知多でメルポン

 もうしばらく経ちましたが、今週の日月と、愛知県は知多半島で研究会をしてきましたので、そのことを書きます。

 メルロ=ポンティの『意識と言語の獲得』(みすず書房)を輪読しました。ソルボンヌでの講義を学生がノートにとったものを編集した本です。

 意識にせよ、言語にせよ、西欧の哲学においては、あたかも「ふってわいたもの」のように扱う伝統が一方にあり、そちらが主流だった時代が長かったわけです。

 それを、「ありもの」の世界のなかの出来事として記述することが可能なのか、可能だとすればどのようにしてか。これがメルロ=ポンティの考えたかったことなのでしょう。

 彼が頻繁に用いる概念に「スティル」というのがあります。英語で言うとスタイルなので「文体」「様式」とか訳したくなりますが、もう少し一般的に捉えた方がいい。要するに、なにがしかの関係です。文体というのは単語単独ではありえず、それの並べ方によって生まれるものですし、様式も然り。

 意識や言語は、メルロ=ポンティの考え方を察するに、ありものの世界のなかでのスティルのありようにつけられた名なのでしょう。なかなかなじめない発想ですが、彼はさらに、言語の獲得を説明する際には、身体の動かし方の変化(あるいは習慣化)として記述しようとします。つまり、各部位の関係の変化というわけです。

 意識の説明の仕方もやはり変わっています。身体をふたたび例にとれば、ある仕方で身体を動かすことができてはじめて、そこに身体が現れてきます。身体がまずあって、それを中枢が意識し、運動せよという命令をするという図式ではなく、運動できて初めて身体が現れるとするわけです。意識、言いかえれば自分自身についての自覚のようなものは、動いたり、習慣として身につけている言語を発することによってはじめて現れるとするのが、メルロ=ポンティの考え方なのだと理解しました。

 この方向で研究を突き進める自信はありませんが、おさえておきたい発想であることは間違いありません。

 ちょうど、細見和之の『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』を読んでいて、ベンヤミンの言語論をうーうー言いながら考えていたところでしたが、彼とメルロ=ポンティとを対比させると、言語について面白い発想が浮かんできました。このことについては、時間があれば何かの形で論考したいと思います。できるかどうか分かりませんが。

 そうそう、今回宿泊した知多の民宿は料理が大変すばらしくて、とても満足でした。宿泊費も安かったですし。コーディネートしてくださったMさんはじめ、参加者の皆さんいろいろありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA