トマセロは9か月革命とのたまわったけれど、我が家の革命には、かのバスティイユ牢獄襲撃に比肩するような記念日は訪れていない。ただ、じわりじわりといろいろなことが変わりつつあるのは分かる。おそらく本家革命でもバスティイユは単なる象徴に過ぎず、変化は伏流として常にあったのだろう。それがある日を境に相転移した、と考えるべきか。
さて我が家の革命。部屋の中にあるもの、たとえばリモコンや電話の子機などボタンがたくさんついているものは特にお気に入りだが、それをいじくっているときに脇から親にそれを取られると、「うーうー」と怒り、手足をじたばたさせる。これは、「ある」しかない世界から、「ある/ない」の二値的世界に移行したと推測される出来事である。あるいは、残像に恋焦がれるようになったわけだ。
とともに、「隠されたもの」への憧れも出てきた。我が家ではビデオデッキ一体型テレビを使っているのだが、そのビデオスロットの蓋をこじ開けて中を手でまさぐろうとするのである。「こちら側」の世界に「あちら側」が加わったのだろう。そういえば、丸めた紙おむつを入れるゴミ箱の蓋を一生懸命たたく姿も見られる。きっと、中を見たいのだ。
そう考えると、9か月の革命には、消失と遮蔽という出来事が関わっているのかもしれない。しかしこれら2つの性質は少し異なるようにも思われる。前者には残像への思慕が、後者には彼岸への憧憬がある。
あっ!過去と未来か!今、彼には時間が生まれつつあるのだ。
そう思いを新たにした我々の手元に、ビデオデッキの中という未来へ向けて立ち上がらんとする彼の連続写真が届けられた。シャッターの間の時間間隔は同じである。ゆえに、立ち上がるとは瞬間的なことであり、むしろ準備的な運動の方に時間がかけられていることが分かる。