。古くは1879年にドイツのマルティン・シュライヤーがヴォラピュークを,のち,1903年にジュゼッペ・ペアノがラティノ・シネ・フレクシオネを,その他,数え上げればきりがないほど,国際標準語の候補が創案されている。また,母語の統一はあきらめるにしても,便宜的に第二言語を統一しようとする計画もあった。いわゆる「国際補助語」である。かつてのラテン語,フランス語,現在の英語のように軍事的・経済的強国の影響で普及した言語は,自然言語がその位置に付いた例である。
ところで,完全言語計画の中には,意識的に話し言葉以外にその規範を求めようとした動きもあった。例えば,音を表わすアルファベットと違って,多くの象形文字(エジプトのヒエログリフ,中国の漢字)は事物(あるいは,その概念)そのものを表す。この点をもって,17世紀ドイツのアタナシウス・キルヒャーは,それらを神の完全言語の具現化した姿として解読に耽った。また,身振りに基づいた計画は,後に手話を体系化するきっかけとなった。
(3) コンテンツとメディアのダイナミクス
神話と提携していた国際標準語は,しかし,脆さも含みもつ。第一の脆さは,コンテンツが新たなメディアを求めたこと,第二の脆さは,メディアが新たなコンテンツを求めたことである。
第一の脆さの原因は,神話が口伝ではなく書かれたテクスト(例えば,聖書)によってもたらされるとき,必然的に書き言葉が国際標準語になるという点である。ローマの影響下から抜け出して各地方ごとに経済圏や国家が確立されると,ラテン語は話し言葉としてはもはや「死語」となる。すると,そのあとにラテン語表記の聖書や学術書だけが取り残されるという事態が起こった。ここに新たなメディアを探索する必要性が生じる。14世紀イタリアのダンテ・アリギエーリが俗語(民衆の話し言葉)で詩を書いたのも,16世紀ドイツのマルティン・ルターがドイツ語訳聖書を作ったのも,こういう動きの中のことであった。つまり,ラテン語という国際標準語を基盤としていたはずの神話制度が各地で独自の発展を見せ,皮肉にも,言語を乗っ取ってしまったのである。
さて,神話的諸制度が安定し,人々の生活の大前提となったとき,新たな神話を求める運動が起こった。ここに神話と提携する国際標準語の第二の脆さがある。ヨーロッパで言えばちょうどルネサンスの時期に当たり,新約聖書以前のギリシャをモデルとする古典的人間観の復活は,計画の動機をキリスト教的伝統から引き離すこととなったのである。まず人々は,プラトンなど古代ギリシャにおいて交わされていた議論に理論を求めた。
たとえばプラトンは,『クラテュロス』と題された対話編において,言語の起源(正確には,名前の起源)について三つの説を提示した(cf. p.35)。第一に,名は自然の本性(これをピュシスと呼ぶ)に正確に反映して生まれてきたとするクラテュロスの説。これによれば,「ネコ」という名前はあの動物の自然の中の位置や性質をこの上なく適切に表している。曰く,にゃあにゃあうるさいので「鳴く子」→「ネコ」なのだ,と。第二に,名は人々の間の取り決め(これをノモスと呼ぶ)に過ぎず,何にどのような名をつけようと,それは恣意的だとするヘルモゲネスの説。これによれば,あの動物は「イヌ」であっても「ポペ」であってもよく,たまたま「ネコ」と呼ぶことに決めただけだ,と。そして第三は,名とは事物ではなく概念(これを,イデアと呼ぶ)と結びついてそれを指し示しているというプラトン自身の説である。
さて,計画の動機が宗教的諸制度から離れると,探求の対象は神の意志から被造物たる自然へと移った。16,7世紀に自然科学の哲学的・方法的基礎を築いた人々(フランシス・ベーコンにせよ,ルネ・デカルトにせよ)は,面白いことに,ラテン語で書いた。国際標準語であるラテン語は,そのコンテンツに神の被造物の仕組みをも含みこむにいたったのである。一方,メディアがコンテンツを作るとともに,新たなコンテンツには新たなメディアが必要となった。ベーコンにとって,ラテン語は人々の手垢にまみれた不純物であり,自然を正確に認識するにはきわめて不完全な道具だった。彼が「市場のイドラ」と呼ぶ認識の蒙昧はそれに起因する。こうして,16世紀から19世紀にいたる300年間,はじめは事物を正確に記述するための,のちには人間の思考を正確に写し取る,完全言語が求められたのである。前者の代表がイギリスのジョン・ウィルキンズの手による『真正の記号ならびに哲学的言語にむけての試論』(1668)であり,後者の代表がフランスのアントワーヌ・アルノーとクロード・ランスローによって編まれたいわゆる『ポール=ロワイヤル文法』(1660)である。
これら二つの著作には,ここではこれ以上深く入らない。そのうち,ジェイムズ・ノウルソンの『英仏普遍言語計画』について書くときに,詳しく触れたい。ごく簡単に感想だけ言えば,今見るに,いずれも表面的には荒唐無稽な計画である。しかし,それらを単に著者らの無知の結果として切り捨てるのではなく,それぞれに固有の自然観や解決すべき問題があり,それに対して真摯に答えようとした結果であることを忘れるべきではない。また,これらは現代まで続くさまざまな思想の根本的な前提でもあることは強調しておくべきだろう。たとえば前者はゴッドローブ・フレーゲの論理学と,後者はノーム・チョムスキーの生成文法理論と,それそれ共通する方法論をもつ。
(4) 完全言語と普遍言語
さて,ここまで人々の求める単一の言語を完全言語と呼んできた。しかしエーコは,言語の単一起源説を概観する中で,次のような注意書きを読者に設けている。曰く,諸言語に共通する祖語の探求では…
「一,完全言語と普遍言語とが十分に区別されていない。事物の本性をそのまま反映できるような言語を探求することと,万人が話すことができ,また話さなければならない言語を探求することとは,別のことである。完全言語が少数の者しか使うことができないこともありうるし,普遍的に使用される言語が不完全であることもありうるのだ。」(p.117)
エーコは,「事物の本性をそのまま反映できるような言語」を完全言語と呼び,「万人が話すことができ,また話さなければならない言語」を普遍言語と呼ぶ。ここに,本稿で導入した区別を重ねあわせてみるとどうだろう。すなわち,コンテンツとしての完全言語を「完全言語」,そして,メディアとしての完全言語を「普遍言語」,というように考えてみる。すると,たとえば17世紀以降の自然科学という営みは,自然的秩序の鏡である完全言語を,研究者や一般の人々の普遍言語にしようとした運動だった,と言えるのではないか。
完全言語とは「コンテンツが単一である」とする仮説のもとで生まれる仮想的対象であり,一方普遍言語は,人々の社会的活動から生み出された「メディアを統一する」という将来的目標である。共通するのは,どちらもいまだ実現したことがなく,これからも実現するかどうか不明であるところの,バーチャルな存在だということだ。
そろそろ文章を閉じたいと思う。
通貨という基盤の上に統合を目指す現在のヨーロッパにあって,完全言語はさらなる活発な流通を導く「思想の通貨」となるのかもしれない。しかし,エーコ自身はこのような楽観主義を一蹴する。通貨のみならず言語も一つにすること,それは言語の大前提である記号化作用とコミュニケーション(交通)に本質的に含まれる「生成」の過程を止めてしまうことを意味する。この生成の過程を言語学の問題として取り上げたのが,実はフェルディナン・ド・ソシュールであり,彼を始祖とする記号学の潮流なのである。記号学の方法と世界観を手にした以上,われわれは生成の過程を無視するわけにはいかない。エーコの主張は,実際にはここにある。
「哲学的言語[引用者注,完全言語のこと]をつくりあげることが不可能なのは,ほかでもない,言語活動というものはまさに観念学者たちがきわめて正確にあとづけたような諸段階をへて生成していくものであり,完全言語が準拠しなければならないのがこれらの段階のうちのどれであるかはいまだに未決であるからである。哲学的言語といえども,ある特定の段階に根ざしているのであってみれば,言語活動の生成段階のうちのただひとつの段階だけを反映することしかできず,この段階のかかえる限界をとどめていることは明白である。しかしまた,その限界こそは,人類につぎのより分節化された段階を展開させるよううながしてきたのであった。思考と言語活動には時間のなかにあって(しかも,言語活動の誕生にかんするすべての理論が口にしている遠い先史の時間のなかにあってだけでなく,わたしたちの現在の歴史を生みだしている現に進行中の時間のなかにあって)展開される生成の過程がそなわっているとひとたび判定されたからには,哲学的言語をめざすあらゆる試みは不成功におわる運命にあるといってよい。」(p.414)
完全言語の発見と普遍言語の実現,それは机上思想家の単なる虚妄なのか,それともいかなる犠牲をはらってでも到達を目指すべき現実上の目標なのか。完全言語をめぐる問題は,エーコはそれを不可能だと断定するが,いずれにせよ,古色蒼然たる言語史を,きわめて現在的な私たち自身の問題として見せてくれる。