053-ランシエールひとり読書会

ジャック・ランシエール 松葉祥一・大森秀臣・藤江成夫(訳) 2005 不和あるいは了解なき了解:政治の哲学は可能か インスクリプト

 少し前にジャック・ランシエール『不和あるいは了解なき了解』(インスクリプト)を読み終えた。思うところあって,1章ずつここにまとめていくことにする。

 本書はランシエールが1995年に出した単著の邦訳である。ランシエールは1940年生まれのフランスの哲学者。アルチュセールに師事したあと,独自の政治哲学や美学に関する論考を出し続けており,最近では映画についての仕事も多いようだ。

 彼の書いた『何も知らない先生』(Le maitre ignorant)が,私の参加した研究会で取り上げられたことがあり,それで名前だけは知っていた。今回,ちょっと調べ物をしていたところ,彼のこの著書がひっかかってきた。邦訳があるので早速読んでみた,というのがいきさつである。

 政治とは何だろうか。ランシエールは,この問いを古代ギリシャにさかのぼって考える。

 古代ギリシャにおいて,「害(仏語 トール)」とは誰かが他の誰かに与える損失である。誰かが利益を得て,他の誰かがそれに相応した損失を被る。これもまた害のひとつのありようであるが,プラトンやアリストテレスは,これを「間違い(仏語 トール)」とし,間違いのない共同体が公正であり,正しいのだとした(pp.22-3)。

 正しさを実践することが問題となるのは,共同体内で共有されているものを配分するときである。

 どのように配分するか。第一の原理は,ランシエールが「幾何学的平等」(p.25)と呼ぶもの,つまり,共有されている利益を生み出す仕事に貢献した割合でもって配分するというものである。たとえば,20の利益を生むのに,Aさんは8の仕事,Bさんは2の仕事をしたとしたら,全利益のうちAさんには16,Bさんには4を配分するというやり方である。このとき,かれらはそれぞれそれだけの権利をもつと正当化される。

 しかし実際には,このように簡単にはいかない。そこにはいくつもの複雑な計算過程がある。まず,共同体の利益全額を算定しなければならない。次に,各メンバーが共同体に対して行なった仕事の価値(希語 アクシア)を正確に算定しなければならない。最後に,算定された比率に応じて各メンバーが共同体に対して有する権利を算定しなければならない。すると「計算があまりに複雑なためおそらく根本的な計算違い」(p.25)が生じる可能性が出てくる。ランシエールは計算違いについてアリストテレスを引き合いに出して説明する。

 アリストテレスが例示する価値は3つである。善き人びと,すなわち血統によって地位の保証された貴族は卓越性をもち,少数の金持ちは富をもち,民衆(希語 デモス)は自由(希語 エレウテリア)をもつ(pp.26-7)。ただ,アリストテレスが別の個所で言うように,古代より貴族とは金持ちの別名であった。また,ここでの民衆とは,金持ちという明確な権利をもたない「その他大勢」であり,金持ちと対比されるときには「貧しい者」である。

 では,自由をもつとされる民衆の「自由」とは何か。金持ちに対する負債をもつがゆえに堕ちた奴隷状態からの自由,すなわち奴隷制の廃止という事実から生まれた自由である。金持ちや貴族はそれぞれ共同体に参画するための固有の資格をもっている。その他の人々にとっては,ただかれらが「自由」であるということだけが,共同体に参画する必然性だったのである。しかし,誰にも縛られていないという意味での自由ならば,貴族も金持ちももっているではないか。したがって,自由とは民衆にとって固有の性質ではない。にもかかわらず,自由という価値に基づいて民衆は全利益からの配分を受ける。

 ここに計算間違いがある。第一に,民衆は共同体のメンバー全員に平等に配分されていたはずの自由という性質を,固有の価値として手に入れる。自由とは,ある集団に固有な性質ではない。そもそも民衆は,固有の価値をもっていないのであり,したがって共同体に対する権利のない,要するに分け前なき者なのである。貴族や金持ちならば徳や富が入る固有の価値の位置は,本来空白なのだ。その空隙に共通の性質である「自由」がすべりこむことが第一の間違いなのである。このことを下図のように整理しよう。

        貴族・金持ち 民衆
固有の価値 徳   富   (空欄)←自由
共通の性質 自由 自由  自由→→↑

 第二の計算間違いは,民衆が全体と一致するというものである。民衆とは自由をもつものだ,という命題を誤解すると,自由をもつならば民衆である,と考えてしまう。全員が自由をもつのだから,共同体=民衆ということになる。「民衆とは,… 全体としての部分である」(p.32)。

 そもそもこの計算間違いはなぜ起こったのか。それは,共同体において利益の配分を受ける価値のなかった者,すなわち分け前なき者がいないようにされたからである。分け前なき者に分け前を与えるには何らかの価値をもっていると想定されなければならない。そこで出てきたのが自由である。

 これにより民衆は,固有な価値をもたないと同時に,共同体と同一であるような集団となる。固有な価値がなく,分け前を得る権利がないはずの民衆が,にもかかわらず,共同体を代表し,共同体の分け前を得ようと過分に権利を言い立てるとき,分け前を自然に得る者との「係争(仏語 リティージュ)」が起こる。この係争によって政治のあることが明らかとなる。

 ランシエールによれば,政治が存在するのは,「分け前なき者の分け前が制度化されることによって支配の自然的秩序が中断されるときである」(p.34)。自然的秩序とは何か?共同体のなかで成立している社会的秩序のうち,富や血統や武力を有する者による支配と,それらをもたない者(=民衆)の服従という関係性である。

 他方,ランシエールによれば,共同体が依拠する秩序にはもうひとつあり,それは「平等」である。この平等もまた自然的秩序を破壊するものである。いかにしてか。あるメンバー同士が命令-服従にあるとき,ここには自然的な支配に基づく社会秩序が成立している。しかし,命令が命令として成立するには,服従する側が命令を命令として理解できなければならない。その点で,服従する者と命令する者は同じコミュニケーション・コードを共有しており,その意味で対等である。対等であるからこそ,支配-服従関係が成り立つ。であるから,その関係はまったくの対等という混沌から偶然に生じたと考えられる(p.42)。不平等は平等を前提とする。

 自由とは誰もが有する性質であり,平等とは共同体の根本的な原理である。そしてどちらも自然な社会的秩序を「中断」させる。民衆は,みんなのものである自由をもつがゆえに全体を代表する。平等は現在の支配-服従関係の無根拠性を暴く。

「なぜこの問題にお前が口を出すのだ」「それは俺の自由だろう」
 このような争いを耳にしたとき,どちらに与すればよいか。「俺」は誰にでも与えられている自由を自分だけのものとして,それを権利として口を出す。これは他者のものを奪っている点で害(トール)であり,と同時に端的に間違い(トール)なのである。プラトンは,誰もが発言できる状態を「悪」とした。それにはこのような事情があった。

 以上が,1章「政治のはじまり」のまとめである。

 古代ギリシャにおいて,ロゴス(=知性)とは善き人々(=貴族)の所有(希語 ヘクシス)するものであった。その一方で,所有という意味では,ロゴスは奴隷のものではなかった。その代わり,かれらはロゴスを理解(希語 アイステーシス)できる。というのも,ロゴスは支配-服従という関係の前提として機能しているはずだから。このように,支配の秩序はロゴスの共有を前提としている。

 まさにこのことが,支配の秩序を崩すのである。「すべての社会秩序が備える純粋な偶然性以外に,貴族の支配には基盤がないことが示される」(p.54)。支配の秩序が頓挫すること,ランシエールはこのことを,このことのみを,「政治」と呼ぶ。もう少し詳しく見ていこう。

 古代ギリシャの考え方によれば,貴族の口から出るのは言葉(=ロゴス)である一方で,民衆の口から出るのは単なる鳴き声,うめき声である。したがって,両者のあいだで「言語をやり取りする状況が形成される可能性はなく,討論のための規則もコードもない」(p.52)。これが,貴族による支配を秩序づける「感性的なもの(le sensible)」,すなわち,思考によらない感覚的な理解であり,知覚の様式である。ちなみに「感性的なもの」は,ギリシャ語で「アイステーシス」と呼ばれる。「理解」とも「感覚」とも訳される。英語のエステティクス(aesthetics)の語源であり,一般には「美学」と訳されるので,美術・芸術の哲学としてとらえられやすいが,原義で理解しておくと読みやすい。

 さて,貴族の口から出る言葉が思慮ある正しい言葉として,民衆の言葉が単なる快苦の動物的表明として聞き取られるのだが,実際には,貴族と民衆の口から発せられる言葉は同じコードに基づいている。同じコードに基づいているからこそ,そこに支配が成立するのである。ということは,両者の言葉を区別し,そのように知覚してしまう感覚の様式が,前提としてあるということである。文字通り,貴族は民衆の言葉を「聞く耳持たない」のであり,民衆も「やつらは聞く耳持たないはず」と思う。そのような感覚の様式に基づいて人びとがなんらかのグループに分割され,その分割のしかたが共同体のメンバーのうちに共有される。ランシエールはこの状態を「分割=共有(パルタージュ)」と呼ぶ。

 貴族は「聞く耳持たない」のであるから,ただちに,貴族と民衆という格差があることが政治的問題になることはない。貴族にしてみれば,窓の外で大声を出すのはロゴスではないただの「声(フォネー)」を発する音声的動物である。議論するロゴスをもつ相手はそこにいない。そのように仕立てられている「感性的なもの」に基づき,かれらは世界を知覚する。したがって,単に貴族と民衆という格差が存在するということは,共同体の中で政治的問題として取り上げられないのである。民衆にしてみればくやしいだろうが。

 では,いつ,政治が存在するようになるのか。

 ランシエールは次のように言う。「政治とは,まず共通の場面を実在させることをめぐる衝突であり,その場面にいる人々の実在と身分に関する衝突である」(p.56)。衝突以前には,民衆という存在の声そのものが,貴族の耳に届いていない。もちろん,確かにそこに民衆はいる。しかし貴族は,あたかも民衆がいないかのようにふるまう。いや,ふるまうというのではない。端的に,「見えていない」。そのように様式化された知覚において貴族は世界を見る。他方,民衆は自らと貴族とのあいだに何らかの対立があるものとして世界を知覚する。政治は,こうした世界観の矛盾の上に成り立つ。政治とは,階級間の対立をどうこうすることなのではなく,そもそも対立があるのかないのかということをめぐる問いから始まるのである。

 この点をもう少し詳しく見てみよう。

 ランシエールは,共同体の社会的秩序には2つの様式がありうるという。ひとつは,人々の固有性,すなわち共同体に対して個々人が有する独自の価値に応じて分け前が受けられるよう社会が秩序化され,そのように「分割=共有」される様式がある。そのような分け前の分け方についての理解が共有されているという様式である。

 もうひとつは,2つのロジックが続けざまに出現するという様式である。2つのロジックとは,第一に,人々を可視性と不可視性の空間に配置するロジックである。言うまでもなく,貴族が前者に含まれ,民衆が後者に含まれるのが,古代ギリシャの感性的な空間配置である。第二に,あなたもわたしも同じ言葉を話しますよと言うことにより言語的平等を申し立て,それによって可視性と不可視性の空間が実際には偶然的に成り立っていることをつまびらかにするというロジックである。

 ランシエールはこれら2つの様式のうち,前者を「ポリス」,後者を「政治」と呼んで区別することを提案する(p.58)。

 ポリスをもう少し具体的に言うとどういうことか。「ポリスとは,本質的に,当事者の分け前があるかないかを定義している,一般的には不文律の法である。…ポリスとは,まず第一に身体の秩序であり,それはある身体にその名前に応じて何らかの地位や役割を割り当てるような,行為の仕方,存在の仕方,話し方のあいだの分割=共有の数々を定義する」(pp.59-60)。何が見えて,何が見えないのか,何が言葉として認められ,何が認められないのか。そうした感性的なものの布置の静的な秩序を,ランシエールはポリスと呼ぶ。この言葉のこのような使い方はランシエール独自のものだろう。

 では,政治についてもう少し詳しく言うとどうか。ランシエールはさしあたりの定義としながら,次のように言う。それは,誰が当事者であり,誰が非当事者であり,誰に分け前があり,誰にないのかを決める「感性的なものの布置」(p.60)をいったん無効化し,そのうえで再配置しなおす過程全体のことである。この再配置実践を支えるのは,誰もが言葉を話す者であるという平等性である。

 要するに,あらかじめ定められた当事者と非当事者の布置をポリスと呼び,その布置の再構築過程を政治と呼ぶのである。

 政治は「ポリス的論理と平等の論理の出会い」(p.64)を生み出す。まったく同じことだが,ポリス的論理と平等の論理とが出会うような出来事は,すべて政治的だということができる。たとえば,共同体における女性の分け前をめぐる係争,それはきわめて政治的である。

 政治が出現する状況を図式化すると下の図のようになろう。

           貴族   民衆
 ポリス的論理 当事者  (平等)←← 
 平等の論理  平等    平等 →↑

 ここで確認しておくと,ポリス的論理とは「感性的なものの分割=共有における社会的な身体の不平等の秩序」(p.80)であり,平等の論理とは「話す存在一般の平等な能力の秩序」(p.80)である。

 上図のように,民衆はポリス的論理のなかでは分け前を得る価値を持たない。そこに,平等の論理によって与えられている,民衆に固有でない価値としての平等がすべりこむ。このすべりこみが,ポリス的論理と平等の論理の出会いと呼ばれるものだろう。これにより,ポリス的論理は揺さぶられ,その治療(=再配置)が実践的に要請される。それが政治である。「政治とは,平等を特質とする論理が間違い(トール)の治療という形式をとるような実践である」(p.69)。

 ポリス的秩序のなかで分け前なきものとされつつ,政治的係争を起こす主体としてカテゴライズされた人びとはこれまでに何人もおり,そうしたカテゴリーはいくつもあった。民衆が最初のものである。現在では,労働者,女性,移民,障害者,子ども。そこに含まれるはずの個々人は,はじめから政治的主体であったわけではない。そもそも当該のカテゴリーには,見た目や出自といった表面的特徴ではまとめきれないくらい多様な人々が含まれることもある(たとえば「労働者」「障害者」のように)。かれらは,係争という過程を通して,はじめてひとまとまりの政治的主体として一個のカテゴリーに含み込まれるのである。「…プロレタリアートという階級は,決してある社会集団と同一視しえない。プロレタリアートとは,手工業労働者でも,工場労働者でもない。それは,宣言そのもののなかにしか実在しない計算されないものの階級であり,この宣言によって彼らは計算されないものとして計算されるようになるのである」(p.73)。であるから,ブルジョワジーとプロレタリアートといった名称は実体ではない。それは,「間違い(トール)」が世界に現れたときにとられる様式である。

 以上が,2章「間違い-政治とポリス」のまとめである。

 ある自治体の土地に,空港をつくることになった。そんな状況を想像していただきたい。その土地に元から住んでいた人々は猛反対であった。他方,同じ自治体に住みながら,この計画に賛同する人々もいた。行政側はこの計画を進める側であった。

 ある日,地元民への説明会が開かれた。公民館のホールのような場所に机とイスが並べられた。前にはスーツの行政担当者,イスにはジャンバーを着たおじさん,おばさん。意見を異にする両者がちょうど向き合うように座り,対立が図式的に示される。やおら担当者はマイクを持ち,「皆様方におかれましてはなにとぞご理解ください」と発言した。一人のおじさんが「そんなんじゃ,とうてい納得できんぞ」と声を荒げた。結局両者は物別れに終わり,反対運動むなしく,空港は彼の地に完成したのであった。

 これまで,日本のどこかで見てきたような風景である。私の場合は,いずれもテレビのディスプレイ越しでではあるが。

 ランシエールによる『不和あるいは了解なき了解』の3章は,「不和はなぜ生じるのか」と題される。タイトルにある「不和」の示すところが明らかとなる章だ。

 ランシエールの言う「不和」(la mesentente)は,冒頭に想像した場面に出てきた行政担当者の言葉と,実は関係がある。「ご理解ください」。私は,この言葉を聞くたびにそこには命令の語調しか感じ取ることができずにいた。理解せよ,とは,服従せよ,という意味なのか。ランシエールは,どう答えるのだろう。では,詳しく見ていこう。


 ランシエールのここまでの議論によれば,政治とは,対話の場において起こる出来事である。対話の場において,何がロゴスで何がロゴスでないのかについての係争が起こり,線引きがし直される。

 このような見方は,政治的合理性にかんする次のような考え方に対する批判になっている。すなわち,利害の一致しない私とあなたが「互いに言表を聞き,そう言表させた行為を理解し,この理解を支える間主観的関係を引き受ける」(p.82)ような対話の場を通して政治的な合理性(=ロゴス)が達成される,といった考え方である。冒頭の話に登場するおじさんが行政担当者を「あんたも立場上,そう言うしかないよねえ」と理解し,反対に行政担当者がおじさんのことを「住んでる所が騒々しくなるのはいやだよねえ」と理解する。それぞれの感覚を両者が信じることを通して,合理的な解決へと前進するというわけである。

 こうした考え方とは異なり,ランシエールの考える政治的対話とは,その場にいる人々が「理解する」という言葉を通して理解することの「ずれ」によって基礎づけられる。「理解」という言葉の「ずれ」を通して支配関係があらわになることもあれば,そこからオルタナティヴな状況が生み出される可能性もある。そうランシエールは言う。

 たとえば冒頭の行政担当者の「ご理解ください」を例にとってみよう。本来,「事情を理解すること」と「理解した上で,同意もしくは反対すること」は別のことがらである。しかし,担当者の発話は語用論的には「有無を言わさぬ命令」として機能する。そして実際にこの発話が語用論的にうまく機能したとき,そこではすでに,ロゴスを所有する人と,それを理解するが所有しない人のあいだの分割=共有が達成されていたことになる。おじさんの意見がどうであれ,担当者は聞く耳持たない。

 一方で,行政担当者の発言に対し,もしもおじさんが「よし,わかった」と言うとすると,それもまた語用論的に複数の機能を持つ。まずそれは,「あなたの発話を聞き取れたこと」の表明である。ランシエールはその他に,ざっと4つの機能を挙げている。私なりに言いかえると次のようになる。(1)「私とあなたは同じ言葉を共有していることを理解していること」の表明,(2)「あなたの発話が命令であることを理解していること」の表明,(3)「あなたは自分の言葉が私にも通じると信じている,そう私は理解していること」の表明,(4)「あなたは私が「うん」と言うことしか期待していないはずなのに,「いいえ」とも答えられるような質問形式を用いることによって,あたかもその返答が私の自由意思で選ばれたものであるかのようにしむけている,つまりあなたは私をだまそうとしている,そう私は理解していること」の表明。

 要するに,お互いに「理解する」という言葉を使い,合意が形成できたかのように見えるその場が,実際には「理解する」という言葉にかかわる食い違い,すなわち「不和」として成り立っているのである。このように「あらゆる政治的議論と討議的係争の核心には,言語の了解が何を含意するかについての第一の争いがある」(p.90)。この係争は,くり返すが,互いの「話す存在としての平等そのもの」(p.91)に基づいて起こるものである。ゆえに不平等は平等から生まれる。このように主張する点で,ランシエールは「不平等であるから係争が起こるのだ」といった単純な論理とは一線を画する。問題は,言語的に不平等な主体同士のあいだに相互理解をつくれるのかどうかはない。問題は,その主体の口から出る音が言葉かどうかという点にある。それが係争の焦点である。

 そもそも,冒頭の例のような「説明会」という場は対等な討議の場ではない。少数の役人と,大勢の住民とが相対する配置は,顔の見える前者の主体性に対して,後者の有象無象さを際だたせているように思われる。ではそもそも,行政と住民とがそれぞれ政治的主体として平等に相対することのできる対話の場をつくることは可能なのか。可能ならば,どのようにして?

 これら二者が平等な存在だという感覚をもつ人はいない。というのも,そういう世界観そのものがこれまでになかったからである。二者のあいだに共有されているのは,二者が分割されているという感覚である。

 であるから住民は,あたかも平等な主体としての「住民」が存在する「かのように」語るのである。この「かのように」は,次のようになされる。すなわち,支配関係を成立させる言語的な平等性は共同的な対話の場の存在を証明する。にもかかわらず,そのことをあなたは認めない(上述した「理解した」のコノテーションの(4)にあたる)。要するに,「あなたが私を計算に入れないことが間違い(トール)なのだ」と主張するのである。このときに現れる「私」なるものは,そこではじめて,支配者と平等な政治的主体として立ち上がる。

 したがって,私とあなたのあいだに討議すべき問題があるのかどうか,ということがまず討議の対象となる。このことは,社会におけるさまざまな存在のありかた,行為のありかたについての「感性的なもの」を再び配置し直すことにつながる。というのも,この事態は発せられた言葉の社会的な受けとられ方をずらし,変えることを意味するからである。このことは,ロゴスの内部においては達成し得ない。必然的に,ロゴスと感性的なものとの結びつきを解きほぐし結び直すような行為として成し遂げられる。「政治的対話の証明の論理は,不可分に表出の美学でもある」(p.103)。言いかえれば,政治的な対話とは「これまでになかった世界観を言葉を通して作り出す」ことに他ならず,その意味で詩的なものでもある。「政治は原理において美学的なのである」(p.104)。

 以上が,3章「不和はなぜ生じるか」のまとめである。

 第4章「アルシ・ポリティークからメタ・ポリティークへ」は,『不和あるいは了解なき了解』のなかで最も長い,山場とも言うべき章だろう。

 前章で述べられたように,政治とはそもそも不和にはじまる。したがって,政治の哲学とは「ある出会いの-そしてある論争的な出会いの-名である」(p.109)。

 ところが従来の政治哲学は,共同体のメンバーが一体化できるなんらかの同一性,あるいは「政治の本質」なるものの探求としてあった,とランシエールは言う。そうした考え方の源流には,プラトンがいる。彼の言う国制(ポリティア)とは,共和制(republique)のことである。共和制においては,共同体は一種の生命体である。メンバーは各々自然な役割に応じて活動する。このような共同体への同一化を少しでも拒否するメンバー(いわば「組織のガン」)がいれば生命体はすぐに滅びる。プラトン流の政治哲学は,共同体の現状を「ガンに冒された状態」として診断し,健全な共同体を回復するために颯爽と登場するのである。

 こうした従来型の政治哲学においては,ある共同体における「分け前なき者の分け前」というパラドクスは,哲学者が診断し,解決策を示すべき問題として扱われてきた。この問題への解決の仕方にはこれまで3つの形があった,ランシエールはそのように言う。すなわち,アルシ・ポリティーク(arch-politique),パラ・ポリティーク(para-politique),メタ・ポリティーク(meta-politique)である(p.115)。

(1)アルシ・ポリティーク
 この政治哲学が構想するのは,共同体の原理を完全に実現すること,実践的にはすべてのメンバーが共同体の法(ノモス)を完全に感性化することである(p.116)。これはプラトンが共和制というモデルとして示したものに他ならない。

 すべてのメンバーの感性を均質にすることを究極の目標とする共和制においては,原理的に,論争が起こらないはずである。つまり,ランシエールの言うところの政治の不在が共和制の究極の形である。これは,論争の火種をあらかじめ取り去ることとして実現される。すなわち,政治に参加し分け前を要求するための民衆の権利である「自由」を取り除くことである。

 どのようにしてか。それは,民衆に固有な価値としての「自由」を,固有の徳としての「節度」(希 ソフロシュネ)に置き換えることにより実現される。つまり,ある身分の人が公共的なことがらに口を出すのは「はしたない」こととして社会的に咎めること,そのような感性を個々のメンバーの性格として内化することとして実現されるのである。このとき,節度もつ人々には自分たちが作り出したものだけが「分け前」として与えられる。逆に言えば,共有物は与えられない。

 このような共和制では,法とは共同体の外からそのメンバーを拘束するものではない。むしろ法は共同体を運営する精神として,メンバーのあらゆる行為の原因として機能していなければならない。「プラトンが創案したのは,そこでは法がエートスの調和であり,個人の性格と集団の習俗の一致であるような共同体の内在性の制度である」(p.120)。したがって,共和制に必要なことは,集団の法を個人の性格へと一致させるべく,たえず教育をし続けることである。共同体という一つの生命体は,このような均質化をもたらす一個の「魂」のもとで,はじめて有機的に機能するというわけだ。

(2)パラ・ポリティーク
 アルシ・ポリティークはプラトンが提案したモデルであった。プラトンの共同体では,善きものが劣るものに命令を与えるという社会秩序が感性的に維持される。そこでは不和はありえず,当然政治もない。

 他方,パラ・ポリティークはアリストテレスが提案したモデルである。ランシエールが「ある人間が他の人間を支配することには,どのような自然的原理もない」(p.137)と言うように,アリストテレスは,政治とは平等という固有の原理を実現することだとする。ここで言う平等とは,共同体のメンバー全員が全員に対して等しく命令をする権利を有することである。政治が固有に持つ力とは,「命令することも命令されることもできる平等な能力」(p.124)すなわち,「交代可能性」(p.125)である。

 しかしこのとき,共同体を誰が導くのか,なんらかの係争に対して誰が最終判定を行うのかが問題となる。プラトンにとって,それは善き人の命令という形で行われる。しかし,平等に基づくアリストテレスにとっては誰が判定を行ってもよいわけだ。彼が用意した解決方法,それは,係争にかかわる当事者たちの関係性を,そのままポリスの秩序に置き換えることであった。

 ある共同体においてポリス的な制度によって保証された命令者の地位,これを役職(希 アルカイ)と言うが,そこに誰が就くかをめぐってメンバーが争う過程を政治ととらえたのである。こうして実現された命令する者とされる者の構成する支配関係は,近代に入って「権力」と呼ばれることとなる(p.126)。「分かった」という言葉がずれている当事者たちの出会いは,このようにして権力をめぐる実践的な統治の問題へとずらされる。

