木村聖哉 1987 添田唖蝉坊・知道:演歌二代風狂伝 リブロポート
1995年1月,震災直後の街にソウル・フラワー・モノノケ・サミットが姿を見せ,あちこちの避難所を訪れては唄った。拡声器を通して神戸に『復興節』が流れた。『復興節』はかれらのオリジナルではない。1923年9月の東京にも唄う者がいた。関東大震災に焼け残った日暮里の横丁でバイオリンとともに唄う『復興節』に,疲れ,そして不安に沈む街のひとびとは,じっと聞き入っていた。当の唄い手は後日こう回想する。「人は,どんな悲境の底にいても,歌は欲している,ということを,思い知らされたのである」(p.135)。震災に遭った二つの街に時を隔てて流れたこの唄の作者は添田さつき,実の名を知道という。
1902年,添田平吉とタケの間に知道は生まれた。父親のことは添田唖蝉坊と呼んだ方が通りよいかもしれない。演歌師をしていた。
演歌とは政談にメロディをつけたもの,つまりは「演説歌」の略である。明治初期に街辻でがなられた壮士演歌にはじまり,それを生業とする者の裾野も広がって書生演歌が起こった後,ラジオや新聞の普及とともに消滅した俗謡の一形式である。川上音二郎『オッペケペ節』も演歌のひとつだった。
歌詞には政局にたいする批判とともに,民衆の暮らしやかれらの不平不満がユーモラスに唄い込まれた。唖蝉坊はこれを作るのが上手かった。「トコトットット」で囃す『ラッパ節』は替歌が作られるほどだった。これは現在,唖蝉坊自身が堺利彦の依頼で書き下ろした『社会党ラッパ節』の歌詞のほうが元唄よりも知られる。
こうした父親の陰にあって,知道の名もやはり「演歌の生き字引」として引き合いに出される。しかし彼自身は,作家をみずからの生業としていた。作家としての知道について,本書は後半を用いて勢いよく描いていく。日本歌謡史というコンテクストで語られる姿はあくまでも演歌師の息子,あるいは自身『復興節』『東京節』の唄い手であった。しかし,病床にあってなお小説『教育者』と苦闘していたというエピソードは,演歌と小説という違いを越え,社会に対して表現し続けた人という統一的な像を示してくれる。
1955年11月,浅草寺境内に唖蝉坊顕彰の碑が建てられた。その除幕式には尾崎士郎が立った。碑は今もなおひっそりとある。1980年,息子知道が逝った。その筆塚は父の碑の隣にある。
ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの話に戻ると,現在,この名義で『アジール・チンドン』『レヴェラーズ・チンドン』という二枚のCDを聴くことができる。民謡とはいったいなんだったのか,1923年の日暮里で演歌師の配る歌詞をわれもと求めた市井の欲望とはいったいなんだったのか。考える手がかりである。