011-普遍を生み出す根源

甲野善紀・前田英樹 2001 剣の思想 青土社
前田英樹(編・訳・著) 1989 沈黙するソシュール 書肆山田

 潜在して普遍なるもの,すなわちすべての多様性がそこから派生する根元的体系の実在を確信する,前田英樹の文からはそのような印象を受ける。これはぼくには不可能な発想だった。構造主義の祖ソシュールと新陰流の祖上泉伊勢守信綱が前田の手によってやすやすと結びつけられる。この編集感覚。ソシュールの根元が言語,伊勢守の根元が身体運動だっただけのことである。

 四足歩行から二足歩行へ至る自然の造形の結果としてわれわれ人間の身体運動はある。しかし剣士前田英樹と剣士甲野善紀が信じて目指すのは,自然の造形を脱した運動のなにかしら普遍的な体系であった。二人の往復書簡の体裁を取る甲野・前田(2001)は,足捌きから話が始められ,鞘を作る職人のわざに触れて筆が擱かれる。ここでは前田の手紙にしぼって身体運動の普遍性とは何かを自分なりのことばにしておきたい。

 さて,戦国の世を生きた上泉伊勢守信綱が愛洲移香斎の陰流を引き継ぎ発展させて新陰流に開眼したのは一五四〇年頃のことだったという。新陰流の極意は,自己の刀=身体と相手の刀=身体の融合したシステムの創造と実践にあった。自分と相手双方の身体の軸が空間を切り結んで必然的に現れる「太刀筋」はただひとつしかない。この,ただひとつしかない太刀筋を伊勢守は燕飛六箇之太刀と呼んだ。「燕飛,猿廻,山陰,月影,浦波,浮舟」の六点すべてを通る一本の軌跡は,身体の軸を一つに定めることによって必然的に生まれる始発から収束までの運動の円環である。

 重要なことは,刀と身体とのシステム的な統一関係である。身体は中心の軸と両肩から両膝にかけて通る軸の3本の移動によって表現される。この「移動軸のわずかな前進に要する時間と,太刀の斜め下への斬り下げに要する時間とは,完全に一致していなくてはなりません。そうすることによって,移動軸の前進に太刀の斬りが厳密に接合される。つまり,斬りは単なる斬りではなくなり,吊り腰の姿勢によって特殊に存在させられる身体軸の移動そのものと融合した何かになる(p.138)」。こうした「<刀=身>の独特の融合体(p.140)」は,新陰流においてすべての技の基礎である。そしてこのことは相手にとっても同じであるため,闘う前からすべての結果は一度に与えられている。勝つか,負けるかではないのだ。すべての結果を生み出しうる根元的な身体のシステムを完成させることが求められるのである。これを前田は型(太刀)の持つ「<制度>としての根元性(p.165)」と呼ぶ。

 新陰流の記された柳生宗矩「兵法家伝書」と剣の極意書として双璧をなすのが宮本武蔵「五輪書」だろう。前田も武蔵に触れている。普遍なるものは宮本武蔵も追い求めたものであった。諸芸諸能の底流を貫き,なお兵法(剣術はかつてこうも呼ばれた)がその典型となる普遍である。しかし武蔵において普遍なるものは,師を持たずに諸芸諸能を鍛錬して自ら開眼する「実の道」,すなわち「至極」であった。一方,伊勢守において普遍なるものとは,刀と身体とがひとつに融合して生まれる太刀(かた)の唯一の体系であって,これは実際に動作する前からの実在である。そう,ふたりの発想の差は,多様からの帰納と唯一からの演繹の違いだったのだ。実際伊勢守は,両手太刀も片手太刀も,ときには無刀(素手)の場合も,すべての動きには共通の基礎があると考えていた。猿廻に始まり浮舟に終わる円環である。

 この,すでにあるただ一つのものの希求,そして実際にそれを発見し得た人物の言動は,何を論ずるにせよ,前田を貫く関心である。ソシュールの場合それはラングであったし,伊勢守の場合には太刀筋の円環的世界であったのだ。

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