043-なんとなくのハビトゥス

ピエール・ブルデュー 原山哲(訳) 1993 資本主義のハビトゥス:アルジェリアの矛盾 藤原書店
ピエール・ブルデュー 石崎晴己(訳) 1988/1991 構造と実践:ブルデュー自身によるブルデュー 藤原書店
ジーン・レイヴ・エティエンヌ・ウェンガー 佐伯胖(訳)・福島真人(解説) 1993 状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加 産業図書

 ハビトゥス。ちょっとでも社会学に関心があれば誰しも一度は聞いたことがある概念であるが、その指すところはいまいちつかみづらい。

 ちなみに、オックスフォードの社会学事典では次のように解説されている。

A set of acquired dispositions of thought, behaviour, and taste, which is said by Pierre Bourdieu (Outline of Theory and Practice, 1977) to constitute the link between social structures and social practice (or social action).

The concept offers a possible basis for a cultural approach to structural inequality and permits a focus on the ‘embodiment’ of cultural representations in human habits and routines.

Although seen as originating in the work of Bourdieu, the concept was first used by Norbert Elias in 1939. Anthony Giddens attempts a similar task with his concept of ‘structure’. The best exposition will be found in Richard Jenkins’s Pierre Bourdieu (1992).

“habitus” A Dictionary of Sociology. John Scott and Gordon Marshall. Oxford University Press 2009. Oxford Reference Online. Oxford University Press. Hokkaido University. 14 July 2010

 ブルデュー本人はどう言っているか。これが実に様々に言及している。

主体に内面化された客観性であり、状況において、状況の影響のもとで獲得された持続的な性向(1993、p.155)

規則に対するいかなる参照とも無関係なところで、調整された規則的な行動を生み出すべく調整されている性向(1988/1991、p.106)

絶えず変わっていく状況への即興的な対処の中に明確に姿を現す、生成的自発性(同、p.126)

 要するに、ごくごく簡単に言えば、「学習された”なんとなく”」である。”なんとなく”であるから、言語ではつかみづらいのだ。

 ただ、この”なんとなく”は、単なる”なんとなく”ではない。それはなぜかある社会的集団によって共有されていて、あたかもその集団が「規則」に従っているかのように見せるものでもある。しかし同時に、ただひたすら規則に縛られるのではなく、「変わっていく状況への即興的な対処」を可能にするものでもある。

 なんだろうそれは。

 福島正人は、レイヴとウェンガーによる『実践に埋め込まれた学習』の邦訳(佐伯胖訳、産業図書、1993)に寄せた解説において、ハビトゥスという概念を提出したブルデューが、「身体の中心性とその学習能力」(p.148)を前提としていたことを指摘している。

 福島によれば、ハビトゥスとは「身体が構成する、認知・判断・行為の全体的なマトリックス」(p.149)のことだというが、「身体の中心性」とはこのことである。言い換えれば、右と左、善いか悪いか、すべきか否かといったことを、じっくり考えるよりも先にまず感じとるための準拠枠である。

 では「学習能力」とは。その準拠枠は「ちょうど知らず知らずの内に歩き方や喋り方が学習されるように、明示的というよりは暗黙の内に学び取られ」るのだと福島(前掲書、p.149)は言う。このあたり、言語獲得を身体の動き方の転調過程としてとらえたメルロ=ポンティを想起させる。文字通り、身体には徐々に「折り目」がついていくのである。

 しかしその折り目はどのようにできていくのか。文字通り「暗黙の内」に学習されるのであれば、それは事後の反省によっては知り得ない。私はどうやって日本語を習得したのか?それは誰にも思い出すことはできない。まさに「熟練の身体化の過程は、きわめて曖昧なまま残され」(福島、前掲書、p.154)ているのである。

 ”なんとなく”を言葉によって記述すること。とりあえずはそれがブルデュー的な社会学の目標だろうし、さらには、社会化過程を対象とする発達心理学の課題だろう。

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