051-発達理論の発達

ハンナ・アレント 志水速雄(訳) 1994 人間の条件 筑摩書房

 発達心理学会で開かれたラウンドテーブルに参加しながら、発達の理論ではなく、理論の発達について考えていた。

 新しい理論の探求が学問の一つの目標であることは言うまでもない。

 探求に当たっては、ただやみくもになされるのではなく、なんらかの方向性や基準が必要だろう。たとえばラウンドのスピーカーの一人だった加藤義信先生にとっては、ご自身にとって、あるいは日本人にとって違和感のない発達理論が目指すところであった、という。

 発展の原動力とでも呼ぶべきものも必要だろう。現実の現象に適合していなかったり、既存の発達理論に対する不満が噴出したり。

 発達理論同士を比較検討する作業も必要だろう。これが過激な装いをまとうと論争となる。論争はあくまでも発達理論を発展させるという学問的課題のもとで意味を持つ。それ以外は無益である。

 実際のところ、論争はあった。ピアジェとヴィゴツキーのそれ、あるいはピアジェとワロンのそれがすぐに頭に浮かぶ。論争はエピゴーネンの手にわたって一部は現在も続いている。

 ところで、加藤義信先生から次のようなことも指摘された。現代とはグランド・セオリー不信の時代であり、また、たくさんの理論が平気で併置される時代である。研究者にとって必要なことはグランド・セオリーへの参加や逃走ではなく、複数のセオリー間の選択である、と。

 先ほどの論争の話にもどれば、おそらくここに論争は起こらないだろう。棲み分けと共存の方策が、学界全体で目指されるだろう。するとわれわれは、発達理論を発展させる機会を1つ失ったことになるのだろうか。

 どうも、発展の機会は失われていないように思われる。では論争の論敵はどこにいるのか。学界内から消えた論敵は、政治や経済といった、人間の発達からはとりあえず区別される原理で動くシステムがその任に就いた、そう考えられる。

 たとえば、同じくラウンドのスピーカーだった川田学さんは、先頃の教基法改定が、人の発達について深く考えねばならない現場にもたらした影響についてふれていた。発達心理学界内に、政治の(おそらく、ひいては経済の)
「理論」(そういうのがあるのか寡聞にして知らないが)と論争しようという人もいなければ、その際に使える理論も弱いというのが川田さんの言ったことだったと思う。

 政治の領域で、あるいは経済の領域で、人の発達という現象がいかなる理論のもとで考えられているのか。
発達心理学はそれに対してどのような理論を出しうるのか。ここに論争の可能性、ひるがえっては発達心理学理論それ自体の発展の可能性が見られるのである。

 そういう意味で、学会に引き続いて参加した発達・理論研究会(通称ぽち研)において途中まで読んだ、ハンナ・アーレント『人間の条件』は面白かった。

 アーレントのこの本はたいてい政治哲学という文脈で読まれる。近代の西欧において発生した全体主義がいかなる歴史的条件のもとで成立したのか。その起源をひもとくことで、そうでない未来を可能性として指し示す。アーレントのおおまかな目論見はおそらくこの辺だったろう。

 私が担当した章を読んだ限りでは、その根本的な起源は「工作人homo faber」としての人間の条件にある。人を含む動物が生を営む上で最も基本的な条件は大雑把に言って生命維持(摂食)と種の維持(性交)であり、アーレントはこれらに関する活動力を「労働labor」と呼んだが、これらはコトが済めばあとかたもなく消えてしまう。がために反復せざるをえない。

 他方で人の活動力には「仕事work」もある。これは、物を作るという人間の側面を示したものである。物を食べるときのように自然を消費するのとは違って、自然から作られた物は消えずに残る。残された物は作った本人のみならず公衆の目にさらされるという可能性を常に持つ。物を見た公衆のなかには、そこに交換価値を見出す者もいよう。ここから一気に、交換市場の発生、そして功利主義の発生が説明されていく。

 功利主義のもとで仕事に意味を与えているのは「役に立つ/立たない」という思考様式である。この思考様式の対象が物作りにとどまっていればよかったものの、そのうち労働や「活動action」といった、人のその他の活動力までもがこの思考様式に絡め取られていった。

 すると、役に立つ摂食/立たない摂食、あるいは役に立つ性交/立たない性交といったものがある、という見方が成立する。前者は栄養学、後者は優生学として発展していったと考えてよいだろう。前者はともかくとして、後者の末路がある人々にとって悲惨な運命をもたらしたことはすべての人の知るところである。(前者は「あるある捏造問題」というもう一つの悲惨な運命をもたらしたのかもしれない。)

 さて。

 アーレントのこの著書は、ある政治的状況を批判するための理論的視座であったわけだが、同時に、人間観でもあった。この視座を、発達心理学における主流の理論にぶつけてみたときにどうなるか。

 われわれは、ともすると役に立つ発達/立たない発達というものを考えてしまうことがある。現在コレクションしている早期教育ダイレクトメールは、子どもに起こるすべての現象を役に立つものに変えてしまおうという、ものすごく乱暴な思想と言説に満ちている。それらは、無駄や回り道といったゆるみを許さない。そして、発達心理学やそこから生まれた理論が、こうしたダイレクトメール型言説の裏付けとして利用されていることもまた事実なのである。

 そうしたことにいかに自覚的になれるかが、発達心理学の理論の発展にとって決定的に重要である。

 ということを発達・理論研究会での議論を通して考えていた。

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