044-オコウシンとユサンコと選挙

宮本常一 1984 家郷の訓 岩波書店

庚申講は六十日目ごとに行なわれるもので、やはり仲間の家を順々にまわって行くのであるが、庚申様は話好(はなしずき)の神様であるからとて、その夜は神様への御馳走にと言って夜の更けるまで愉快な笑話をしたという。(宮本常一『家郷の訓』p.194)

 子どものころ、両親の口から「オコウシン」という言葉を何度も聞いた。確かそのオコウシンと呼ばれた催事の日だったと思うが、床の間と仏間を隔てる襖を開け放ち、普段はしまわれている卓をながながと並べた。母親は天ぷらやらポテトサラダやら食事を作り、卓上に並べた。

 夕方過ぎ頃から近所の大人たちが集まってきた。酒を飲み、用意された皿のものを食べ、なにやらしゃべっていた。それは賑やかだったものである。今では我が家も含め、近所の家でももうやっていないが、小学生頃まで、だから時代が平成に移る直前くらいまでは、近所の家々が持ち回りでこうした集まりを開いていた。

 子どものころに何度も聞いた「オコウシン」という言葉と、後に知った「庚申講」とが頭の中で結びついた時には、ああ、と思った。自らのルーツがはっきりしたようで、安心したのである。

 庚申講とは、「庚申待」をするための集まり(講)のことである。庚申待とは、庚申(かのえさる)の日に行なわれる習俗で、夜寝ずに過ごすことを言う。もとは中国の習俗であるらしく、寝ずにいる理由については、腹の中にいる「三尸(さんし)」という虫が、腹の主の悪事を閻魔に告げに、主の寝入ったすきに抜け出すのがこの日で、そうさせないためにずっと起きているのだ、という話がある。ちなみに「腹の虫がおさまらない」の虫とは、この三尸だと考えられている。

 宮本常一は、故郷の庚申講について書きとどめている。そこでは、寝ずにいる理由を、神様の話好きのせいにしている。我が故郷では、徹夜まではしていなかったように思うが、いずれにせよ、山口県の小島と、茨城県の田圃の中の集落とが、同じ習俗を生活の背景にもつところが、ある種の文化圏の実在性を感じさせる。

 庚申講は大人の集まりであったが、そういえば、子どもの集まりもあった。「ユサンコ」と呼んでいたが、おそらく「遊山講」の訛りではないかと思う。学校が休みの日の午後、女親と子どもが地区の公民館に集まり、ひとしきり外で遊んで、夕食を食べるというものだった。たいていカレーだったが、みんなで食べるのがよかった。

 集まる子どもは小学生で、上級生が指揮をとって度胸試しみたいなこともした。夕食を終えて、日も暮れたころ、公民館の中にある小部屋を真っ暗に締め切って、下級生から一人ずつ中に入っていくのである。中にはお菓子の入った紙袋が置いてあり、子どもはそれを手探りで探さねばならない。ところが上級生が座布団を丸めたのを持って中で待機しており、入ってきた子どもらをそれでひっぱたくのである(どこぞの高校野球部ならば、親が目を三角にして怒鳴り込んできそうなものだ)。3年生くらいまでには手加減をするが、4年生以上になると容赦がない。当然、泣いてしまってどうしようもなくなることもあった。ぼくも何度も部屋に入ったが、2、3度泣いたのではなかったろうか。

 「ユサンコ」も、中学に入ったらもう卒業である。だから今でも続けられているのかどうか、分からない。面白いことに、通学区ごとに「子供会」もまた別に結成されていて、そちらではバスを借り切って遠足に行ったりもしていた。地域の生活共同体を単位とした古い集まりと、近代以降に根付いた学校を拠り所とする集まりとが、子どもの生活の中に、二重に存在していた。

 なにぶん古いことだし(それでも平成に入るちょっと前の出来事だ)、記憶のみに基づいて裏をとっていないので怪しいことも多い。しかし、我が家の近所に「講」という集まりがきちんと機能していたときがあった、ということは確かだし、記録しておかねばならないことだとも思う。たぶん持ち回りの大福帳のようなものが区長の家にあると思うのだが、散逸しないうちに保存しておきたい。

 ところで、現在、国政に代議士を送り込むための地方の基盤とは、実はこのような講に端を発しているのではないか。そしてまた、そうした集まりの力は強い。今度の衆院選で、果たして落下傘で地方にやってきた候補がどれだけくいこめるのか、それは日本の伝統的生活共同体がどれだけ消滅しているかの、指標にもなると思う。消滅することが悪いことだと言っているのではない。ただ、そういう見方もできるだろうということだ。

 ちなみに茨城の農村部で革新系が当選することは、まず、ない。

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