 ところで,ある当事者が命令の権限をもつとき,その根拠は平等という政治の原理にある。したがって,みずからの現在の立場を保証するものが,同時にそれを危うくする。すなわち他の当事者による役職の簒奪を招くことにもなる。これを避けるために権力持つ当事者は,他の当事者を利する行動を取らざるを得ない。あるいは利する行動をする「ふり」をし続けなければならない。というのも「政治は美学的なものであり,見せかけの問題だからである。よき政体とは,寡頭制の支配者たちには寡頭制であるように見せ,民衆(デモス)には民主制であるように見せる政体である。したがって,富める者の当事者と貧しい者の当事者は,同じ「政治」をせざるをえないことになる」(p.129)。

 近代における「見せかけ」の例は,ホッブズである。ホッブズは,「権力の起源」(p.134)という物語を持ち出した。彼は,民衆が王に支配される現状について,共同体のメンバー個々人がそもそも持っていたはずの他者に命令する権限を王に譲渡すべく契約した結果として読み解いた。さもなくば「万人の万人に対する闘争」が起こる,というわけだ。

 重要なのは,ここでホッブズが想定する政治的主体が,あくまでも個人だ,という点である。命令する権限の譲渡という行為は,この個人が所有する自由においてなされる。すると自由とは,ある当事者集団が政治に参加するための価値(=分け前なき者の分け前)ではない,ということになる。

 そのかわりに現れるのが,個々人の所有する「権利」(仏 ドロワ)である。ホッブズ以降の政治哲学では,ランシエールは「致命的」(p.136)であったと診断するのだが,民衆が個々人へ分割され,その個々人に権利が与えられる,と見なされる。この権利は,たとえば,生存権であり,被選挙権である。自由もまた,権利に置き換えられる。このようにして,一人ひとりが主観的に感じる不幸や生きづらさは,権利の侵害や剥奪として,つまりあるべき状態からの「ずれ」として表象されるのである。

(3)メタ・ポリティーク
 ランシエールの言う政治の第三のタイプであるメタ・ポリティークは,過剰な不平等という「間違い」の告発を旨とする「政治の誤謬についての言説」(p.142)である。 

 ここで言う「メタ」とは,政治を「超えたもの」を意味するとともに,「メタ」理論のようにあらゆる現象をその視点のもとで語れてしまうことを意味する(p.147)。要するに,何に関しても「本当は○○なのに,実際は△△だ。お前はだまされている」と告げて回るのが,メタ・ポリティークなのである。

 このようなメタ・ポリティークの発想によれば,政治の真理は政治の中にない。メタ・ポリティークは,たとえば政治的に宣言されている「見せかけの平等」が「真理としての平等」を隠蔽していると考える。その上で,「見せかけ」を排除して真理を実現することが政治だという。「かつてあったはずの政治」を取り戻すアルシ・ポリティークも,政治を社会的秩序として実現するパラ・ポリティークも,政治それ自体に政治の本質を見いだそうとしているが,メタ・ポリティークでは反対に,政治が隠す本来的な真理を暴くことがねらいとなる。

 このような認識からすると,現状は真理に対して常に「ずれ」ている。逆に,現状に「ずれ」が見いだされるならば真理の実在が証明される。真理を求めるならば,したがって,現状を何かからの「ずれ」として診断すればよい。その「何か」が真理なのだ。メタ・ポリティークは,こうした一種の否定神学的な論法に支えられている。すると,重要なのは,「ずれ」のありようであり,それを指し示す言葉である。なにしろ,無からの「ずれ」なのだから,それが「無そのもの」を指し示すとも言える。

 マルクスは,この「ずれ」に対して「階級」や「イデオロギー」という言葉を与えた。例えば「階級」について見てみよう。プロレタリアートという階級概念は,ある人々がその名のもとで社会を変革しようとする限りにおいて,政治的な実効力をもつにいたるし,その限りにおいて社会において実体をもつ。が,同時に,その変革は結局のところ階級の無効化を目指すものである。

 あるいはこうも言われる。「イデオロギーとは,政治的なものの産出を政治的なものの撤去に結びつける名前であり,つねに政治の誤謬に変形されうる,政治のなかの誤謬として,言葉とものの距離を示す名前である。しかしまた,それによってどのようなものでも政治に関連のあるものとして,すなわちその誤謬の「政治的」証明に関連のあるものとして宣言される概念でもある」(pp.148-9)。

