出発点が同じでも

 4月も中旬に入り、大学の構内を上気した笑顔が行き交うようになった。新しいことの始まる季節には、
何が嬉しいのか自分でも分からぬままに笑みが出てしまうものである。

 こちらも新しい講義が始まるわけだが、今年も非常勤をすることになり、先週そのオリエンテーションをやった。
3~40人といったところ。教務の方は「もっと増えますよ」とのことだが、さて。

 心理学の概略を教えよとのことで、今年は心理学の歴史から始めることにした。しかし、
それを教えるこちらは教科書的な常識以上のことをほとんど知らないときた。

 というわけで、デカルト『方法序説』とロック『人間知性論』を読んだ。

 人間は、すべてを知ることはできない。

 この謙虚な反省から、デカルトとロックはともに出発したのだが、そこから導き出した答えは極端に違っていた。

 ロックは言う。人間には、およそ知り得るものしか知ることができない。そのような制約をもった存在が人間なのである。したがって、
知っていることとは知り得たもののことである。子どもは「すべて」や「神」といった名辞を聞いてはじめて知るのであり、その反対ではない。

 デカルトは言う。有限の存在であるところの身体をもつ人間は、確かに「すべて」を知ることができないはずなのだが、
にもかかわらずその精神は「すべて」という何かがあることを知っている。ゆえに「すべて」は精神にとって先験的に知られた何かであり、
かつ実在する。ここで「すべて」を、「神」と言い換えても同じだ。

 ロックは生得論者に対し、たとえば「神」といった生得的な観念があるとするなら、子どもは神を「知りつつ、知らない」
という矛盾した状態にあることになる。デカルトはこの矛盾を、精神と身体を分けた上で、精神は神を知っているが、身体(あるいは感覚)
はそれを経験することができないとして回避した。

 デカルトとロックがはまったこの問題、ぼくのカンでは、そもそも「人間はすべてを知ることができない」
という否定を含む言語的命題から出発してしまったことにポイントがあるように思う。

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