教育はなぜ難しいのか

 現在の職場に籍を置いてすでに5年が経過しようとしています。そのうち3年間、
対外的に学部を紹介する役回りを担ってきました。ウェブサイトの製作管理が主なのですが、
高校生一日体験入学やオープンユニバーシティへの参加、公開講座や説明会での対応などもちょこちょことしてきました。

 ただいま、学部を紹介する高校生向けパンフレット製作にかかりきりです。
原稿や写真などをもらうのに学部内外の人たちとやりとりをし続ける日々で、
この仕事のために書いたメールは100を越えたのではないかと思います。

 こうした仕事をしていると、「この学部の目標が外部の人たちにいかに伝わっていないか」
ということがいやでも分かってしまいます。

「あなたがたは、何をしているのですか?」

 このご質問に対しては、木で鼻をくくるような感じですが、「教育学を研究しているのです」と答えるしかありません。私は教育学のいわゆる専門家ではないので、
教育学とは何かと聞かれて即答できるものをもっていませんでした。いまだに、コメニウスがどうとか、ペスタロッチがどうとか、
クループスカヤがどうとかいう話はできません(院生時代にもうちょっと勉強しておけばよかったのでしょうし、
それができる環境にあったはずなのですが)。ですから、さらにつっこんだ質問をされてもたじろぐだけですし、質問された方もそれを察して
「ああそうですかごきげんよう」とお帰りになるわけです。

 そんな感じだったのですが、3年間も学部について説明をしてきますと、
あくまでもその固有の体制に即してという限定付きですが、教育学とはいったい何を目指す学問なのか、
そしてそれはどうすれば解決されるのかについて自分なりに言葉にすることができるようになりました。言ってみれば、教育学の専門家ではなく、
「この学部」の専門家になってしまったわけです。

 以下、わたしのいるこの学部はいったい何をするところなのかをできるだけわかりやすく書いてみたいと思います。

 教育とは何でしょうか。簡単に言いますと、教育とは、
次の世代の人々がこの世界で生き延びるために今の世代の人々が行うすべての営みです。では、教育学とは何でしょうか。それは、
教育という営みがうまくいくために必要なあらゆる策を講じる営みです。特に典拠があるわけではないのですが、
ごく一般的にまとめるならばこうなるかと思います。

 学を称してまで、教育に策を講じることがそんなに難しいのか、そんなにこの営みは複雑なのかと思われるかもしれません。そう、
難しいですし、複雑です。なぜなら、
自分には他人の行動を思いのままにコントロールすることが不可能だという自明の事実があるからです。
この当たり前のことが、教育という営みには壁となります。

 教育の目標はとりあえずの定義によれば「次世代という他人が生き延びられるようにすること」であり、
その目標を持っているのは現在の世代=自分なのですから、他人に自分の目標をかなえてもらうのが教育だとも言えます。これは、
他人を思いのままコントロールすることは不可能であるという事実に明らかに反しますね。矛盾です。だから、
あえて策を講じなければならないほど、教育とは難しいのです。

 たとえば子育てを考えましょう。

 1歳くらいの子どもがご飯を食べるとき、彼にとって楽なのは手づかみで食べることです。一方で、
親はスプーンや箸を使って食べてもらいたいと思うでしょう。このとき、親にとって一番楽なのは親がスプーンや箸を使ってご飯をとり、
子どもの口の中にもっていくことです。子どもがスプーンを使って食べることを親がコントロールすることはできません。親にできるのは、
自分で自分の手足をコントロールして子どもに食べさせることです。こちらの方がはるかに楽です。しかし、いつまでも楽をしていては、
子どもがスプーンの使い方を学ぶ機会はなかなか訪れません。

 つまり、自分の能動性をおさえて他人の行動にまかせるという部分が教育には必ず含まれているのです。親になると分かりますが、この部分がとても難しい。親が自分でやる方が、子どもにまかせているよりも早いし上手にできるので、ついつい手を出してしまいます。これは、他人のコントロール不可能性からくる衝動に他なりません。

 ちなみにここまで述べてきたようなことは、俗に「教育のパラドクス」などと呼ばれ、
すでにたくさんの人々が言及したり考えたりしてきたことです。

 人類にとって最大級の難問を専門とする人々が集い、共同して解決を講じようとする場、それが教育を対象とするこの学部なのでしょう。このような学部が存在しているということそのものに意義があると、私は思います。

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