003-規約としての原因

黒田亘 1992 行為と規範 勁草書房

 心理学には,ジェイムズ=ランゲ説という学説がある。
 たとえば,私が涙を流すのは悲しいからだと考えるのがおおかたに受け入れられる話だろうが,ジェイムズ=ランゲ説によればこの時間順序が逆転する。すなわち,涙を流すから悲しいのだ。これら二つの考え方を対比させ直すとこうなる。A説「悲しい」→「泣く」 B説(ジェイムズ=ランゲ説)「泣く」→「悲しい」 このような図式では通常,前の項を「原因」,後者を「結果」と呼ぶ。

 ところで黒田は,原因と結果の関係,すなわち因果関係にもいくつか種類があるという。ひとつは,観察による手続きを経て確定されるもの(ex.なぜ泣く?涙腺からの過剰な分泌によって)。もうひとつは,観察などしなくても,「なんでそうしたの?」と問われれば,躊躇なく「それはね…」と答えられるもの(ex.なぜ泣く?好きな人にふられたから)。黒田は,この「それはね…」と答えられる原因を,区別して「識因(p.213)」と呼ぶ。

 ここでおさえておきたいのは,第一の因果関係における「原因」と,第二のそれにおける「識因」とは一致している必要がないことだ。真偽のほどはともかくとして,理由を聞かれてすぐに答えられるもの,それが識因である。「なぜ人を殺したの?」「なぜ約束の時間に遅れたの?」このような問いをたてるわれわれも,そうした問いに識因でもって答えられるような気がするわれわれも,どちらも同じように意志とか動機とかいったものを予期している。実際のところ,泣くのも,殺すのも,時間に遅れるのも,あるものごとが決定的な原因だとは言えないはずなのだ。「カッとなって殺した」というふうに識因として答えられるかもしれない。しかし,それ以前に何かカンにさわるようなことがあったのかもしれないし,目の前に手頃な凶器があったことも原因と言えばそうなのだ。

 原因としてはいくらでも考えられ,そのどれもが怪しいにもかかわらず,ある因果関係の決定的な出発点となるような不思議なチカラがありそうだと,われわれは思いこんでいるフシがある。これを黒田は,「原因としての意志」の仮象と呼ぶ。仮象,というのは,まったくの絵空事という意味ではなく,わたしもあなたもそういうふうに思いこんでいて,だからこそやりとりがうまくいっているかぎりにおいて,この仮象は実現している。つまりはコンヴェンション,規約なのである。

 すると,最初のジェイムズ=ランゲ説に戻れば,泣くから悲しいとか悲しいから泣くとかいう図式を作ること自体,つまりある心理的・身体的現象に対応する原因をひとつ決定しようとすること自体が,ある実践なのだと言える。

 もちろん,ジェイムズ=ランゲ説でおもしろいのは身体ベースの感情論を提起したところにあるので,それを混ぜっ返そうというのではない。ただ,規約としての言語につきあうならば,そういう話にもなりますよ,ということである。

 しかしまあウィトゲンシュタインに影響されている人ってのは,どうしてこうひねくれているのだろう。自分も含めて。

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