005-種は進化するか

今西錦司 1976 進化とは何か 講談社
今西錦司 1977 ダーウィン論:土着思想からのレジスタンス 中央公論社

 発達心理学者としての自分の立場は,認知の社会的構成に注目するものだ,とそう公言してきたし,これからも当分そのつもりだ。しかし最近,いままではテッテ的でなかったなと反省している。今西錦司の,いわゆる「棲みわけ」による進化論に出会ってからだ。

 進化論とのつきあいは,スティーヴン・ジェイ・グールドからはじまり,池田清彦を経由した時点で,今西への道は開かれていた。元祖たるダーウィンへは生態心理学という別の路線からも接近していた。進化心理学というのもあるが,あれはよくわからない。ともかくなんとか今西に触れようととりあえず手に取ったのが上の二冊,それぞれ講談社学術文庫と中公新書から出ているので安くてお得だ。

 さて「棲みわけ」とは,二つの生物集団が,「同じところに分布しておらないで,一つの境をもって相接しながら,お互いにすむ場所をずらして,それがなるため重ならないようにしているということ(1976,p.76)」である。ところで自然淘汰説は,互いによく似た二つの生物集団がいたとき,環境により適応した方がより多くの子孫を残すことによって,種を形成するに至ると説く。

 これら二つの説の違いは,弱い者をどう扱うかにある。確かに後者では,ある環境に限って見れば,一種のみが席巻していることを説明しようとする。しかし前者は,この一見した「席巻」を,他の種がその環境をゆずったから生起した現象だと考える。言ってみれば,こちらでは消えてしまったかと思っていたら,どっこいちゃっかりあちらで生きていたのだ。この生命のしぶとさ,自分たちの生きられる場所をめざとく見つける力を,今西は最大限に評価する。

 このようにして環境はいくつもの種に棲みわけられる。ときにはなにかの理由でぽっかりと空き部屋ができるかもしれない。たとえば恐竜が絶滅したとき,でかい空隙が生まれた。それを埋めていったのが今日いるわれわれのような哺乳類であったのかもしれないのだ。はじめは小さいネズミくらいの生き物でしかなかったわれわれが,しだいに体のサイズを大きくしていったのも,目の上のたんこぶがいなくなったからかもしれない。ここまではとてもよく分かる。ここからだ。

 今西は,進化の単位を種とした。しかも,変わるときは種全体がいっぺんに,しかも急激に変わるという。ここから先は僕の意見なのだが,有性生殖をする種を考えるとよく分かる。一個体だけ表現形式を変えても,つがうことができなければ子孫を残すことはできない。ということは,少なくとも二個体(雄と雌)が同時に変化しなければならないということだ。これはダーウィニズムにある,いわゆる性淘汰とも違う。あれは雄なら雄だけが変化するよう要請するものだ。二個体が同時に変わるのであれば,あとは種にまで適用範囲を広げてもかまわないだろう。個を単位とする生物学から,種を単位とするそれへのシフトがここに起こる。

 いやしくも社会なるものを分析対象に挙げるのであれば,やはりここまでテッテ的にならないとだめだなあ。

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