大学から帰り、たどり着いた団地の地階にある集合郵便受けを開けるたび、早期教育について考えざるを得なくなる。
たとえば「今回が最後のご案内!」とデカデカと書かれた封書を開くと、親が1歳児とどのように遊べばよいのか、
その指南を教材とともに送ってくれるという案内が、見本教材とともに飛び出してくる。
「最近、お子様との遊びがマンネリ化していませんか?」
「1歳頃のお子様は知的能力が急速に発達しています。ワンパターンの遊び方ではお子様が飽きてしまうのです」
「お子様の成長にあわせた教材を毎月お送り致します」
「ワタシニデンワシテクダサイ」
最後のは違うか。
この会社の案内はまだましである。うさんくさい封書として面白かったのは、「脳活性化」モノ。なんでも、
脳を活性化させる遊びをさせると、IQが160になるのだそうである。
その他、近所の英会話教室のチラシが入ってくる。1歳頃の子どもには、歌や踊りで遊びながら英語に親しむことから始めるのだそうだ。
ちょっと前まではどうでもよいものとしてポイポイ捨てていたが、最近はとっておいて集めるようにしている。なぜか。
「早期教育への誘い」はいかなる語り口によってなされるのか、について調べるためである。
先日読んだ、苅谷剛彦・増田ユリヤ『欲ばり過ぎるニッポンの教育』には、
早期から子どもを外国語に触れさせようとする親の言葉が紹介されていた。最近は英語ばかりか、中国語に触れさせようとする人もいるらしい。
こうした親の行動を引き起こすきっかけは、おそらくごく素朴なものだろう。
たとえば郵便受けの中に入り込むチラシやDMの類というのは、地味ではあるが、静かに効いてくるのではないか。
最近そのように考えるようになった。
第一子を育てている親にとって子どもの発達とはいかなるものか不明である。毎日、
手探りの中で子どもの反応をみながらやりくりしているだけである。もちろんそれしかできないのだし、それでよい。ただ、
先が不明であるということは、ちょうど霧の中をさまよっているように、現在の状態を解釈する手掛かりがないということでもある。
早期教育へと誘う媒体は、そうした不明の現在を解釈するひとつの手掛かりを与えている。たとえば、先に紹介した「遊びのマンネリ化」
は、親子の現在の状態を枠づける機能を果たすだろう。もちろん、実際のところ、
子どもにとって家庭内の遊びが退屈なものになっていたのかもしれない。それはそうなのだが、重要なことは、早期教育へと誘う媒体は、
子どもに対するオルタナティブなパースペクティブを親に与えるかもしれない、ということである。
もちろん、親というものはチラシやDMの情報に簡単にひっかかるものだ、などと言っているのではない。
チラシやDMは言語的情報であるがゆえに、それらを読むことにより、
親が子どもについて語ったり考えたりする際に用いる語彙が増える可能性がある、ということを言いたいのである。
子どもを可能性のかたまりと見なすこと、子どもをその能力によって語ること、そして、子どもを投資の対象と見なすこと。
早期教育とは、子どもに対する見方や語り方となんらかの仕方で結託して成立する活動であるはずだ。
では、そうしたチラシやDMはどのような語彙を用いて子どもを語ろうとするのか。こうして先の調査目的に戻る。
調査といっても趣味としてやるものなのであるが。
現在、我が家に届いたDMの一部が研究室に置いてある。これからも増えるだろう。
このようにして私は労せずに資料を手に入れているのである。