KICR訪問記(1)

 8日から9日にかけて、けいはんな地区にある情報通信融合研究センター(KICR) へ行ってきた。小嶋秀樹さんにお会いするためである。

 小嶋さんはコミュニケーションの成立するしくみについて研究をされている。その方法がたいへん面白い。まず、生き物のように動くロボットを作る。その意味ではロボット工学の技術者である。しかしそれにとどまらない。子どもや大人がそれに対峙したとき、どのようなインタラクションが発生するのか、また、それとのやりとりを繰り返すことによってインタラクションがどのように発達していくのかを、つぶさに観察されている。だから認知科学者でもあり、発達心理学者でもある。詳しくは、 Infanoid Projectホームページを参照のこと。

 私は3年くらい前に一度お会いしていた。確か、Katherine Nelsonが東京にやってきたときにオーガナイザとして働いていらして、そのときにお世話になったように覚えている。

 小嶋さんにお会いする目的は2つあった。1つは、Infanoid Projectについてお話を伺うこと、もう1つは、教育学研究科の陳省仁先生、佐藤公治先生とともに行なっている研究プロジェクトについて、なんらかのサジェスチョンをいただくことであった。

 今回の旅は陳先生のおともをするものである。朝9時半のJALで伊丹へ、バスと近鉄を乗り継いで最寄りの高の原駅に着いたのが1時半すぎ。そこからタクシーで住宅街を抜けた先の山を越えると急に視界がパッと開け、研究都市が広がる。

 KICR玄関ロビーで待っていると小嶋さんご本人が出迎えてくださった。

 案内していただいたラボのそこここにロボットが鎮座していた。

 小嶋さんと共同で研究されている仲川こころさん、ヤン・モレンさんも同席してくださり、 Infanoidプロジェクトの成果についてうかがった。

IMG_0103.jpg右から、小嶋秀樹さん、仲川こころさん、陳省仁先生

 Keepon(キーポン)は高さ20センチくらいの、雪だるま型のロボット。両の目がカメラ、鼻がマイクになっており、それが拾う映像と音声をワイヤレスで飛ばし、受信したコンピュータで記録と解析を行なう仕組みである。見たものに注意を向ける、すなわち体ごと物体の方を向き、顔の向きを上下に傾けることができる。それ以外にも、体を上下にゆすったり(この動作を見ていたら、なんとなく『できるかな』のゴン太くんを思い出した)、首を左右に揺らしたりすることもできる。

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 小嶋さんたちはこのキーポンを、保育園や、発達障害をもつお子さんの参加する療育グループに持ち込み、そこで子どもたちがキーポンとどのような関係を築くのかを観察されている。自動で動かすことも(つまり、注意を向ける価値のある対象を映像の中から自動的に抽出し、そこに視線を向けようとキーポンが自動的に動く)できるそうだが、現場ではより人間らしい動きをさせるために、仲川さんが黒子となって別室から操作しているとのこと。

 キーポンの目(カメラ)から見た映像は録画されており、私たちはさながら子どもと出会ったキーポンの視点を追体験することができる。キーポンとのやりとりで、子どもたちは実にさまざまなはたらきかけをする。怖がって近寄らなかったり、たたいたり、蹴ったりもするが、キスをしたり、なでたり、食事をあげようとしたり、絵本を読んでくれたりもする。観察者はすべてをキーポンの視点から見ることとなるのだ。

 これが面白い。

 保育室やプレイルームに、人形やぬいぐるみがあるのはありふれた光景だ。子どもたちはそれらに対して、遊びの中で、たたいたり、なでたり、食事をあげたりする。これまたありふれた光景だろう。では、単なるぬいぐるみとキーポンに違いはないのか、あるのか。あるとしたらそれはなんなのか。

 単なるぬいぐるみは動かない。もちろん、目をぱちくりさせたり、手足を動かして歩いたりする、からくり人形のたぐいはそれこそ大昔からあった。ただ、それらは「動くこと」そのものを目指して作られたものだ。動きそのものが楽しみを与えてくれるのである。

 もちろん、キーポンも動く。しかし、キーポンにとって「動くこと」は到達点ではなかった。動くことによって、子どもにとって意味ある表現を組み上げていくことが目標なのだろう。キーポンはきょろきょろと視線をうろつかせ、あたかも意志があるかのようにふるまう(実際に、キーポンの動きは仲川さんの意志が反映されたものだ)。この、「意志」を、いかに限られたデバイスで表現するかが小嶋さんたちの取り組まれたことだったように思う。

 さらに言えば、単なる人形とキーポンの違いは、子どもたちにおいて編まれる「物語」の形成のされ方にあるように思う。

 子どもたちは頻繁にままごとをするし、そこには動かない人形が子ども役で登場したりする。ここでは人形は一種の憑坐(よりまし)である。人形には子どもの想像した何かが憑く。したがって、人形の意味は子どもの想像を超えることはない。

 キーポンも、ままごとに子ども役で登場するところまでは同じだろう。しかし、キーポンは動いてしまう。子どもにとってある方向を向いて欲しいときに、そっぽを向いていたりすると、子どもはいちいち想像を修正しなければならないはずである。そっぽを向いているのには理由があり、たとえばそちらにキーポンの欲しいものがあるとか。これは子どもの想像したことであるが、キーポンがそっぽを向くまでは想像しなかったことでもある。このことを言い換えれば、子どもたちの想像する物語は、キーポンの自律的な動きによって完結しなくなる。この点はとても重要なことだと思う。

 小嶋さんは、キーポンと子どもたちのあいだに「ループ」を作るという表現をされていたように記憶しているが、ループ上のインタラクションは、子どもの想像にキーポンが切れ目を作ることによって生まれるのだろうと想像する。

 それにしてもキーポンは私が見てもかわいらしく、ついなでなでしたくなる。材質はシリコンだそうで、ふにょっとした質感もまたよい。帰りがけにキーポンストラップをいただいた。これまたかわいらしい。(やっぱり見れば見るほどゴン太くんだ。)

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 キーポンと子どもたちのビデオを拝見した後、動くInfanoidを見学したのだが、それはこの続きで。

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