『精神』

 映画『精神』を観た。

 映画『精神』公式サイト

 夏にシアターキノでかかっていたのを見逃していたのだが、このたび北大の学生が企画する「クラーク・シアター」というフィルムフェスティバルで上映すると聞いて観に行った。

 心を病んだ人が、「山本先生」の元を訪れる。待合所は居場所となり、たばこを吸いながらくつろいだり、話し合ったり。それだけではなく、診療所を中心として、患者さんによる自立支援事業(牛乳配達、食堂)も展開されている。そうした日常を淡々と観察する映画である。

 同様のテーマを扱った、ニコラ・フィリベールの『すべての些細な事柄』を思い出した。どうしてもそれと比べながら観てしまう。

 比べたときに、2つの映画の異同がとても興味深い。

 本作の撮影、編集を行った想田和弘監督と、フィリベールは、ともに同じような精神病患者の所属するコミュニティに入り込んだ。

 入り込み方がとても似ていて、許可をもらった患者さんに対してカメラをもったまま対峙し、対話する。医療事業者は背景であり、あくまでも対象は患者さん。

 映画の作り方もよく似ている。字幕、ナレーションはほとんどなし。要は、第三者的な説明がない。我々は唐突に人々の中に投げ込まれ、彼らの日常につきあう。

 これほどよく似ているのだが、当の患者さんたちが行っていることがまるで違う。

 フィリベールのカメラが追ったのは、ラ・ボルドというクリニックを舞台に行われた、患者さんによる演劇の練習風景だった。一方で想田のカメラが追う人々は、徹底的にあるものに振り回されているように思われた。それは、お金である。

 親なき後の生活をどうする。住むところをどうする。家族をどうする。これらの語りの端々で、お金のことが触れられる。金銭の多寡から言えば、患者さんの生活は苦しい。苦しい中でそれなりに暮らす人々の姿として描かれているように見えた。

 撮影が行われたのが、例の自立支援法が成立に向けて動いていた頃なので、どうしてもそういう話ばかりになったのかもしれない。しかし、おそらくは時期が違っていたとしても、金の話はどうしても出てきただろうし、それは映画本編の中で不可欠な要素となっていたのではないか。

 日本に住んでいると、しかし、そういう描き方が自然なようにも思えてくる。むしろ、フランスのクリニックで演劇をする患者さんたちの方が、どこか浮世離れした印象になってくるからおもしろい。なにしろ、どうやって糊口をしのぐかといった話はほとんど出てこないのである(記憶に頼っているのでもしかすると金の工面に悩んでいる場面が出ていたかもしれない)。だからといって、フランスの患者がそうした問題と無縁かと言えばそんなことはないだろう。

 この違いはいったいなんなんだろうか。

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