長崎紀行その8~軍艦島上陸編

 すでに島に上がっていた、海運会社の係員だろうか、船着き場の上で船からのロープを岸に結わえる作業をしている。次第に波が高くなってきた気がする。大丈夫だろうかと心配になってきたとき、客が下船し始めた。船から伸びるはしけの上を歩いて上陸。ヘルメットに作業着を着た係員が、「見学時間がなくなってしまいますので、すみやかに下船してください」とメガホンで呼びかけている。

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 1階船室の出口から、コンクリで固められたドルフィン桟橋に立つ。桟橋は、最近になって市により修復されたもののようで、まだ真新しい。そこから、足下が鉄網の橋を渡り、堤防をくりぬいた短いトンネルを抜けると、島内に入る。ついに軍艦島に上陸した。

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 クルーズ参加者は、小高い丘を見上げる広場に集められる。ターミナルでもらったパンフによれば、島内には第1から第3まで、計3つの見学広場とそれらをつなぐ歩道が南側の堤防に沿って設けられているようだ。参加者はそこから島の建物を眺めることになるらしい。

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 下船を誘導していた係員がメガホンで参加者にあいさつ、次に諸注意。上陸後の行動はすべて係員の指示に従うこととなる。3つの見学広場それぞれにガイドさんがつき、回ってくる参加者に受け持ちの場所からの眺めや近くの施設について解説してくれるようだ。ガイドさんはみな「長崎さるく」と背中に書かれたウィンドブレーカーを来ている。後でいろいろお話を伺っていると、そのうち何人かはここ軍艦島で生まれ育った方のようだ。

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 見学は勝手に行ってはならない。班またはグループでの行動を求められる。参加者はすでに4つのグループに分けられていた。船中にて、4種類に色分けされた、首から下げるカードケースを渡されていたのである。わたしは緑色のケースをもらった。緑グループである。そのように分けられた上で、2つのグループをさらにひとまとめにして、2班に分かれて別々の順番で見学スペースをめぐる。わたしのいる緑グループを含む班は第1→第2→第3の順で。もうひとつは第2→第3→第1の順で回る。

「それでは移動してください」という係員の合図で班ごとに行動開始。

 第1見学広場でまず目につくのは、島の北東端にある7階建ての建物。かつての端島小中学校である。4階までが小学校、5階と7階が中学校(6階は講堂)だったそうだ(パンフレットによる)。その手前にある、屋根の崩れた建物は体育館。

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 目を岩山の頂上に転じると目に入るのが、三菱幹部用の職員住宅。なにしろ住むのが幹部であるため、一番の山の手に作られたのだそうだ。建物の屋上には独自の貯水タンクも設けられ、部屋には風呂があった。

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 職員住宅から南よりにある直方体の構造物が、島民共用の貯水タンク。かつては海水を蒸留して真水をとっていたらしいが、後には給水船で水が運ばれてこのタンクに貯蔵されたものを利用した。そのうち、本土との間で海底水道管が敷設されて、水不足という問題はなくなったのだそうだ。第2広場から第3広場への通路の脇にある堤防には一部穴が空けられているのだが、それは水道管を通すためのものだった。島にいたことのあるガイドさんによれば、小学校高学年になると、ここのパイプを滑り降りて海で泳いでいたそうだ。

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 第2広場へ移動。ここから正面には、かつての石炭産業の名残を見ることができる。まず正面右手にある第二竪坑坑口桟橋が目につく。鉱山で働く方たちは、この階段をいったん登り、地中深くもぐっていったのだろう。その左手に、レンガ作りの壁が残されているが、これは鉱山の事務所跡。壁をよく見ると、スプレーの落書きがのこっている。もちろん往時のものではなく、最近こっそりと上陸した人がつけていったものだろう。

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 堤防が崩れた個所から、岩の間に赤茶色の土がのぞいている。これは天川(あまかわ)と呼ばれるもので、漆喰の一種である。濡れるとかえって固く締まるという性質があるようだ。

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 第3広場へ。広場に行く途中にはプールの遺構がある。海水をはっていたようだ。

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 広場は島の南端に位置する。そこから北側正面に見えるのは、右から30号、31号アパート。30号アパートは大正5年に建てられた、日本最古の鉄筋コンクリート造りのアパート。俯瞰図を見ると、30号アパートは中庭を取り囲むような「ロ」の字型をしている。 31号アパートは堤防の曲線に沿って建てられているため、「ク」の字型をしている。

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 第3広場手前にある小さな建物は仕上げ工場。操業用の機械は本土で製造され、船に積めるようバラバラに分解された後、陸揚げされてこの工場で再び組み上げられたのだそうだ。

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 これでひととおり、見学コースはおしまい。それぞれの広場でガイドさんが見える景色について説明してくれるのだが、かけられる時間は10分弱ととても短い。トータルの上陸時間が1時間にも満たないのだから仕方ないものの、やはりもう少しゆっくりと眺めていたい。

 もちろん、もう少し島の奥にまで入って見学したいのはやまやまだが、建物はすでにぼろぼろでいつ崩落してもおかしくないのだそうだ。崩れるのを防ぐ工事をすることも選択肢ではあったろうが、市としては「風化するままの保存」とすることに決めたようだ。確かに、それがいいようにも思う。

 見学通路の傍らには、赤錆びた機械の一部がごろごろと転がっている。その脇には、どこから運ばれてきたのか、若木が地に根をおろしている。近未来SFにありそうな光景。

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 参加者たちはめいめい楽しんだ後、係員に船に戻るよう指示されて、再び船内に。

 この後、船で島を一周する予定だったのだが、そのまま引き返すとのアナウンスが。島の反対側の波が高くて危険と判断したようだ。比較的波の静かな桟橋側でしばらく停泊し、船はそのまま港へと向かった。

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 軍艦島とは外部からの呼び名である。外部とは、当時であれば島外の者、現在であれば当時を知らぬ者すべてを指す。そこで生まれ暮らしていた人々は、この島を正式な「端島」と呼んでいた。ここは確かにある人にとっては故郷なのである。その故郷に対する感じ方はそれぞれだろうが、それは「端島」についてのもので、決して「軍艦島」についてのものではないはずである。

 聞くところでは、閉山した後の炭坑夫たちの中には、まだ操業を続けていた外の鉱山に散らばっていった者もいたかもしれないとのこと。その中には、石炭で栄えたかつての北海道も含まれていただろう。万が一、この札幌でそうした人に会うことができたなら、そのときには「軍艦島」ではなく、「端島」のことについて聞いてみたい。

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