047-水声通信

水声通信 2006 vol.4 特集・ロシア・アヴァンギャルド芸術 水声社

 大学の生協で平積みになっていたのを手に取った。

 特集は掲題の通り、劈頭を飾るのはタチアナ・コトヴィチの手になる「ロシア・アヴァンギャルド、その歴史と理解」(桑野隆訳)。

 20世紀初頭のモスクワやペテルブルグに起きた芸術運動ロシア・アヴァンギャルドをひとことで説明することは難しい。この難しさは何に由来するのか。

 理由のひとつに、絵画から建築、演劇から映画にいたるまで、多様な芸術ジャンルを横断していたことがあるかもしれない。しかしこれは表面的な理由だろう。本当のところは、運動のうちに互いに相反する傾向や世界観が同居していたからではないか、コトヴィチの論文を読み、そう考えた。

 たとえば19世紀末フランスにあらわれた印象派の画家たちを想像してみよう。ジョルジュ・スーラは鑑賞者が光を知覚するプロセスを描画技法に置き換えようとした。一方でポール・セザンヌは、鑑賞者において起こる世界そのものを描こうとした。

 これら、世界を分析的に把握する態度と、逆に世界に埋没していこうとする態度は、一見すると相反するもののように思われる。しかし、コトヴィチは、これらがアヴァンギャルド運動のなかに理論的な交錯を見せていた、と指摘する。これを私は、アヴァンギャルド運動を説明する際に、二つの軸を据えておくと理解しやすいのではないか、という提案として受け止めた。

 第一の傾向は、「合理主義的認識方法の制限枠を超えでて、 自然発生的に非論理的な現象たる存在の本質へと浸透しうる可能性へと向かう-直感を芸術的創造における認識の頂点として優先させる」 (p.20)。というものである。
 第二の傾向は、「芸術の発展の法則性、フォルム形成の法則性、創造と知覚の法則性などを客観的に、科学的・分析的に把握しようとする。 理論的原則の強調への志向。専門的職業としての芸術という問題への関心、技巧への関心、科学的実験の客観主義への関心」(p.20) というものである。

 ごく大雑把に言うなら、直感と理性の両方を区別せずにひとつの方法としていたのがロシア・アヴァンギャルドという運動だったのかもしれない。通常は相異なる二つの意識のモードとして区別されるわけだが、それをなんらかのかたちで統一する契機として芸術が求められたのではないか。

 といったことをつらつらと考えながらぱらぱらとめくり終えた。

 コトヴィチのこの論文は、今春に水声社から出る『ロシア・アヴァンギャルド小百科』の序文であるらしい。新年度に入ってから買う本が1冊決まった。

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