動機の対象としてのクルマ

 札幌に来て5年目、とうとうクルマを買うことにした。理由は1点、子どもといっしょにあちこちに行くためである。

 なにしろ、安い買い物ではない。買ってみて失敗したと思うのも癪であるから、いろいろと調べてみている。

 クルマの知識はまったくない。トルクがどうこうという知識もない。アドバイスをもらおうにも、何について知りたいかも分からないので、結局アドバイスをする方も途方に暮れるしかないだろうから、もらえずにいる。

 それでもこの週末に近所の中古車屋をまわって、安くて良さそうなのを見つくろった。書類を揃えて来週にも買うような勢いである。

 さて、「クルマを買う」というのは初めての経験である。学生時代は親に頼り切っていた。

 そうこうしているうちに、どうだろう。道を走っているクルマ、駐車場に停まっているクルマのいちいちがどうも気になり始めてきた。メーカー、車種、ボディの色など、とてもとても気になってしまう。歩いていてもつい目がいくし、停まっていればじいっと眺めてしまう。

 これもまた、自分にとっては初めての経験である。もちろん、これまでだってクルマは腐るほど見てきたし、18のときから27までの10年間ほぼ毎日自分でも乗っていた。しかし、そのときは他人の乗っているクルマを見てはいなかったのだろう。いざ自分で、懐を痛めて買うとなると、クルマが急に視界に飛び込んできたのだ。ここまでクルマの「見え方」が変貌するとは思わなかった。

 ちょうど、活動理論の解説を翻訳していたところで、今回のぼくのこの経験にぴったりと符合することがあった。クルマを買うという動機とともに、クルマが行為の目標として、ぼくという行為主体に相関した対象として、発生したと言えるのではないか。世界への志向の仕方が変わると、唐突にモノや人同士の連関の様相が変わる。これまでにぼくの人間関係の網の目の中には絶対に入ってこなかった人々(中古車屋の人、クルマを売る人、買う人)がクルマという対象で結節した大きな活動のシステムをなす。アクターネットワーク風に言うなら、クルマはもちろん、駐車場や印鑑証明といったものもアクターとしてぼくの新たな動機に形を与える。

 みずからの動機が変わることによって世界の見え方そのものが変わったわけだが、実はこのような経験をすでに小説の形で書いている人がいる。夏目漱石である。

「それから」に登場する主人公、長井代助は裕福な父親からの援助で定職に就かずにぶらぶらと過ごしている。ところが、その父からの援助を絶たれ、はじめて自ら職を探さねばならなくなったとき、代助の目には世界にあるさまざまな「赤」が唐突に見えるようになる。青空文庫から引用してみようか。

門野かどのさん。 僕は一寸ちよつと 職業をさが して る」 と云ふや否や、とり 打帽をかぶ つて、 かさ さずに日盛ひざか りのおもて へ飛び出した。
 代助はあつなか けないばかり に、 いそ ぎ足にある いた。 は代助のあたま の上から真直まつすぐ に射おろ した。 かは いたほこり が、 火の の様にかれ素足すあしつゝ んだ。 かれ はぢり/\ とこげ る心持がした。
こげる/\」 とある きながらくちうち で云つた。
 飯田橋へ て電車に つた。 電車は真直にはし した。 代助は車のなかで、
「あゝうごく。 世の中が動く」とはた の人に聞える様に云つた。 かれ あたまは電車の速力を以て回転し した。 回転するに従つて の様にほて つて た。 是で半日乗りつゞ けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた。
 忽ちあか い郵便筒が いた。 すると其赤い色が忽ち代助の あたま なかに飛び込んで、くる/\と回転し始めた。 傘屋かさやの看板に、 赤い蝙蝠傘かうもりがさ を四つかさ ねてたか るしてあつた。 かさ の色が、 又代助のあたま に飛び込んで、くる/\と うづ いた。四つ かどに、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。 電車が急にかどまが るとき、風船玉は追懸 おつかけ て、代助の あたまに飛び いた。小包 こづゝみ郵便を せた赤い車がはつと電車と れ違ふとき、又代助の あたま なかに吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。 売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと つゞいた。 仕舞には世の中が真赤まつかになつた。さうして、代助の あたまを中心としてくるり/\ とほのほいき を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。

 はじめてこの箇所を読んだとき、ちょっとこれはすごいなと慄然としたことを覚えている。そして代助の赤とぼくのクルマはおそらくはおなじ枠組みでうまく説明できるのではないか。そんな気がしている。

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