048-できるけど、やらない

ダニエル・デネット 山形浩生(訳) 2005 自由は進化する NTT出版

 わたしたちは、外に現れた行動の観察に基づいて、他者の思考や感情を推測する。その他者を仮にアマネくんとしておこう。6か月児のアマネくんは両頬を持ち上げ口をぱっと開け、「くくー」と発声した。それを観察したぼくは、きっと彼はうれしいのだろうと推測する。また、アマネくんは仰向けになって手足をバタバタと動かす。今度はなんだろう、おもちゃを取って欲しいのだろうかとぼくは推測する。

 当たり前だが、観察できるのはなされた行動だけである。では、他者がある行動を「しない」とき、わたしたちはどのように思考や感情を推測するだろうか。

 その仕方は少なくとも二通りある。第一に、その者にとってその行動は「できない」。第二に、その者はその行動を「できるけど、やらない」。観察という方法しかもたないわたしたちにとって、これら二つを厳密に区別することはできない。現在のところアマネくんが九九をそらんじることはないが、これは「できるけど、やらない」だけかもしれない。もしかすると親が目を離したすきに指折り数えてブツブツと言っているのかもしれない。

 んなわきゃあない。赤ちゃんは九九を言えるけどやらない、と信じる人はいない。同様に(と言うと語弊があるのかもしれないけど)、石ころは外から力が与えられなくても転がることが「できるけど、やらない」のではないし、タンパク質は一定温度以上で凝固しないよう踏ん張ることが「できるけど、やらない」のではない。アマネくんや石ころやタンパク質には、それらの相談は「できない」部類のものなのだ。

 本書でデネットが俯瞰を示そうとしたのは、自然界に「できるけど、やらない」という性質が生まれたのはどのようにしてか、ということだった(と思う)。デネットの議論を自分の目下の関心(育児であり、発達心理学でもあり)に引きつけて考えると、「自由」ということばはこのように言い換えられるだろう。どのようにして、というプロセスの候補はダーウィン的アルゴリズムである。彼はこれ一本で、自然界を統一的な説明を与える基盤を作ろうとした。

 とりあえず一読して可能な確実なコメントはこれくらいである。

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