言語は質的研究のツールとして適切か?

心理学研究における質と量の対立については無益だ,というのが私の立場です。

それよりも,ことさらに両者の対比をするのが質的方法を採用する側であることが気になります。

質だ質だという場合に,ではその研究が採用する「言語」というツールはどうなのよ,と思うのです。

ここにタマというネコがいて,あそこにミケというネコがいます。これら2匹は,当然,個として固有の人格ならぬネコ格をもったネコです。

にもかかわらず,言語の水準においては,私は2匹を「ネコ」というカテゴリーによってアイデンティファイし,同じ「ネコ」という表現形式を用いて指し示します。

ネコという単語があるからそう認識するのか,それともネコが実体としてあるのかは古典的すぎる問題なのですが,いずれにせよ,ネコという単語を用いることにより,固有のネコ格が捨象されることは事実です。

つまり,言語は,質的な差異を無視するツールなのです。

しかし,固有のネコ格を捨象するからこそ伝わるものもあるのであり,トレードオフの関係にあると言えるでしょう。

そういう言語というツールの特質を分かっていて質的研究のツールとして言語を採用しているのですか,と問いたいのです。きょとんとされるのでしょうけどね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA