002-リアリティ、アクチュアリティ、ヴァーチャリティ

木村敏 1994 心の病理を考える 岩波書店
木村敏 1982 時間と自己 中央公論社

 上記二冊は大学院のゼミで取り上げられた本。恥ずかしながら木村敏さんのことは何も知らなかった。

 精神科医である著者は,分裂病や躁・鬱といった,こころの病が現れる原理を解き明かそうと試みる。哲学史をひもとくと,「もの」と「こと」とをめぐる一本の筋が通っていたことが分かる。たとえばアリストテレスは,時間を「もの」として捉えたが,これだと細切れの時間の「あいだ」にある動く「こと」に達することができない(ゼノンのパラドクスはこれに起因する)。たとえばヴィーコは,二値的な真偽判断をおこなう感覚としてのクリティカと,意味連関と問題の所在を判断する感覚としてのトピカとを対立させる。たとえばニーチェはギリシャ劇を評して,明晰なるアポロンと官能のディオニュソスのせめぎ合いをそこに見た。そしてハイデッガーは,「存在者」と「存在それ自体」との存在論的差異に,「在」の意味を見いだした。これらはすべて,「もの」と「こと」の対比である。

 木村が持ち出すのはひとつの「現実」,しかし二つに分けられる現実,すなわちリアリティとアクチュアリティである。離人症患者の一言,「『いま』がてんでばらばらに出てくるだけで,ちっとも進まない」というのは,リアリティで認識できる「いま」しかなく,それらを運動する「時間」へ統一する感覚であるところのアクチュアリティがない,あるいは両者がうまくつながらないからなのだ。ここで,これら二項があらかじめ分けて描けると考えるのは早計である。そうではなく,なにかが「ある」と言語化した途端に,二つの部分に分かれるような,そうしたものだ。さらに木村は,これら二項に加えて「ヴァーチャリティ」という現実感覚も示唆する。

 しかし,リアリティ,アクチュアリティ,ヴァーチャリティの関係がよく分からない。おそらく,郡司ペギオ幸夫の「生命理論」に出てくる三項関係とつなげて読めると思うのだが,はて。

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