アートの分析から得るものは

 9月に静岡大で開かれる教心に行くことになりました。発表はしないですが、シンポジウムの討論者に指定されたので行くことになりました。

 東大の丸山慎先生の企画で、芸術教育、特に音楽の教育を再考するというもの。詳細はプログラムが出てから案内することになります。

 指定討論なのですが、「何か書いて」というお達しをいただきましたので、シンポジウムの企画趣旨のみを読んでから以下のような文章を書きました。

■芸術教育の分析から「武器」は得られないか 伊藤 崇(北海道大学)
 教育の本質が、人・モノを含む「リソースとの動的な対話」にあるという見方は、社会的構成主義に立つ教師・研究者が共有する一般的な観点である。したがって、国語科教育や科学教育などにもこの観点を採用できるし、実際に多くの研究がなされてきた。では、芸術教育から得られる固有の観点はないのだろうか。その観点から、科学教育などをあらためて分析し直すことは有用なのではないだろうか。
 芸術を学ぶ者はまずもって芸術を楽しむだろう。楽しい、気持ちいい、面白い、といった感覚的な側面は、社会的構成主義に立つ従来の教育研究がすっかり見落としている点である。芸術教育の分析から得られた何らかの概念や枠組みが、他の教科における「感覚的体験」(aesthetic experience; Wickman, 2006)に迫るための武器とはならないか。そのあたりを問うてみたい。

 上記文中のWickman(2006)とは、字数制限で詳細にできませんでしたが、この本のこと。

 Wickman, P.-O. (2006). Aesthetic experience in science education: Learning and meaning-making as situated talk and action. Mahwah, NJ.: Lawrence Erlbaum Associates.

 エステティックという言葉をあえて「感覚的」と訳しているのは、次の本を参考にして。

感覚学としての美学
感覚学としての美学

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 シンポの話に戻りますが、発表される方々の話を聞いて理論的に枠づけてみてくださいとのこと、悩んだ末にひねりだしたのが上の文章。何かデータを発表するわけでもなく、ものすごく不安ではありますが、これを機にたまっていた美学関係の文献を読むことができるからよしとしましょうか。

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