それでもいいのだ

 赤塚不二夫先生が亡くなられ,先日告別式が執り行われたようだ。その様子をワイドショーがさかんに取り上げていて,タモリの述べた弔辞がしきりに紹介されている。

 その際の映像と後から報道された弔辞を拝見し,しんみりとした気持ちになった。ちょうど,「まんがNo.1」や「ライブ・イン・ハトヤ」など,当時のあのあたりの集まりの活動の成果が復刻され,それらに接して楽しんでいたということもあったので,ひとしおである。

 そうそう,実際に述べられた弔辞の内容と,報道されたその書き起こしの内容が少し違っているのを見つけたので,指摘しておく(って誰に言えばよいのだ)。

赤塚不二夫さん葬儀 タモリさんの弔辞全文

…あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。…

 上記引用のうち,「重苦しい陰の世界から解放され」のところ,実際には「<font color=”red”>意味</font>の世界」であった。そう判断したソースはこちら(映像の3分頃から該当の箇所)。ここを「意味の世界」として理解すると,あのニャロメが60年代の学生とともに「ナンセーンス」と叫んだことにつながる。そしてその「ナンセーンス」は結局のところ赤塚先生の意図とは対極にあった,つまり「これでいいのだ」を忘れていたことに気づくのである。

 さて,弔辞ではこのようにも述べられていた。

 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。

 その通り,故人が生きていたら(?)おそらくはそのように言うだろう。しかしタモリは笑わせようとしなかったし,笑いは起こらなかった。笑いを狙わなかった理由は,分からない。

 そもそも,弔辞で笑わせること,笑うことはできないのか?

 いや,できる。その一つの例を紹介しておく。イギリスのコメディ・グループ,モンティ・パイソンのメンバー,グレアム・チャップマンが1989年にガンで亡くなったときに,他のメンバーたちが述べた弔辞がそれである。

 最初に登場するのが,ジョン・クリーズ。チャップマンとはケンブリッジ・フットライツ以来の仲間である。彼の言葉に参列者が爆笑する。

 ジョンのあとに歌を歌うのは,エリック・アイドル。歌うのは,”Allways look on the bright side of life”。これは,パイソン映画『ライフ・オブ・ブライアン』のエンディングに流れることで知られる。下の映像を見れば分かるように,磔にされている罪人たちに向けられた歌である。「どうせみんな死んじゃうんだから,楽しくやろうよ,チョンチョン」という広川太一郎(この人も故人だ)の声が聞こえてきそうだ。

 弔辞で笑わせること,笑うことは不可能ではない。では,なぜタモリはそうしなかったのか。そうしたくなかったからだろう。それでもいいのだ。

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