 上記引用を解説すると,「政治的なもの」とは,2人のあいだにおけるたとえば「平等」という言葉についての理解の「ずれ」(すなわち「不和」)に起因する状況のことである。この「ずれ」から政治的なものが生まれるが,メタ・ポリティークは,この「ずれ」を無からのずれとする。空虚なものからの「ずれ」なのだから,結局あらゆるものに「ずれ」があることになる。2人のあいだの相違が,未到の真理と現状との相違にスライドするのである。これをランシエールは「政治的なものの終焉」(p.149)と呼ぶ。あらゆるものに「ずれ」があり,その「ずれ」が政治的であるならば,結局,政治的なものはどこにもない,というわけである。

 人々が「われわれは民衆である」と叫ぶとき,そこにおいてすでに「われわれ」と「民衆」はずれている。ずれているからこそ言葉を異にして等置しなければならない。「民衆の民衆自身との差異」(p.150)とはそういうことである。叫ぶ「われわれ」は苦しむ労働者であり,他方の「民衆」は主権持つ人々である。メタ・ポリティークは,この不一致を「労働者としての民衆」と「法的代表としての民衆」という2つの陣営の対立として解釈する(労働者と代議士の対立として読めばよいだろう)。その診断によれば,このような現況は真理としての理想的状況から「ずれ」ている。この「ずれ」を解消するためには,現況を否定すること,すなわち「われわれ」と「民衆」は等しくない,と叫ばねばならない。したがって,メタ・ポリティークからすると「見せかけの平等」は排除されるべきものなのである。

(4)メタ・ポリティークを越えて:「政治」の再演
 ここまで述べてランシエールは,「われわれ」と「民衆」のずれを解釈する,もうひとつのやり方を提案する。前章までに述べられてきた,「政治」の論理である。この論理によるならば,「見せかけの平等」は排除されるべきものではなく,むしろ,政治的状況を常に作り出し続けるべく,維持されるべきもの,「演じる」(interpreter)べきものである(p.152)。

 法に書かれた人間の「平等」は単なる御題目でいいではないか,とランシエールは言う。御題目でもいいから,そこにそう書かれていること,それを人々が同じように読むことができること,そして書かれてある通りに「演じる」こと。こうしたことにより「その登録がどれほど脆く一時的なものであろうと」(p.151)「分け前なき者の分け前」をめぐる政治的な場が生み出されるのである。

 ランシエールは次のような例を挙げる。「「フランス女性は,普通選挙の資格をもつ『フランス人』に含まれるか」という問いを立てるとき,…法による平等の登録と,不平等が支配している空間とのあいだのずれから出発している」(p.154)。このように問う人々は,「法に書かれた『平等』は虚偽だからその文言を削除しよう」とは叫ばない。彼/女らは,法に書かれた「民衆」として舞台に登場する。舞台にあがった「民衆」の発する音は,聞かれるべき「セリフ」としての意味をまとう。このようにして政治的な対話の場がしつらえられるのである。言ってみればこの舞台は「平等と平等の不在をともに維持する証明の論争空間」(p.154)となるのである。

 まとめよう。「分け前なき者の分け前」というパラドクスについて,これまでに挙げられてきた従来型の3つの政治哲学では,おそらく次のように解くだろう。アルシ・ポリティークにおいては,ある人が分け前をもつかどうかは自然的秩序のもとで判断される。その上で「分け前なき者」と判断されたならば,その人々に「節度」を内化させることを通して,「共同の分け前」を自主的に返納させようと目論む。

 パラ・ポリティークにおいては,分け前をもつかどうかはポリス的秩序のもとで判断される。その上で,分け前にあずかれる「役職」に誰が就くかの争いの過程を政治ととらえる。争いを通して,あるいは仮想された過去の争いを鏡として,係争の主体は個々人にまで分割される,というのがランシエールによるホッブズの読みであった。

 メタ・ポリティークにおいては,分け前をもつかどうかは「真理」のもとで判断される。この真理は,現状の診断によって得られた「ずれ」によって測定される。メタ・ポリティーク的な社会運動は,この「ずれ」を解消しようとするために,「ずれ」を生む見せかけの真理をも排除しようとする。

 ランシエールの言う「政治」のロジックは,この見せかけの真理に依存する。「分け前なき者の分け前」というパラドクスは,「分け前なき者」である「われわれ」と,「分け前もつ者」である「民衆」とを関係づける一種の「論拠=筋立て」(p.152)である。この筋立てを,愚直になぞり直すこと,つまり「演じること」によって,そこに舞台がしつらえられる。

 前章の紹介で例示した,役所の職員と住民は同じ舞台に載っていなかった。両者が同じ舞台に登場し,議論をすること。そのような舞台を担保するために,両者の役名が書かれたテクストを発明すること。ランシエールはこのテクストの発明を重視しているようである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA